体験談
2013年9月例会より
目次
1 どんな時でも自分が自分の主人公 まつぼんさん
2 娘はフレンドシップに通っています Yさん
3 勉強は習慣でするものではなく、興味・関心や必要に応じてするものではないか
内沢 達
4 「たのしい授業」を続けて30年 若松透さん
5 生まれ変わっても、今の夫と一緒になりたい しずりんさん
6 夫の突然の免職に今闘っています Aさん
7 返却する通知表に「静観していただき感謝」と記す ちなちゃん
どんな時でも自分が自分の主人公 まつぼんさん
―――まつぼんさんは、喘息で大学病院に検査入院して不安で大変だったのね。
大学病院に行ったんですが、調子が悪くなって処置室で休憩していたんです。外来の先生が来て、すぐにそのまま入院となり、喘息の評価と喘息以外の病気がないか1週間検査入院しました。検査結果を見せてもらってないので私は何もわかりません。薬は通常通り、それと副腎機能の低下があるのでプレドニンを継続してください、としか聞いていません。今後の病院の受け入れ先がまだ決まってなくて、病棟医長さんに手紙を出して相談しているところです。
―――ステロイド剤の副作用が大きくて、副腎機能の低下があったり、糖尿病、大腿骨壊死の疑いがある、と言われたのはどうなりましたか。
はい。初めにこんなにステロイドを使ってはダメだと教授にものすごく怒られました。検査で、大腿骨の壊死は大丈夫だが、骨が弱っているので月に1回骨の薬が必要と言われました。
身体がだるくてほとんど寝ていて、それは糖尿病の薬の副作用だと思っていたら、そうではなくて副腎がほとんど動いていないということがわかりました。
しかし、今すぐにステロイド剤を切ると低血糖で倒れてしまうので10mlずつ入れることになりました。身体はだるさがとれて楽になりました。吸入にはステロイド剤を最大限以上入れています。かかりつけの先生もこれ以上入れたくないけれど、発作が止まらないから仕方がないと言って処置してくれます。
―――あなたは不安いっぱいになって。
大学病院ではCTや呼吸器の検査もしたんですが、データも教えてもらえず、結果も全くわかりません。その辺で不安になってしまいました。
―――今、喘息は大丈夫なの?
退院してから1回点滴しました。お風呂の洗剤や殺虫剤、化粧品など刺激臭を吸っただけで気管がヒリヒリ痛くなり、呼吸ができなくなります。
―――(内沢達):先日のNHKあさイチの喘息の番組見られましたか?
う〜ん、ちらっと見てたんですけど、友だちともあれってスタンダードでしょ、と言う話になって・・。
―――(内沢達):つまり自分の喘息はスタンダードじゃないと考えていらっしゃる。自分の喘息についてはっきりさせてくれないと私の今もこれからもない、そういう見方だと大変辛いと思います。どんなことでも「自分が自分の主人公」です。医学・医療が主人公ではありません。医学・医療への期待は一面でもっともですが、医学・医療でも分からないことがたくさんある。要は治っていけばいいんです。
お話を聞いていると自分を特殊に考えているように思います。あさイチではまつぼんさんのように大人になってから発症したケースも相当取り上げていました。共通情報は共有していく。自分の病気は特殊で特別だ、という見方では八方ふさがりじゃないでしょうか。いろんな病気に共通しているのは、なんといってもストレスです。
ストレスはたんに自分のまわり・環境が問題だということではありません。「最後にだますのは自分」で、自分が自分をだましてはいけない、自分が自分を苦しめるようなことをしてはいけないということです。自分の病気は特別だから、特別な医療を必要としている、そういう見方で自身を苦しめているところがないだろうか。
病気は軽視してはいけないけど、まつぼんさんにとって生活のすべてがそうではないはずです。まつぼんさんは馬が好きだし、写真もやるし、おつれあいさんや息子さん、かけがえのない家族との毎日がある。病気を主人公にしないで、主人公の自分が自身の生活を大事にしていく。急いで治そうとしないで、喘息とも気長に付きあいながらやっていきませんか。
