登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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一人称でいつも自分自身について話す


内沢 達


2010年6月例会


(家出を繰り返している娘さんにも「学校には行ってほしい」という初参加のお母さんに)

家出を心配されていますが,しないようにと実家まで連れて行っても,娘さんがしようと思えばいつでもできます。おじいちゃんの家だからといって,つなぎとめておけるわけではありません。24時間監視なんてことももちろんできません。娘さんを信頼して,自分の家で好きなように過ごしてもらうことが大事ではないでしょうか。


家出を繰り返したり,他にも「この子はおかしくなったのではないか」とまわりが思っちゃうようないろんな行動をする。そうすると普通みんな心配します。そして,専門家もだまされてしまいますが,じつは心配しないといけないようなことではありません。


ときに家出をしないと,記憶喪失のふりもしないとまわりが自分のほうを見てくれないからです。「私はこんなにもいま大変なの!」とアピールしているだけなんです。とてもわかりやすい辛さ,苦しさのあらわし方です。だから,「そうね。きついね。大変ね」とあいづちを打つだけでいいんです。「この子をなんとかしてあげなければ・・・」などと思って余計なことをするとこんがらかってきます。


先ほどのNさんもそうでしたが,親の暴力,それはいけませんので反省するところは大いに反省してください。そして,その点では子どもさんに謝ってください。何度でも謝ってください。でも,「謝ったんだから,元気になってくれ,おちついてくれ」というのは,親の勝手すぎる勝手です。


僕が書いた一番長いのが「ことわざ・格言と登校拒否,引きこもり」です。その9項目が「負けるが勝ち ─ 親は子どもに降参し,謝って,“ありがとう”と言えるか」となっていて,その部分だけ特別にプリントしたものもありますのでご覧いただきたいと思います。


問題は子どもにはありません。かといって,では親が問題だといっているわけでもありません。そりゃ我々親にはいたらないところがたくさんあります。でも,だから不登校になった,だから引きこもりになったということではないんです。


そもそも不登校は犯人探しをしなければいけないような悪いことではないんです。大人であれ子どもであれ,不登校や引きこもりを問題視する見方こそ,じつは問題なんです。子どもは子どもでその見方をやがてはあらためていくようになります。

親の役目は子どもを説得することではありません。だいたいそんなことをできる人はこの世に一人としておりません。人間はみんな主体的ですから,自分で納得し了解していくものなのです。


だから,親が以前暴力をふるったのであれば謝るのは当然ですが,それは何のためかというと子どものためではないんです。自分自身のためです。やがては親の謝罪も本物になって,子どもも許してくれて,子どものためというよりも,子どもにとってもいい結果になっていきますが。でも,我々が相手に悪いことをしたとき謝罪するのは,それ自体当然のことだからです。なにか目的とかその効果を考えるようでは本当の謝罪とはいえません。


僕らは,相手がわが子であれ他人であれ,人が人を変えることはできない,あるいは変えようとしてはいけないと思っています。でも,自分自身だったら変わろうと思ったら変わることができます。かつて,わが子を見ていて「もっと自分を大切にして,ゆっくりしていいのに」と思った自分自身が,では「自分を大切にして,ゆっくりしていたか?」というと,そうではなかったのです。


わが子の不登校や引きこもりをきっかけとして,僕らは以前と比べてはるかに自分を大切にするようになったんですね。だから,僕らはわが子に「ありがとう」と言えるんです。  親は親自身の課題に取り組む,自分自身のことに一生懸命になるというのは,そういうことです。子どもの幸せや笑顔を望まない親はいません。でも,望めば実現するものではないでしょう。


今年1月〜2月の例会でアランの幸福論をいっぱい紹介しました。その一番の核心は次の言葉です。「われわれが自分を(が)愛する人たちのためになすことができる最善のことは,自分が幸福になることである」。要は自分が幸せになることです。それは,むずかしいことではありません。自分のことで自分次第なんですから。子どもからすると,いままで親に心配ばかりさせて「悪いな〜」と思っていたところ,親から「あなたのおかげで,お父さん(お母さん)は明るく元気になってきた。ありがとう」と感謝されるわけですから,これは子どもにも悪いことがあろうはずありません。


先ほど,TKさんが息子さんに「親の会のホームページを見てね」と言ったと話されました。自分がいいと思ったことを話すのは自然です。遠慮はいりません。どんどん話されたらいいと思います。ただそのとき大事なのは「一人称」で話すことです。「お母さんはこのHPをとっても気に入っているの!」「お母さんはこの頃元気でしょう。それも親の会やこのHPのおかげなの」「どこが気に入っているか,ちょっとお母さんの話に付きあって」などと,自分中心に,自分の話をされたらいいんです。


一人称の「お母さんは」ではなく,これが二人称の「あなたは・・・」となってはいけません。「あなたのために」となってはさらに絶対にいけません。とんでもないお節介です。それでは押しつけです。そうではなく「お母さんのために見てよ」となると,これは押しつけではありません。自分が自分の課題に取り組んでいることになり,子どもは「へぇー,お母さんはそうなのか」と押しつけを感じないですみます。子どもは自分の意思を自由に持ち続けられます。

