登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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5日前、
2020年12月23日に、同月の例会資料
「自分が幸せになる、自分が自分の主人公、自分を大切にするレッスン」
をアップしました。

そう言えば、別の文章ですが、1年前の2019年12月例会でも、僕の文章を紹介しています。
ところが、2020年2月下旬の鹿児島・仮説実験授業研究会に向けて加筆はしたものの、
そのままにしていました。

そこで、たいへん遅くなりましたが、ここに紹介します。

僕は、ノンフィクションライター・渡辺一史さんの「自立」についての考え方に触発されました。

僕らは、不登校やひきこもりのわが子に支えられていないでしょうか。
そして、僕らが「自分が自分の主人公」になったとき、不登校やひきこもりのわが子を本当のところ支えることができるのではないでしょうか。


では、ご覧ください。


2020/12/28
 内沢 達




「自立」について捉え直す



2019/12/15 (2020/2/18 加筆)

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)月例会資料 





 いい本と出合い、「これは刺激的な本だ。新しい世界が広がっていて、是非紹介したい」と思って、実際講習会や講演のときなど何度か話させてもらったが、怠惰な僕は文章にしないまま1年近く経過することに。いつもなら、そのまま推移すること請け合いだが、2019年11月末の朝日新聞の記事のなかに、「いい本」と同趣旨のものを見つけ、忘れかけていたことを思い出した。これはやはり文章にしておきたいと思って書いたのがこの一文である。


 僕がいいと思ったからといって、他の人もそうとはもちろん限らない。でも、みんながみんなではないにしても、多く人にいい話と共感してもらえるのではないかと思って、以下、紹介させていただく。僕は、障害の重い人たちや若年性認知症の人たちの「自立」についての考え方から、とても大事なことを学んだように思う。そこには、障害の有無などにかかわらず、誰にとっても大事な「自立」についての新しい考え方が示されていると思う。


 僕が出合った「いい本」とは、ノンフィクションライター・渡辺一史(かずふみ)さん原案の『こんな夜更けにバナナかよ』(文春文庫、2018年12月刊)である。この本は、大泉洋・高畑充希・三浦春馬らが演じた同名の映画(監督:前田哲)の脚本を小説化したものだ。映画も小説も、とてもよかった(この映画で、僕は前から好きだった大泉洋をいっそう好きになった。高畑充希も役者として評価するようになった)。この文庫カバーには「鹿野靖明、34歳。筋ジストロフィー患者で、一人では寝返りも打てない。だけど、自由に生きたい! 自ら集めたボランティアに支えられて自宅暮らしはわがまま放題。バナナが食べたくなったら、たとえ真夜中でも我慢しない。病院で、ただ生きているだけなんて、意味がない。そのわがままは命がけだった。実話から生まれた映画のノベライズ。」とある。さて、注目していただきたいのは、この文庫の後書き(「“愛しき実話”の背景」)のなかで、渡辺一史さんが次のように述べていることである。



 「大切なことは、自立生活をする障害者たちが、『自立』という言葉に、従来の自立の概念をひっくり返すような新しい意味・主張をこめたことだ。

 それまで自立というのは、他人の助けを借りずに、自分で何でもできること(身辺自立という)、あるいは、自分で収入を得て自分で生きていくこと(経済的自立という)を意味していた。

 しかし、そうではなく、自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めること(自己選択・自己決定という)、そのために他人や社会に堂々と助けを求めることである。そして、どんなに障害があっても、他人の助けを借りながら『自立』して暮らせる社会は、どんな人にとっても安心して生きられる社会のはずである──。こうした『自立観』の大きな転換は、健常者の生き方をもラクにし、豊かにする大きな価値観の転換をもはらんでいた。」


 いかがか。ここに、「自立」についての新しい考え方、「自立」観の大転換がある。渡辺さんは、同じく2018年12月に刊行された自著『なぜ人と人は支え合うのか ─「障害」から考える』(ちくまプリマ―新書)のなかで、従来の考え方では、とても重い障害を持っている人は「一生自立できない人」になってしまう、「そうではなくて、自立というのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり、そのために他人や社会から支援を受けたからといって、そのことは、なんら自立を阻害する要素にはならない」とも述べている。従来は「他人の助け」の有無を基準にしていたが、新しくは「自己選択・自己決定」がもっとも重要なことになり、そのために「他人や社会に堂々と助けを求める」ことは「自立」のうちに含まれる。


