登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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2020年12月20日の月例会で紹介しました。当日の資料としては、A4・5枚になりました。

結構な分量なのに、中見出しが一つもありません。それで、タイトルが長くなっていますが、そこから内容についても見当をつけていただけましたらと思いました。

そんなに「自分」「自分」って、どうなのかな? と思われるかたがきっといらっしゃると思います。でも、無意識のうちに自分を二の次、三の次にしているかたが大人、子どもを問わずとても多いように思います(かつて僕もそうでした)。

「自分を大切にする」ことは、言葉では誰でも知っていますが、それこそ自分の場合はそれがどういうことなのか、それほど自明なことではありません。最後に出てきますが、いつも予想を立てて取り組みをおこなうと、それがはっきりしてくるように思います。

そうした取り組みを続け、自分がまっ先に幸せになっていくことが、家族や他の人たちのためにも、自分ができる最善のことだと思いますが、いかがでしょうか。

ご覧ください。(2020/12/23)



自分が幸せになる、自分が自分の主人公、自分を大切にするレッスン


  「ドラマ こもりびと」 と 板倉聖宣さんの発想法


2020/12/20

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)月例会資料 内沢 達




 このところNHKのひきこもりについての番組が目立つ。NHKスペシャル、プロフェッショナル、クローズアップ現代など。NHKスペシャル「ドラマ こもりびと」(11/22放送、11/24再放送。出演:松山ケンイチ他)は、ひきこもり体験者の貴重な話もありとてもよかった。武田鉄矢が演じた父親のありようは特別ではない。ひきこもりのわが子を持つ親の多くの心情と共通している。


 「子どもはもちろん、親も教員も誰も悪くありません。不登校や引きこもりは、じつは見方・考え方の問題がほとんどです。固定観念をあらため、肯定的な受けとめ方ができるようになるとちがってきます。」これは、私たちの会のHPのトップページにある一文です。


 武田鉄矢が演じていた父親も、彼が悪かったから息子(松山ケンイチ)がひきこもりになったわけではない。しかし、なってからが問題だ。ひきこもりなんてとんでもない、なんと恥ずかしいことかといった見方から、当然のように説教を繰り返し、小言を並べ立てる。そうしたことがわが子を深く傷つけているだけでなく、自身をも不幸せにしている。


 ドラマで、父親は孫娘のすすめもあって、当事者の会に参加する。そこで、ひきこもり体験者から話を聞くことになるが、父親の最初の質問は、「家族から声をかけられて励みになった言葉があれば、教えていただけませんか」というものだった。どうして父親はこの質問を思い至ったのだろうか。自分が今まで口にしてきたようなひどく否定的な言葉はよくないが、そうではない、子どもにいい「励まし」の言葉があるとでも思ったのだろうか。しかし、体験者の答えは、「励みになった言葉はなくて、(すべて)責められている感じがした」というものだった。親子の関係を悪くするのは、「お前はなにもしないし、しようとさえしないダメ人間だ!」といった明らかに否定的な言葉だけでない。「お前ならできるし、やれる!」といった、一見肯定的で前向きな感じの言葉も子どもを傷つけ、関係を悪くする。子どもは言われるまでもなく自身そう思っていた。ても、やれていない、そういう自分がみじめに思える。やさしそうな理解のありそうな言葉のほうが、ときにいっそう罪深い。


それにしても、子どもにああしろ、こうしろと指図、説教したり、それがうまくいかないと今度は励まそうとしたり、いずれにしても一生懸命子どものことにかかわろうとする親御さんが少なくない。そこには、子どものことを思ってのことだから、そもそも悪いことであろうはずがないという思い込み(固定観念、先入観)がある。他の選択肢がなければ仕方ないが、あるにもかかわらず、そうしたやり方に囚われ続けるのは、子どもに対してはもちろん、自分自身にも本当によくない。


 視野をもっと広げることが大事ではないか。今まで見えていなかったことが見えてくようになる。これまでもたくさん紹介してきたが、板倉聖宣さん(1930〜2018)の発想法は、今まで見落としていたことや気づいていなかったことの気づきを促し、とても参考になる。


