登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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 ここでは拒食・過食を通して山口さん親子の体験談を見てみましょう。
 お父さんの良治さんの記事
 娘さんの愛美ちゃんの掲示板の書き込みそして会報からの抜粋を載せています。



 良治さんの「ただ生きて生活することが大切」「我が子をやさしく包み込むだけでいい、アドバイスはいらない


 愛美ちゃんの「自分が嫌いでもいいじゃない。好きになれない自分も含めて とってもいい、どんな自分も素敵」「生きてるだけで丸もうけ」という言葉がとっても印象的でした。




過食の娘に教えられる

2002年6月30日
山口良治



 娘が拒食・過食をするようになり、そして登校拒否になったのは、ミッション系の女子高で生徒会長になり、学校と生徒の狭間で悩み、そして理解できないことが多くあったのでしょう。



 そんななかで拒食になり、何時しか俗にいう登校拒否になって、その後過食が始まったと思います。



 登校拒否になりはじめのときに鹿児島の「登校拒否を考える親、市民の会」を知りました。あれから早くも2年3ヶ月がたちました。
  そして住みなれた大口を離れて7ヶ月 過食の娘は、まだまだ癒されていないのでしょう。



 毎晩僕の隣で過食をし、そして吐いています。  
 ウーロン茶を飲み、そして食事を繰り返しながら吐き、またジュースを飲み、お菓子や果物、いろんなものを食べながら、パソコンに向かいチャットや書き込みをしながら、バケツに負けないぐらいのゴミ箱に、溢れるんじゃないかと心配するほど、吐いています。



 嘔吐を繰り返す過食の人たちは、指を喉の奥まで突っ込んで嘔吐するのだそうですが、娘は自然に、こみ上げてきて嘔吐しているようです。  



 僕はといえば、その頃は娘の作ってくれた食事(これがなかなか美味しい、たまに自分でも作るのですよ)をおかずに横で晩酌がすみ、テレビを見ながらいつの間にか睡魔に襲われ、グースカ高いびきで寝ている毎日です。



 大口の実家で過ごしていた頃は、おバーちゃんとの確執もあり、食事のことが頭の中にこびりついて、離れない毎日だったようですが、鹿児島に来て食べ物・食事の心配はしなくて良くなったので、安心して今は過食をしているのです。



 しかし、やはり心の何処かに、まだまだ癒されていない部分や安心できないこと、自己を否定する気持ちが依然としてあるのでしょう。 まだまだ過食は続くのでしょう。



 そんな娘と二人暮しです。いろんなことを包み隠さず父親の僕に、話してくれます。 この前は娘にテストされました。



 お父さん、チョット聞きたい事があるから教えて・・・と、何かと聞くと、「お父さんは私に将来どんな風になって欲しい」・・・・・・。うーん、考えました。



 どんな風になって欲しいだろうと、まずは元気で・・・、そして・・・、夢をもって生きていってもらいたいかな! そんな答えを言ったら、「ブゥー 不正解」と。  「まだまだだネ、お父さんも」と言われました。



 娘いわく、今のままでイインダヨ、生きているだけでイインダヨ、生きているだけで丸儲けと、そして落ち込んでもいいし、自己否定も良いんだと。



 そう言われて、なるほどそうだな〜、イヤそうだよな〜。  
何でそんな質問をしたのか、テストしたのか、その理由を娘が教えてくれたのですが、その訳は何だったかは覚えていません。



 ああそうだったと、夢や希望をもつのが必ずしも必要なことではなく、今をいかに過ごさなければいけないかじゃなく、ただ生きて生活することが、大切なのだ。
 そのことを何度も感じていながら、じつはあまりその考え方が身についていないと知らされました。



 「お父さんは、思うんだけど今は休んで、そして元気が出たら階段を登るように、一つずつ登っていくことが重要だ、慌てずに!」。



 そんなことを話したら、娘は、「階段を一段ずつ登るのではなく、平らなところを一歩ずつ進むという感覚かな」と。



 なるほど、親はいつまでたっても、子どもに何かしら期待をかけているのかな・・・。



 他の不登校をしている子どもの親御さんから、子どもに対しての行動や考え方を聞かされた時には、子どものことを中心に、子どもの立場に立ってなどと、一端のアドバイスといえばおこがましいけれど、それなりのことを言っている自分がいるのですが、まだまだ本当の意味で、不登校の苦しみや娘の悩みがわかっていないのかも知れません。



