登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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自分自身のかけがえのない友となる


内沢 達



僕が月例会で話したことも会報(ニュース)に載ります。
せっかく親の会の世話人の方たちがテープ起こしをしてくれたのに、僕の怠慢で記事にならなかったことも少なくありませんが、大事な発言はだいたい載っているように思います。そのなかでも、とくに大事なものを独立の記事にして、これまで、HPのトップページでもわかるようにしてきました。

表題の「自分自身のかけがえのない友となる」という記事も、すぐにそうするつもりでした。でも、ついつい先延ばししていました。

そんな折(2010年10月13日)、親の会HPの掲示板にまゆさんの次の投稿がありました。



ゆいの返信(注─ゆいさんへの内沢朋子の返信です)に貼ってあった「自分自身のかけがえのない友になる」を読んで、自分が悩んでいた事がいっぱい書いてあってびっくりしました。

いきなり失礼かもしれないけど、会報やホームページで体験談を読んでいても「それは親の話。私は子供だし分かんないよ」ってツンケンした所がありました。
(中略)

でも、さっき何気なく読んだ時に「えーなんで??」って思うほど自分がその中にいて…。
同じ悩みは一つとしてないけど、どんな悩みも元をたどれば一緒なんですね。「自分を大切にしてない」

「人の話はわが話。わが話はみんなの話」とは、ははぁこれの事か!と目から鱗でした。
これが前進?なのかは分かりません。
だけど、これからはもっと会報が楽しくなるな〜って思いました。



僕はとってもうれしかったです。
延ばし延ばしにしてきたけれど、これはさすがに紹介しなくてはいけないと思いました。

まゆさんは妹のゆいさんと姉妹で、二人は度々掲示板に書き込みをしてくれます。
ありがとうございます。おかげで僕の仕事も進みました。

まゆさんの書き込みにもあるように
同じ悩みは一つとしてないけど、どんな悩みも元をたどれば一緒」です。自分を大切にしていない。だから、「自分を大切にする」ことがどれほど大事なことか。自分を、自分自身を、誰よりも誰よりも一番大切にする。自分こそまっ先に自身の友になってあげる。そういったことを記したものです。

以下、お読みいただけますと僕はうれしいです。





自分自身のかけがえのない友となる



2010年1月例会での発言(翌2月発行会報より)

内沢 達 



アランの『幸福論』(岩波文庫)のなかから僕がとくに気に入った文章を抜粋したものが別紙プリント・全8ページです。最後のページに、先月の例会で紹介した「われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである」があります。アランの『幸福論』を読んで、僕たちがこの会で言ったり、考え方を共有しあったりしてきたことととてもよく似たことが書かれているな〜と思いました。

たとえば、僕らの会でいう
「二人の自分」にかかわることです。こう思う自分もいれば、こう思わない自分もいる。こうしたいな〜と思っていても、実際にはその反対のことをやってしまう。自分はいつもこう考えこう行動しているとは決まっていない。そうではない「もう一人」の自分もいます。その「二人の自分」の間で揺れ動き、ときに悩んだりもするけど、両方とも「自分」に違いがない、「自分」に変わりないのだから、その「二人」とも大事にしていこうと僕らの会ではやってきました。

このことに大いに関係しています。アランはとても上手く表現してくれています。


もし君に友人がいたら、そして友人が何事につけてもつらそうに不満をいっていたら、君はおそらく、彼をなだめようとし、世界をもう一つの見方でとらえる方法を教えようとするだろう。では、どうして君は、自分自身に対してもかけがえのない友となってやらないのか。もちろん、ぼくは真面目に言っている。もう少し自分を好きになってやったら、自分と仲良くしてやったらどうか、と。(中略) 問題は自分のために弁護してやることであって、自分をなじることではない。


僕らは、近くの友だちが困って悩んでいたら、「大丈夫だよ。違った見方もできるよ」と言って励ましてあげられるのに、自分自身に対してはそれがなかなかできないということが少なくありません。アランはそうしたことについて、「自分自身に対してもかけがえのない友となって」あげるというようにわかりやすく課題を提示しています。
「自分に親切であること、自分の友人となることを学ばねばならない」も同じ趣旨です。

他人に対してだけでなく、自分自身にも「親切」であること。僕らの会は「自分を一番大事にする」考え方でやってきましたから、親切が大事なのも、一番は自分自身に対してと言っていいと思います。

次です。


人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵はつねに自分自身である。判断を誤ったり、むだな心配をしたり、絶望したり、意気沮喪するようなことばを自分に聞かせたりすることによって、最大の敵となるのだ。


