登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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かけがえのないわが子を失って


村方美智子さん(鹿児島県知覧町)



登校拒否を考える全国合宿2日目(2002/7/28)に村方美智子さんが講演をしました。
時間の都合上、一部やむなくカットさせていただいたところ、「もっと聞きたかった」との感想がアンケートにたくさんありました。ご要望にこたえて、このたびHPに講演原稿全文を掲載します。



村方美智子さんの息子勝己くん(当時14歳)は、1年半以上もの間、想像を絶するいじめに合い、1996年9月18日みずから命を絶ちました。



勝己くんの身になにがあったのかを明らかにするために、村方さん夫婦は、1998年1月に裁判を起こしました。裁判は4年間に及び、2002年1月に勝訴しました。



最愛の息子の勝己くんが亡くなった今、村方美智子さんは夫敏孝さん、息子直己君と暮らしています。「なんといっても生きていること、この子に触れれば暖かい、声をかければ声が聞こえてくる。そんな当たり前のことがありがたいことと思えるのです」



美智子さんの言葉は、我が子は生きているだけで十分なのだと私たちに教えてくれています。「学校を休んでいいんだよと休むことを無条件に受け入れてください」という言葉が胸を打ちました。たくさんの方々から感動したと感想が寄せられました。



登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 世話人代表 内沢朋子




美智子さんの講演原稿目次

1. 1996年9月17日前日のこと   

2. 1996年9月18日当日のこと

3. いじめの事実

4. 学校の責任

5. 裁判について

さいごに



公演1



一九九六年、今から六年前の九月十八日、私達のかけがえのない息子の勝己が自ら命を絶ちました。まだ、たった十四年しか生きてこなかった、本当に短い命を絶ってしまいました。


中学三年生の暑い夏の日でした。
勝己は遺書を残していました。


勝己の遺書は勝己が亡くなった翌日19日の夕方、夫が私の所にそっと持ってきて、隠れるような感じで初めて勝己の遺書を見ました。
自殺したことさえも信じられず、遺書を書いていたことも、内容を読むと言うより、見覚えのある勝己の字が、悲しくて悲しくてたまりませんでした。
遺書には大きく六人の名前が書いてあり、横に小さく二人の名前が書いてありました。


「この六人がいやだった。殴られたり、蹴られたりいろんな事をしてくれた。俺が死ねばいじめは解決する」とありました。本当に驚きました。


この遺書を信じ、たよりにして、勝己のつらさ、苦しさを知ろうと必死に同級生達に話を聞いてきました。勝己の遺書を信じ、あの遺書があればこそ裁判をおこし、今私はここに立つことができました。


真実を知ることが勝己の死にたいするせめてもの親の責任だと思って生きてきました。
勝己の遺書に書かれた少年達の名前は今日は、全てABCDEFGHで話します。


上の方から大きくABCDEFの名前があり、横の方にそれより小さくGHの名前がありました。裁判で被告としたのはABCDEの5人です。




1. 一九九六年九月一七日、勝己が亡くなる前日のことからお話しします。



一七日の夕方の六時前後だったと思います。勝己の担任からの電話がありました。
「一週間くらい休んでいるけど、どうしたんですか」というものでした。


私は勝己が毎日学校へ出てから職場へ出ていましたので、教師の突然の電話に驚いてしまいました。
勝己は小学校、中学校を通してほとんど欠席はなくて、まして一度も無断欠席などしたことはありませんでした。


私は何がなんだか分からなくて受話器を持ったまま、勝己に怒って言いました。
「かっちゃん、学校に行ってなかったの。何でね」と言って叱ったのです。


すると勝己は、やっとという感じで「学校で叩かれた。学校が怖かった」と言いました。
それで私は「誰に叩かれたの?誰がこわかったの?」と聞くと勝己は黙っていました。


私は担任に「勝己は学校でうたれた。勝己は学校に怖い人がいるから行きたくないと言っています」と伝えました。


担任は、電話を勝己に代わるように言ったので受話器を勝己に渡しました。私は、そばで耳をこらしていましたが、勝己は小さな声で「はあ、・・・はあ」というような返事をしただけでした。


自分の方からは何も話はしていませんでした。
私は、勝己が今までに人から打たれたことなどないし、人を打ったこともありませんから、訳が分かりませんでした。


夕方帰ってきた夫が、誰に打たれたのかと何回も聞きました。
「(D)と(B)、(C)とそばに(A)がいた」と小さな声で言いました。
(D)は同じ知覧校区の子で私も知っていますが、他の子は知りませんでした。


そのころの(D)は、時々町で見かける限りではピアスをした子達や、一目で不良だと分かるような子達と一緒で、眉もほとんどなくてきつい表情で目つきが小学校の頃とは違って鋭くなって、同級生の母親たちの評判の良くない子でした。
勝己も小学校の頃一緒にスポーツ少年団をやっていたときとはちがって遊びたがりませんでした。


村方さんの写真1


私は勝己が無断欠席をしたことがショックで、なぜ(D)に打たれたのか、どんなに勝己が、その事を言いたくなかったのかその時は全く分かりませんでした。


勝己は強気な子で、いつも元気いっぱいだったから、元気が良すぎて手こずってるくらいだったので、「打たれた」と言ってもその時のたった一回きりのことくらいにしか考えられませんでした。
それよりも、一週間も親にだまって学校を欠席していたことが、本当にどうしたものかと困ってしまい、その時の勝己の気持ちに気づく余裕さえありませんでした。


その夜(D)さん親子三人が、「今から来ます」と言って、家の玄関に上がるなり、父親は板の間で土下座し、Dと母親は居間の畳の所で座るとすぐ土下座しました。
Dは泣いているのかどうなのか、鼻をすすったりして神妙にしていました。