 そのひとつが「親切とおせっかいとは紙一重」というものである。誰しも、ひとの親切はうれしいがおせっかいは嫌だ。したほうは親切のつもりかもしれないが、されたほうはそうは思えなく、たまらなく嫌だということも少なくない。それが親切なのか、はたまたおせっかいなのかは「実験で決めるよりほかない」と板倉さんは言う。してみて喜ばれたら親切だが、そうでなかったらおせっかいだ。したほうの思いでは決まらない。おせっかいな人は相手に喜ばれなかったとき、「ひと(他人)の親切も知らないで!」と勝手に腹を立てたりもするが、それは親切の押し売りもはなはだしい。板倉さんは、善意の人が一番怖いという。自分が善意だと思っていない人はあまり無理なことをしないが、善意だと思っていると押しつけを平気でやるようになる。この発想法は「悪事は善意から」と言い換えることもできるという。親の場合も同様だ。わが子によかれ、わが子のためを思ってという「善意」が「悪事」を招いていることに気づかねばなるまい。


 いま述べたように勝手に親切だと思い込んでいたことがおせっかいだとわかったときは、それを止めなければいけないが、家族のなかでも親切はもちろん大切だ。そして、親切は他者に対してだけでなく、じつは自分自身に対してとても大切なものだ。アラン『幸福論』に「自分に親切になる」とある。「ひと(他人)に親切」は誰もが知っているが、自分自身に対して意識することは稀ではないか。「自分に親切」とは、自分にもっとやさしく、自分をもっと大切にしたほうがいいということだ。私たちの会の月例会は、参加者がどれだけ自分を大切にするようになったかを交流の主なテーマにしてきている。


 親が自分のことを二の次、三の次にして、子どものことに一生懸命になるのはよくない。説教したり励ましたりしても、結果、思い通りにはもちろんならずに、気分を一番悪くしているのは、そういうおせっかいなことをした親自身である。それでは自分を大切にしているとは言えない。子どもに対しても、親の不機嫌は自分のせいだと思わざるをえなくさせ、いいことがない。詳しくは拙文「子どもの『ために』ではなく、子どもの『立場で』考える」をご覧いただきたいが、「子どものため」はそう思い込んでいるだけで、実際は子どものためになっていないことが多い。そうではなく「子どもの立場」に立って考えることがとても重要だ。子どもとのいい関係を望むのであれば、それは欠かせない視点だ。


 板倉さんの発想法は、他にも「少しの知識が役に立ち」「ビリッかす 向きを変えれば先頭に」「できないおかげで できもする」「いい加減はよい加減」「つまらぬ自分 素敵な自分」など、普通否定的に思われがちなことについても、そうとは限らないどころか、そこにはとても大事な価値があることを気づかせてくれる。


 「どちらに転んでもシメタ」という発想法もある。Aか非Aか、普通は一方がいいに決まっていて、もう一方はよくないと考えられがちだが、いろんな角度から確かめてみるとそうとは言えないことが多い。AにはAの、非Aには非Aのよさがある。どちらか一方だけでなく両方ともいい。その一方の、たとえば子どもが不登校ではなく元気に学校に通うこと、ひきこもりではなく社会で活動、活躍することなど、もちろんいいことだ。そうしたいいこと「なのに」、なぜあなたは、親が一生懸命になることを否定するのか? と思われるかもしれない。そこで、また別の発想法の紹介になるが、「『なのに』と言ったら『だから』」である。いいこと「なのに」ではなく、いいこと「だから」こそ、それを子どもに押しつけ、強制してはならないのである。強制するといいことも反対の、そうではないものになってしまう。


 私たちの会は、大人も子どもも「みんな自分が自分の主人公」というHPの標語にも明らかなように、自分のありようは自分が決める、各人の自由や自主性、主体性を重んじてきた。押しつけや強制はそれに反していて、私たちの選択肢にはない。親から子への押しつけがよくないだけでなく、子から親へのそれもよくない。子どもはときに無理難題を親に求めることがあるが、それは辛さを表しただけで、真に受けてはならない。子どもは親の言いなりになってはならないが、親も子どもの言いなりになってはならない。子どもは子どもで自分の人生を生きてゆく。学校に行くか行かないか、よく勉強するかしないか、ひきこもりから脱するか脱しないか、それらはすべて子どもの課題で親の課題ではない。子どもが自身で判断し、行動に移すときは移していけばいいことである。親に限らないが、人は自分次第でどうにかならない他者のことに一生懸命になっていいことはない。


