登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2002年5月発行ニュースより



体験談

2002年5月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.79


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら




4月例会

 1.Uさんの場合
 2.
Mさんの場合
 3.
Nさんの場合



Uさん:小6と小3の男の子,5歳の女の子です。
長男は小2の時に不登校になり、4年生からまた行き始めました。
 最初の頃はやっぱり「行かねばならない」という感じがありました。



 でもだんだんと、親もそうですが息子も楽になってきて、5年生の後半ぐらいは「もうちょっとゆっくりしたいから休もうかな」と言えるようになりました。



 そんな時、何気なくお昼ご飯を食べているとき息子が「お母さん、やっぱり家庭の味っていいよね」と言ったんです。



 麦茶も沸かして作っているんですが、子ども達は「お母さん、やっぱりジュースなんかより家の麦茶が最高だよね。
だって学校の給食はまずいし、ご飯とあわない牛乳なんだよ」と言いました。
給食を例に出しながら「家がいい」という息子の言葉に私は他の人が感じない幸せを感じています。
 


 5年生の終わりには友達のことで正義感から手が出てしまい、大きな喧嘩もしたんですけれど、長男の気持ちがよくわかったので、「我が子はこういう理由です。行為は悪いかもしれないけれども、当たり前なこと」ということが言えました。



 6年生の初日に喧嘩をしましたが、その理由も正当な理由だったので、私は先生にそのことをきちんと言えました。
 以前の私だったら、どうしようと言う気持ちが出てしまったと思いましたが、多分この子にはちゃんとした理由があったんだろうとドンと腹を据えることが出来るようになりました。



 でもさすがに初日からとちょっとのざわざわはあるんですが、一人の子どもを育てること、命を預かることは、自分もいろんなことを親の会で学んで、血となり肉となってどんどん強くなって自信が持てるようになったと思います。



 今まで3年間PTAには委任状だけ出していましたが、今回クジで学級委員長になってしまいました。
 先生に「子どもが不登校になったら、私も降ろさせていただきます」と言えて、私の中に余裕が感じられることがまた新しい喜びとなっています。



 5歳の長女は家で過ごしています。
他のお母さん達から必ず「今、年長さんだっけ、年中さんだっけ?」と幼稚園の尺度で聞かれるんですが、私は「いいえ、もう母(家)がいいもんですから」とかわしていますが、それは本当のことなんです。



 今下の子は「どうして、どうしてそうなの」と私たちが考えつかないようなことを聞く時期なので、そのひとつひとつの会話が大切で、幼稚園というひとつの枠の中に入らなくても素敵な日々をこの子と一緒に暮らして生きているということが実感できて、すごく感謝しています。



 「お母さん、かわいいね」、「Aちゃん、かわいいね」のやり取りをいつまでもやっているような、そこにすごく幸せだなあというのを感じています。
他の人に味わえない幸せ感を逆に「へへっ」と感じながら幸せに暮らしています。



 今日一緒に参加した熊本のYさんは、電話やファックスでやりとりをし、2年前の奥地さんの講演で初めてお会いしました。



 下手に幼なじみや昔から知っている友達よりはすごく深いつながりがあり、同じ経験をし、同じ思いをしたということで、心からわかりあえる方で、何かあったら「ちょっと聞いて、聞いて」と電話で話していました。



 だから今日お会いするのは2回目ですが全然違和感がなく、それも子ども達のおかげだなあと感謝しています。



―――はじめて我が子が不登校になった時の気持ちの不安、動揺を最初参加された時から見てきました。



 辛かった時の気持ちもこの会で率直に出されて、そうして我が子の命に感動し幸せを心から感じられるようになってこられたのですね。よいお話をありがとうございました。





―――Mさんは以前三人の子どもさんが不登校でした。祁答院町藺牟田池の近くからいらしてます。



 土地柄古い因習のところへお嫁さんとして入り、三人の子どもさんが不登校になったとき、神様をよんでおはらいをしましたよね。



 そのときにMさんはお嫁さんの立場でありながら、バッと本を並べて「他のことは神様でも、不登校は神様ではありません」と演説したんですよね。(笑い)




