2014年12月例会での発言をふくらませました。
2015年1月例会でのプリントに、さらに手を加えて2月例会(2/15)で紹介したものです。
ご覧になってのご感想やご質問などをお寄せくださいますと大変うれしいです。
内沢 達
自分のために、自分の課題に取り組む
── 親がわが子のためにできること
「これからはマッサンはマッサンのためにがんばって」。
NHKの朝ドラ「マッサン」、エリーの台詞です(1月15日放映)。
マッサンは鴨居商店でウイスキー造りにはげむもうまくいきません。ピートの香りを抑えても、またピートを全く焚かない「飲みやすい」ウイスキーを造ってもだめです。マッサンは、マッサンらしくなくまわりを気遣ってもうまくいかなかったことから、「いったいワシャどうすりゃいいんだ」と落ちこんでいました。そこにエリーがかけた言葉です。
エリーは悩むマッサンに、「これからは、(鴨居の)大将や会社や私やエマ(娘)のためにではなく、マッサン(自分)のためにがんばって」とも言いました。
TVドラマのなかの一言、二言ですが、僕らの人生や日常にもたいへん示唆的なように思います。
僕は12月例会で「情けは人のためならず」の話をしました。
ウイスキー造りも情けをかけるのも「人のため」におこなうものではない。
各人の自主的な行為は「人(他人、他者)のため」ではなく、誰よりも一番は「自分(自身)のため」におこなうものではないか。
この格言は、個々人の主体的なありようを問うもので、僕はとても好きです。
誰から頼まれたわけでもなく自分がし始めたことなのに、それを勝手に「人のため」と思っているとおかしくなります。
ちょっと壁にぶつかっただけで「自分はこんなにも努力しているのに、みんなはわかってくれない!」などと嘆いたり、人間不信に陥ったりします。
そうではなく、自らすすんではじめたことはすべてが「自分のため」という考えがあると違います。たとえ大きな失敗やつまずきに直面しても、そこには必ず自分の成長を促してくれるものがある、と前向きに受けとめられます。予期しなかったまわりの反応も自分の視野や世界を広げてくれるきっかけになります。
僕らは誰であれ他者に代わってその人の課題に取り組むことはできません。
けれども自身のことで自分が望み欲することなら、まさに「自分のため」にがんばって、多少の困難や障壁は乗り越えていけるのではないでしょうか。
「人のこと」はどうこうできなくても、「自分のこと」は自分次第です。
さて、僕らが愛する、かけがえのないわが子のこと、子どものことはどう考えたらいいのでしょうか。一般に親は「自分のため」よりも「「子どものため」と考えがちです。「子どものため」を思わない親はおりません。でも思ったからといって、そう思って行動したからといって、「子どものため」になるとはかぎりません。むしろ反対で、ならないことのほうが多いのではないでしょうか。
それは、親が「子どものため」という自分の「善意」を疑わずに、あれこれ子どもに押しつけるからです。そういうことを続けていると親子の関係もまちがいなくおかしなものになります。だから注意が必要で、詳しくは別に書いています。子どものことは、「子どもの“ために”ではなく、子どもの“立場で”考える」という一文です。
大人だけなく子どももみんな自由なはずで、誰もが「自分が自分の主人公」です。
だとすると、子どものことは子どもにまかせる、委ねるというのは、じつに当たり前のことでないでしょうか。親はもっとわが子を信頼する。
自分の子ども時代を思い出してみてはどうでしょうか。なんだかんだ言っても、自分のことは自分で判断してやってきたのではないでしょうか。自分で自分からしようと思っていたのに、親から言われたりさせられたりして嫌だったこともあったでしょう。今度は自分が親になってそうしたことをわが子に繰り返していないか、「子どもの“立場で”考える」と点検は容易です。
人が嫌がることをしてはいけないというのは、相手がもちろん子どもに限りません。
なぜ僕らは相手を尊重し、人間関係を大事にしようとするのか。それはエチケットだからということもあるでしょうが、より根本的に僕は「自分のため」だと思います。
自分が気持ちよくありたければ、自分とかかわる人を尊重しないわけにはいきません。つまり、「自分のために、相手の立場で考える」のです。
そこを「自分のため」ではなく「相手のため」となっては、恩着せがましくておかしいでしょう。「勝手に、“僕(私)のため”だなんて、思わないでくれ!」となりませんか。
子どものことも基本は同じだと思います。拙文のタイトルのように、子どものことは、子どもの“ために”と考えるのではなく、子どもの“立場で”考えることが肝要です。
でも、「ために」という言葉も否定したくない、これも肯定的、積極的に使いたいということであれば、「子どものために」ではなく「自分のために」となるのではないでしょうか。
親は、子どものことを「自分のために」「子どもの立場で」考えたらいいのです。それは、親が子どもに依存したり、また反対に子どもに支配をおよぼしたりしないで、本当に子どもを尊重する大事な考え方です。