ところが、Dの母親は、下をうつむいたまま座っている勝己に向かって「かっちゃん、うちの子に聞いたら、かっちゃんを叩いてはいないと言っているよ」と切り出したのです。
勝己は下をじっと向いたまま、何か勝己の方が悪いことをしたように黙ったままです。


今度は、Dの方に「あんたは本当はどうね」と聞くと、Dは堂々とした感じで「やっていない」と言いました。「ぼくはそんなことはしていません」とけろっとしています。


それで私の夫が、「でも叩いていなければ、名前が出るはずはないだろう。本当になかったね」と聞き直すと、「いや二、三回あったかも」と答え「ごめんなさい」と涙を流しました。


Dの母親は、一回も顔を上げない勝己に「かっちゃん、うちのDが怖いの?怖いね?」とのぞきこむようにして聞きました。勝己は黙ったままです。
そしてDの手と勝己の手を取って握手をさせたのです。


喧嘩の後の仲直りという感じでそうさせたのでしょうが、私は、少し離れたテーブルにいて様子を見ていました。
ますます下を向いて顔を上げない勝己の様子に、何か「解決」というような明るいものは感じられませんでした。
でもそれがなんなのか、分かりませんでした。


Dさん達が帰った後、いつもより、遅い夕食を取りました。
それが、家族四人で最後に取った食事になるなんて、夢にも思わず、どんな会話をしたのか、どんな晩ごはんだったのか何も思い出せません。
勝己はきっと砂をかんでいるように何の味もしなかったでしょう。


担任に九時頃電話で事のいきさつを話しました。
「明日から学校に行かせますので、欠席していたら電話してください」とお願いしました。
担任は「はい分かりました」とだけ言いました。それ以上のことは何も聞かれませんでした。


私はもっと担任に色々話を聞きたかったし、話したかったのですが、あまりにも事務的な担任の答え方にこれ以上話せないような壁も感じました。


それでも、ちゃんと学校に行けば、とにかく先生が分かっているのだから、大丈夫だと思っていました。
勝己が亡くなる前に、私が分かっていたことは、このこと、九月十日に教室のベランダでD、C、Bに打たれたという一件だけでした。


当時の勝己は二学期が始まるというのに、自転車は壊れたままでした。
これも勝己の事件後分かったのですが、Dに壊されていたのです。


私達は日頃から勝己がスピードを出しすぎてあちこち壊してるくらいに考えていました。
再三、ちゃんと修理に出しておきなさいというのに 、とうとう始業式の日迄そのままだったのです。
だから、始業式の日も、私はちゃんと準備ができていないことを文句を言いながら、車で送ったのでした。


この日の午後、勝己から職場に電話があり、「Dが待っているから迎えに来て」と言うのです。私は行って学校で待っていましたが、まだ終わっていないらしく生徒は誰一人出てきません。


特に学校の様子にも、待ち伏せていることにも、何も感じず、朝自転車で行かないからということと、Dとは遊びたくない、それは私も遊んでほしくないと思っていましたので、職場に戻る時間ぎりぎりまで待ち、いらいらしながら、その日用事で休んでいた夫に迎えに行ってもらいました。


それから一週間たった九日の月曜日のことでした。
勝己は学校に行ったものの、「お母さん腹が痛い」と汗をいっぱいにかいて九時頃、帰ってきたのです。


私はその日は仕事が休みで勝己がおそい時間に登校したものだから、遅刻したんじゃないかと気をもんでいました。
「どうして、あんなに学校に行きたがらないのか、でも受験で勉強、勉強だししかたない。夏休み明けで体はみんなきつい頃だし・・・」とそんなふうに自分を納得させたりしていました。


帰ってきた勝己は自転車がこわれて近くの自転車屋に持っていっていました。
私は、本当にお腹が痛いのかとも思いましたが、どうしてこんなに遅刻するんだろうと思い、病院に行こうと言いましたが、勝己はいやがりました。


私は、学校から逃げたいという勝己の気持ちにも全く気づかず、担任に欠席の連絡を勝己自身に電話させてしまいました。


勝己は、ベッドに入ったままその日は寝ていました。
でも夕食はけろっとして屈託なく、多分私にはそんな風に見えていたと思います。
普通の日常の一こまで普通に通り過ぎていきました。


次の日の十日は学校に行きました。
この日、三年三組の教室のベランダで勝己は殴られたのです。


勝己がいなくなってから分かったことですが、殴った方の理由は、遊びの誘いを勝己が断ったからと、プラモデルの塗料を勝己に買いに行かせ、それを間違えて違う色を買ってきたためだというのでした。その場には五人ほどいて勝己一人を囲んでいます。


四日にも体育館の横の部室前でAを中心としたグル−プに呼び出しされ腹を打殴られ、膝蹴りをされました。殴る側の理由は何でもよいのです。
とにかく殴りたいときに殴り、蹴りたいときに蹴るわけです。


勝己は十日の日の暴行を境に学校に行くことができなくなったのでした。
私は毎朝学校に送りだしていたので、十七日の夕方の担任からの電話は本当に驚きました。


十五日の敬老の日、夫の実家の年老いた両親、特にベッドに寝たきりの祖父に、勝己は次男と二人並んで帰り際「おじいちゃん、長生きしてね」と声を掛けていました。久しぶりの勝己の訪問に祖父母はとても喜んでくれました。


その日の午後次男のピアノ発表会があり、しばらくぶりに四人で一緒に行きました。ピアノ教室の先生達は、勝己が挨拶をすると驚いて、「かっちゃん、大きくなったね、よく来てくれたね」と、なつかしみ喜んでくれました。勝己も少し恥ずかしそうにしていました。


