登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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 不登校の我が子を「なんとかしよう」と思うのは親の不安。
 古い価値観の「さび」落としは、我が家が幸せになる過程でした。



親の会は心の錆落とし    小泉成一


 私には、17歳の長男、15歳の次男、10歳の長女の3人の子どもがいます。
次男が不登校になってから、2年になる不登校青葉マークが取れた(と勝手に思っていますが)父親です。



 ようやく、3人の子ども達を自分の子どもとして、学校に行く行かないにかかわらず同じ愛情で見ることができるようになりました。



 数々の大先輩みたいに経験は豊富ではありませんが、トモチャン(内沢朋子の事です。)より「お願い」がありましたので、父親の気持ちの変化を中心に筆をとることにしました。




「家庭のことは妻に任せた」父親


 次男が学校に行くのを渋るようになったのは、2年前の10月頃からのようです。
当時私は、出張も多い上、仕事の帰りも遅く、家に帰った後は夕飯と晩酌を一緒にすませ、子どもとはほとんど話をしない日々が続いていました。



 家庭のことは全て、妻にお任せでした。ですから、次男坊に訪れた変化を知ったのは、妻一人では支えきれなくなった12月には入ってからです。



 次男が学校に行き渋るようになってきていることを知ったときは、本当に驚きました。
まさか、自分の息子が・・・信じられないという風に。



 いったい何が悪いのだろう、「妻が家にいないから悪い」、なぜ次男だけが「どうしてこんなに弱い子になったのだろう、甘やかしすぎたのか」、一体どうしたら学校に簡単に行かせることができるか、「やはり専門家の力を借りなくてはいけない」、そればかりを考えていました。
そこで、妻と話をして子どものためにと思い、次のような行動をとりました。



1.勉強はしなくていいから、クラブだけでも良いから学校に行ってほしい。土日クラブだけを出席させました。



2.友達がいないと寂しいと思い、放課後は友達を呼び、家でゲームで遊ばせて過ごさせました。
また、土日は友達に迎えに来てもらい、一緒に遊びに行かせました。



3.子どものストレス、悩みを和らげるため、専門家の力が必要だと思い、カウンセラーのところに連れて行き相談を受けました。



4.親の子どもへのふれあいが少なかったためと反省し、妻には仕事をやめてもらい、家で息子と過ごす時間を長くとるようにしてもらいました。



5.「学校に行けない息子を信じることができなかったので」、1日に2〜3回家に電話して息子の状態を確認するようになりました。
 息子に対して24時間監視を夫婦で続けるようになったのです。



 これらのことが、次男をどれだけ苦しめていたかを理解できたのは、「親の会」を訪れた、1年もあとのことです。




「少しでも早く引き出したい」父親


 年が明け、2年生になったら学校に行くと言っていた息子は、やはり学校には行けず、いよいよ子どもと真正面から向き合わないといけないと感じるようになりました。



 この頃になると、明け方の息子の体は、死人のように冷たくなり、まったく身動きできない状態となっていました。
このような時も、子どもを元気に行かせるにはどうしたらよいかばかりを考えていました。



 妻が知人から紹介を受けた「親の会」を訪ねたのはこの頃です。
帰ってきた妻の感想を聞くと、「あの人たちみたになったらおしまいだ・・・」というものです。



 何とかして、「親の会の人たちみたいになる前に、子どもを学校に行かせることが出来ないか」、こればかりを妻と話していました。



 また、学校に行けなくなっている次男を、学校に行っている長男、長女と一緒に見られなくなっている自分に凄く悩んでいました。



 どうしてこの子だけが、同じように育てたつもりなのに、どうしてこんなに「弱い子に」・・・と、次男の欠点ばかりを考えていたように思えます。



 こんな考えでいる親から見られる次男は、地獄だったのかもしれません。
次男は、親の目から見られる「特別な目」によって、自分のやるせなさを「母親」と「妹」に向けるようになってきました。




「息子の存在を認めようと努力する」父親


 私が最初に「親の会」に妻と一緒に出席したのは、2ヵ月後でした。
「やばいなー、この雰囲気」というのが第一印象です。



 しかし、タッチャン(内沢達)より、板倉聖宣さんの本の紹介や、一番の悩みであった子どもを同じ目で見られなくなっている自分に対して、「人間は、その人とその人の間で関係を作っていく」、「不登校は明るい話」などを聞いているうちに、少しずつ考え方がかわっていき、心が随分軽くなりました。



 「学校に行く長男、長女と私(父親)、学校に行かない次男と私(父親)」、それぞれの間で、親子の関係が築かれていく、そう思うと、心が軽くなったのを覚えています。



 ただ、この時は、まだ、それぞれの子ども達と自分の関係にこだわり、共通点である子ども達と自分の関係とまでは、考えることが出来ませんでした。



 ただ、不登校ということに関して、意外と自分は近い位置にあることがわかりました。
義務教育だから問題にするけど、義務教育でなかったら問題にしないということです。
 現に、私は大学時代ほとんど学校の授業には出なかったのを思い出しました。