いろいろやり方も今までと違っていて、取り合ってもらえないというのもあって、いろいろ考えすぎてしまって・・・。薬の影響もあって、パニックになるとがくんと落ち込んでしまって。とりあえず新薬も使おうという明るい見通しもあります。
―――不安がいっぱいな時には、自分の意に沿うか沿わないかで、信頼できない病院、信頼できる病院と考えてしまう。これまでの病院や職場とのかかわりなど、その時々の自分の心の状態はどうだったかなと振り返ってみるといいですね。周りをいつも悪く否定的に見てしまうとストレスがかさんで喘息も出てきます。自分で自分を苦しめてしまわないように。
大学病院の検査で、今までのステロイド剤の強い副作用で副腎機能の低下や糖尿病も見つかり、気をつけなければいけないこともわかってよかったのではありませんか。
親の会に出会って心が安定してきて、一年間喘息は出なかったよね。過去の病院でも今の病院でもいい関係を築こうと手紙を書いたりしたら、ちゃんと相手は応えてくれたでしょ。ご両親との関係でも、過去に「担任のほうがかわいそうだ」と言われたこともあったけれど、経済的に援助してくれて助かったのね。
そう考えるといっぱいいいことがあったんですね。今の病院のことも利用すればいい、と考えて自分のストレスを減らしていけばいい。いろいろ不安があったとしても、それは大きな流れから見たら小さな淀みにすぎないんだと考えることができるんじゃないですか。病院のために私の病気があるわけじゃないのね。私のために私が生きて行くために、私が大事なのね。
それがパニックになるとわからなくなってしまうということはとても大事な共通点です。
こうじさん:毎日妻を見ていると、どうすればいいかと考えてしまう。僕は高校卒業してずっと52歳の今日まで働いてきています。職場が嫌で辞めたらどんなにすっきりするか、でも、辞めたら生きていけないなあと考えてしまう。毎日自分をセーブしてしまいます。
―――この会に参加された男性で辞めたり転職した方が何人もおられますよ。まつぼんさんもあなたがどんどん痩せていって、と心配していました。嫌な思いをかかえながら生きて行くのか、自分の人生の主人公として自分を大切に生きていくのか、と考えるきっかけにして行ってくださいね。
娘はフレンドシップに通っています Yさん
中3の娘が5月から行かなくなって、6月中旬からフレンドシップにひとりでJRと市電を乗り継いで通っています。この会で送らない方がいいと言われて私は送りません。たまたま友達がいたのがよかったのか楽しそうにしています。
ただそこの女の先生が厳しい方で、実力テストや期末テストはなるべく学校で受けるように強制的な感じで言われるようです。娘はテストを受けることは嫌ではないんですが、学校や教室に行くこと自体が嫌なので、いい返事をしなかったんですが、行くたびに「受けてきたの?」と聞かれるので、籍を置いている中学校で時間帯をずらしてもらって別室で試験を受けました。娘は楽しいんだけど、その先生がちょっと、と言っています。
そこにはほかに男の先生がいて、ふたりとも教員を退職されてから勤めているようです。女の先生が子どもたちがいる前で男の先生に文句を言ったりするので、そのやりとりがすごく嫌だ、と何かと言えばその先生の話題になります。
フレンドシップでは、午前中は自習を中心に勉強の時間と軽く決まっていて、そこにずっといなくても、ロビーもあるし断って図書館に行ってもいいようです。
―――今は友達がいるから行っているとういう感じですか。
そうですね。お友達は2学期からは学校に戻るかもしれない、でも自分は学校に帰る気はないと言っています。その時娘はどうするのかなと考えると少し不安になります。私は娘に、とにかく楽しんでもらえればいいし、笑顔が一番と思っています。家では娘は自分で好きなことをして楽しんでいます。
―――高校についてはどうですか?
本人は公立を受けるつもりは全くないと言って、通信制なら行ってみようかなと言ったりします。夏休みの間に体験入学があり、2校行ってみました。悪い感じはなかったようなんですが、どうするか私は本人に任せようと思っています。
―――あなたのお気持ちはどうですか?