発表会が終わって帰る途中、ゲームセンターとカラオケに行きました。勝己は、歌がとても上手でした。最後に聞いたあの歌は何だったかな、思い出せません。久しぶりに家族四人忙しいながらも充実した日を過ごし、外食して帰るというささやかな一日でした。


十七日の夜、勝己は何を考えていたのでしょう。
Dと握手させられたとき何を考えていたのでしょう。
握手の際、Dは小声で「よくもちくったな」と言ったということを聞いたのですが、当人はつよく否定しています。


もうその真偽を確かめる術もありません。
「よくもちくったな」というひとことは、明日からの仕返しを今までより、もっともっと激しくなることをすぐに勝己が想像できたはずです。


その時勝己は、たったひとり悲しみと絶望のどん底に突き落とされたのだと思うと、耐えられなくて胸が押しつぶされそうになります。




2. 一九九六年九月一八日、勝己が亡くなった日のことをお話しします。



十八日の朝、私は朝おきの悪い勝己を起こしとにかく学校に行かせなくてはと渋々行く勝己を学校に送り出しました。階段の踊り場で見送ってから、下に降りていき、勝己の姿が役場駐車場を通り見えなくなるまで、ずっと見ていました。


姿が見えなくなると、ほっとしたものの、やっぱり「どうしてかなあ」と思い、「Dに打たれたなんて」と夕べのことや、無断欠席のことが気になり、私も重い気持ちで職場に行きました。


午後の休憩時間、いつものように私は昼食を摂りに帰宅しました。
自宅の近くまで来たとき何気なく、公民館の方をちらっと見たら勝己の自転車があるのです。私は車を停め、降りていくと勝己がいました。


「今日も学校に行かなかったの。何でね」と言ったのです。
私の頭の中は「何で、今日も学校に行かなかったの。ちゃんと先生にも頼んだし、どうしたのよ」と渦巻いていたと思います。


勝己は、公民館とこちら側の建物の垣根を挟んだ向こう側に立っていました。
そして小さな声で「ぼく自殺する」と言いました。


いつもの私はきっと次から次に怒りだしたと思いますが、その時は、「また、何でこうなの、学校に行かなかったから叱られると思って・・・もう」と冗談ぐらいにしか思わず、怒鳴ることも、慰めることもせず、そのまま立ち去りました。


それが生きている勝己を見た最後でした。
「ぼく自殺する」というのが、勝己の声を聞いた最後でした。


私はそのまま家に帰り重苦しくご飯をかきこみました。
長いことはいったことのない勝己の部屋に、そっとはいってみました。相変わらず片づいていなくて十四才の男の子達の汗くさい臭いがしたと思います。


部屋に入っても勝己が何故学校を休むのか分かるはずもなく、私は郵便局への用事でいつもより早めに家を出ました。
途中で勝己のいたところに止まるか、いつもの私なら「いったいどうしたのよ」とどなりに行くかしたに違いありません。


でも私はそのまま職場に戻ってしまいました。
ただその日は何か胸騒ぎがして、早く家に帰りたくて五時になるのを待っていました。


そして家に帰ると、昼間に勝己の自転車があった場所にロープが張られ、パトカーがきていました。
私は不安と同時に勝己の姿を探しました。


近くにいた警官が、入ってこないように私を止めましたが、「この自転車はうちの子のものです」というと、驚いたように私の名前を聞いてきました。


住所と夫の名前、勤務先や電話番号を聞かれ、すぐに夫に連絡を取るように言われました。勝己が何かをしでかしたんだとはっきりそう思いました。
勝己はどこにいるんだろうか、あのパトカーの中か、それとも警察署に連れて行かれたのかと心配でたまりません。


「お父さん、なんか勝己がしたみたい。公民館の所にパトカーがきてるよ。すぐ帰ってきて」と電話をして又警察官の所に戻りました。
警官は何時頃勝己が家を出たのか、と聞きます。


「あの勝己はどこにいるんですか。何をしたんでしょうか。教えて下さい」警官は、「御主人がきてから話します」ということだったけど、私がどうしても待てずに尋ねると、こう言いました。
「実はですね・・・勝己君が自殺をして・・・」


私は「嘘だ、嘘だ」といった様な気もしますが、膝をついてしまったまま、そう思っただけかもしれません。
涙も出ませんでした。
その場に座り込んでいました。


警官に支えられてパトカーか、乗用車に乗せられました。
車の中で今朝方の勝己の様子を少し聞かれ、それから警察署に連れて行かれました。
玄関を入るときは、足がふらふらして倒れそうでした。


二階への階段を上り終えて、左側の部屋に校長とS教諭が見えました。
私はわあわあ大声で泣いていました。


勝己が死んだという実感などまるでないのに大声で本当に大声で泣いていました。
警官に支えられたまま右側の方へ連れて行かれ、突き当たりの会議室のような広い部屋に入りました。


私の横に警官がきて、詳しく聞き取りをしていきます。
私ははっきり答えたり、泣いたり、ずっと黙り込んだり、突然部屋の中を歩き回ったりしながら、その警官に「嘘でしょう。嘘でしょう」とわめいたりしました。


とても長い時間だったような気もしますが、二階の窓からそこらの家の灯りが見えて、夕方から夜に変わっていったことに気づきました。
窓の外を見ながら「私はこのまま生きていけるだろうか・・」とふと思いました。
「お父さんはどうしたんだろう。何ですぐ来ないのか」と思いながら、私は泣いたりわめいたりを繰り返していました。