 一生懸命になりたければ、子どものことではなく、親は自分のことに一生懸命になったらいい。課題はたくさんある。自分の人生を主人公として生きる、ということが私たちの会の最も大きなテーマだ。少し具体的にすると、たとえばまわりの声や視線が気になって、自分を見失っていることがないだろうか。じつは、私たちも他人の立場に立てば、すぐに了解することだが、他人は他人のことに当人のような関心はない。にもかかわらず、「自分はよく思われていない」と自分をだまし、他人の評価そのものではなく、自分が勝手に描いた「他人の評価」におびえることがある。板倉さんは、こうしたことについて「最後にだますのは自分」と注意を促し、他人の評価の「影」におびえないことが課題だと言う。他にも、「仕事人間」「会社人間」のままでいいのか、「よい」嫁・妻・母といった圧力に負けていないか、夫婦(一人)で週末などを楽しんでいるか、生きていく力になる「勉強」を大人こそしているか、などなど、課題はつきない。


 私たちの会では「不登校やひきこもりのわが子に感謝したい」という親御さんが大勢だ。「初めは困った問題だと思ったけど、ちがった」「わが子のおかげで大事なことに気づけた」「自分を大切にするようになり、毎日がたのしい」など。親が生き生き元気にしていることは、子どもにとっても心地よく、家庭での子どもたちへの何よりの応援ではないか。アラン『幸福論』は、「われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである」と述べている。「子どものため」を言うのであれば、親が自分のことに一生懸命になって幸せであることこそが本当に子どものためになる。私たちの会は、きっとめずらしい会なのだと思う。不登校やひきこもりを否定的に見ないどころか、明るい話だとまで言う。今まで見えていなかった世界が見えるようになったのだから明るい。そうした見方を知らない人たちからは「子どもが不登校(ひきこもり)なのに、親が笑顔でいられるなんて、信じられません」などと思われているかもしれない。いま現在、私たちのような見方や考え方をするのは圧倒的に少数派にちがいない。けれど、自分が幸せになることに気兼ねや遠慮がいらないことは当たり前だ。板倉さんの発想法には、「一人の百歩が百人の百歩」というのもある。少数派の私たちがまっ先に幸せになったらいい。その先、しばらく時間はかかるだろうが、私たちの考え方がやがては普通になっていく。


 「ドラマ こもりびと」での父親の二つめの質問は、「外に出てみようと思われたきっかけは何だったんでしょうね」というものだった。体験者はこれに「両親が変わったこと、外に出ようが出ないだろうか、そのままでいいという空気感ができて、ある時、あっ、出てもいいかな(と思った)」と答えた。「外に出ようが出まいが」は「どちらに転んでもシメタ」の発想法と共通する。「そのままでいい」は端的な表現で、僕のとても好きな言葉だ。


 30年ほど前だが、僕は相田みつをさんのベストセラー『にんげんだもの』のなかに「そのままでいいがな」を見つけて、うれしくなった。また、2013年公開の『アナ雪』の主題歌「Let It Go〜ありのままで〜」にも触発された。親だから、教員だから,そして子ども(〇年生、中〇、高〇)だから「〇〇しなきゃいけない」「〇〇でなくちゃいけない」なんてことはそうあるものではない。ところが、そうしたことに大人も子どももどれほど縛られていることか。『アナ雪』のように、「ここままじゃダメなんだと、戸惑い傷つき悩んでいた」と。でも、歌詞は「それも、もうやめよう。ありのままの姿見せるのよ。ありのままの自分なるの」「悩んでいたことがうそみたいね。だってもう自由よ。なんでもできる」「ありのままで」「これでいいの。自分を好きになって」「自分を信じて」などと続く。不登校やひきこもりはいけないというのは、やはり思い込み、偏見だ。「そのまま」や「ありのまま」を認め受け入れることが本当の自信になり、生きる意欲につながっていく。