Mさん:演説というほどまではないのですが(笑い)。
 そのことはかなり過去のことになりました。(笑い)



 私は親の会に参加することが出来ましたし、講演会に参加したり、本も読んだりして少しずつ分かってきていましたが、夫は全然で親の会に参加したがらないし、祖父母も田舎ですから周りではうちの孫たちだけが不登校で、何とかしたいと思い、氏神様を祀ると何とかなるということで、悪霊まではなかったんですが(笑い)、家中に米を撒いておはらいをしてまわったんです。



 子どもたちを呼んで来い言われ、興味がある長女だけあげてもらったんです。
夫も祖父母もすっかり頼ってしまって、何日かしてまたやるというものですから、その日に直接神様へ言わないとだめだと思い「子どもたちのためにも、もうそんなことはしないでください。



 こういう本もありますし、私は鹿児島の会にも入っています」と言って本も出したわけです。
「うーん、あんたがそう言うなら」ともう来ませんでしたが、お祖母ちゃんにちょっと厭味を言われました(笑い)。



 他のふたりの子どもも気持ち悪いよねと言いましたし、神様に何回も来られたら、不登校はおはらいでもしないといけないようなことなんだと子どもたちに思われるといけないと思い、止めるほしいと言ったわけです。
おはらいするということは不登校が絶対だめなんだということになりますしね。



 そんなことを通って、子どもたちはゆっくり、ゆっくりしていきました。
私は時期が来たら動き出すんだと渡辺位さんの本を読んで確信していました。



 私がそのときよく読んだ渡辺位さんの「自然に学ぶ子育て」の本の中に、子どもたちは皆ひとりひとり伸びる芽を持っていて、その芽をまわりの大人が摘みさえしなければその子なりの育ち方をするし、その子なりの何かを見つけるものなんだと書いてありました。
そのとき私は目からうろこがとれた思いがし、神様にも言えたんです。



 今では長女(25歳)と次女(22歳)は親元離れて他県にいて、長女はバイトはしませんが、次女はバイトしています。
3番目の男の子も20歳になり、うどん屋でバイトして、結構信頼され、車も自分で買いました。
それぞれにやっていて、まっいいかなという感じでいます。



―――5年間も口をきかなった娘さんが「お母さん」と言ってくれたんでしたよね。(10周年記念誌に掲載しています



 はい。娘たちへ仕送りもありますので経済的にもたいへんですが、今夫婦ふたりで喧嘩もしながらやっています(笑い)。



 私の勤め先が閉店したものですから、この機会に娘たちのところへ遊びに行こうと思ってキップも買っていたら、急に再開することになり行けなくなりました。



 娘たちに「残念だったけど、この次のチャンスに来るから」と言いました。
長女が「お母さん、こっちに来たら映画でも見る?」と言ってくれて、私を迎えるプランを立てていたようでした。それがとても嬉しかったです。



―――行けなかったことは残念だったけど、そうやってお姉ちゃんがお母さんのことを待っててくれたということはすごく嬉しいですね。
(はい、そうなふうになったんだなあとすごく嬉しかったです。)



 お姉ちゃんがずっと閉じこもっているんだったら、もう老後を見てもらえばいいと思っていらしたんですよね。
(はい、覚悟を決めていました。)
本当に良かったでしたね。(はい)




Nさん:17歳と13歳の娘です。下の子は小学校から、上の子は中学校から行っていません。上の子はそれ以前にもいろいろありました。



 最初内沢さんから話がありましたが、ふたりの子どもたちと私も「長田○」のテレビを見ました。
 この会に出会ってから4年近くなりますが、長女は最初のころは自己否定が強くて、とにかく自分はだめな人間で自分のことは大嫌いだと言っていました。