私は娘の体調のことを考えます。無理をして高校に行ってまた体調が悪くなったらということが引っ掛かります。娘は背骨の病気を持っているので、自律神経関係の体調不良が出てきやすいんです。それも心からきているのが大きいんだなと思って。
―――いちばん大事なことは娘さんの不安がなくなっていくということですね。娘さんは家でゆっくりするという選択が自分からできない、公立はダメで通信制だったら、という選択で、高校に行かない、という選択肢はないようですね。今フレンドシップに通っていて、試験は学校で受けてきなさいとか、知らず知らずのうちに学校のペースになっているんですね。
しずりんさんは息子さんが中3の時に、家にいるという選択があるよと言ったら、息子さんがにっこりと笑ったのね。その笑顔をしずりんさんは忘れられないのね。
まだ途中のようですが、勉強についての内沢達の文章を紹介します。
達はすごい遅筆で5日間もかけて書きました。
書いた後、本人は「俺は能力がないから、ないからこそ、こんな考え方ができるんだ。
“できないおかげでできもする”(板倉さんの発送法のひとつ)ということだ」
と言ってます(笑)
勉強は習慣でするものではなく、興味・関心や
必要に応じてするものではないか
内沢 達
緑色の冊子『自分が自分の主人公!まっ先に幸せになる!』のなかで、「勉強」のありようや仕方について、いくつか述べた(60〜64ページ)。教科書や参考書とにらめっこすることだけが勉強じゃない。というよりも、それは本当のところ勉強と言えるか疑わしい。学校の勉強だけに一生懸命にならないほうがいい。勉強はもっと広くあるし、興味・関心を大事にしてこそのものだ。勉強に期限はない。資格をとるための勉強や「受験勉強」は要領が大事など。
ここで7月例会で話したことやもう少し僕の「勉強論」のようなものを述べようと思って書き始めたけれど、まだ終わっていない。途中までだけど、読まれた感想などを聞かせてもらえるとうれしいです。
まず、アラン『幸福論』の一節を紹介したい。
「教育者のなかには,子どもを一生の間怠け者してしまうような者がいる。理由はかんたんだ。いつもいつも勉強させたがるからだ。そうすると子どものほうはだらだらと勉強する習慣を身につけてしまう。すなわち下手な勉強を覚えてしまう。そこから四六時中勉強に迫られた何か重苦しい疲労感が出てくる。」(岩波文庫167ページ)
耳の痛い人が少なくないのではないか。親も教師も子どもに勉強をさせたがる。多くの人たちは子どもが勉強するのは無条件によいことだと思っている。けれど、いっぱい勉強をし、また勉強をさせられた結果はどうなのか。成績は上がり、めざす高校や大学の入試にも合格した。それでよいのか。勉強ができる・できた子も自分に自信がない。大学生など、学ぶことに一番意欲的になっていい頃だと思うが、全然そうじゃない。
小さい頃から長いこと嫌な勉強をさせられ、それに真面目につきあってきた結果だ。大人たちが子どもの勉強に一生懸命になればなるほど、子どもはどんどん勉強嫌いになっていく。高校生や大学生は早く勉強からおさらばしたいと思っている。勉強ができ、たくさん知識があっても、今とこれからを生きていく力にはなっていない。そんな勉強って、いったいなんだ。
勉強は勉強する習慣が大事だと言う。学習習慣の確立。このことに異を唱える教育関係者はあまりいないのではないか。小・中・高等学校の学習指導要領の「総則」に新しく「家庭との連携を図りながら、児童(生徒)の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない」と追記されるようにもなった。
「家庭との連携」という言葉に少しは実体がありそうなのは小学校低・中学年までか。中学生ましてや高校生が親と教師の「連携」で勉強をするようになる! そんなことを本気で考えているのか。そうした実際にはありえない文言を脳天気に挿入する官僚や学者の学力こそ問題だ。
でも、「学習習慣」自体はいいことで大事なことでしょう、というのが多くの人たちの考えだ。ルソーは「子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないことだ」(『エミール』岩波文庫上巻72ページ)と、なんともかっこイイことを言っている。
みんな「自分が自分の主人公」だ。大人だけでなく、子どももそうだ。「いつでも自分で自分を支配するように、ひとたび意志をもつにいたったなら、なにごとも自分の意志でするようにしてやる」ことが大事だ。「習慣」で動かされてはならない。いやそうではなく、つまり「自分が自分の主人公」ではなく、いわば「勉強が主人公」なら、いつも勉強するような「習慣」が大事になる。
僕は「興味・関心を持てない勉強はしない」という子はスバラシイ!と思う。自分の意思や気持ちを大事にしている。そうではなく、興味があろうがなかろうが習慣で勉強する子はどうか。まわりに合わせることを優先させていて、自分自身に誠実であるとはいえない。勉強の仕方についても、「下手な勉強」を覚えてしまった子である。