どのくらいたってからか「勝己が死んだって・・」と泣きながら夫が、入ってきて「勝己に着替えさせる服を取りに行かないと。もう泣くな」と自分も泣きながら言いました。


校長とK担任とS教諭が床にひざまずいていました。
私は彼らになんと言ったのか思い出せません。
激しくののしったかもしれません。何か夫に止められたのを覚えていますので。


 村方さんの写真 原稿を読み上げているところ


すっかり暗くなった警察署の駐車場の車の中に、当時小学六年生だった弟の直己が一人で待っていました。直己も泣いていました。
私の顔を見て「お兄ちゃんが死んだ・・・」とまた泣きました。


勝己を乗せた葬儀社のライトバンと私達は合流して、夫の実家に走りました。
私達は車の中ではもう泣いていませんでした。
夫の母が小さな布団を北枕に敷いてありました。


そしてそこで初めて私は二度と目を開けない、何も言わない勝己の顔を見ました。
いつものように眠っているようでした。
何人かで勝己を横たわらせました。
直己が「お兄ちゃん、お兄ちゃん」とそばにすがって泣き出しました。


私は「何故?何故?」と思いながらしっかりしなきゃ、倒れないようにしっかりしなきゃと言い聞かせました。テレビの中のドラマかなんかみたいに通夜も告別式も流れて終わっていきました。


火葬場で私は小さくなってしまったかわいそうな勝己の骨を拾いました。
私の両親も黙って初孫の骨を拾いました。誰かが「ここが頭だよと」教えてくれたと思います。


私はこの時のこの様子を、一生、いえ片時も忘れることができません。
勝己がかわいそうでかわいそうでたまらなくなります。
今すぐ、戻れるものなら、あの時に戻って、勝己に謝りたいです。


「学校は行かなくてもいいんだよ」と言って、「辛かったね、痛かったね、くやしかったね」と、抱きしめてやりたいです。一緒に泣きたいです。。


どうしてもあの時、私は、学校に行きたくない、学校がいやなんだ、学校が怖いんだという勝己の気持ちに気づきませんでした。
当時、私は病気や、怪我をしていない限り子ども達は学校に行くものだと思っていました。


というより改めて学校についてそんなことを考えたこともなく、それは考えたりするものでもなくて、ご飯を食べたり、睡眠をとったりすることと同じくらい自然なことでした。
子どもが学校に行かないことのほうが、私にとってとても考えられないことでした。


勝己が亡くなってから、裁判や登校拒否を考える親の会に参加して、学校は子どもが行きたくない時は行かなくてもよいんだということを、勉強をして分かりました。




3. 次にいじめの事実について話します。


勝己は学校でひどいいじめを受けていました。勝己が残した遺書にそって、私達は同級生に丁寧に聞いていきました。
そうして初めて勝己が中学二年生の時、三年生の上級生の二つのグループから暴行を受けていたことが分かりました。


それと並行して二年生の二学期後半から亡くなるまで同級生のAをボスとした被告少年達のグループに日常的にひどい暴力、恐喝を受けていたということもわかりました。
この事実に「どうして、勝己があんなに元気な明るい勝己が、友達だってたくさんいたのになぜ?」私達は打ちのめされ大変なショックを受けました。


遺書に名指しされた少年達は勝己が亡くなった直後、警察署で事情聴取されています。
後に裁判を起こしてからその時の調書を読むことができました。
心から正直に話したものでないことはすぐに分かりました。


その内容は勝己が中学三年生になったばかりの四月二十五日の霜出防空壕跡地での暴行事件だけでした。
しかしその事件一つだって親の私達が読むのが耐えられないほどの内容でした。


勝己がこの少年達に無抵抗のまま連れて行かれ、遊ばなかった、むかついたからと、よってたかって繰り返し、殴る、蹴るの限りを尽くしていました。
何も悪くないのに、ひとりの子を十二人の少年が取り囲み、泣きながら謝る勝己を殴り散らし、勝己は泡を吹いて気絶しました。


少年達は家に焼香に来た時には、「警察で正直に話しました」と首をうなだれていたけれど、このことだって実際の殴った回数よりは少なく話し、勝己が殴れといわんばかりだったからと、殴った理由を正当化しているものさえありました。


教師や、大人達は、誘われても断る勇気をもてと言うけど、こんな状況で、勝己にだれが断る勇気を持てと言えるでしょうか。
日常の暴行はそれはひどいものでした。


勝己が二年生の時、二組の教室がたまり場になって、勝己を含む何人かの子ども達が昼休み時間に毎日呼び出され殴られていました。


周りを取り囲み「これが十%ね、これが二十%ね」といいながら殴る強さをだんだん強くして殴ったり蹴ったり、勝己と友達のY君を闘わせたり、掌底とか、かかと落としなど息ができなくなるようなみぞおちを殴ったり、太股に蹴りを入れたりしました。


Y君は「毎日呼び出され四十分間も死ぬかと思うほど殴り続けられた。」と当時の暴行の生々しい事実を裁判で証言しました。
苦しんでいる子を取り囲み、にやにやしながら見物し、暴行を楽しんでいた背筋の凍るような事実を知りました。


 会場の様子


三年生になっても彼らの日常的な暴行は続きました。
教室で朝自習時間に、休み時間はベランダで、通りすがりに何の前ぶれもなく、殴ったり蹴ったりしていたことも分かりました。


あの元気いっぱいだった勝己は、学校では次第に暗くおどおどした様子になっていったと同級生から聞いて、信じられないけど、かわいそうでどうしようもなくなります。


あの頃、足繁く焼香に来た被告少年も一、二回しか来なかった少年も勝己の仏前で、本当の話はしていなかったのです。
私は話さないけどそれでも、きっと辛いし、何てことをしてしまったんだろうと、悔いているのだ、でも口にはできないのだろう、辛すぎて・・・と思っていました。