 見方によっては「不登校、登校拒否」そのものです。あの時の5年間があったから今の自分がある。人生の浪費とも思われる期間の大切さを、自分の人生と一緒に照らし合わせて考えることができるようになりました。
 こんな感じで、不登校については、ちょっと考え方を変えるだけで、自分にすんなり入ってきました。



 暗い顔をしている次男に、勇気を振り絞って「もう学校に行かなくてもいいんだよ」と言ったのは、2回目の親の会を出席した後だと思います。さすがに、勇気がいりました。



 息子は、私に「学校やめてもいいの」と聞き返してきたので、「いいよ」と自信なさげに言ったことを覚えています。



 ああ、これで息子と一緒に生きていくんだなと、やや不安げな気持ちを今でも忘れません。
そんなに、自信があったわけではありません。



 しかし、学校との関係を絶ってからも息子の状態は変わりませんでした。
きっと、親の不安な気持ち、表情を感じ取っていたのでしょう。
調子が悪い時は、妹や妻に当たるケースが増えていきました。



 「僕は、一日中ここでこうしているんだよ。どんなにつまんないか分かる?」と息子に聞かれたときも何も答えることができませんでした。



 次男は、家でずっと過ごしているけど、少しも癒されていないんだということが分かりました。
いったい、親はこういうときに何をすべきか、不安は募る一方です。



 不安とともに、息子の状態は、不安定になっていきました。
壁に大きな穴があき、多くの家のものが壊れたのもこの時期です。



 「ガラス細工のように扱わない」「異常視をしない」「奴隷にならない」。頭では分かっているつもりだけど、この当時どうしたらよいかまったく分かりませんでした。



 息子の気持ちを荒立てないように「ガラス細工のように扱い」、学校に行けないことを「弱い心」と捉え、「異常視」し、息子の一語一句に敏感になっていました。



 いろいろ荒立てないことが、息子がためになると考えたからです。
しかし、このときの親の表情は、きっと息子に対し不安を募らせるばかりで、安堵感はまったく与えていなかったでしょう。



 「親の会」に行き始めてた頃は、子ども達だけで夜遅くまで残しておくことが不安で、4時頃になると親の会を早く切り上げ帰路についていました。「子どもを親として信じる」、この気持ちが欠けていました。



 次男が向ける言葉、家財に対する攻撃、これは息子の「異常」ではなく、親に向ける信号であると理解できたのは数回「親の会」に足を運んでからです。



 これも、「たっちゃん」の教えが大きいところですが、私も少しずつ次男の行動を自分に照らし合わせて考えることができるようになってきたのです。



 私は、母親の前で弟をよく虐め泣かしました。
これは、弟が憎くて泣かしたわけではありません。自分の苦しみを母親に分かってほしくて、その手段として弟を虐め泣かしたことを思い出したのです。



 母親がいるときに限って、目に付くようにわざとそういう行動に出ていたことを思い出しました。
次男は、親がいないときは10歳の妹に対し、よき兄として遊んであげていることも長女より聞いて分かりました。



 この様に、普段思い出さない30年以上も前のことをよく思い出すようになり、自分に照らし合わせ、次男のことが以前よりはるかに理解できるようになりました。



 友達がいないことについても同じです。
私は、故郷を離れているせいもあるかもしれませんが、小学、中学、高校時代の友達とのつながりはまったくありません。



 必要もないのです。今本当に自分が必要な人と、人間関係を築いているのです。
次男にも同じことが言えると思うとずいぶん気持ちが楽になり、今の次男の状態に自信がもてるようになりました。



 次男の親に向ける状態が変わるとき、「親の会」でいわれる、子どもが一番親に対して表現しているときなのです。



 このときは、息子と向き合うしかない、次男からはまだそういう風に見えない部分もあるかもしれませんが、「そのままで何も心配ないんだよ」という心構えだけは、少しずつできるようになってきたと思います。




「見守ろうと努力をする」父親


 「親の会」にお世話になり、丸1年になります。
「親の会は傷のなめあい」という表現をする人もいますが、私の場合は「傷のなめあい」ではなく、自分襟を正す場所なのです。



 自分では気づかない点も、人の話はよく分かります。
しかし、同じことが多々1ヶ月の自分の生活にあるのです。次男を一瞬でも「異常視しようとした」自分の気持ちの錆びを落とす場所なのです。



 子どもを自分の愛すべき子どもとして見られる、こんな当たり前のことが「学校に行かない」というだけで、変わってしまう。
単純に考えるとおかしい話ですが、1ヶ月の中には思いっきり錆が付いてしまうときもあります。



 月一回の親のための「心の錆落とし」、親が錆を落とした後の次男の表情は最高です。きっと、錆を落とした親の表情が息子を変えさせているのでしょう。
息子を「見守る表情」になっているのだと思います。



 今は、妻と二人で往復2時間の道のりですが、二人で真剣に家族のことだけを考える時間になっています。



 まだまだ、「親の会」なしでは心が腐食し錆び付いてしまう父親ですが、愛すべき子ども達、学校に行く子も行かない子も同じ子どもとして真剣に一緒に人生を歩んで行きたいと思います。


例会での小泉さん




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Last updated: 2003.8.26
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