絵本作家の五味太郎さんは絵本以外の著作もたくさんある。そのひとつに常識とは正反対の『勉強しなければだいじょうぶ』(2010年、朝日新聞出版)という、一瞬間違いじゃないかと思われるほど刺激的な題名の本がある。そのなかで編集者の「五味さんは勉強する子でしたか?」の問いに、「してないですね。ありがたいことに。勉強する必要を感じなかったし、勉強する暇がなかったという感じでしょうか。ほかにいろいろ忙しかったからね。」と答えている。
同じ本のなかに「勉強なんかしている場合じゃない!」との表現もあっておもしろい。普通だと受験生などが「(今は)遊んでいる場合じゃない!」と自覚することがよいこととされるがやはり反対だ。試験に出るからということでたくさん覚えても、そんな知識は現実にはまったく役立たない。意味のあることを理解しようとするとあらためて学び直さなくてはいけない。そんな「勉強なんかしている場合じゃない」、そういう勉強はしないほうがいい。そこで「勉強しなければだいじょうぶ」ということにもなってこないか。
それにしても大人たちはなぜどうして、かくも子どもに勉強をさせたがるのか。勉強をいっぱい一生懸命する子は幸せになれても、しない子はなれないとでも思っているのか。それともう一つ、子どもは放っておいたら勉強はしない、自から進んですることはない、無理強いしてでもさせないとしない、つまりは「子どもは信用できない」と思っていないだろうか。後者について少しでもそう思うという人に、僕は聞いてみたい。「あなた自身は子どもの頃どうでしたか? させられて(果たして)しましたか?」と。大概していない。していても形だけ、アランのいう「だらだらとした勉強」だ。自分が子どものとき無理強いされて嫌だったことを今度は大人になって繰り返していいのか。
ふりかえって受験勉強や資格を取るための勉強は、ある時期一生懸命やったという人は少なくないと思う。でも、それは他から仕向けられたからではなく、自分自身の意思ではなかったか。自らやらねば、やりたい、やろうと始めた勉強ではなかったか。そうした勉強はそれ相当の効果も期待できる。
大人であれ子どもであれ人間は、必要を感じたとき自ら必要な行動をとる。自分も子どものときにしたことを今の子どもも必要と思えばする。それだけのことではないか。「いや、今の子どもは信用できん!」。ならば、今の大人は信用できるのか。他から強制され仕向けられないと必要なこともしないのか。あなた自身はどうなのか。そんなことはない、きっとするだろう。だとしたら、同じ人間、子どもも信用できるはずだ。
「子どもは信用できない」という人は、じつは自分自身を信用できない人ではないか。自分のことを自分の意思でしようとせずに、他人から仕向けられるのを待っている。それは子どもではなく、その人の問題だ。「自分が自分の主人公」になってほしいと思う。
たのしい授業・仮説実験授業を提唱した板倉聖宣さんは、「今の子どもたちは刹那的ではありません。いまのいま役に立つ知識だけでなく、大人になってからたしかに役にたちそうに思えること、自分たちの視野をうんとひろげてくれる哲学的な授業にもおどろくほどの意欲をもやすのです」と述べている(『たのしい授業の思想』36ページ、仮説社、1988年)。僕自身の体験では、2008年11月に鹿児島市立伊敷台中学校3年生230人余りに講演したとき本当にそうだなーと思った。
板倉さんが作った「ことわざ・格言」を中心とした僕の話に、中学生はものすごい関心を示してくれた。5〜6校時ぶっ通して体育館の床に90分以上も座って熱心に聞いてくれていた。時間はすでに予定をオーバーしていたので、僕は講演を終わろうとした。ところが質問が相次ぎ、僕はさらに話を続けることになったのである。感想文を書いてもらった時間も含めると計110分。これは大学の講義時間(1コマ今は90分が多いか、以前は100分)よりも長い。「今とこれからの自分に役立ちそうな、視野をうんと広げてくれる」学びに中学生はじつに意欲的だった。(講演記録は水色の冊子『たのしく学びたのしく生きる』1〜21ページ、生徒の感想は「内沢達」のホームページ参照)
「勉強」とは文字通り「勉め、強いる」だから、その言葉のニュアンスはあまりよくない。嫌なものでも無理して我慢してやる・励んでするといった感じだ。だから、そうした無理をごまかして「習慣」でさせようともしてきたわけだ。けれど、「勉強」は悪いニュアンスばかりではない。学校の普通の勉強ではあまり聞かないが、「これは勉強になる」「本当に勉強になった」といった言い方が僕らの日常にも間々ある。これは自分のためになりそう、確かになったと思えたとき、「勉強」という二文字を僕らはいやいやではなく、積極的に肯定的に使う。そうした勉強、学びとの出会いが大事だ。真に学ぶに値することとの出会いが大事だ。
でも、その出会いを急いではいけない。焦って求めてはいけない。いつも自分を一番大事にして、「自分が自分の主人公」として生きていたら、必ずや出会う。「出会う」というよりも、自ら「これが本当の学びかもしれない」と気づくようになる。
