登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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2009年10月例会で話しました。
独立させて紹介します。


つまらぬ自分 すてきな自分

― 「二人の自分」を大切にしよう ―    

内沢 達




大学でやっているとても面白い実験問題をひとつ紹介します。

ここにマッチ箱があります。マッチ箱ですから中にマッチ棒が入っていると思いきやそうじゃありません。ここにはマッチではなく代わりに10円玉が入っています。

箱によって10円玉の枚数が違います。そういうマッチ箱がひとつずつ3つあり、もうひとつ3段重ねのマッチ箱が一組あります。この3段重ねは他の3つと条件が違うのでもちろん重さが違います。ばらのほうの3つは入っている10円玉の枚数が違うので、これはこれでそれぞれ重さが違います。

さて、この4種類のマッチ箱を片手で(親指と中指あたりで)持ってみて、重さの違いがわかるでしょうか。どなたかに重く(軽く)感じた順番に並べていただきます。

(初め男性二人、Kさんと森田さんが挑戦 「3段重ねが軽いかな〜?」「(あとは)どれも同じくらい。違いがよくわからない?」など)

朝だとわずかな重さの違いもだいたいの人がわかるのですが、今は午後しかも夕方ですから一日の疲れがたまってきて重さの感覚がにぶくなります。無理はありません。

(続いてTNさんが挑戦)

ありがとうございます。少し迷われたりもしましたが、順番に並べてくれました。

ではTNさんの重さの感覚を確かめてみたいと思います。
まず一番重たいと感じた箱に10円玉が何枚入っているか、数えます。1枚、2枚、3枚・・・・・・10枚、11枚、12枚です。

2つ目の箱は何枚でしょうか? 1枚、2枚・・・・・10枚、11枚です。前のより1枚少ない
(すごい!という声)

たいしたもんですね。10円玉1枚の重さはわすが4.5グラム。その違いがわかる!んですね。3つ目の次の箱はどうでしょう? 1枚、2枚・・・9枚、10枚です。今度は2枚少ない
(拍手!)。お見事ですね。

TNさんは朝ではなく午後・夕方になっても、この重さの違いがわかる! 感心です。

さて、TNさんが一番軽く感じたこの最後の3段重ねのマッチ箱には何枚入っているでしょうか? 一番軽いんですから、12枚、11枚、10枚と少なくなってきて、さらに少なくなければいけませんね。結果はどうでしょうか?

では数えます。1枚、2枚、3枚、4枚、5枚、6枚、7枚、8枚、9枚でおしまい〜・・・ではありません。

まだ、あります。10枚、11枚、12枚!でした
(???)
いったいどうなっているんでしょう?

TNさんはこの3段重ねが一番軽いと感じたんですけど。12枚ということは一番重く感じたマッチ箱と同じ枚数です。しかも、これは下の2段が空箱とはいえひとつが3グラム、ふたつのマッチ箱計6グラムぶん、最初の箱より重いんです。
なんと一番重いものが一番軽く感ずる! おかしくないですか?

でも、これはTNさんだけでなく、朝方など疲れていないときにすれば、誰でもこの順番になります。不思議ですね。

みなさんのところに3段重ねのマッチ箱を配ります。
一番上の箱にだけ10円玉が入っています。下の2段は空箱です。
では、比べてみてください。片手で(親指と中指あたりで)一番上の1箱だけ持ったときと3箱全部をいっぺんに持ったときとどちらが重く感ずるか?

(「1箱だけのほうがオモーイ!」の声)

そうですよね。みなさん、そう感じられます。

「いや、3箱全部持ったほうが重い!」という方はおられませんね。みなさんがなんと「部分のほうが全体より重い」と言います。部分と全体を比べて、そんなのはおかしいですよね。

でも、みなさん確かに「部分のほうが重たい」と言うんです。例外ありません。
今度は持ち方を変えてやってみましょう。
指で持ち上げるのではなく、今度は手のひらの上にのせます。
部分だけ1個置くのとその1個を一番上にして3段に重ねて置くのと比べるとどうでしょう。やっぱり1個だけ、部分のほうが重く感じますね。

これはいったい何を意味しているでしょうか。
ひとつは「人間の感覚の頼りなさ」です。一番重たいものを一番軽く感じ、部分のほうが全体より重いと感じているんですから、人間の感覚はあてにならない、信用おけないということです。

でも、これはことの一面しか言っていません。どうして、こうした錯覚が生ずるのか?

詳しくは板倉聖宣『科学的とはどういうことか』(仮説社 1680円 ネットをされる方はamazonで注文すると3日くらいで届きます)をご覧いただきたいと思いますが、
板倉さんはそれはもう一面で「人間の感覚のすばらしさ」のあらわれでもあるというのです。

人間はものを手にした瞬間、そのものの重さだけでなく、密度や質、いったいそのものが何なのか何でできているのかまで、触覚だけでもおよそわかってしまう。そういう人間の感覚のすばらしさゆえに、いっぺんにいろんなことを感じとるすばらしい能力をもっているがゆえに、重さの感覚としては間違ってしまう、つまり錯覚が生ずるということです。

ものごとは一面だけを見ていてはいけません。否定的にしか思われないことでも、それは一面にすぎないというのがほとんどです。必ずといってもよいほど、そこには背中合わせのように大いに肯定してよい、自信を持ってよいことがあります。

さて、今月もここに板書がある「人の話はわが話。わが話はみんなの話」についてです。
僕らの会がどうしてこういう標語のようなことを自信を持って言えるようになってきたのか。それは、人間って、そのありようが一人ひとりの個性の違いを超えて法則的に考えられる。長い会の経験を通してそういうことが確信になってきたからです。