 ただ、この頃の娘の姿を見ていると、2年3ヶ月前に「親の会」を知った頃と比較するとずいぶん落着いてきているし、明るくなったと思います。
 そして、私自身の気持ちが全然違うのを実感しています。
 


 学校に行かないのはイイ、だけど拒食・過食はいけない! こんなことを続けていたら、身体がおかしくなる、ましてや生理も止まって女性としての根本的な機能までおかしくなる、そんなことを思って不安さらに不安でたまらない時期が長く続いたのを、今は懐かしく想えるように、自分の気持ちが楽になってきているのです。



 こんなふうに、感じられるようになったのは、やはり「登校拒否を考える親の会」の毎月の例会に参加して、その中でいろいろなアドバイスやそれぞれの体験談、現在進行形の実際の話などを聞いたり話したり、そんな中から何かを感じて、何かしら素晴らしいものが身についてきているのでしょう。



 それにもとづいて娘と話し、また気持ちを聞かされて 教えてもらうことや気付くことが多いのです。



不登校や家庭内暴力、拒食・過食、閉じこもり、深夜徘徊それぞれ悩みを抱えている親の方々が、子どもに対して優しく包み込んで、自分の不安な気持ちを子どもにぶつけたり押し付けるのではなく、「見守ってあげて欲しい」、アドバイスは子どもは必要としていないと、この頃痛感しています。



 子どもの気持ちがわかったつもり、子どもの気持ちを知ってるつもりにならないで、と娘はよく言います。子どもの立場から見ることが大切なのでしょう。



 高校を中退し、現在19歳の娘が、17歳の息子(弟・高専2年生)と二人して僕に言ってくれた言葉があります。



 「もう一度生まれてきても、またお父さんの子どもで生まれてきたい」と。
 これを聞いて、それほどのことをしていないのに、そんなことを言ってくれた我が子に感謝しています。



 落ち込んでもいい、自己否定もいい、生きてるいだけでいい! 



 生きているだけで丸儲け!



 親は子どもを受けとめて、見守ってあげる。これが一番大切なことなのだな〜と、今想っています。
 心配だけど、さらに心配だけど、子どもたちは大丈夫! 信じてあげたい!!! そして信じる。
 それが、今の自分の気持ちです。




2002年06月22日 掲示板より抜粋  娘の愛美ちゃんの書き込み



私は過食をしています。今はそんな私もとーっても大好きです。
でも少し前まではぜんぜん違いました。



 私はおばあちゃんと理解しあえず長い間悩みました。
おばあちゃんは冷蔵庫瓦ある部屋にカギをかけたりして
食料を確保するようになりました。



 私はこっそりそのカギを開ける度泥棒みたいですごく自分が嫌でした。
でも辞められません。食べ物があるのを分かっているから。



 毎日寝ても醒めても考えるのは食べ物の事ばかり、
友達や世の中の人は仕事や遊びを楽しんでいるのに・・・。
どうして?なんで??そう思ってました。



 いくら食べても満足できず、明日もまた満足するまで食べられるのか?
明後日は?その次の日は?そんな毎日です。



 そのころの私はきっとぽっかりと心に空いた大きな穴
を食べ物で埋めるのに精一杯だったのだと思います。



 そしておばあちゃんもまた家計を圧迫する私の過食と
私のつらさが分かり理解できない事で悩んでいたのだと思います。



 ある掲示板に
「子供のつらさはわかるんだけどどうしても理解できない、つらい。」
こんな感じの書き込みがありました。



 親も理解できない自分を責めている。
そして子供も自分の事で親が悩んでいる
と分かっているから余計につらい。



 私は今おばあちゃんにどうして欲しかったか考えてみると
ただそばにいて見守っていて欲しかった。そう思います。
そばにいて私を良く見てよく聞いて、よく感じて欲しかった。