 私たちが親の会で勉強して家でそのことを娘たちに話しても、なかなか変化はありませんでした。
 どうしてかな子どものことはこうして認めているのにという思いでした。



 いつもこの会に来て、これでいいんだこれでいいんだという感じでいました。
 上の子がそのテレビを見ていて、「親の会と出会って自分は良かった」
「親が長田塾みたいなところと係わって、こんな扱いされていたら自分はどうなっていただろうかな」と言いました。



 見てて腹立たしいやら、辛い気持ちで見ていましたが、今閉じこもっていることを肯定的に見ているということが娘の言葉で分かりました。
私もこの会と出会って良かったなあと改めて思いました。



―――娘さんがゆっくりと時間を使い、癒されていっている様子がよくわかります。



 自分を肯定できるようになるには、長い時間が必要なのですね。
子どもから教えられるのですね。





恵畑悠君のこと



―――NHKの「BSおかあさんといっしょ」に鹿児島出身の恵畑悠君という青年が4月から体操のお兄さんとして出ていますね。
南日本新聞にも紹介されていました。悠君はずっとこの親の会で交流をしていたお子さんで、現在22歳になります。



 小学校5年生の時から学校に行かなくなりました。
その時に書いた原稿が「子どもをひとつのわくにはめてしまう今の学校」です。
その頃は全県中学は丸刈り強制でした。丸刈り強制廃止の運動に私達は6年半もとりくみました。



 悠君は充分休養して中学3年の時学校は覗いた程度でした。高校も通信制を手続きしたんですが行きませんでした。



 悠君が17歳の時投稿したのが「登校拒否は人生の出会い」です。
後半に「いじめられてつらい時はもちろんですが、学校に行くのが辛かったり、きつかったりしたら、無理して行くことはないと思います。



 そして親がそれを受け入れ、温かく見守っていく事が、子どもにとっては必要であり、大事なことだと思います。
 そして社会には一人ひとりの人権を大事にしていくことが、今求められていると思います」、



 「先のことに不安を感じるのは、学校に行ってても行ってなくても同じ。先に何があるのか分からないから不安を感じる。



 だから、何があるか分からないからこそ、"不安"という字を"希望"という字に変えていけばいいんだ」と言っているんです。
 学校に行っていないから将来が不安だという話は、親の会でもよく出るんですが、「不安」という言葉は「希望」という言葉に変えられるんだよと悠君は教えてくれたんですね。



 3つ目は、98年の親の会の通信です。
かわいいまるまるしていた悠君が19才になりえらい男前になって私達の前に現れたんです(笑い)。



 この会場で歌を歌って下さいました。
そのやり取りです。悠君はどうして学校に行きたくなかったのかもうほとんど覚えていないと言っています。



 「僕は始めのころは、ただ学校へ行きたくないと言う感じだったら、親は行きたくないのだったら、行かなくていいよと言って、無理やり登校させることはありませんでした。」すると、お母さんが「いいえ、そういうことはありません。」



 最初の頃は無理やり車に乗せて連れて行っていました。
ここでいいと言う所でおろして帰ってくると、息子はすぐ引き返してきました。
そういうことが何回かありました」とおっしゃいました。



 だから悠君が登校拒否の特別な子ではなくて、無理やり連れて行った時期もあったし、とても辛くてソファーにうずくまって真っ青になって過ごした時期もあったりしながら毎回親の会に参加して、お母さんは学校に行かなくても大丈夫だと悠君を信じていかれたんです。



 ひとつひとつの原稿を読んでいくと、親が子どもの伴走者になっていく歴史がわかるし、悠君の歴史も分かるんじゃないでしょうか。
ぜひ皆さんも午前11時からと午後5時40分(再放送)からの「BSおかあさんといっしょ」をご覧になってください。




このページの一番上に戻る→


体験談(親の会ニュース)目次へ←

 TOPページへ



Last updated: 2003.8.23
Copyright (C) 2002-2003 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)