でも、いつまでも口は閉じられたままでした。
私達のそんな甘い考えはここでも裏切られ、彼らは、勝己の葬儀の日、Aの家の近くの人気のない猿山というところに集まり四月二十五日の霜出事件を一人のせいにしようと口裏合わせをしていたのです。


そして、同級生が話してくれた事実さえにも、加害生徒達は「絶対にやっていません。覚えていません。」と、最後は開き直り、「誰がそう言ったんですか」と逆に質問するのです。
自分のやったことを全て話し、勝己に対してわびることこそ反省であり、それが彼らにとっての更正ではないでしょうか。


事実を話さず、勝己の死を受け止めることなく、どんな大人になるのでしょうか。
この少年たちにそれを導くはずの教師は一人もいなかったのです。
この少年達も学校の被害者であり、勝己は、学校とこの少年達から二重の被害を受けたと言えます。


裁判は二十二回を数え、四年の歳月が流れましたが、少年達自身もその保護者も一回も裁判所にきたことはありませんでした。
子どものした取り返しのつかない過ちに気づかせ、そして申し訳なかったと教え導くはずの親ではありませんでした。


ついに裁判で全く事実無根の主張をして私達を傷つけました。
今現在、五年前の一周忌を境にして、勝己の命日さえも足を運んでくれたことはありません。




4. 学校の責任について話します。


勝己の事件後分かったことですが、当時の知覧中学校は、勝己の遺書にあったとおり、本当に荒れていて、怖いところだということが、次々に分かってきました。


二年生は三年生に、目を付けられないように過ごします。
そうしないと目立った二年生は卒業の前後やられますから。
その三年生が卒業していくと、やられた二年生は頭角を現し、新二年生に、今まで自分たちがやられたことを、それよりも更にずるく大胆にやっていきます。


またその学年の中でもボスが現れたり、上級生がいなくなるとどんどん強くなり暴力のしほうだいでした。
何か学校で起きても表に出さない限り、学校の方は、親にはそのことも報告をしませんでした。


知覧中学校でも集団暴行事件や、大小の暴行事件、救急車を呼ぶほどの傷害事件、家出、万引き、恐喝、窃盗等犯罪まがいの事件はあったのに、教育委員会に報告せず、当事者の親だけを呼び、あるいは、それさえもせず、ましてほかの親たちには全く知らされませんでした。


この頃の知覧中学校は腕力の強い特定のグループが肩で風を切って学校を自由にやりたい放題でした。教師達が授業の間の休み時間や、昼休み時間、学校の中を見回ったことなどないことも分かりました。


教師は生徒指導については、喫煙、遅刻指導、不登校、服装の乱れ、自転車の二人乗り、学力低下などを問題視して、その裏に隠されているいじめ、暴力には何もしていないことが分かりました。


知覧中学校にはいじめがあるなんて、私は全く知りませんでした。
でもあの当時ほとんどの親はそうだったと思います。
教室で、廊下で、ベランダで、部室で、体育館裏で、バス車庫裏で、勝己は、暴力を受けています。


勝己が2年生から3年生にかけての頃、3年生10人が2年生12人に犯罪まがいの集団暴行がありました。


当時二年生で一人で170発も打たれるような集団暴行が何ヶ月も続いたのに、当事者以外の父母に分かったのは勝己が亡くなった直後の臨時PTA総会で、二年生の父親が発言したことから初めて分かったのです。
10人の加害生徒は遺書に書かれていた生徒を含む三年生です。


この同じ時期の4月25日、勝己は霜出の防空壕跡地で、被告少年5人を含む12人から口から泡を出して気絶するほどの凄惨なリンチを受けています。


亡くなってからこのことを教えてくれたのも学校ではなく、同級生の父親からでした。
学校はすでに分かっていたのに、マスコミにも私達にも事実を隠しました。


想像もつかないような恐ろしい暴力をたった一人で受けていた勝己を思うと、何故、どうしてとひどいショックを受けました。


学校がそんなに荒れていたなんて私は何も知らず、霜出事件の3日前の4月22日の家庭訪問で担任に勝己がDからの遊びの誘いの電話をいやがっている、電話の誘いが多いことを相談しました。


その時担任は、被告少年達等10人ほどの名前を挙げましたが、それ以上のことは何も教えてくれませんでした。


勝己の一、三年の担任はおなじ教師で厳しくてしっかりしているといわれていました。
勝己が亡くなったとき、「先生にもご迷惑を掛けました」と私たちはそんな気持ちでしたが、それはすぐに打ち消され不信感が大きくなりました。


いつも校長や、教頭や、同僚の教師に守られるようにして焼香に来ました。
何も語らず、「すみませんでした」の一言もありません。


ただ下を向いていました。私達はいじめられていたこと、自殺してしまったこと、遺書があったこと、そんな事実が目の前にあっても、あの勝己のあまりにも突然の死を受け止められませんでした。


でも、何がなんだか分からなくても、学校で何かがあったのだ、それがなんなのか知りたい、辛いけどそれを知らなければならばならない、勝己の死がどうしてなのか、学校から当然報告があるものと思っていました。そういう思いで私達は話をして下さいとお願いしてきました。


しかし学校は結局私達に話をするどころか、勝己が半殺しの目に遭っていた霜出事件のこともすでに学校は分かっていたのに、マスコミやPTA総会には、勝己が「肩などを二、三回たたかれた」と事実より軽い発表をしました。
あの時すでに学校はひどい暴行の事実を分かっていたのに隠して発表したのです。


