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登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 2005年12月発行ニュース(会報第117号)より、一部修正加筆 2005年11月例会(20日)での内沢達の発言 子どもは自分で解決していく力を持っている 内沢 達 少し長めに話させていただきます。 Sさんの息子さんが言う「俺が不登校になって引きこもってよかったことはほとんどない」という言葉は確かに否定的です。 「俺なんか生きていてもしょうがない」と毎日のように繰り返し言うのも、いっそう否定的でしょう。 確かに、言葉どおりに本人が思っているのは、何割かはそうだと思います。 でも、そうではない気持ちも同じく何割かはあるから、そう言うんです。 前から申し上げていますけど、子どもの発する言葉を額面どおりに受けとめてはいけないことが少なくありません。 さっきのHさんの息子さんの場合もそうで、親をつかまえて「お前!」などと好き勝手なことを言います。 他人が聞くと「なんという息子さんだ」と思われるかもしれませんが、いや、親にそういう口調で話せるということは、そう悪いことではなく、親子がいい関係になっているあらわれでもあるんです。 僕自身のことについては前からお話していますし、書いてもいますが、かつてまだ40前だった僕は、小1の娘から「くそジジイ!」と言われました。 僕はこのとき勝ったと思いましたね(笑)。 妻のほうにいつもメールをくださる方で、遠く千葉から一度鹿児島の例会にまで参加された方ですが、中学生の次男からとうとう「くそババア!」と言われたそうです。 とってもかわいらしい、若いお母さんです。僕はそれを聞いて、かなりイイ関係になってきたなあと思いました。 子どもはある時期「お前」とか「ジジイ」とか「ババア」とか言うものです。 親に遠慮があると言えることではありません。うわべとは違って決して親を否定していません。 Sさんの息子さんが「俺が不登校になって引きこもってよかったことと言えば、お前たちの生活を豊かにしたことくらいだ」と言ったそうです。 これはスゴイですね。 息子さんが引きこもるようになってしばらくしてから、Sさんはご夫婦でよく旅行などに出かけるようになりました。 その両親のありようを息子さんは喜んでいるわけです。 自分のことを否定ばかりしているようでいて、じつはそうではない。 両親がとても仲良くなってきた。そうなるうえで、自分の存在も大きかったのではないか、捨てたもんじゃないと言っているわけです。 でも、そうした口に出した部分だけでなく、口には出さなくても「俺って案外これでいいんじゃないかな」とも思っているから、親には安心して否定的なことも口にするわけです。 だから、子どもが否定的なことを口にしたからといって、その通り否定的に受けとめてはいけないんですね。 無意識のうちに、「今の自分でもいいかもしれない」という気持ちを自分のなかで確認し、親にわかってもらいたいという期待がそこにあるわけです。 僕らの会は子どもをどうにかしようという会ではありません。 子どもが悩んでいる、苦しんでいるときに、親が力を貸し援助の手を差しのべるのは当たり前だと思われるかもしれませんが、その考え方を根本から再検討していただきたいと思うんですね。 子どもは自分で解決していく力を持っています。 その力を削がないでほしい。 もし自分が子どもの立場だったら、他人からはもちろんのこと、親からであれ、兄弟からであれ、そうされることは心地いいのかどうか、ということを基準にして考えてほしいと思います。 これは、不登校や引きこもりなど、子どもがそうなったことはしょうがないからあきらめて次を考えようということではありません。 親は勝手なもので、子どもの不登校もいよいよ本格的になると、もう学校には行かなくていいから家で勉強してくれないかとか、また引きこもって自分を責めだして元気がなくなってくると、もう勉強はどうでもいいから健康で元気だけはあってほしいとか、じつに身勝手に次を考えようとするんですね。 でも、「今、現在を否定して次を考えようとしても絶対にうまくいかない」というのが鹿児島の「親の会」16年の経験からはっきりと言えることです。 