 そのころ私は自分が嫌で嫌でたまりませんでした。
自分を好きになれない自分も嫌でどうしようもなかった。



 今はおばあちゃんとは離れて暮らしています。
とても穏やかで幸せです。
 そして自分を少しづつだけど許せるようになりました。
過食している自分も自分が嫌でたまらない自分も全部含めて 大好きです。それでいいのだと思います。



 どうしてそんな風に思えるの?ときかれました。
よくよく考えてみるとやっぱり自分を好きになれないときは 何を言われても好きになれないんですよね。



 自分が嫌いでたまらなかった嫌でしょうがない。
そんな時期があったからだと思いました。



 それでもいい。じぶんが嫌いだってかまわない。
そう思えた事が始まりだった気がします。
自分が嫌いでもいいじゃない。好きになれない自分も含めて とってもいい、どんな自分も素敵なんだと。



 多くのこは私と同じではないかと思います。
心がとっても空いている。



 心にぽっかりとあいた穴を
ある人は過食拒食、ある人は暴力、ある人は脅迫行動でと さまざまな形で埋めているのだと思います。



 過食したって良いじゃない。暴力だって良いじゃない。
脅迫行動大いに結構!



 いっぱいいっぱいすれば良いよ。だってとっても自然な事。
気持ちを吐き出して埋まらない穴を埋めてる。
そしてもっと自分を見てよって声をあげているんだと思う。



 そんな自分もいいじゃない。嫌いだって良いよ。
どんな風に思っててもいい。それが今の気持ちなんだから ちっとも変じゃない。とっても自然。
 どんな時だってそれでいいって思うよ。



 3歩進んで2歩さがる。時には4歩さがったって良いじゃない。
ってお父さんに言われました。



 心にあいた穴はなかなか埋まらない。
少しずつ、少しずつ時には後退しながら埋めていきたいって思います。
どんな時も今が一番。あるがまま、そのままの自分でいい。
そう思います。




「お父さんが私の一番の理解者」
私の拒食・過食体験

山口愛美さん(18才)        2002年1月14日



私が拒食なったのは自分ではよく分からなかったのですが…。
 私は中学時代はあまり勉強をしなかったので普通の成績でした。



 高校1年生のときにあとちょっと勉強してみようかなと思って一夜漬けなんですが、テスト勉強したら、学年で急に2番になったんです。



 私の高校は私立の中高一貫高で、高1の2学期に生徒会役員選挙があるんですが、「選挙に出てみない」と言われ、補佐ぐらいの役目と思って立候補したらいきなり生徒会長に選出されたのです。



 中学のときは委員すらも経験していないのに、いきなりの生徒会長だったので、私もパニックになりどうしていいか分からず、そのころから拒食の気が出始めました。



 生徒会の仕事も周りからは「ちゃんとやっているよ」と言われても、自分としては食事も喉を通らなくなり、学校は弁当なのですが、小さな小さな弁当箱に少し御飯を入れて、それも食べるか食べないかくらいの状態でした。



 全然食べないと周りが心配するので、そんな感じで過ごしていました。明けて1月頃になると学校へも行きたくなくなって、だんだん具合も悪くなり早退もしました。



 ある日早退したら、お祖母ちゃんに病院へ連れていかれて点滴を打たれました。
 私はわかってほしいために「よくなりたくない」わけですから、点滴はしてほしくないので1時間中ずっと泣いていました。



 その後もずっと拒食を続けていました。
 拒食のときは、お祖母ちゃんは泣いて「お願いだからこれを食べて」と言っていたので、私も仕方無く食べていたように思います。今思い返すと、お祖母ちゃんの「食べて、食べて」から過食に入っていったようにも思われます。


 
 拒食のときはいいのです。
 食べないから他のことする時間もあるのですが、過食に入ると「食べて食べて、吐いて吐いて」をしないといけないので、時間がかかって「勉強もしなくちゃいけないし、生徒会長なんだし」と思うけど、うまくいかず成績もだんだん下がってくるし、勉強にもついていけなくなってしまいました。



 最初は勝手に自分で学校へ電話して「今日は休みます」と言っていました。
私の学校はミッション系なので、ミサの時間がある日とか、遠足の日など、勉強に支障のない日に主に休んでいました。そのうちにバレてしまって…。



