登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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20221222インタビュー(鹿児島市鴨池新町・内沢宅にて)

Hさん(25歳、大学2年)のお話


「フェーズ(段階、局面)で、課題が変わってくる」




──学校に行かなくなったのは?


13歳、中1の冬から。そこから一切行かなくなった。


──きっかけみたいのはあったの?


正直、この当時はズタボロで冷静な判断はできない。いま冷静に見るとおそらくいわゆる“燃え尽き”みたいな感じだったのかなと思う。


──どういう燃え尽きだったの? 勉強ができ、陸上競技も一生懸命だったと聞いたけど。


その両方だったかな。


──塾通いは大変だった?


そんなにめちゃめちゃやった覚えはない。週2とか。
テスト期間は毎日だった。いま思うとやり過ぎだったと思う。

本当に糸がぷっつり切れるような感じだった。

最初風邪になって、体調をくずして起きれなくなり、びっくりした。

過労死とかの話があるけど、人間って極限まで疲れたり、やりすぎると本当に動けなくなるんだ。身をもって体験した


──お母さん(みーやさん)、心配したでしょ。


どうだったんだろう。でも、親よりも自分のほうが危機感を持っていたと思う。学校に行けないことに自分のほうが行かなきゃみたいな思いがあった。親に行けと言われた覚えはなくて、自分のほうが行かなきゃと。なのに行けない。無理をしすぎると人ってこうなるんだ。文字通り身体が動かない。一応生きているんだけど、人間らしい生活ができない。起きて時間が経つのを待つだけ。一日、なにもできない。文字を見られない。ペン・筆を持てない。


6年から7年、学校というものからまったく離れていた。

開陽高校通信制に行くのは、ずっと後の話。

その間、フェーズ、期が分かれている。
最初の中1から1〜2年の期間は本当に文字通り動けない期間だった。

生活もできないくらい、消費行動のみ。できることはご飯を食べる、トイレに行く、寝る、テレビ見る、それくらい。何かをする、したという記憶は一切ない。


──熱帯魚を飼っていたのは?


それはもっと後。


──以前、お母さんから聞いたけど、陸上競技場で走ったりしたのは?


それは中1の冬休み中のこと。持久走大会もあるし、冬休みがあけると学校に行けると思って練習していた。けど、心と体はちがっていたみたい。思っているのとちがった。冬休みの頃はまだ学校にもどれると思っていたけどちがった。


──お母さんの働き過ぎを心配した時期があったでしょう。


それも、もっと後。


──カードゲームをやっていたでしょう


何もできない期間をへて、最初にするようになったのはカードゲーム。
カードショップの店舗大会に行ったりした。


──熊本の大会まで行ったとか


それはずっと後ですね。


──19歳頃から楽になったの?


楽になったということではない。
何もしていないときは、自分をどうしても責める。その思いは消えることはない。
痛みはないけど傷はあるみたいで、ずっとあった感じ。


──以前はめちゃめちゃ自分を否定した時期もあったでしょ。


いまはその点で悩むことはない。フェーズが変わっているので、悩みのテーマ、課題も変わった。当時で悩んだことは今はない。それはもう終わったことだ。



──
どうして開陽高校通信制に行く気になったの?


学校に行けなくなってから、三つ期間があって、最初の思考するのも無理な、まったく動けない期間から、二つ目真ん中は回復みたいな期間があって、三つめ最後は準備期間みたいな感じかな。後のほうになっても、じつは学校に行かなきゃという思いがあった。自分の将来を見たときに、お金を稼いだりして生きていかなきゃいけない。バイトするでもいいんだけど、いきなりバイトはその当時の自分にとってハードルが高かった。


もっと手軽なところから将来に役に立つことをしたいなと思った。すぐに働くことや学校に行くことは怖かった。回復期間に勉強しようかなと思って少しやったけど頭が痛くなって続かなかった。文字を身体が拒絶していた。だから、学校に行っても、またもう一回同じように繰り返してしまう、もとにもどっちゃうと思った。そこで先のバイトや学校のことではなく、その手前の段階を徐々に詰めていこうと思った。



自分の場合、回復期間と準備期間の最大のちがいは外に出ているかいないか。カードゲームをやって何が変わったかというと外に出るようになった。一人でそのゲームはできないので、カードショップの大会などに行くようになった。


それで外には出るようになったけど、次に何ができるんだろうか、と考えた。やはりいきなり働く、学校に行くことは怖く、むずかしかった。じつはカードゲームと開陽通信制の間に、自動車学校に通った。座学にも耐えられ、そんなに苦もなく免許が取れた。それで軽いものならできるだろうと思えるようになって開陽通信制に行った。私立通信制もあったが、お金の面や途中でやめる可能性も考えて公立の開陽にした。続けられなくなって途中でやめてもいいし、また働いてもいいし、進学してもいいということで開陽にした。じつは、初め開陽を修了できるとは思っていなかった。


──ところで、その途中とても辛かったときに、「僕はお母さんが帰ってきたときには死んでいるからね」と言って、でもお母さんは振り切って買い物に出かけたことがあったよね。


ありました。そうとう序盤、最初のほう、中学の時ですね。


──「夜明け前の闇」という見方について、どう思いますか?


その見方もわかるけど、たぶん僕はいまも現在進行形で、闇は明けていないんだろうな。「生きているうちは闇」だと思っています。今は「死にたい」ということはあまりない。けど、また別のテーマ、課題にぶつかっている。動く前はなんで自分は動けないんだとか無力感とか葛藤みたいのがあったけど、動き出して今度は人間関係の問題が出てきた。


うまく行かないとか、どこまで行っても、人とのかかわりで孤独じゃないんですけど、違和感とか……いま、自分にとってテーマになっていることがある。いまは活動できているけど、落ち込むことがあるし、最近も雨の中をずっと傘もささずに濡れて帰ってきたこともあった。


──
開陽高校通信制では、生徒会活動もしましたね。


スクーリングが日曜日、月曜日で、月3〜4回行っていた。それ以外に水曜日が生徒会の活動日で毎週行っていた。9月入学後、文化祭があって文化祭実行委員をまずした。たぶん帰属意識がないとやめてしまうのではないかと思って始めた。生徒会役員の仕事は、イベントの企画・運営、新聞づくりとか。入学式のときの新入生の歓迎行事とか。ミニゲームをやったりした。行事はたのしかったけど、人間関係は必ずしもたのしくなかった。人間関係はむずかしい。


──大学へは?


大学法学部に進学した。高校の在籍期間は通常3年以上なのに、その時点で9月入学の自分の場合、2年半だった(大学入学資格基準が弾力化している)。もう1年かけて鹿大を、とも思ったけど、年齢のことも考えた。また受験勉強にはあまり意味ないと思った。それだったら実践的な知識のほうが欲しいと思った。大学ブランドでは考えなかった。心理と法で迷ったけど、心理は後からも学べるし、実際的な力をより多く発揮できるのは法律のほうではないかと思って選んだ。


──
大学でも活動してるね。それはどうして?


学生会の役員を1年からしている。じつは開陽高校の生徒会役員は人間関係など、失敗したと言ってもいいくらいだ。だから社会に出る前に、失敗できるのも最後のチャンスだと思って、自分の膿をつぶすために始めた。


──いまは楽しいですか


まあ、全体としては前よりは全然上ですね。
まわりのみんなも大人です。



(ありがとうございました。Aさんは、2023年3月例会に参加され、みなさんからのたくさんの質問にも丁寧に答えていただきました。インタビューと合わせて感謝し、お礼を申し上げます。)







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初出:2023.7.8 最終更新: 2023.7.12
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