登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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(内沢 達)

親の会 2012年1月例会(16日)での発言に加筆しました。

まず、その発言のきっかけになった2011年12月27日付け『朝日新聞』の次の記事をご覧ください。

「100万人のうつ」連載10回目。
細川貂々(てんてん)さん、望月昭さん、千歳君、3人の素敵な家族写真を載せ、タイトルは、
「治らなくていい」で治る でした。



ドラマや映画にもなった漫画「ツレがうつになりまして。」(幻冬舎)。著者の細川貂々(42)は今、「ツレ」の望月昭(47)と一人息子千歳(3)の3人で穏やかな生活を送る。6年前までは、壮絶な毎日だった。

2004年1月、サラリーマンだった望月がうつ病を発症。半年後、看病疲れがたまった細川は、言ってはいけない言葉を口にしてしまう。「入院しろ。治るまで帰ってくんな」。その直後、望月は風呂場で自殺を図る。細川は、後に日記を読んで初めてそのことを知った。

夫の調子の波に合わせて一喜一憂していては、自分が持たない。「家族は『患者が一番』と思いがちだけど、あえて『自分が一番』と思うようにした」。細川は夫が寝ている部屋の隣で韓国ドラマ「冬のソナタ」を楽しんだ。

2年以上が過ぎても、病状は一進一退を繰り返す。いつ治るのかなって思うからつらい。いっそのこと一生このままでいい、と思えば楽になれるかも。

2006年秋、細川は夫に告げた。「治らなくていいよ。治らない方が、前より幸せだから」。そう言われた途端、症状は回復に向かった。望月は「それまでは、治そうと焦っていたんだと思う。諦めたらすごく楽になってスーッと良くなった」と振り返る。その年の暮にはすべての薬をやめることができた。

望月は今でも調子を崩すことがある。しかし、物事に優先順位をつけられるようになり、諦めることを覚えた。もう、恐れるものはない。




「ダメ」を認められるようになると
 
もう「ダメ」じゃない



内沢 達


「治らなくていい」で治る。
この記事の見出し、なんとも逆説的で、教訓的です。

僕の書いた文章に「“しない”と“する”ようになる」というのがあります。
それは、ルソーが「なにひとつしないですべてをなしとげる」と述べていたことを僕なりに具体化したものです。

「ツレうつ」の場合は、老子の「無為」の考え方でした。
「無為にして為さざるは無し」。
なにも為さないで、なんでも為してしまう(ルソーとよく似ています)。
辛いうつを治そうとしない、これを認め受け入れる「あきらめ」がなんと「治る」につながっていました。

ツレの望月昭さんは「心構えとしてしっくり来たのは『老子』だ。何もしないのが一番よいという思想は、うつ病のときの闘病姿勢と同じかもしれない」と述べています(『こんなツレでゴメンナサイ』文藝春秋、2008年、文庫版は2010年)。

妻の細川てんてんさんは、考え方を切り替え自分のことに一所懸命になっても、ツレには特別なことはなにもしていません。ツレが会社を辞め家計は大変だったでしょうが、自分は幸せだと気づきます。

『ツレがうつになりまして』(幻冬舎、2006年、文庫版は2009年)には、「誰か家にいるっていいな」「話しかけると返事してくれる相手がいるっていいな」とも記しています。

新聞記事と同じ趣旨ですが、てんてんさんは「よくならなくちゃと、こだわっているうちはまだ治っていない。“一生このままでもいいや!”と思えたときに、生きるのがラクになるのかもしれないね」と述べ、ツレも「僕も“ちょっと調子が悪いくらいがちょうどいいんだ”と受け入れてから、調子がよくなった」と振り返っています(『うつにもいろいろあるんです』オレンジページ、2011年)。

『ツレうつ』のおわりのほうに「ありのままを受け入れる」というページ見出しがありました。てんてんさんやツレが作為的なことはしない、「無為」でいられたのも、二人がその時の「ありのまま」を認め、肯定できたからです。