 ところで、「自立」の意味について普通はどのように捉えられているのか、国語辞典をいくつか開いてみた。すると、他(他人)の助け(援助)なしに…とか、自分の力で…とか、なかには自分「一人」の力で…との説明まであった。それではやはり、障害が重い人などをそもそも「自立できない人」と見なすことにもなり、問題ではないか。他方で、国語辞典には、「他の支配なしに…」「他への従属から離れて…」といった説明もあった。渡辺さんが述べている新しい「自立」観は、そのあたりを徹頭徹尾、主体的にとらえ直したもののようにも思われる。


 『こんな夜更けに』の主人公・鹿野靖明さんは、たくさんのボランティアに支えられる存在だけではなかった。他方で多くの人を支えてもいた。鹿野さんは、ボランティアを支えていただけでなく、『こんな夜更けに』の読者や映画を観ていた人たちをも支えてくれた。僕もとても大きな力をもらった。


 不登校やひきこもりについても同じようなことが言えるのではないか。不登校であろうかなかろうが、ひきこもっていようがいまいが、誰もがみんな互いに支え合っている。初めはなかなか気づかないが、僕らはじつは不登校やひきこもりのわが子に支えられている。僕らが、不登校やひきこもりについて否定的な見方を改め、「自分が自分の主人公」になった(つまりは「自立」した)とき、本当のところわが子を支えることができる。そして、当人もいまの自分を認め受け入れられるようになって、「自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決める」ようになることが本当の「自立」というものではないか。そうではなく、世間の「常識」に縛られた、とにかく学校に行けるようになればいい、あるいは家から出られるように、そして働けるようになりさえすればいいといった見方・考え方は、自分が主人公の「自己選択・自己決定」の自立からほど遠いのではないか。


 そもそも「身辺自立」や「経済的自立」だって、誰の場合であれ、じつは人と人の支え合いなしには考えられない。僕らは誰ひとりロビンソン・クルーソーではないし、いま現在、僕が年金生活者である事実ひとつとっても、それは明らかではないか。


 以上のように、渡辺一史さんの本との出合いから、いろいろと考えるようになった。でも、初めに述べたように文章化はほとんど放棄していた。それを思い止まらせくれたのが、2018年11月30日付け朝日新聞・土曜版「フロントランナー」の記事だった。


 そこに丹野智文(たんのともふみ)さん、1974年宮城県生まれ、45歳の紹介があった。丹野さんは、自動車販売会社(ネッツトヨタ)のトップセールスマンだった。30代半ばから顧客や同僚の名前や顔を忘れることが多くなった。39歳のときに若年性アルツハイマー型認知症と診断される。その後営業職から事務職に異動し、勤務を続けながら、2014年からは講演で全国を回るようになる。よくしゃべり、よく笑って、認知症のイメージを180度変える人だという。2015年からは当事者による、もの忘れ総合相談窓口「おれんじドア」代表を務めている。


 この記事によると、丹野さんが大きな影響を受けたのは、2016年のスコットランド訪問とのことだ。スコットランドでは、若年性認知症の人たちは「家族に守られる」のではなく、「自立」していたという。集まりに家族の同伴なしに、自分の意思でGPS(全地球測位システム)をつけ、一人で来ていた。「症状が進んでも自分のことは自分でやりたい」と言っていた。対して、日本の場合は、当事者や支援者らが集まる会合で、当事者の弁当を家族が持ってきて、はしを袋から出して渡す。当事者の代わりに家族が発言してしまう。…… 「自立とは『すべて自分一人でやる』という意味ではありません。周りの人やIT機器の助けを借りて生活すればいいのです。僕も、予定をすぐ忘れてしまうので、(中略)スマホのアラーム機能を使い、5分前に『出かける時間だよ』などと文字と音で知らせてもらう。そうすれば全く問題なく生活できます。忘れることを気にしすぎなんです。道がわからなくなったら、通行人に聞いて目的地に着けばよい。」などと。


 「自分のことは自分でやりたい」。自己選択・自己決定の考え方があればこその言葉だ。「自立とは『すべて自分一人でやる』という意味ではありません。」周りの助けを借りて生活すればいい、というのも渡辺さんが述べている「自立」観と同じだ。


 丹野さんの紹介記事の最後は次の通り。
 「確かに症状はあって大変だけど、今は『それはそれでいいかな』と思えるようになった。いろんなことを、そのつど乗り越えてきた。よく妻に言われます。『あなたの生きる能力はすごいね』と。僕は選んだのは、認知症を悔やむ道ではなく、認知症とともに生きる、という道なのです。」


 不登校やひきこもりも同じではないか。そのことを悔やむのではなく、認め受け入れ、ともに生きて行こうとすることが本当の「自立」への道だと思う。(了)







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初出:2020.12.28 最終更新: 2020.12.28
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