登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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「しない」と「する」ようになる


内沢 達


2005年2月例会での発言(2005年3月発行会報)に加筆して
2010年6月例会で紹介しました。



 思い込みや先入観が強いと、問題の本当の所在に気づくのは容易ではありません。「この子はどうして学校に行けないのか?」「どうして再三パニックになるのか?」などと、子ども(の状態)を当然のように疑い問題視することはあっても、そう思っている自分の考え方の問題にはなかなか気づきません。


 ここで誤解がないように申し上げます。僕はいつも子どもに問題はないと言っていますが、だからと言って、では子どもではなく親のほうが問題だとか、いや学校や教師こそが問題だなどとはまったく言っておりませんので、ご注意をお願いします。そもそも「明るい話」なので、不登校や引きこもりは誰が悪いのかといった悪者や犯人探しをしなければいけないことでは全くないんです。不登校や引きこもりに問題があるとしたら、それは考え方の問題だけだと言ってもいいくらいです。


 そこで「子どもの状態ではなく、ひょっとしたら自分の考え方のほうがおかしいのかな?」と考え方や見方の転換が始まると、違ってくるのです。


 考え方や見方の転換がなければ、子どものパニックひとつとっても、その状態を否定的にマイナスにだけ見てしまっておしまいです。でも、人間というのは、子どもであれ大人であれ、大変な時には多少なりとも普通じゃなくなる、いわばおかしくなるのが当たり前です。なにしろ大変なのですから。


 大変なときに普通じゃなくなる、異常な状態になるというのは、じつは反対にその人が正常であることの証明です。ときどきパニック状態になるというのは、息子さんや娘さんが正常である、じつはどこもおかしくないからそうなるということです。そうではなく、大変であるにもかかわらず、元気そうに学校に行き、一生懸命勉強もして、その後進学や就職をきめているとしたら、そっちのほうがよほど危ない。そういう考え方を僕らはしてきました。


 僕ら自身、自分が小さかった頃をふり返ってみてはどうでしょうか。中学や高校の頃はどうだったでしょう。はたしてパニックになったことは一度もなかったか。まわりに当たることも全くなかったか。「少なくとも我が息子(娘)のようなことはなかった」と言われる方だって、忘れていてじつはそれほど変わらなかったかもしれない。


 いや、確かに事実「親に当たる」というようなことはなかった! としても、それは昔の子どもが、つまり今の大人の我々がかつて我慢に我慢を重ねていた結果です。そうした我慢はあまりいいこととはいえません。昔の子どもは親に遠慮して縮こまっていたんです。今の子どもたちや若者は我慢せずに、不登校や引きこもりの形で自分を素直にあらわすようになりました。


 子どもには、自分の親だったらわかってくれるはずだ、受け止めてくれるはずだという期待が無意識のうちにあります。子どもが親に遠慮しなくなり、親は子どもから頼りにされている。悪いことではないどころか、良いことではないでしょうか。期待があるから、頼りにしているから、親にこっちを見てもらいたくて、子どもはちょっと普通でないようなことを無意識のうちにしているだけなんです。なにしろ普通だと、親はふり向いてくれませんから。


 ところが、そういう見方ができずに、不登校や引きこもりをただただ良くないことだと考えている方が大勢です。息子、娘の状態はおかしいと思っても、そう考えている自分の考え方のほうがおかしいとはなかなか思わない。そうしたところを僕らの会は一貫して問題提起しています。


 そもそも、学校に行かないこと、引きこもっていることのどこが問題だというのでしょうか。その行為は誰かに害をおよぼしているということはまったくありません。人の迷惑になっているわけでもありません。「親やまわりを心配させている!」 それは、心配しなくてよいことを勝手に心配しているほうの考え方や見方の問題で、子どもの問題ではありません。


 子どもが自然に元気に学校にかよっていることはもちろん良いことですが、はたまた学校に行けなく・行かなくなった不登校には不登校ならではの可能性や良さがあります。どちらに転んでもシメタ! どの道もいい道なのに、その道の良さやすばらしさに多くの人がまだ気づいていません。


 子どもが落ちついていたら、それはそれで結構ですし、またパニックになったらなったでそれもいいことなんです。大変なときにちょっとしたパニックになることは自然なことです。そうならないよう、自分を抑え続け、まわりの期待にもこたえるべく、頑張って学校に通う。そっちのほうがよほど不自然で危ないことです。子どもはもうどうしようもないところまで頑張り続けます。


 僕の同僚の息子さんのことですが、小、中、高と不登校とは無縁だったようです。大学も現役合格し、留年などせずにちゃんと4年で卒業しました。そのあと2年間の大学院修士課程に進学し、2年目には大手企業に就職も内定。はたから見ると順調そのもので、うらやましいと思う人もいるかもしれません。ところが、ずっと頑張ってきて、とうとう限界だったんですね。「3月に何日間かの会社の事前研修も受け、東京の住まいも決まって、あとは引っ越しだけ」というところで、バッタリ動けなくなりました。24歳のときです。それから引きこもって何年かです。それはそれで、その今を認めて始めていけばよいのですが、無理を重ねた期間が長いとそれだけ時間はたくさんかかります。


 子どもが小さいときからつまずいたりパニック状態も呈してくれるというのは、じつはありがたいことです。自己否定もそんなにしないですみますし、軌道修正に時間はさほどかかりません。