ルソーは「あるがままで満足している人はきわめて強い人間だ」と言い、老子は「足るを知る者は富む」と言っています。本当の強さ、豊かさって何なのか、考えさせられます。

普通だと否定的に見られますが、じつはそうではない。
いま現在の自分のどんな状態も、間違いなくかけがえのない自分自身のありようの一つだと、これを「ありのまま」に認め受け入れられるようになるとちがってくる。
よい変化も起こってくるのではないでしょうか。

『ツレうつ』の続編『その後のツレがうつになりまして』(2007年、文庫版は2009年)の「あとがき」に、ツレが次のように書いています。

「人はどんなときであっても、自分の“生きざま”を誇れるのだとわかった。・・・要領が悪くて・・・転んだり失敗を重ねたり、“ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて”も、その人の口から“自分のことを誇りに思っている”と言われたら、みんなその人が“劣っている”とはもう思えないだろう。低調なときに、自分自身を誇りに思うことはむずかしい。特にうつ病のようなクヨクヨする病気のときはなおさらだ。だけど、それでも、病気の人も周囲の人も、そのことを誇っていいのだと思う。そういう世の中にしたいから、僕は病気になった自分自身を誇りに思う。」

そう考えられるようになったきっかけのひとつでしょう。ツレは同書の「つぶやき」のなかで、宮沢賢治の童話『どんぐりと山猫』にふれています。

これは、どんぐりたちが「一番えらいのは頭がとんがった私だ」「いや丸い私こそ一番えらい」「ちがう大きい私だ」「いや背が高い・・・」といった言い争いを止めず、困っていた判事の山猫に主人公の一郎がアドバイスしておさめていく話です。

一郎の助けを得て、山猫はどんぐりたちに申しわたします。
「このなかで、一番えらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、頭のつぶれたようなやつが、一番えらいのだ」と。
ツレの「あとがき」の表現の一部はここからきています。

人間誰しも普通、自分が「ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていない」とは思えないものです。

でも、板倉聖宣さんの発想法のひとつ、「ちっぽけな人間 すばらしき人間」(「つまらぬ自分 すてきな自分」)を参考にしたらどうでしょう。

人間は一面でたしかにすばらしい素敵な存在ですが、もう一面ではちっぽけでツマラナイ存在です。どんなに賢そうな、いや実際賢い人にも、ばかでぬけていて、てんでなっていないところが必ずあります。欠点や弱点のない人間なんて、この世に一人としていません。

だから、うつ病に限らないと思います。
誰にも多かれ少なかれ調子のよくないときが必ずあります。
その状態が長く続いたり繰り返されたりすると、僕らは「なんて自分はダメなんだ」と落ち込んだりします。

落ち込むときは落ち込んだらいいと思います。
自分は、本当にダメで、「ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていない」と。
でも、自分のダメさを素直に認め、受け入れられるようになると違ってくるのではないでしょうか。

そうではなく、「本当はダメじゃないんだ。ばかでもめちゃくちゃでもない。ちゃんとするし、できるんだ」などと思っていると、辛いです。

「そんな僕が、どうしてしない、なぜできないんだ?!」「やっぱりダメなのか」となってしまいます。「いや、ダメじゃない(はず)」とあがいたりもがいたりしても、うまくゆかず「僕はどうしようもない人間なんだ」などと、さらに自分で自分を苦しめてしまいます。

ちゃんと「する」「できる」自分も本当の自分でしょうが、いま現在「しない」「できない」自分も本当の自分です。

どちらもかけがえのない自分で、いわば「二人の自分」です。
「すてきな自分」だけでなく、「つまらぬ自分」も認めていっぱいかわいがってあげたらどうでしょうか。

「ダメ」はその「ダメ」を否定すると「ダメ」でなくなる、そういうものではないようです。
むしろ反対で、「ツレうつ」のように「ありのままを受け入れる」と、「ダメ」もそうでないものに変化していくのではないでしょうか。

「ダメ」を認められるようになるともう「ダメ」じゃない。

そんな発想法も参考にしてもらえるとうれしいです。






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初出: 2015.6.15
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