登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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隠さないで、
親の会の本やニュースは堂々と!


内沢 達

1997年5月・月例会プリント資料   


 4月の例会で、話題になったことの一つは、子どもにも、親の会が取り扱っているようなイイ本やニュース・資料などを見せたほうがいいのか、それとも少し待ったほうがよいのか、ということでした。
 「みなさんのお家ではどうしていますか?」と状況を出し合ったところ、ご家庭によって様々でした。


 かなり早くから親子ともども本やニュースに埋まっているようなお家もあれば、また「うちの子にはちょっと早いのでは?」と躊躇されているお家もありました。

 世話人のひとりとして、このことに関連して、考えをのべさせていただきます。
 親にとってイイものを子どもにすすめない話はありません。
 私は、当然にも、見せたほうがいいという考え方をします。
 私の言い方では「見せる」というよりも、「見てもらう」という言い方になりますが、子どもさんに「見てもらう」ことは、じつに自然なことです。


 ただし、見てもらおうとすることが、子どもさんにとって、親からの「押しつけ」と受け取られるようでしたら、せっかちになってはいけないと思います。
 後で述べるように、子どもさんが「見よう」と思ったら「見る」ことができるようにしておいて、その時期が来るのを待ったらよいと思います。


 「見せる」とか「見てもらう」とか、そんなことは表現のちょっとした違いだけかのようにも思われるかもしれませんが、そうではありません。言葉の使い方には、とても大切なものがあります。


 「見せる」という言い方はそれほどではないのですが、「読ませる」などとなったら、これはもう完全に押しつけです。だいたい、そういうことでは、子どもはまったく「読もう」としないだけでなく、見向きさえしません。「読ませる」のではなく、「読んでもらう」のです。この二つの言い方には、天と地ほどの、違いがあります。


 大人同士でも読ませられたら、どうでしょう。どんなにイイ本であっても、そう思えるでしょうか。大人にとってイヤなことは、子どもにとっても同じですから、絶対に「読ませる」と言ってはいけません。
 大人同士でも読んでもらえたら、とてもうれしいので、子どもにも読んでもらえるようにしていきましょう。


 それでは、どうしたら、「見てもらえる」「読んでもらえる」ようになるのでしょうか。
 そのためには、まず、子ども自身が「見よう」「読もう」と思ったら、見られるところに本などがある、置いてあることが当たり前のことながら、肝心です。


 ところが、日頃、そうなっていないお家が少なからずあるようです。そうしたご家庭では、このことを具体的な問題として、一番に、考えていただきたいと思います。
 例会では、見せたらよいのか、それとも見せると反発してきていっそう辛くさせてしまうから見せないほうがいいのか、が問題になった感がありますが、ほんとうの問題はそこにはありません。


 ある一時に、見せる・見せないではなく、日頃、親が勉強したり、話し合ったりしていることを子どもには伏せ、隠していることがじつは問題だったのです。
 隠しているということは、口でなんと言ったって、親御さん自身が未だ登校拒否を部分的にであれ、否定的に見ているなによりの証拠です。


 その親御さんから、ときに「理解のある」言葉をかけられても、「なに言っているんだ!」「お父さん(お母さん)なんかに僕(私)の気持ちがわかるか!」ということになります。
 子どもも揺れていますが、親もそうです。例会に参加して、やっぱりこれでいいんだと思っても、時間がたつと、そうかなとまた揺らぎがはじまります。


 だから、いっぺんに完全にはできないかもしれませんが、一度、思いきって、やってみてください。
 子どもさんにもわかるところに、ビデオも含めて、ずらっと並べてみてください。
 見る、見ないは、当然にも子どもの意志にゆだねられます。


 次の課題は、そういうことをする考え方についてです。
 これは断じて、子どものためではありません。
 子どものために、そうするという考え方では、まずなかなか踏ん切れないでしょうし、そこには「押しつけ」がありますので、やったとしても失敗に終わります。
 子どものためではなく、もしも誰かのためというのであれば、それは自分自身のためにです。


 自分自身がよいと思えたこと、納得できたことを隠さないで、オープンにする。親自身の確信の表明としてやっていただきたいと思います。「確信」とまでは、とてもではないが言うことができないということでしたら、自分自身がかかわっていることなので、そうするということです。


 親の会についても同じことが言えます。
 親の会は、まさに親のためにあります。
 例会などへの参加が、結果として、子どものためにもなるということであって、まずは親自身のためにあることを忘れないでいただきたいと思います。


 もし、なんの疑問もなく、自分は「子どものために、例会に参加している」とお考えになっているとしたら、それは、とんでもない考え違いですので、考えなおしていただきたいと思います。
 「子どものために」と考えられているから、隠してしまうことにもなります。このことは子どもさんの立場になって考えてみられるとすぐにわかると思います。「父や母は、僕(私)のことで出かけている!」。これほど子どもにとってイヤなことはありません。


 そうではなくて、「お父さん(お母さん)は、お父さん(お母さん)のことで、出かけている」のであれば、隠す必要もまったくないわけです。私たちは、登校拒否を特別なことと思っていませんし、子どもたちの、まったく自然な一つの歩みだと考えていますので、こうしたことについても自然にやっていきましょう。


 例会は、日曜日に、たとえばお父さんが好きな釣りに出かけるのとまったく同じではありませんが、じつはほとんど変わりがないと言ってよいと思います。


 悩みを出し合うことも含めて、そこに参加するとリフレッシュできる、親自身とって、イイひとときであるという点では、同じです。
 そこで、イイものを仕入れてきた、読んでみてとてもよかったということでしたら、本などを堂々と並べてみましょう。それは、たとえばお母さんがフラワーショップで買ってきた鉢植えを気持ちよく並べるのとなんの違いもありません。


 すべては子どもの(が、は)問題なのではなく、絵本作家の五味太郎さんが言うように、「大人の(が、は)問題」だと思います。
 わが子の登校拒否も、それは子どもの課題なのではなく、親が自分自身の課題として受けとめたとき、大きな転換もはじまっていくように思います。





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最終更新 : 2012.4.7
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