 お父さんが心配して「行きたくないときは電話しなさい」と言ったので、その日からパタッと行かなくなりました。
休んでいても「明日行こう、明後日行こう」と思いつつずっと日が過ぎていきました。



 お父さんも何故私が学校へ行かなくなったのか分からないわけですから。私はぶつける相手がお父さんしかいないので、ずっとお父さんにぶつけていました。



 ある日お父さんがお風呂場でワァーと叫んだのです。
私はお父さんが倒れたと思いかけつけると、「お父さんも叫びたいときがあるんだよ」と言われて、「ああ私がお父さんを追い詰めているのかなあ」と思ったら、その後は言えなくなってしまって。(涙)



 お父さんは図書館から不登校の本を借りて、私に「この本を読んでみない」と勧めるようになりました。



 私はあまり読書をする方ではなかったのですが、その本の後ろに鹿児島の親の会の連絡先が書いてあったので、初めて内沢さんに連絡しました。



 お父さんは最初はあまり乗り気ではなかったけど、私も誰にどうして相談すればいいのか分からなかったし、もうこれ以上お父さんを苦しめるわけにはいかないので、思い余って電話したのです。



 そのときは私は今日と同じで何をどのように話していいのかわからなかったけど、とても苦しかった胸のうちを内沢さんに全部話したら、少し楽になりました。



 そのことがあってお父さんが親の会に参加するようになりました。
私の目から見ても、お父さんは親の会へ参加するようになってから、楽になったようでしたし、お父さんが変わると私自身もずいぶん気持ちが楽になりました。
しかしずっと過食が今でも続いています。



 今は11月からお父さんと二人で鹿児島に住んでいます。
大口にいるときはお祖母ちゃんと過食のことでいつもトラブルがありました。



 お祖母ちゃんも2、3回親の会に参加して、私のことを理解しようとしてくれているのは分かっていたのですが、お祖母ちゃんが家計の一切を切り盛りしているので、私が過食をするにはたくさんお金がかかるわけですから(笑い)。



 いつもいつもお祖母ちゃんと話をするとお金のことばかりでした。
お金がかかるのが全て私の過食のせいのように思われて、とても辛かったです。
私の家は私達が住む新しい家と、祖父母が住んでいる母家と扉で繋がっています。



 私が過食するようになると、新しい家の冷蔵庫には食料がすっかりなくなってしまい、母家の方の冷蔵庫に入れてありました。



私が過食するようになったらお祖母ちゃんはその扉に鍵をかけてしまって、私が冷蔵庫の食料を食べられないようにしました。



―――拒食のときは「食べろ、食べろ」と言われ、過食のときは食べられないように鍵をかけられたわけですね。



愛美さん:はい、そうです(笑い)。
私もそうするうちに意地になって、どうして食料を取ってやろうかと考えるようになり、辛くて辛くて、お父さんにそのことを話したら、その扉の鍵を壊してくれました。



 それからお祖母ちゃんは「お金がない、ない」と言ってるのに、新しい冷凍庫や冷蔵庫を買って、また鍵をかけてしまったのです(笑い)。



 私は何とかして食料をとってやろうと思ってすると、お祖母ちゃんは更に又その上をいくの繰り返しでした。



 私にしてみれば「どうしてお祖母ちゃんはこんなひどいことをするの」なんですが、お祖母ちゃんにしてみれば「限りあるお金なんだから、これで家族全員の1ケ月の食料費をまかなっているのだから」になるのです。



 私はお父さんから過食するお金を別にもらっていたのですが、いくら食べても満足しないし、1日中頭の中は食べ物のことばかりで虚しさを感じてどうしていいのかわかりませんでした。



 私のことをお祖母ちゃんも心配していてくれているというのは、充分分かっていたのですが、話せばお金のことばかりで余計辛いでした。(涙)



―――最初、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんと一緒に暮らしていた頃、鹿大の心寮内科へ連れて行かれたのね。



愛美さん:はい、お父さんに連れて行かれました。
しかし、私は治りたくないわけですから、もらった薬も一錠も飲まなかったのに「飲んだよ」と言って、飲んだふりをしていました。



―――どうして治りたくなかったの?