 ところで実際場面では、「きっとそうだろう、まちがいない」と思う自分もいれば、いや待てよ、本当にそうかなと疑問に思う「もう一人の自分」もいる場合が少なくない。つまり私たちはよく迷う。そうしたとき、どうしたらいいか。いや、迷いがないときでも意識しておこなってほしい、とても大事なことがある。それは、自分自身の取り組みについて、それをおこなう前に必ず、これをすると「自分が気持ちよくなれそうかどうか」予想を立ててからおこなうことである。板倉さんの発想法には「予想たてると見えてくる」とある。予想を立てるとまず「そんなことは考えるまでもない」と思っていたことについても、「あっ、そんなふうに考え思っていたんだ」と自分をあらためて知ることにもなる。そして、予想しなかったときと比べて、結果から得られるものが格段にちがう。自分が「気持ちよくなれそう」と予想した通りだったとき、自分の考え方や取り組みについて一段と自信を持てるはずだ。そうした取り組みは続け、さらに気持ちよく笑顔になっていったらいい。そうではなく予想通りにならなかったとき、いいと思ったのにそうではなかった結果が出たのだから、自分の取り組みは見直すことになる。でも、それは他から迫られたからではない。自分自身で確かめた結果からだ。


 先に「親切とおせっかい」のところでも「実験」という言葉を紹介したが、板倉さんは「自分の立てた予想や仮説の当否を検証する行為すべてが実験」だという。この予想を立てて実際におこなって確かめるという「実験」精神は、「自分が自分の主人公」であることに寄与すること大である。きっかけに他の人のすすめがあったとしても、その取り組みを選択し実際にやってみようと思ったのは他ならぬ自分自身だ。そしてその取り組みについて、よかったのかどうかの判定も自分の実験結果しだいである。是非の評価は権威や多数決では決まらない。どれほど専門家がすすめ、多くの人が大切だと言っても、本人が気持ちよくなれなかった取り組みは、以後続けてはならない。自分のためになっていないことが、子どものためになるはずもないことは言うまでもない。


 自分の予想通りにならなかったとき、取り組みについての見直しはもちろん必要だが、「自分はまちがっていた」とまでは考えない。「予想だからはずれることもある」くらいでかまわない。問題は一度ならず二度も三度もというように、はずれた予想の取り組みを繰り返すことだ。どうして自身で、自分の気持ちを害し続けるのか。それは「自分が自分の主人公」ではなく、はずれた予想や適切でない取り組みが「主人公」になっている状態だ。実験結果は出ている。答えは自分が出している。予想を立てたのが自分なら、予想を変えるのも主人公である自分だ。板倉さんは、予想変更は裏切りではなく、自分の進歩に飛躍をもたらすと言う。それは当初の自分の予想にはなかった、新しい世界に入っていくことでもあるから、確かに飛躍が期待できそうではないか。


 このようにいつも予想を立て、実験(実践)しながら確かめていく。それは、自分を大切にするレッスンでもあり、自分が気持ちよく、笑顔や幸せになっていくもっとも確かな道ではないだろうか。参考にしていただきたい。(了)





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以下、関連のページを紹介します。



板倉さんの発想法を多用した
「ことわざ・格言と登校拒否・引きこもり」 は こちら


「つまらぬ自分 すてきな自分」 は こちら



「つまらぬ自分 すてきな自分」については、
「ダメを認められるようになると、もうダメじゃない」もご覧ください


「なのに」と言ったら「だから」や、予想変更のことなど、22周年集い講演「自分が自分の主人公!」もご覧ください


「どちらに転んでもシメタ」 は こちら


「ことわざ・格言」を知って世界を広げ、自分にもっと自信を持とう!
中学生への講演「たのしく学び たのしく生きる」 は こちら


2019年12月の例会資料 「『自立』について捉えなおす」 は こちら




初出:2020.12.23 最終更新: 2020.12.28
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