 親の会を長いこと続けてきて、「いつも自分を一番大切に」という考え方を、それこそいつも一番大事にしてきたように思います。子どもも、われわれ大人や親も、自分の人生を主人公として生きてゆく。「いつも自分を一番大切に」しないで自分の人生の「主人公」とはいえません。豊かな時代になり多様な生き方が可能になっています。世間や社会の大勢のようなもの(じつはそんなものはないのですが、少なくない人々があると錯覚しているもの)にあわせて、自分を殺しては絶対にだめです。自分らしくして、自分のペースでやってこそ本当の自信になり、ちゃんと成長し力をつけていくことができます。


 親も、親というよりはひとりの大人、ひとりの人間として、自分の人生を生きる。子どものことは子どもにまかせて、自分のことに一生懸命になる。人生にはさしてお金もかからない、生き生きとした楽しみがいっぱいあります。でも、今まで十分に楽しんではいませんでした。すぐ手の届くところや、あるいはもっと近い他でもない自分のなかに幸せもあったのに、やはり手をつけていませんでした。そうしたことに気づきを促してくれたのが、わが息子や娘の不登校、引きこもりです。僕らはおかげさまで、以前とは比べものにならないほど自分を大切にするようになり、毎日の生活だけでなく仕事も楽しむようになってきたと思います。


 ところで、だいたい子どもは親の話を聞かないものです。僕らの子ども時代をふりかえっても、そうではないでしょうか。親の言うことを素直に聞く子のほうが心配です。「はい。お父さん、お母さんのおっしゃるとおりです」という子が心配です。でも、そういう子はほとんどいませんので安心です。親に反発する子、親の言いなりにならない子が安心です。


 1月の新年会では、僕が用意した「ことわざ・格言」でもビンゴゲームをしました。その中のひとつに
“「しない」と不思議と「する」ようになる”というのがありました。


 この「しない」とは、子どものことで親は余計なことを「しない」ということです。子どもを応援するんだったら余計なことではないと思うかもしれませんが、それが余計です。それは応援にならないどころか、反対に子どもの辛さに手を貸すことになっています。「では、親がしてあげるのではなく、子ども自身がするように、ああしたらこうしたらとアドバイスするのは?」 それもまったく余計なひとつです。そういうことは「しない」。子どものことを心配しないというのも「しない」ことで、これは一番大事な「しない」です。


 親が「しない」というのはすごいことなんです。わが子を信頼しているから、何も「しない」でいられるのです。反対に、親が何か「する」というのは、自分の子どもを信頼していないから「する」のです。信頼ではなく「この子は大丈夫だろうか?」といった心配から、言わなくてもよいことや言ってはいけないことを言ったり、またしなくてよい、してはいけないことをしてしまうのです。そうではなく、親がしなくなると、なんと反対に子どもは「する」ようになります。これはじつは不思議でもなんでもありません。人間は、自分が他から信頼されていることが分かると気持ちいいですし、言われなくてもその信頼にこたえようと「する」存在です。


 このように親が余計なことを「しない」ことが大事ですが、あわせて子ども自身にとっても「しない」ということが大事な課題になります。世の中には借金返済のような期限がそうあるものではありません。「いついつまでにこうしなくては・・・」というのはほとんどの場合思い込みで、個人のありように期限はありません。時間はいくらでもあります。あせらずに、ゆっくりいっぱい時間をかけて、「しない」自分が認められるようになっていくことが大事です。勉強もしない、運動もしない、家の手伝いもしない、遊びもしない。そういう「しない」自分が認められるようになると、逆にだんだん自然に「する」ようになります。


 人間、辛い時はできないものです。しようと思ってもできない。たとえ無理をしてちょっとするということがあっても続かない。続かないと、続けられなかったということに落ち込みます。そういうときにしようとしてはいけないんです。


 そういうときは「する」ことではなく、「しない」ことが課題です。普通、なにかを「する」ことのほうが当たり前と考えられていますから、「しよう」「しなければ・・・」ともがきあがいてしまいます。でも、あせってはいい結果になろうはずがありません。


 「する」ことよりも「しない」ことを認められるか。後者のほうが、よほど勇気を必要として難しいことかもしれません。でも、今はできない「しない」自分を認め受け入れればいいだけの話ですから簡単でもあります。


 「しないといけない。しなければ・・・」と思っているうちはなかなかできません。ところが、「義務ではないので、そもそもしなければいけないということはない。できないときはもちろん、したくないときは『しない!』でいいんだ」と思えるようになってくると違ってきます。人間って、ずっと「しない」ままではいられないんです。誰でも美味しいものが食べたいし、いい汗をかくと気持ちよいので身体を動かしたいんです。誰にも好奇心があるので興味があることは知りたいし、生きてゆくために必要な知識や技能は学んで身につけたいと思っています。心底ゆっくり休み、「しない」自分を認められるようになると「する」ようになります。


 気がつくと子どもは動き出しています。わが子の不登校や引きこもりをきっかけとして、自分自身を一番大切にするようになった親、子どものことではなにも「しない」親、そして自分の楽しみごとや喜びに夢中になっている親、そういう親の存在こそ、子どもたちへの一番の本当の応援のように思います。




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最終更新: 2012.4.7
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