そして、少しでも話を聞きたいという私達に対し、加害少年が家に話しに来るとき校長は、「あの人達は事実が分かれば、大きく新聞に発表するからね」と、それでも校長かと疑いたくなるようなことを少年達に言って、事実が私達に明るみになることをとめていました。


勝己が亡くなってから私達に、学校はこのような嘘を口頭で報告した他は、勝己への暴行を○か、×かで加害少年に答えさせたアンケートのようなあまりにも薄っぺらな文書報告を一回しただけでした。


そして同級生の話から担任の勝己に対する体罰が分かりました。
給食時間に勝己が前の席の子のデザートを盗ったと言うことで、勝己を廊下に連れだし、そこで数回殴ったというのです。
教室の中は水を打ったようにシーンとなり、廊下で勝己が殴られている音がしていたというのです。


勝己は口を切って血が出ていたと勝己の友達が話してくれました。
このクラスの子どもたちは、暴力をふるってもいいんだと教師にしっかり教えられたのです。
この話を聞いたとき、ショックをうけ私も夫も怒りでふるえました。


そして、あんな教師を厳しくて良い先生などと信じていた自分が許せませんでした。
これも本当のところはCが勝己に盗らせたという証言もありました。


その夜、夫は担任に体罰のことも含めて話を聞きたいと電話しました。
でも「そういった指導をした覚えはありません。何も一切話をすることはありません」との一点張りでした。


どんなにお願いしても、担任は私達と話しどころか、会うことさえなくて知覧中学校を転勤して以来、裁判所で三年ぶりに会いました。


初めて彼を見つけた時、私達の方を見て黙礼するでもなく、隣の弁護士と談笑していました。
裁判の証言内容は、自分の教え子を死に追い込んでしまったという責任は何一つ感じられず、教師としてどころか、とても血の通った人間とは思えないような内容でした。


すぐそばで証言を聞きながら、大声で、「うそつき!勝己に謝れ」とさけびたかったです。えり首をつかんで、勝己がされたように殴りたかった・・・私はその気持ちをずっと抑えていました。


それでも、二回目に親の私達が直接質問することができたとき、裁判長の前で「体罰というか、強く指導をしたことはしましたけれども、手を出したということはっきりと覚えておりません」と答えています。


あんなひどいことをしていながらその程度の認め方でした。
勝己の悔しかった気持ちを考えると許せない気持ちでいっぱいになりました。


当時の知覧中は指導力のない教師は見て見ぬ振りをし、勝己の担任のように体罰をふるい厳しい教師は強いグループには特別に肩入れし、勉強の良くできるお気に入りの子ども達には、一生懸命声かけをしたり、守っていたという構図がはっきり分かりました。


勝己が1年のときの1年3組、38人中30人の子ども達が、クラスのお別れ文集に「先生、パイプで叩かないで」とか「お尻を打たれたのがとてもいやだった」とか「先生は打つから怖かった」とか書いています。
担任は弱い子にはひどい体罰教師でした。


しかし被告少年達には腰が引けていて、彼らは「先生は自分には優しかった」といっています。
また彼らが3年生になった時、集団暴行がばれたときにも同じ担任から「二年生への暴行もあんまりするなよ」と言う程度で、「殴った理由がはっきりしているから叱られなかった」といっています。


そのころの私は、学校からは何一つ情報はないから、学校は何も危険な所ではなく、学校、教師というものに対して絶大の信頼をおいていました。


私は、学校に行けば安心、教師が分かっていたら大丈夫、そして学校は何が何でも行かなければならないところという自分の価値観で、勝己を助けることができませんでした。
全く情報をもらわないまま危険な学校へ勝己を行かせてしまいました。


そしてたった十四年間の命を閉じてしまったのです。・・・・このことが一生悔やまれます。
あんな暴行がわが子に学校で日常的に起こっていると分かっていたら、どんな親だって「学校なんか行かなくていいよ」と言えます。


遺書に書いてあった「俺が死んだらいじめは解決する」という文は、勝己が残した悲しいメッセージです。
いじめの解決に一番大切なことは事実を出すことです。


どんないじめがあったのか、事実を一つ一つ丁寧に出していくと、いじめられた子どもがどんなに傷つき、苦しんだのか、いじめた子どもに気づかせることができます。
そこにいじめた子どもの心からの反省があり、謝罪があります。


知覧中学校は今現在も真実を語ろうとしません。
子ども達にも親にも何も知らせませんでした。


裁判で、二人の同級生の証言の後、校長を始め、教頭、担任と続きましたが、大きな声ではきはきとありのままに答える子ども達とは逆に、背を丸めた教師の後ろ姿は、真実に背を向けているかのように映りました。


「忘れました」「覚えていません」「記憶にありません」「もう本当にそれぞれ頑張っておりました」と、声もぼそぼそとちいさく、証言に自信のなさを感じました。


学校側の証言は、犯罪まがいの暴行、窃盗、恐喝にも教師達は、それこそがひどい事件だ、大変なことだという認識が全くなかったことが分かりました。


そこに深刻ないじめの事実があるのに、その問題意識が全くないために教師達にはいじめを聞く耳も、いじめを見る目もなく、勝己はそんな教師達に一人も手をさしのべられることなく、絶望と恐怖の中逝ってしまいました。


これが学校の実態でした。許せないと私は怒りと悲しみでいっぱいです。
このような学校ではいじめの解決、根絶はあり得ません。




5. 裁判についての話をします。


どんなに時が経っても、時が経てば立つほど、何か心の中にぽっかりと大きな穴があいているような感じです。
それは、夫も同じですし、次男もまたそうだろうし、私の実家の両親もそうです。