 わかってもらいたかったから。
私は痩せていて、見た目にも弱々しくて何もできないような状態でないと安心できないわけです。普通に見えたらいけないのです。(涙)



―――お祖父ちゃん、お祖母ちゃんに分かってもらいたかったのね。(はい。涙) お父さんはどうでしたか?



 鹿大病院へ入院の手続きまでしようとしたでしょう。親の会へ参加するようになってから変わりましたか?



 はい、変わりましたよ(笑い)。
 「鹿大に入院しないで家にいたい」と私が言ったし、そのころ、親の会に行くようになったので、私は入院しないで済みました。



―――どんなふうにお父さんは変わりましたか?



 やっぱり気持ちが通じ合うというか、私が思っていることをちゃんと分かってくれています。



 多分ひとりでは辛いことも親の会で同じような立場の人に話すことでいろいろ分かってくるし、私の辛さもひとりでは受け止められなくても、周りの人たちに話したり、聞いたりして納得していき、分かってくれたのではないかと思います。



―――そうですね。今、鹿児島市内でお父さんとふたりで生活して気持ちはどうですか?



 気持ちはとても楽になりました。
今でも私は過食を続けています。



 過食をするというのは、今の私には必要なことだと分かっているのですが、「太る」ということは、私にとってはとても怖いことなんです。



 それは私のことを分かってくれている人ばかりじゃないからなんだと思います。
ちょっと体重が増えると心配になり、自分の精神状態を保てなくなり、不安になります。



 私は遅くても明け方4時頃には寝るのですが、昨日はどうしていいのかわからなくなり、眠れませんでした。



 過食することで太ってしまって…、どうしていいか分からず、自分のことを叩いてしまいました。お父さんも私のことを分かってくれているし、何でも言えるし、しかしまだ自分の中で折り合いがつけられないし、どこからこの気持ちが湧いてくるのか分からないのですが。



―――お父さんはいつもAさんに何んて言っているの?



 「今のままでいいんだよ」と、「今していることは愛美にとって必要なことだから、何も考えなくていいんだよ」と言ってくれるんですが…。



 そのときはそう思うのですが、時間がたつとそう思えなくなって、「このままでいいのか」とか、「何かしなくちゃいけないのでは」と考えてしまいます。
 そうやってしょっちゅう言ってもらわないと考えが続かなくて。不安になってしまうんです。



―――愛美さんにとって1番辛かったことは、お父さんがお風呂場で叫んだことだったと以前話してくれたけど、自分の辛さよりお父さんの辛さの方がこたえるのね。



 自分のことでお父さんやお祖父ちゃん、お祖母ちゃんが悪く言われると、もうどうしていいかわからなくて…(涙)



―――でも今はお父さんに何でも言えて幸せだと話してくれましたね。



はい、幸せです。 konan



(父):愛美の父です。
 私は泣き虫で。実際、娘がこのようにたくさん話してくれるとは思っていなかったものですから。



 娘が登校拒否になりまして、図書館から借りて来た本が東京シューレの本でした。その最後のページに親の会の連絡先があり、内沢さん夫妻を知りまして、親の会へ来るようになりました。



 今、娘が言ったような流れです。自分としては受け止めているつもりなんですが、やはり不安が出てきます。



 2、3日前娘がしくしく泣いて自分の頭を叩いているものですから、今日皆さんの前でお話するのがプレッシャーになって泣いているのかなと思って聞いたら違って、「自分が太ってしまったのが許せない」ということでした。


 
 父親としては拒食で娘がガリガリに痩せているより、女性として少しふっくらとしている方が安心するので、「自分自身としては太ったことは嫌かもしれないけど、お父さんのために自分を許してやれ」と娘へ言いました。



 奥地さんのお話を伺って子どもの気持ちを大事にしていることはとても大切だし、基本的なことだと分かりました。
 お話の中でドキッとしたのは、拒食になり点滴も受けず亡くなった方の話でした。非常に切実なこととして心に残りました。


 
 まあ、わが子がそのようにならないようにというのが私の願いです。



―――ありがとうございました(拍手)。
 Yさん父娘の絆がしっかりしているのでAさんは大丈夫です。何も心配いりません。




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Last updated: 2003.8.26
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