普通「勉強」と聞くと「できる・できない」がすぐにも話題にのぼる。勉強は「できる」ほうが「できない」よりもいいとほとんどの人が思っている。僕はそうは思わない。板倉さんの「できないおかげでできもする」という格言が勉強のありようを考えるときにもあてはまる。普通の意味での勉強は「できない」ほうが逆に本当の勉強が「できる」ことが少なくないと思うからだ。だけど、今はここで止めておく。
今は勉強が「できる」ことも結構としよう。でも、本当の学びに気づくために大事なことは「できる」ことではない。その勉強が「好き」ということのほうがはるかに大事だ。本当の学びは興味・関心があってこそのものだ。「好き」だと興味・関心は広がり深まる。でも「好き」よりも、さらに大事なこととして、消極的に聞こえるかもしれないが「嫌いじゃない」というありようがある。
教育者のほうの課題としても心してほしい。ルソーは「ものを読むことが徹底的に嫌いになってしまったら、読めたとしてもなんの役にたつだろう。かれがまだ好きになれない学問を嫌悪すべきものと思わせないように、とくに気をつけなければなるまい」と述べている(『エミール』上巻185ページ)。勉強がよくできても本を読まない、読むのが嫌いな学生・生徒がたくさんいる。
だから教育者の課題はとにかく勉強が「できる」子にすればいいというものではまったくない。また子どもが「勉強が好き」なのはもちろん結構だが、教育者のほうで「じゃ、好きにさせなきゃ」などと押しつけを平気でするようでは、やっぱり何もわかっていない。「好き」は自分からそうなるのであっても、人から仕向けられるものではない。いっぺんに「好き」になることもあるかもしれないが、たいがいは「嫌いじゃない」という長い期間を経てのことだ。よいものはゆっくりやってくる。
でも、残念かな「嫌いじゃない」ではなく、すでに子どもたちの多くは「勉強がきらい」になっている。どうしたらいいか。それは問題といえば問題だが、そうでもない。ゆっくりとした確かな学びへの配慮がなく、「習慣が大事だ」といって小さい時から勉強を押しつけられると、嫌いになるのは当たり前だ。それはむしろ子どもが健全であることの証明だ。
すべては今を認めることから始まる。子ども自身もそうだ。勉強が嫌いな今の自分を否定しない。より積極的に「嫌いなことは全くしない」自分は「たいしたもんだ」と認められるようになるとちがってくる。親や教師も子どものことではなく、自分の今に一生懸命になったらいい。勉強が嫌いな子をどうしたらいいか、なんていう問題の立て方をしてはならない。子どもは自分の力で道を切り開いてゆく。
板倉さんは、「私は、たいていのことは知らなくたっていいと思っています。ただ、"自分で必要と思えるようなことは何時でも学び直すことができるような意欲と自信を高めるような教育をすること──そういう教育をすることこそが、もっとも高い学力の教育というものではなかろうか"と思うんです」(同上書217ページ)と述べている。
変化の激しい今とこれからの時代を生きていくうえで必要かつ重要なものは、意欲と自信だ。たくさんのことを知っているとか、学校の成績がよいといったことでは絶対にない。学びの主人公は学ぶ主体だ。学校では子どもが主人公だ。そして副主人公(この表現は板倉さん)は教師だ。教科書や学習指導要領が主人公なのではない。教科書通りの授業では意欲も自信も高めることなどできない。学び手が学ぶに値することにだけ一生懸命になっていいように、じつは教師も教えるに値することにだけ一生懸命になっていいのだ。
子どもの安全を確保すること以外はいい加減でかまわない(「いい加減は良い加減」)。子どもをどうにかしようなんて恐ろしいトンデモナイことを考えずに、教師は自分自身のことに誠実に一生懸命になったらいい。教職という仕事をもっと味わい楽しんだらいい。
親子であれ教師と生徒であれ、関係が悪くなるのは、大人が子どものことを考えていないからではない。「子どものために」といった考え方が多く、「子どもの立場で」考えていない問題はあるにしても、考えていないわけではない。考えていないのは、子どものことではなく自分自身のことだ。
「すべての人間は自由であり、自己自身の主人である」(ルソー『社会契約論』)。人間はみんな、自分が自分の主人公だ。他人を変えることはできないが、自分は自分次第だ。学びが好きで大切だと思う人はいっぱい学んだらいい。人は「これは知れてよかった」ということを大概ひとり占めにはできない。「吹聴してわかるたのしい知識」(板倉聖宣)。家でも学校でも口にしてみたらいい。主体的な人は、主体的に学んでいる人からも学ぶ。
「ウチの親は、僕(私)のことなど歯牙にもかけない。毎日とても楽しそう」。すばらしい親ではないか。教師の場合、「教室では先生が一番楽しそう!」と言われるのは、生徒からの一番のほめ言葉ではないか。「情けは人のためならず」。みんな自分のために自分のことに一生懸命になるとうまくいく。(未完)
「たのしい授業」を続けて30年 若松透さん
―――若松さんは板倉聖宣さんの仮説実験授業をどれくらいされているんですか?