ところで、大人の勝手な思い込みや「善意」が危ういので注意を促しましたが、「子どものために」という表現や言葉自体が悪いわけではありません。
本当のところ「子どものために」なるのはもちろんよいことで、是非そうありたいものです。では、どういうこと、どういう親のありようが本当に「子どものために」なるのでしょうか。
度々紹介しているフランスの哲学者アランの次の言葉がとてもすばらしく、ピッタリその答えにもなっています。「われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである」。かけがえのない、愛する「わが子のために」、僕ら親がなすことができる一番よいことは、僕らが幸せになることです。親の僕らがまっさきに明るく元気になることです。
それは、子どものほうも親のありようとして一番望んでいることです。
「子どものこと」に一所懸命になって心配から青白くなっている親ではなく、「子どものこと」は信頼して子どもにまかせ、「自分のこと」に一所懸命になって生き生き元気にしている親です。
鹿児島の親の会では、例会参加を続けてきて「不登校(引きこもり)のわが子に感謝したい」という人が大勢です。そういう人も初めはちがいました。やっぱり「子どものこと」が心配でオロオロもしました。
でも回を重ねるなかで、子どもはもちろん親も誰も悪くない、見方・考え方次第で誰もが明るく元気になれる、実際そうなってきました。「いいお嫁さん」をやめ、「仕事人間」を反省して、自分を一番大切にするようになりました。
みなさん、今を大事にして生き生きと元気です。主人公は、学校や会社や世間ではなく、子どもであり僕ら親自身です。自分の人生を主人公として生きる。こうした考え方や生き方の素晴らしさを気づかせてくれたのは、わが子です。僕らは感謝しないわけにはいきません。
これは、子どももとてもうれしいことです。それまで「親に心配をかけて悪いな〜」と思っていたところに、「ありがとう。あなたのおかげでお母さん(お父さん)は自分を大切にするようになった。幸せよ!」と言われるのですから。「この頃、どうしてかウチの親はなんか明るく元気だな〜と思っていたけど、そのきっかけが俺(私)だって!」。うれしいじゃありませんか。
では、親が「自分のこと」にどのように一所懸命になったら、こうなるのか。親の取り組みについて、大事な考え方や課題など、いくつか述べます。
(1)まず、やはり「自分のため」という考え方がとても大事です。はっきり「自分のため」を意識して取り組む。そして途中途中で「自分のため」になっていることを確かめながら、取り組みを続けていく。
僕は22周年の講演で、次のように言いました。
「自分自身のことに取り組んでみて、たとえまわりは何ひとつ好転していないようであっても、自分の気持ちが楽に自然になっていたら、誰がなんと言おうと、その取り組みは間違いなくいいことです」
自分が少しでも気持ちよく、生き生きとした感じになっていたら、「自分のため」になっています。そういった取り組みを続ける。さらに気持ちよくなっていくでしょうし、どんどん明るく元気になってきます。
そうではなく「ちっとも気持ちよくならない」といった場合はどうでしょう。
それが一度ならず二度三度もといった場合はいっそう、「自分のため」になっていないという実験結果がすでに明らかです。これは止めないといけません。止めるだけでなく、新たに「自分のため」になる取り組みに向かうためにも、「どうして自分は気持ちよくなれなかったのか?」、その理由や原因にはっきり気づくいいチャンスです。
そうした場合はたいがい、親が「自分のこと」ではなく、「子どものため」に「子どものこと」に一所懸命になっています。
(2)ここで強調したいことは、親が取り組むのはやはり「自分のこと」で、「子どものこと」に一生懸命になってはいけないということです。
「いや、ちょっと手助け、協力しているだけ」と言っても、子どもはちがいます。
「親からこんなにしてもらっても、自分はなにもできない。ダメ人間だ」とさらにわが子を苦しめることになります。鹿児島の親の会の教訓のひとつ、「子どもの辛さに親は手を貸さない」ということが大事です。
いま現在、子どもがどんなに辛く苦しくても、親であれ誰であれ代わってあげられません。子どもは自分で道を切り開くほかありません。そのとき子どもにも「自分のため」に「自分を一番大切にする」という考え方があると違います。「人のため」ではありません。「自分のため」ですが、その自分が「まわりのみんなによく思われたい」ためでもありません。主人公は「まわり」ではなく、自分自身です。「他人本位」ではなく、「自分本位」が大事です。
子どもがなんとか現状を打開しようとしているとき、親が「自分本位」に「自分のこと」に一所懸命になって、元気に毎日を過ごしている姿は、なによりの応援です。もしかしたら、子どもに「自分も親のように、いつも今を気持ちよく生きればいいのかな」と思ってもらえるかもしれません。そうは簡単にならないでしょうが、親の取り組みは大いに、子ども自身の取り組みの参考になるものと思います。