子どもにとっても親にとっても、表面を見ただけでは否定的にしかとらえられない「今現在の状況を肯定できるかどうか」ということが一番大事なことです。 そのことは僕の病気についても言えます。 今回の僕の病気と不登校や引きこもりは、もちろん同じにはできませんが、僕自身の課題がどこにあるのかという点では、やっぱり「今、現在の状況を認める」という点で共通しています。 病人が今現在の自分の状況、つまり病状を認めるのは当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、僕は入院・手術後しばらくそのあたり前のことを認めることができませんでした。 手術後一週間ほどして妻から自分が相当に危なかったことを知らされショックでした。 手術前、入院はしているのですが、どんどん悪くなっていって、痛みや息苦しさ、意識が朦朧としてくる感じはわかりますが、大変な病状とは僕自身思わないわけです。 なにしろつい一週間か10日くらい前までの、元気いっぱいのイメージしか自分にはありません。バイパス手術一般の心配(手術死亡率1〜2%など)はあっても、自分自身が危ないとは全然思わなかったわけです(主治医はこんなに病状の悪い人は、年間数百おこなわれる手術のなかでも、数例だと)。 医者もどんどん悪化していく病人本人にそうしたことは言うはずもありません。 妻が生きた心地がしなかったということを僕は後で知るわけです。 手術前にわからなかったことは無理ありませんが、妻から知らされた後もなかなか今現在の自分を認めることができませんでした。 あんなに元気だったのに、今はなんで声が出ないんだ、すぐに息切れするんだ、ベッドで起き上がるだけでもどうしてこんなに大変なんだ・・・といった調子なのです。 これは、子どもや若者が元気で調子が良かったときの自分と比べて、今、現在を否定してしまう心理とそっくりです。 僕の場合は、病気であったり、手術であったり、きっかけがはっきりしていますので、「今、現在を認める」という点は、比較的容易で時間の問題だったとも言えますが、やっぱり共通していると思います。 療養生活も、今現在を認めることができてこそ、いいものになっていくのだと思います。 僕がこうして元気になってきたのも皆さんのおかげで、また妻のトモチャンがおればこそです(拍手)。トモちゃんにこの場をお借りして感謝します。(笑) ところで、そのトモちゃん、つれあいの僕が生死の境をさまよったものですから無理からぬ面もありますが、今現在、ちょっと血圧が上がったくらいで、「大丈夫? 大丈夫?」とものすごく心配するんです。 これって、僕は困ります。 そういう感じで迫られると、僕は気をつけて調子が良くなるかというと反対で、ますます血圧が上がってきます。 子どもや若者の場合も同じじゃないでしょうか。 親が子どものことを案じて「心配だ、心配だ」といった感じで接すると、子どもはその心配にこたえて「しっかりしよう」「頑張ろう」とするでしょうか。 反対に、しないのではないでしょうか。 たとえしようと思ってもできません。 自分自身をなかなか認めることができないところに加えて、さらに「親にまでこんなに心配をかけている自分はだめだ」と自己否定をいっそう強めることになります。 僕の場合は、年齢が年齢ですし、心臓病ですので、血圧やコレステロール、食事、睡眠、運動のことなど、気をつけなければいけないことが山ほどあります。 しかし、子どもや若者の場合、そうしたことはほとんどありません。 親として気をつけなければいけないことは、おいしいご飯をつくってあげることくらいです。 その先は、ご飯をちゃんと食べてくれるかどうかだって、心配しなくていいことです。 僕の術後の状況のように大人にも言えるのですが、子どもの今、現在を親が否定的に見るようではいけません。 そもそもからして、登校拒否や引きこもりは明るい話で、辛く苦しいものではありません。 それは、自分が自分の人生の主人公として生きていくことに気づかされる新しい出会いです。 人生は50年時代から80年時代に変わってきています。 人生は短いより、長いほうがいいでしょう。 昔の50年時代なら、僕はもう死んでいましたし、今回のような病気になることもなかったわけです。