30年です。(―――すごいですね。)退職して2年目になりますが、子どもと大人を対象に定期的に「たのしい授業」をやっていて、おばあちゃんたちにも年に1,2回やっています。お茶飲みが楽しいのかもしれません。(笑)
6月は大人向けに液体窒素を使った実験をしました。ドライアイスは−50℃だけど、液体窒素は−197℃なので、その中に手を入れても大丈夫かとか、さあ、入れてみましょう、とやりました。実際、体験すると感動がいっぱいです。
昨日は子ども達30名くらいに同じ授業をしたんですが、最後に牛乳をシャーベットに固めて食べたら、感想文は全部「おいしかった、おいしかった」とそればっかりでした(笑)。
勉強したことなんかは何も書いてありませんでしたが、それでもいいんです。
授業も楽しいけれど、そこに僕が昔担当した生徒の子どもが来ていて、そこで「久しぶり〜」と会話をして、「自分は中学校の時に科学が好きになった」と話してくれたりもして嬉しいです。それで今来ている生徒に「おじちゃんは中学の時に科学が好きになったんだよ」と話すと、「残念ながら僕は英語が好きです」と言われたりして(笑)。
そういう会話を味わえることも楽しいですね。
教員が集まる会にも参加しています。ここに書いてあるように勉強はしなくてもいいよ、と言えない状況があって、先日学力テストの結果が新聞に載りましたよね。上がった、下がったと1点、2点の差に翻弄されてしまう。確かなものを持っていないとそういうことに流されてしまうよね、と言う話をしました。現場から離れた自分はもう少し現場にいたかったなあと思うのと、もう二度と行きたくないという思いにかられますね。
―――学校の中にいると点数オンリーになっていくのね。
知らず知らずのうちにね。研修ではどの教科が何点と出て、たまたま理科の点数がいいと、僕は「理科の点数いいですね」と言うんです。でも理科が悪いと「理科悪いですね。でもこれは僕のせいじゃありません」「問題がおかしいからです」と平気で言えるんです(笑)。そうやって話題にするんですが、前もって予習させたりする先生もいて気にすることはないのに、やはり点数に翻弄されてしまったりするわけです。そこに疑問を持つ人々が少ないということが心配ですね。
―――出来る子は出来る子なりに、出来ない子は出来ない子なりに、先生は先生で、親は親で「勉強」というと皆自信がなくなっていくんですね。興味を持てばちゃんと学んでいくんだということに確信を持って行けば、周りの反応も気にならなくなっていきますね。
生まれ変わっても、今の夫と一緒になりたい
しずりんさん
息子は23歳です。7月の親の会の時に息子の体調が悪いと話をしました。のどが痛くて熱があっても病院に行かないので、薬局の薬を買って済ませていたんですが、夫が病院に行くように言って、耳鼻科に連れて行きました。漢方薬をもらいましたがそれも飲まないで、うがいをして自分で治して元気になりました。頭が痛いのはいつものことで「パソコンばっかりしているからよ」と言っています。
夫は不整脈が出て、土曜日に診察に行ったんですが、たいしたことはないと言われて帰ってきました。でも翌日の日曜日の夜にドキドキすると言って夜間診療に行ったんです。心電図を取っただけで薬の処方はありませんでした。インターネットで調べると、ストレスとか、加齢とか書かれていました。その症状は6月頃からなんですが、今は仕事が忙しくなって日曜日も出勤したりします。病院に薬を取りに行く時間もないほどで、私が代わりに行くくらいなんです。夜も眠れないと言って薬を飲んでいます。そのことを私は心配しています。
大口や川内まで出かけますので、朝が早くて夜が遅いです。この暑さもあるのかもしれません。前は仕事がなくて心配していましたが、今はもっと休んでほしいと思います。(大笑)
夫の実家の話ですが、お盆に夫が帰って野菜をたくさんもらって帰ってきたので、お礼の電話をしました。舅には「ありがとうございました」と言うだけで終わるんですが、姑はおしゃべりなので「たまには顔を見せてね、待ってるからね」と言われ、「は〜い。わかりました」と答えました(笑)。夫に「聞き流せ」と言われたんですが、やわらかく言っているんだけど、やっぱり来ないことを思っているんだと思ったらグサッと来ました。でも私はやっぱり行きたくないし、あそこには私の居場所がないし、と思って。
私はもう何年も帰っていませんが、夫が実家に帰る時には「もらえる野菜は何でももらってきて。近所に配るから」(笑)と言っているんです。だからたくさん野菜をもらうと「ありがとうございます。助かります」という電話はしています。