僕らの会が大事にしている考え方は,親であれ子どもであれ,自分が自分自身を一番大切にするということです。「自分本位」が大事で,わかりやすくはもっともっと「わがまま」になるということです。人との関係でも,自分中心に,自分のことを思って,自分のことをどんどん話していっていいんです。

そんなに自分のことばかりでいいのか? 相手のことは考えなくてもいいのか? と聞かれると,もちろん相手のことも考えたほうがいいです。でも,それはほとんどの場合「相手のために」と考えることではありません。「子どものために」と思って考えやったことが,「子どものために」なっていないことがどれほど多いか。そのことからも言えます。


だいたい自分中心に,自分第一に,自分のことを考えてやっていくと人間関係はそうおかしくなりません。そうではなく「相手のためを思ってやっているのに・・・」という身勝手な「他人本位」の考え方が関係を本当におかしくさせます。相手は相手で,自分本位に,自分第一に考えてやりますので,相手のことは相手にまかせることがあたりまえです。


突然話が飛ぶと思われるかもしれませんが,けっして飛んでいません。みなさんにも経験があると思います。僕の場合は40年以上も前です。好きな人がいて,その人に「好きだ!」と告白しました( ―――
「私のことよ!」(トモちゃん)「違います。最初は・・・」笑)。


若いときはとくにそうだと思いますが,「好きで好きでたまらない」という自分の気持ちを押さえ込むことなどできるものではありません。そこで告白することになりますが,そのとき相手のことを考えていないかといったら,まったく考えていないわけではありません。「もしかしたら僕から言われたら,そのこと自体嫌なんじゃないか」くらいは相当にうぬぼれが強い人でも少しは思うと思います。


でも,そんな心配や不安に負けないのが「告白」というものです。この意思表示こそ,自分本位,自分第一の典型です。自分の気持ちをとにかく伝えたいという一心です。相手のことはほとんど考えていないというか,考えようもないんです。さてそんな「わがまま」でうまくいくのでしょうか。恋路はどうでしょうか。恋路に確かなことはほとんどないと思いますが,さて結果はどうでしょうか。うまくいかないことのほうが断然多いように思いますがどうでしょうか。僕はうまくいきませんでした(笑)。


では,うまくいかなかった,ダメだったからといって,二人の関係がそのことによっておかしくなるでしょうか。恋路が成り立たなかっただけで,人と人の関係がおかしくなったわけではありません。自分の「告白」に対して,よい答えは返って来なかった。それは残念至極ではありますが,まずは「自分の気持ちを言えた」「伝えられた」ということに普通は満足します。


断った相手のほうだって,「言われるのなら,別の人からがよかった」(笑)ということがあったとしても,よほど印象の悪い人からでない限り,そのこと自体ふつうは悪い気はしないのではないでしょうか。うまくいって「私(僕)も同じ気持ちです」ということになれば,もちろん万々歳です。でもそうならなくても二人の,人と人の関係はおかしくはならないというのが普通ではないでしょうか。


「いつも自分が自分自身をどうしたいのかを優先させて,ことを考えていくとけっして人間関係はこんがらがってきたり,おかしなものになったりはしない」という好例ではないかと思って紹介しました。


TKさんはアイドルグループ「嵐」の大ファンとのことですので,その話もいっぱいされたらいいと思います。いや,自分自身のことだけでなく息子さんのことだって,息子さんが付きあってくれるのであれば,話されてかまわないと思います。そう簡単には付きあってくれないかもしれませんが,ポイントは「あなたは」という二人称ではなく「私は」「お母さんは・・・」という一人称の形で,息子さんではなく自分自身の課題として話すことです。先ほどの「親の会のHPを見てね」という話も,息子さんに対してですが,堂々とあっけらかんとそういった話をすることができるか,じつはわが子への信頼がほんものかどうかが問われる,やはり自分自身の課題です。


僕は4月例会では,妙子さんの場合について話しました。薬漬けの息子さんに,「お母さんはあなたのことが心配なの」といった話し方はもちろんいけません。そうではなく,「お母さんは,あなたのおかげで鹿児島の親の会に出会うことができ,とっても自分を大切にするようになった。ありがとう」といった話し方です。妙子さんはすでに何度か手紙も含めてされています。息子さんの誕生日に「おめでとう。ありがとう」といったお祝いと感謝のメールも送りました。


薬のことも言っていいんです。堂々と「お母さんは,あなたはどこもおかしくないし,薬は全然必要ないと思うわ」といった言い方です。薬を止めるか止めないかは息子さんが決めていくほかない息子さんの課題です。でも,息子さんを信頼して,「薬なんかなくたって大丈夫! お母さんは確信をもってそう思うわ!」と言えるようになるかどうかは,やっぱり妙子さんの課題です。


そういうことで,僕らは今後とも,僕ら自身のわくわくについて交流していきたいと思います。そのわくわくは,子どものことが関係しているように見える場合であっても,やっぱりそれは自分が自分自身の課題にどう取り組んだかが中心になると思います。




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最終更新: 2014.10.26

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