人間は言うまでもなく各人がそれぞれ個性的でこの世で唯一無二の存在です。つまり一人ひとり違うんです。でも、これは人間の一面です。もう一面、人間は一人ひとりの違いを超えて、じつはみんな同じなんだということです。

みんな辛いときは辛いし、うれしいときはうれしい。だいたいそういうものです。その辛さ、うれしさの表しかたがそれぞれの個性でやや違ったりもしますが、そもそも私だけが辛い、僕だけがうれしいということはじつはほとんどありません。

人間は他人(ひと)のことはわからなくても自分のことだったらわかりそうなものです。
なにしろ自分のことなんですから。でも案外そうでもないんです。

「自分のこと“なのに”わからない」ではなく、「自分のこと“だから”わからない」ということが少なくありません。この親の会でもそうです。ひと(他人)の話を聞いていると「あの人はこうすればよい・・・」ということがよくわかります。

ところが自分のことになると、なかなか気づかないんです。人間ってそういうものだと思います。だから、自分のことで困っていることがあったら、自分のことばっかり一生懸命に考えたってだめなんです。

自分のことはあまり考えない。例会に来たときはとくにそうです。ひと(他人)の話をいっぱい聞く。いい話だな〜と思って感心することも多いでしょうし、その人が困っているような場合だと「私だったらどうするかな」と考えながら聞く。そうしてちょっと自分のことに移してみる。そうすると「な〜んだ。自分もほとんど同じじゃないか」ということになります。だから、「人の話はわが話。わが話はみんなの話」なんですね。

大変になってくるとつい「自分のところは、うちは特別だ」と考えがちです。これも法則的です。でも、けっして特別じゃないんです。

「大変だ」と思ってしまう思い込み方も、そこから脱して元気になっていく行き方も共通しています。先ほどのマッチ箱はそういうことにも気づいてほしいと思って紹介しました。みなさんが一人の例外もなく「部分のほうが全体より重たい」と感じたんです。人間は、みんな人間、同じなんです。特別な人なんていません。

でも、「他の人はよく理解されているのに、私はなかなか理解していけない」などと思ってしまいませんか? 7月例会ではKMさんのところでお話しましたが、どうか「わかる」自分だけでなく、なかなか「わからない」もう一人の自分も認めてあげてください。人間誰しも矛盾しているようなところがあります。

こう思う自分もいれば、こう思わない自分もいます。それが人間です。そういう言わば「ふたりの自分」を両方とも認めてあげて、それぞれと大事につきあっていってほしいと思います。

確固としていて揺らぎがまったくないような人なんているんでしょうか。僕はいないと思います。板倉さんの発想法のプリントにあるように、「つまらぬ自分 すてきな自分」「ちっぽけな人間 すばらしき人間」といった両方の面があるのが、僕ら人間です。

Tさんも自分のなかの正反対の「ふたりの自分」と大事につきあってほしいと思います。一方には「娘にはやっぱり学校に行ってもらいたい」と思う自分がいます。でも、そこにこだわっていてはいけないと考えているもう一人の自分もいます。

どっちも自分に違いないんだから、自分を大事にしましょう。
無理してどっちかにしてはだめなんです。

Tさんはトモちゃんから「学校にこだわってばかりではオカシイでしょ」と言われるのがわかっていても例会に来られるんです(笑)。ということは学校にはこだわっていないもう一人の自分がいることも間違いないんです。急いで、どっちかにしてはいけません。もう一人の自分ともゆっくりとつきあっていきましょうということです。

Tさんの場合、娘さんのことが一番心配で大変なようですけれども、じつはそうじゃありませんね。一番大変なのはコンビニ経営とかご自身のことだと思います。「家計などが大変な中、私はこんなにも頑張っているのに、子ども達は・・・?」といった面があるんじゃないでしょうか。

僕らが「あー大変!」と思ったり口にしたりするとき、じつは自分をとりまく環境自体がそうなのではなく、まわりのことを大変な困難と思っている自分自身をあつかいかねて大変になっている場合がほとんどではないでしょうか。人間誰しも大変なときはやっぱり自分自身が一番大変なんですね。

だから、僕らの会では、親の会に初めはみなさん子どもさんのことで参加されるわけですが、だんだん自分自身を一番大切にすることが子どもたちへの最大の応援にもなることがわかってきて、毎月有意義な交流を重ねて来られたと思っています。

問題解決の道は、いつも自分のなかにあります。まわりの状況を悲観してはいけないだけでなく、「自分のなかに」だからと言って「自分を責める」ようなこともしてはいけません。ほとんどが見方・考え方の問題です。

うちの子はあんなにしっかりしていた「のに」ではなく、しっかりしていた「から」不登校になったんです。おなじように、われわれ親もしっかりしていた「のに」ではなく、しっかりしていた「から」、わが子は不登校になったんです。見方次第で、変わってきますよね。

不登校や引きこもりはまったく心配無用です。もちろん、しっかりした親じゃなくてもかまいません。イイカゲンな親でかまいません。なにしろ、「いい加減はよい加減!」ですから。

以上、参考にしていただけますと幸いです。




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「人間、じつはみんな同じ」「大人も子どもも、特別な人間なんていない」ということについては、
登校拒否を法則的に考える→ の後ろのほうでも、アルミのパイプ(棒)などを使った実験をしながら
紹介していますので、あわせてご覧ください。



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最終更新 : 2012.4.7
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