さて、そうした親の「自分のこと」についての取り組みは、たくさんあります。
今後とも例会で交流していきませんか。「ワクワク」はそのわかりやすい例ですが、それだけではありません。じつは親の会で話し合っていること、そこで目にしたこと耳にしたことはすべて「自分のこと」です。「人の話はわが話。わが話はみんなの話」で、「自分のこと」として捉えられて初めて、どの話も有意義なものになります。
(3)そこで提案ですが、親の会のことを家でもっとオープンに日常的にしていきませんか。これは「自分のこと」として以上に「自分の課題」として取り組んでいただきたいことです。この提案は初めてではありません。すでに十分にオープンな家も少なくないと思いますが、一方控えめな家も結構多いのではないでしょうか。それで、「もっと」オープンに「日常的に」と今回強調しています。
以前のものを少し紹介します。緑の冊子には、「隠さないで、親の会のニュースは堂々と!」(1997年、220ペ)、「親の会のことを家でも堂々と話題にする」(2002年、178ぺ)、「家の真ん中に15周年記念誌を置こう」(2005年、110ペ)、「親の会のホームページを見てねと言えるか」(2010年、28ペ)といったタイトルや内容の記事があります。
子どもから「そんなのは見えるところに置かないで」とか、「家でそういう話はしないでくれ」と言われたら、どうするか。(1)やこの論考の初めのほうで述べたように、これらはすべて「自分のこと」で「自分のため」におこなっているという自覚があると、どうということありません。「これはお父さんお母さんにとって、とても大切なもの(話)なんだ」くらいでいいでしょう。
これは「子どものこと」ではありませんし(どの子も「親が勝手に自分のことをどこかで話している」のは嫌です)、「子どものため」でもありません。「子どものため」と思っていると「見せてよかったのか」「話したのはどうだったか」といったことが気になり、気持ちよくなれません。
そうではなく「自分のため」の「自分の課題」についての取り組みです。親の会があればこそ、自分は元気になってきたのですから、同じひとつ屋根の下に暮らす子どもにもその話ができたら、とてもうれしいではありませんか。
たとえ最初は反発のようなことがあっても、すでに述べたように「あなたのおかげで親の会にも出会えた。ありがとう」という話なのですから、急がずにやっていくと必ずや聞いてもらえます。
そこで、ますます僕らは元気になっていけるように思います。そうした課題に取り組まないのはもったいないと思いますが、いかがでしょう。
(4)最後は、少しむずかしい課題かもしれません。でも、やはり「自分のため」に取り組んでみませんか。わが子ともっと話そう、自分の考えは押しつけずに、しかしわが子を信頼して何度でも伝えようということです。
これまでに僕が書いたものでは、「一人称でいつも自分自身について話す」の内容が一番近いです。
でも、「もっと話そう」とか「何度でも伝えよう」とは、えらく積極的な感じで新しい提案かもしれません。鹿児島の親の会では、子どもへのかかわり方として3原則(子どもの状態を異常視しない、子どもの言いなりにならない、腫れもの扱いしない)ほか、子どもの辛さに手を貸さない、特別扱いしないなど、いわば「ないないづくし」の消極的な対応を勧めています。それと矛盾しないでしょうか。
矛盾しません。以前、僕は次のようにも述べています。
「子どもは、いつも親の笑顔や元気を願っています。親は子どものことでは何もしない。何もしないでいられるのはわが子を信頼できているからです。そうして、親は自分自身のことに一生懸命になる。それこそ親にできる子どもへの最大の応援でもあります。子どもは、親に気をつかわずに、じっくりと自分の今と向きあうことができるようになります」。(2008年、47ペ)
子どものことでは「何もしない」と消極的ですが、自分自身のことについては「一生懸命に」と前から積極的です。「話す」とか「伝える」ことは、親自身の課題です。自分のために、自分が納得してきたことを話し伝えて、さらに元気になっていこうということです。
でも、親の話を聞いてどうするかは子どもの自身のことですから、子どもに判断は委ねられます。だから、説得やわかってもらうことが目的ではありません。
もちろん、「ああ、そうか。お父さん(お母さん)の言うとおりかもしれないね」となれば、とてもうれしいですが、そうならなくても、話ができただけで、聞いてもらえただけで「うれしい。ありがとう」でしょう。
そういった取り組みもしませんか。
子どもの状況いかんで、ここは「親の出番だ」という場面が少なからずあると思います。そうした時でも、親がなにもしない、言わない、見て見ぬふりというのは、わが子を信頼していません。それは、3原則に照らしても、腫れもの扱いや特別扱いしていておかしいんです。普通にわが子に接したらいいのではないでしょうか。
以上、ご検討をよろしくお願いします。
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