孫の成長を楽しみにしていたそれぞれの親たちには、本当に人生の後半になってからこんな悲しい目に合わせてしまってと自分の親不孝を申し訳なく思っています。
夫は、勝己を亡くし、ここ三年の間に次々に両親を亡くしました。


小さい頃の勝己は夫のあとばかりついてまわりました。
仕事に行くとき毎朝、後追いして大泣きしていました。
だから、時々勝己を途中まで一緒に連れていき、安心させてからまた仕事に行くこともありました。


勝己はだれよりお父さんが大好きで、お父さんも勝己が大好きで、でもお父さんは大好きなものを次々になくしていきました。
時が解決してくれるというけれど、そんなものではなくて、やはり自分が、これからの生き方を勝己の喜ぶ生き方をしようとふるい立たせるしかありません。


勝己をあんな風にたったひとりぼっちで、苦しみながら死せてしまったこと、それは一生をかけて勝己に謝りたいのです。
勝己は小さい頃から元気が良くて友達のことで心配したことはありませんでした。


裸足で駆け回り、一時もじっとしていない勝己を見て「子どもらしい子どもだね」と、ほめられたようなけなされたようなことが何回もありました。


子どもらしい子ども・・・みんなそれぞれ違う子ども達が、違いを受け止め一人一人が大切にされる学校であれば、それを温かく見守る教師が周りにいたら、いじめはあっても解決できるし、細やかな情報が提供されていたら、親は命をかけてもわが子を守ってやることはできます。


私達は、勝己の生きているときも、死んでしまってからも、何も教えてくれない学校と真実を話さず謝罪もしない少年達に対し真実を明らかにしようと提訴しました。
それは何もわからなかったとはいえ、わが子の苦しみ、つらさに気づいてやれなかったせめてもの親の責任だと思います。


勝己が亡くなったその翌日十九日の一時間目、学校は三年生全員に「勝己君の死について」という作文を書かせています。
まだ私達の方は、悲しみと混乱の中で何がなんだか分からない状態の時、学校も右往左往しながらもちゃんと動いていたのです。


その作文があることはゾロゾロ焼香に来た教師の誰一人として教えてくれず、勝己の同級生の父親が教えてくれました。
校長に見せてほしいと何度も頼み、やっと学校で一時間ほど時間を決められて読むことができました。


しかし、途中で校長がストップをかけ、やはり三年生全員の作文を一時間くらいで読むことはできませんでした。


まず、遺書に名指しされた子ども達の八人の作文を急いで読みました。
それから勝己と同じクラスの子どもの作文に目をとおしました。


名指しされたうちのBとCの二人は、勝己が亡くなる前に、唯一九月十日の暴行がわかってしまったので、自分のせいで、勝己が死んでしまったことを気持ちのままに書いてありました。


勝己をこの世から、いなくしたのは、僕たちの目に見えない圧力のせいだと思っている。


今ぼくはすごく後悔している。なぜなら勝己君を死に追い込んでしまったからです。


しかし名指しされた他の少年の作文は次のようなものです。


ぼくは村方君にCDをもらったことがある。だからぼくはそのCDを村方君だと思って大切にしていつまでも持っていようと思います。
最後になるけど「勝己」今まで本当にありがとう、そしてさようなら。


村方君を誰が死に追い込んだのか分かりませんが、本当に残念です。


何故死ぬ必要があるのか、何故死んだのか、勝己君しか知っていません。


学校でもあまり話したりしませんでした。
村方君が死んだと聞いたときは信じられませんでした。
死んだ原因もいまだに分かっていないし、僕たちもこれからどうして良いのか分かりません。


勝己君とは三年間楽しいでした。


彼にどういう悩みがあったのか、知らないけど、親にでも先生にでも話をすれば良かったのに、でも人に話せないから悩むわけで・・・。


なんと白々しい作文なのでしょう。
勝己は自分の命と引き替えに遺書にこの子ども達を告発したのに、当人達は、全く無関係というところです。


まだ亡くなった翌日の朝のことですから、勝己へ凄惨な霜出事件は親の私達が知るはずはなく、死人に口なしというところなのでしょう。
怒りをとおりこしてあきれるばかりでした。
遺書に名前を書かれていない他の子ども達の作文は、きちんとありのままに書いてありました。


*三年になって勝己と三組でまたいっしょになった。
ぼくはその時初めて勝己がいじめられているのを知った。
ぼくはそれを見て見ぬ振りをしてしまったのだ。


*確かに僕も誰かに打たれているところを目撃した。
でも勝己は暗い顔もせずいつも話しかけてきた。


*彼は同学年のいじめっ子達に「はい」とか「すいません」などとぺこぺこ頭を下げていた。
そうしないと殴られたりするのだろうけど・・


*今までいじめみたいのにあっているのを見たことがあります。


*教室に帰ると、いじめたと思われる人達が集団で話をしていた。
「俺、あの時打っていないよ」などといろいろなことを話している奴らがいた。


 


これは同じクラスの子ども達の作文の一部分です。
担任は、裁判の証言の中で「いじめについて具体的なものはなかった。いじめに関わるようなものはなかった」と証言しました。
しかし、短い時間の中で読んだだけでもきちんとクラスの子ども達は見ていたことが分かりました。


この時初めて、生々しい、悲惨な勝己の姿が手に取るように見えてきました。
家で私の知っている勝己からは想像の付かないかわいそうな惨めなおどおどした勝己でした。


でも友達と一緒の時は本来の勝己に戻り、明るく楽しくしていたのでしょう。
涙があふれてきて文字が読めませんでした。
泣きたい気持ちを抑えて、心に残るものを急いでメモしました。