―――結婚してから27年間も、お正月とお盆に行って台所で働いていたんですものね。
はい。夫の両親が84歳と82歳の高齢になっているので、葬式とか年忌とかもしものことがあった時には行かないわけにはいかないじゃないですか(笑)。なのでこの先のことを考えてどうしようと不安になってしまいました。(―――「世間の噂の影におびえて」いるのね)夫の姉、兄に葬式くらい来ないと、と言われそうで、それが怖いなあと思って。でもいろいろ考えても仕方がないから、その時の私の気持ちで決めようと考えています。
―――(内沢達):しずりんさんが顔を出したいなと思ったらそうしたらいいし、そうでなければ行かなくていい。それも「最後にだますのは自分」なんですね。一時は「どうして来ないんだろうね」と言うことがあるかもしれませんが、しずりんさんが自分で行かなきゃならないと自分をだましているんですね。
―――その時に息子さんも連れて行こうと思っているの。
その時は息子の意思に任せようと思っています。
―――息子はちゃんと自分の意思を尊重しているな、とわかっているじゃないですか。(笑)
夫はまめに両親を訪ねます。するとすごく喜ぶんですね。私はたまには断ってもいいんじゃないのと言うんですが、「高齢の両親だから自分が行かないで後悔するのは嫌だから言わない」と言って、なんて優しいんだろうと思って。だから夫に、「もうあなたの実家には帰りたくない」と言えたんだと思います。夫は「わかった」と言ってくれたんです。
以前、夫婦ケンカをした時に木藤さんと電話で、「生まれ変わっても今のお連れあいさんがいいでしょう」と言われた時に、私は「違う人生があるかもしれないから、別な人でもいい」と言ったんですが、やっぱり夫の言葉を聞くと「やっぱりこの人がいい」と思って(大笑)、訂正して、生まれ変わっても今の夫と一緒になりたいと思いました。なんて幸せなんだろうと思いますものね。
最初は親の会の言っていることは世間とは逆のことを言っていて、違うんじゃないかな、と思っていたんですが、会を重ねるごとにああそうなんだと納得して行きました。
夫の突然の免職に今闘っています Aさん
―――お連れあいさんの突然の免職について公平委員会へ申し立てを行っていたのですが、棄却されたということですね。
9月5日に通知が来ました。120ページにわたる分厚い書類が送られてきたので何事だろうと思ったんですが、今まで提出した書面がただ貼り付けてあるものでした。こちらが求めたことに対しては何の見解もなく矛盾点がいっぱい出てきたので、もう1度精査して再審請求するかどうか弁護士さんと相談してやっていきます。退職金については8月いっぱいが申し立ての期限だったので提訴しました。懲戒免職と退職金は別々みたいで、ややこしいのです。懲戒処分の取り消しは、再審請求をしてだめだったら次に訴訟をしようと考えています。口裏合わせをされたら大変なので何かいい方法はないかと考えている所です。
―――先月会が終わってからお話ししたんですが、あなたは「思えばこの親の会で思い切って夫の冤罪事件をお話したのが始まりでした。いろんな方と知り合いになれて、いろんな支援を頂きました」と言われました。セクハラの疑いと上司へのパワハラ、ストーカー行為の疑いによって、なんの立証もないまま今年の3月の定年を待たずに突然昨年の10月に免職されたんですね。今声を出すことによって支援の輪も広がって大きな力になっているんですね。あなたのお連れあいさんは「自分は決して間違っていない」と堂々としておられて本当に立派ですね。
昨年の10月は先が真っ暗でどん底かなと思いましたが、わかってくれる人が増えて行って相談相手が出来て、それだけで心の持ち方が違います。毎日、まずは今日を過ごそうと思っています。
―――今の毎日をひとつひとつやっていけば必ず道は開けますね。娘さんは入院しているの。
はい。入院して2ヶ月半経ちますが、体重がなかなか増えません。医師から鼻腔栄養をすすめられますが、娘は口から摂りたいと言って頑張っています。
―――家に帰りたいとは言いませんか?(言いますね)あなたは娘さんの命が危なくなるかもしれないという恐怖から早目早目に入院させたいと思ってしまうのね。その恐怖があるからどうしてもすくんでしまうんだけれど、それは本当の意味で娘さんを信頼しているだろうか、自分自身の不安に向き合うというあなたご自身の課題なんですね。
いつでもどんなときでも親の会の3原則で考えるとイイですね。わが子を異常視しない、腫れもの扱いしない(ガラス細工のようにあつかわない)、言いなりにならない(無理難題に言いなりにならない)、です。