病気にはならないことにこしたことはありませんが、病気になったからこそ気づくことも少なくありません。 いまは療養中ということもありますが、かつてなくゆっくりと毎日を送っています。 完全にということはなくても、相当に体力が回復するであろう半年後や1年後も、以前と比べるとはるかにゆったりとした人生を送っているように思います。 不登校の子どもや若者の場合も同じことが言えると思います。 昔の50年時代だと余裕がなく、ゆっくりとできませんでした。 どこの家も貧しく、そのうえ兄弟も多かったので、早く独り立ちが求められました。 自分の人生なのに、周りに合わすばかりの人生でした。 それが今ではどうでしょう。 豊かさは隔絶の感があります。子どもの一人や二人、20代であっても30代であっても、ご飯を食べさせることはどうっていうことありません。 人生は長くなってきているので、昔と比べると試行錯誤ができる幅もぐーんと広がってきています。 人生が長くなってきているということは、時間が増えてきたということです。 一日の時間は変わらなくても、生活にゆとりが出てくると考える時間が増えてきます。 そのとき人間というのは、考えなくてもいいことまでいろいろと考えてしまいます。 若者だと年頃ですので、自分の容姿が気になっちゃう。背が低いの、足が短いの・・・というように。 そういえば僕の場合は、高校時代に自分のひざ小僧の不恰好さが気になってしょうがなかった。気にしなければいけないことではないのに、本人は気になってしょうがない。 子どもがときに不安を口にするのは、そういう背景です。時間があると、つい、いろいろと考えてしまいます。それだけの話です。 親がいちいち心配するようなことでは、もちろんありません。 僕も入院中、することがなくボーっとして病室の天井ばかりながめていると、天井のちょっとした汚れなどがいろいろなものに見えてきて、トモちゃんは「たっちゃんはアタマがおかしくなったのでは?」と真面目に心配してくれた時期もありました。 幻覚や妄想が僕にあらわれたということは、それだけ病気と手術が大変だったということで、僕が正常であることの証明でもあります。 子どもの場合も同じです。大変なときには、大変な状況をあらわしてくれます。 それは、子どもの健全さの証明です。 それにしても、Sさんの息子さんが「俺が引きこもってよかったことはお前たちを幸せにしたことだけだ」と言ったことは、やっぱりスゴイですね。 Sさんご夫婦は、いま人生をいっぱい楽しんでいらっしゃいます。 先日は映画「三丁目の夕日」をご覧になったそうです。 9月の例会の後は、佐賀の唐津へ旅されたとか。でもまだ1泊ですね(笑)。 それじゃあまだまだです。 まだどこかに、2泊、3泊以上になると子どもが心配だという意識があるのかもしれません。 それでは、子どもたちに失礼だと僕は思います。 息子さん、娘さんを信頼して、2泊どころか、3泊、4泊の旅行にも出かけるということが、Sさんご夫婦の課題だと思います。 僕らの親の会は、子どものことは子ども自身が自分で道を開いていく、という当たり前の考え方をとっています。 親が、うちの子は問題ない、誰だって悩むときがある、苦しいとき辛いとき、それをわかりやすく表してくれているだけだ、と自然に考えられるようになったとき、そしてそのことを親自身が行動であらわすことができるようになったとき、子どもにも良い影響がでてくるように思います。 「このところ、うちのお父さん、お母さんはえらく楽しんでいるなぁー。僕(私)のことなんか、何も心配していない!」。 子どもから見て、そんな感じになれるかどうかです。 子ども自身が答えを出していくんですが、その大きなきっかけを親が作っていくということなんです。 ご夫婦でない場合であっても、父親、母親それぞれが、親としてというよりも、一人の人間として、自分の人生をいっぱいに楽しまれる。 ですから、Hさんの場合も息子さんの更生のためにも、Hさん自身がもっともっとわがままになっていくということが課題のように思います。 |
Last updated: 2006.8.19
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