自分自身以外に敵はほとんどいない。
「ほとんど」ですから、自分のまわりに敵が皆無というわけではないでしょう。ときにおかしなやつや悪いやつもいることでしょう。まれであっても僕らを狙っているやつがいるかもしれません。でも、ほとんどいないと言っていい。

「最大の敵はつねに自分自身」です。
自分を一番苦しめるのは他ならぬ自分自身です。表現が「敵」とは少々きつく穏当ではありませんが、さきの話ともつながって、「あ〜、自分が自分自身の敵になってはいけないんだ」と気づきを促してくれるのではないでしょうか。

僕らの会では4年ほど前から、
「解決の道は自分の中にある」という短いフレーズをよく使うようになりました。まわりの状況がどれほど大変そうにみえても、困難はまわりや自分の外にあるわけではありません。まわりを否定的にしか見られない、またまわりとの自然なかかわり方がわからなくなっている自分自身にこそ困難はあります。

まわりを変えようとしても、まわりは簡単に変わるものではありません。でも、自分自身のことだったら、自分が主人公ですから、変えようと思ったら変えていくことができます。

まわりのことを「息子がこうだ。娘がこうだ。親・兄弟がこうだ」と嘆かない。それはほとんど見方の問題にすぎませんから、自分の見方をほんの少し変えるだけで、相手の状況も肯定的に受けとめられるようになります。
それは、もちろん相手の「言いなり」になることではありません。僕らは自分のことに一生懸命になる。自分を一番大切にしていくのが解決の道です。

僕らが悩んでいるときは必ずといってもいいほどに自分自身のありようについてです。
ほとんどの場合、他者が敵なのではない。自分自身が敵になっている。そうならないように、自分に親切にしてあげよう、自分自身のかけがえのない友となってあげようということです。
もうひとつ紹介します。


怒りは、もしも煽り立てようものなら、恐ろしいものだが、もし怒りの進展を眺めているなら、怒りはじつに滑稽である。それと同じように、幸福は些細なことによっているものである。もちろん幸福はまた、重大な理由にも依るものではあるが、そのことは、もしもぼくが「幸福概論」のような書物を書いていたら、語っていただろうし、説き明かしてもいただろう。が、しかし、ぼくはそれをしなかった。


家族のなかでもありますが、人間社会のなかで他者に向けられる感情でさけられないもののひとつが「怒り」です。これは煽り立てさえしなければ、恐ろしいものではなく「滑稽」なものだといった受けとめ方ができるようになりたいですね。

ここの引用で一番注目してほしいのが、
「幸福は些細なことによっている」です。

この会では、内沢朋子が「豆もやし幸福説」を度々主張しています。本人によると、ただのもやしではないスーパー・タイヨーで売っている「豆もやし」が飛び切り美味しい! トモちゃんは、調理前にこの豆もやしのヒゲをとっているときに最高の幸せを感じるというのです。僕はそばでヒゲをとらされているので幸せは感じませんけど(笑)。

でも、幸せって、そのような日常のありふれたことだと思います。そうした些細なことを喜べることだと思います。

それが若い人だと、めざす高校や大学に合格したとか、いいところに就職できたとか、いい人とめぐりあって結婚したとか、つい人生の節目と言われるようなところに目が行きがちですが、その場合でも一番大事なことは、やっぱり日々の生活のありようではないでしょうか。

学生生活はたのしいか、充実しているか、仕事はやりがいのあるものか、それがたとえ生活の手段だけだとしても余暇などは楽しんでいるか、結婚後の二人の生活はどうか、といったことだと思います。

いま、現在をしっかり生きる。毎日、人生を楽しむ。未来はその積み重ねでやってきます。そうだとすると、若い人が幸せを感じるのもやっぱり日常の些細なことではないでしょうか。

もし、なにか目標が達成されなければ幸福とは言えないといった考えならば、毎日は目標実現のための手段でしかなく、その日その日を心から楽しむことなど到底できないでしょう。

家族や友人との、また自分ひとりの何気ない日常に、幸福がいっぱいあります。別のところでアランが言うように
「人生には生き生きした、しかも一銭もかからない楽しみがいっぱいある。でも、人はそれを十分に楽しんでいない」。僕らの会が、ワクワクを大事にするのも、同じ理由からです。

アランは
「自分のなかに幸福があったのに、今まで全然手をつけることがなかったのだ」も言っています。幸福は手の届かない遠いところにあるものではなく、誰もが手をちょっと伸ばすだけで十分に届くすぐ近くに、というよりもいま、現在の自分のなかにあるものだと言ってよいと思います。