他のクラスの分も読みたかったのですが、校長先生は没収してしまいました。
「せめて、一晩勝己の仏前に」と頼んでも無理でした。
担任に頼んでも同じ事でした。


メモした作文を頼りにクラスの子ども達の話を聞き始めました。
子どもの人権を守る鹿児島県連絡会の協力で私達は、たくさんの同級生と親御さんの話を聞くことができました。


話をきいていくことは、私にとって辛い、身をきられるようなものでした。
でもありがたいことに、その中で十九人の同級生の方がこの時の話を陳述書として、裁判に提出することに、自分の責任であるとして、親御さん共々了承して下さったのです。
二人の同級生は法廷にも証人として出廷し、臆することなく堂々と真実を述べてくれました。




さいごになりました。


勝己がいなくなってからもう六回目の夏です。
勝己は夏の似合う子どもでした。
大好きだったスイカやメロン、ビワ、トウモロコシ、プラムや巨峰などの季節の果物を見ると、それだけで涙があふれます。


「お母さんはけちけちしないから、勝己の好きなだけ、食べていいから、どうにかしてでてきてよ。食べに来てよ」と、泣きたくなります。


田舎の祖母達も「かっちゃんがスイカを食べるから」と、孫のために楽しみにして毎年大きいスイカを作っていたのに、大きいスイカも作らなくなりました。


夏祭りのスイカの早食い競争や、コーラの早飲み大会でも優勝していました。
どんなところでも物おじすることなく夏を元気に飛び回っていました。


今年一月二十八日に判決が出ました。
提訴してちょうど四年目でした。
提訴するときは裁判するか、しないか、心は決まらず、次男のことを思い、両親のことを思い、そして我が身かわいさで本当に悩みました。


次男は「お兄ちゃんは遺書に”あいつらを恨んでやる”と書いたけど、死んでなにもできない。お兄ちゃんがかわいそう」と言いました。
小学校六年の子どもの言葉に私達は決心しました。


「美智子さん、何も考えなくていいのよ。勝己君のことだけを考えて」と、子どもの人権を守る鹿児島県連絡会の内沢さんが一言言いました。
勝己を亡くしたあの日からいつも私の近くにあたたかい連絡会の存在がありました。


もっと早く連絡会を知っていたら、学校に行かなくても良いんだということを知っていたら、勝己は、ここに生きていると思います。


あの時、私が学校であんなひどいいじめがあることを学校から知らされていたら、絶対休ませた。
でもあの時、私は勝己がいじめられていることを知らなかった。知らなくても休んでしまった勝己をそのまま受け入れて「学校を休んで良いんだよ」と無条件に受け入れていたら、勝己はここに生きていると思います。


 


勝己のような悲しい辛い子どもは二度と出してほしくない、私のような母親には絶対にならないでと皆さんに訴えたいのです。


子どもが「今日は学校に行きたくない」と言ったら「いいよ」と言って下さい。
私は、知らなかったとはいえ、休ませてやれずに「いいよ」と言えなかったばかりに、かけがえのないわが子を失ってしまいました。


なんといっても生きていること、この子にふれればあたたかい、声をかければ声が聞こえてくる。そんな当たり前のことがありがたいことだと思えるのです。


提訴してから私達は多くの方々に支えられて生きてきました。
そして昨年の五月九日に和解協議がありましたが、話し合いがつかず、最終的には少年達の謝罪文を読んで和解に応じるかどうかを決めるようにと裁判長の薦めがあり、六月十一日に持ち越されました。


しかし五人の少年達は勝己を死に追いつめたことを受け止めるどころか、逆に自分が勝己が死んでしまったことで迷惑を受けたような内容の現在の気持ちをつづった文書を提出し、とても和解に応じることはできませんでした。


また勝己の自殺に対して何一つの非も責任も認めようとしない町側とも当然和解はできませんでした。


そして長いようであっという間だった裁判も今年一月に判決を頂き、その二週間後に判決が確定をしました。
判決はほとんど私達の主張が認められており、同級生の陳述書や、同級生の証言のおかげだと改めて感謝しています。


勝己を亡くしてからこの年月は裁判だけを見すえて生きてきたように思います。
ですから、判決が確定してもほっとすると共に、むなしい、悲しい何とも言い表せないような気持ちになったことも事実です。


何か目標を失ったような、こんなに頑張ってきたのに、やっぱり、やっぱり勝己はもうどこにもいないんだなあ・・・ということがどーんとくい込んでくるような悲しみや寂しさに、今までの疲れとか、気がつけば年も取っていましたし、なんだか体も心もぐちゃぐちゃになっていました。


日常から逃げ出したくなりそうでしたが、夫と一緒に何回か勝己も好きだったこの霧島に遊びにきて山に登り、温泉にはいって帰るというささやかなぜいたくでのりきることができました。


私達を今まで支えてくれていた方達や近所の方達、職場の方達にだんだん「よかったね」、「区切りだね」、「今度は自分たちのことも考えて。きっと勝己君も喜んでいると思うよ」などと声を掛けてもらって、本当に私達は今は元気でいることができます。


勝己が私に命の大切さと、勇気を身をもって教えてくれましたし、すてきな大事な方達を引き会わせてくれました。私達をずっとささえてくれた方達は一生の大事な宝物です。


 


勝己の死がこんなにもたくさんの人達を動かし、いじめに大きな教訓を残そうとしています。
勝己もこのことを見つめていてくれると思います。


そして今日このようにたくさんの人達が私のつたない話を、聞いて下さり、本当に感謝しています。
今日はこのような機会を与えられて勝己も喜んでくれたと思います。
本当にありがとうございました。


2002年7月28日





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2004年の村方敏孝さん・美智子さんの手記はこちら →


内沢達の知覧中事件に関する陳述書はこちら →


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最終更新 : 2015.6.15
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