今は、娘さんを信頼して退院を考えてください。今は食べないことが娘さんにとって心地よいことで、無理して食べることが非常に辛い状況であるということです。入院して無理して食べさせることは、あなたは異常なんだよ、というメッセージを毎日与え続けられるということですね。それでは、娘さんは自分を肯定できないどころか自己否定を深めていきます。今あなたが、娘さんの生きる力を信じ切れるかどうか大事なチャンスなんですね。
「問題であって、問題じゃない」をご覧ください。
娘さんも心配をかけてごめんね、ときっと心の中で思っていると思います。
Tさんの三男さんはマクドナルドのスムージーしか食べられないと言って、お母さんは冷蔵庫をスムージーだらけにしていました。命が危険になるんじゃないかと、不安だけが前面に出てしまって、「食べると安心する」になってしまう。「食べなくても安心する」にしないと、繰り返し悪循環を大きくしていくんですね。
みーやさんの息子さんは小さい時から「死にたい、死にたい」と言い続けていました。ある時みーやさんは「死ぬ」という息子さんを振り切って家を出たんですね。もしもという不安に震えながらも「その時は息子の寿命」と思って、息子さんを信じてね。それ以来「死ぬ」と言わなくなりました。
娘さんは心が休めていないんですね。親の課題はわが子をどれだけ信頼できるようになるか、親であるあなた自身が自分の不安と向き合うことなんです。そうして一人称で娘さんに「食べなくていいんだよ」と自信を持って伝えるようになっていくと娘さんは大きく安心していくでしょう。これはあなた自身の課題なんですね。
はい。頭ではわかっているんですけど、何回も恐怖があったので、どうしても。命がかかっていると思うとブレーキがかかってしまって・・・。娘は164pで30s前後で、歩くのもやっとという状況だから、今連れて帰るとまた寝たきりになるんじゃないかと言う怖さがあって・・・。精神的な不安ならいいんですが、直接身体に出ているものですから、娘は先生と相談して、口から食べるということで頑張っています。少しでも食べれるようになってから退院したいと言っています。
―――親の会の会報をまた読み返したり、会に参加されて、娘さんへの心配を信頼へ変えていけるようにしたらいいですね。
返却する通知表に「静観していただき感謝」と記す
ちなちゃん
小5から不登校だった長男は通信制の3年生です。父親の仕事を忙しい時手伝っています。小2から不登校の次男は中2で家でゆっくり過ごしています。
夏はいつもは家族4人で出かけるのですが、今年は特に計画もなくて家で過ごしました。数日前、私はうとうとしながらテレビを観ていたら肩にバサっと何かきたので、なんだろうと思ったら長男が私の肩にタオルをかけてくれたんです。
私はすごく嬉しくて「なんてこの子は優しいんだろう!」って(笑)、「ありがとう」と言いました。ソファで休んでいた夫に、「ジュンが私の肩にタオルをかけてくれたのよ、いいでしょう」と言いました。(笑)
―――誰も教えてないのにパソコンもできて、お仕事も手伝ってくれてね。
私が子どもに育てられていますね。すごく幸せです。
夏休みが終わる数日前、次男の担任からの電話で、「もうすぐ夏休みも終わりますね、プリントなどありますが持って行きましょうか、それともポストに入れておきましょうか」と言われ、私は「来られたければ来られてもいいし、面倒くさいときは別に持ってこなくてもいいです」(笑)と言ったら、通知表のことを言われ、次男はあまり会いたくない雰囲気があったので「私が持って行きます」と言いました。
通知表に家庭の方針などを書く欄があるんです、そこには「静観していただけるとありがたいです」といつも書きます。今回も「静観していただいて、とても感謝しています」と書きました。廊下で用務員のようなおじさんが近づいてきて、担任の居場所を聞こうと思って「こんにちは」と言ったら、それが校長先生で、「あっ、覚えていますよ」と言われ、「私も覚えていますよ、校長先生ですよね」(笑)と言いました。
―――学校との関係で肩に力を入れないでとても自然でいいですねぇ。「静観してください」もとてもいい。通知表はどういうふうに書いてあるの?
登校していないので評価は出来ませんでしたと、紙が貼ってあって、出席日数がゼロとありました。
―――我が家では、学校に行かないのが当たり前という感じね。
そうですね。学校は全然関係ないという生活を送っています。
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