さて、先ほどトモちゃんが言いかけたアランの言う
「すべてのものがわれわれには障害である」ということの意味について。これは岩波文庫の訳ですが、集英社文庫では同じ箇所が「すべてが私たちの意に反している」となっています。「障害」の言葉が使われていないので、かえって障害とはどういうものなのか、考えやすくなると思います。岩波文庫の訳を続きも含めて紹介します。


すべてのものがわれわれには障害である。もっと正確にいえば、すべてのものは無関心であり、何のかかわりもないのだ。
大地の表面は人間の営みがなければ藪と疫病になる。敵でもないが、味方でもないのだ。人間の味方をしてくれるのは人間の営みだけである。



すべてのものが障害で、正確にはわれわれとは無関係、何のかかわりもない。
その昔、40年以上も前ですが佐良直美の「世界は二人のために」という歌が大ヒットしました(1967年)。歌い継がれているので、この歌を知っているからといってお年というわけではありません(笑)。この歌は歌謡曲ですし、幸せな二人がそう思うというかそう思いたいのはもちろん結構で喜ばしいことです。

でも、世界はもともと二人と関係なく存在しています。地球46億年の歴史がそうですし、人間社会も身近なこの鴨池地域だって、われわれと基本的には無関係です。この鴨池公民館も、僕らの会が毎月利用する・しないに関係なく、少なくとも相当にしばらくは存続していくことでしょう。

では、無関心でなんのかかわりもないということで、自然であれ人間社会であれ、世界はわれわれを冷たく突き放しているのでしょうか。そんなことはありません。自然は花鳥風月を通してわれわれをいっぱい楽しませてくれるし、人間社会も僕らが自分の人生を主人公として生きようとすることを基本的には妨害していません。

アランは
「人はよく、世の中はまちがっているという。そう考えるのが、ほんとうはまちがっているのだ」と言っています。確かに「世の中はまちがっている」ということがたくさんあるでしょう。でも、そう考えそう言うだけで終っていたら、それこそ大きな間違いではないでしょうか。

僕らの会では、板倉聖宣さんの発想法のひとつ
「どちらに転んでもシメタ」を度々活用してきましたが、アランも「どんな道もいい道なのだ」「悪い運命などない」「どんな運命もそれをよいものにしようと欲するならば、よい運命となるのだ」と言っています。他でもない自分の人生です。自分にとって大事なことには主体的にかかわっていく。そうすれば「どんな道もいい道」にすることが十分に可能なのだということでしょう。

ところで、それはまわりのことは「なんとでもなる」ことを意味しません。意味しないどころか、むしろまわりは「なんとでもならない」と言わねばなりません。それが、
「すべてのものがわれわれには障害である」ということです。集英社文庫の訳のように「すべてがわたしたちの意に反している」というか、僕の理解では
「すべてが私たちの意のままにはならない」ということです。障害のある人がそれゆえ「意のままにならない」というだけでなく、誰にとってもまわりは「すべてのものが障害」で「意のままにならない」ものではないでしょうか。

そう考えたとき、障害やハンディのある人もない人もベースは同じということにならないでしょうか。目が不自由でなくても、見ようとしなければ見えません。「心ここにあらざれば視れども見えず、聴けども聞こえず」です。コミュニケーションは、知的障害がある人だけでなく、ない人でも容易なことではありません。「そのくらいのことは、わかってくれて当然!」とならないことが少なくないのです。それは「すべてのものがわれわれには障害である」からです。すべてが私たちの意のままにはならないからです。

もちろん、障害がある人の「障害」と健常者のそれを同一には考えられません。障害があるがゆえのコミュニケーションの難しさは、ない人とは比べようもないほどかもしれません。でも、その難しさをどのように補いあってコミュニケーションをとっているか、同じ人間としての営みですから、健常者も学ぶべきものがそこにたくさんあるように思います。

以前から「ノーマライゼーション」といって、「障害者を排除するのではなく、障害を持っていても健常者と同じように当たり前に生活できるような社会こそがノーマルである」といった考えのもと、そうした社会の実現をめざす取り組みがあります。僕の理解では、障害者だけでなく健常者も、誰もがみんな
「そのままの自分」で暮らしていける社会こそノーマルな社会ではないかということです。各人のありようはそのすべてに価値があり、他に害をおよぼさない「そのまま」はすべて認められてしかるべきです。

そこでKNさんだけでなく、障害のある子どもさんがいらっしゃるご家庭では、親子や子ども同士の「そのまま」がどのようなものか、そうしたお話も遠慮なくしていただきたいと思います。
「人の話しは我が話、我が話はみんなの話」僕らは、その話からもいっぱい学んでいきたいと思っていますので、よろしくお願いします。



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最終更新: 2012.4.7
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