登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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登校拒否を考える

〜登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)8周年にあたって〜


1997年6月 内沢 達(鹿児島大学教育学部・教育学)




 
このところ、学校に行こう、行かなくてはいけないと思っても、行くことができない、またそんなところには行かないよという、登校拒否の子どもたちがどんどんと増えてきています。
 私たちの会は、いまから8年前、1989年の5月にわずか3家族でスタートしましたが、月一度の例会を続けてきて、今では、会員家族が60家族をこえるようになってきています。


 それは、登校拒否の子どもたちが年々増え続けている反映でもありますが、私たちの会の考え方への支持と共感の広がりのようにも思います。
 鹿児島の親・市民の会の8周年にあたって、あらためて、登校拒否についてどのように考えたらよいのか、その基本的なところをいくつか述べてみたいと思います。
なにかのご参考にしていただけますと幸いです




 じつは登校拒否を「問題」視しているところに一番の問題がある!

2 社会とのギャップの拡大、学歴価値の低下ー登校拒否が増える背景ー

 学校に行くことは権利であって、義務ではありません

 親がずばり「行かなくていいんだよ。休もうよ。」と言えるか

 わが子のあるがままを認める。進級・卒業はちゃんとできます

 学校・教師にのぞむこと





1 じつは登校拒否を「問題」視しているところに一番の問題がある!


 
ふつう登校拒否というとそれはまさに、学校に行けない、あるいは行かない子どもの問題だと考えられています。
 しかし、私はそのような考え方をとりません。いまの子どもたちになにか問題があって、学校に行けなくなっていると考えることはできません。


 私は、子どもに問題があるどころか、反対に、登校拒否はいまの子どもたちが健全に育っていることを証明している、とさえ言ってもよいように思っています。
 文部省の学校不適応対策調査研究協力者会議は、すでに6年以上も前に「登校拒否はどの子にも起こりうる」との見方(中間報告・1990年12月、最終報告・1992年3月)を明らかにしています。


 これは、それまで「本人の性格傾向などから何らかの問題があるために登校拒否になるケースが多いと考えられがちであった」一般の認識について転換を求めるものでした。


 協力者会議の主査を務めた坂本昇一さん(千葉大学名誉教授)は、「登校拒否問題では、しばしば“学校不適応”という用語が用いられる」「しかし、見方を変えれば、学校が子どもに適応していないとも考えられる」と述べ、登校拒否は「子どもに対する学校の不適応問題ととらえて」、「求めるものは、現在の学校のあり方の検討であり、変革である」とも言っています。(参照1)


 ところが、そのような見方は未だ、一般的になっていません。
 依然、登校拒否を「なおす」とか「克服する」といった言い方がよくなされるように、これを「個人病理」のように、マイナスイメージで否定的にとらえる見方が圧倒的に多いのが現状です。


 登校拒否をいわば「治療」の対象とみなす「専門家」も後を絶ちません。
 登校拒否をそのように「問題」視し、学校に行かない子どもをなんとかしなければと考えているところに、じつは一番の問題があります


 子どもたちが「行けない」「行かない」対象は学校ですから、こんにちの学校状況を横においてしまったのでは、登校拒否の原因・理由も説明することはできません。
 たとえば、学校にはいじめがあり、またつまらない校則や教師の体罰の問題もあります。学校には多かれ少なかれ、管理主義的な、また競争主義的な雰囲気があって、それはいまの子どもたちがとくに嫌うところでもあります。


 そうした学校に「行かなくてはいけないと思っても、行くことができない」子どもが増えていることは、子どもの立場になって考えるとなんら不思議なことではなく、異常なことでもありません。
 多くの「専門家」たちの目は依然、かなり曇っていると言わざるをえませんが、渡辺位(たかし)さん(元・国立精神神経センター国府台病院精神科医長)の見方は違っていました。


 渡辺さんは、早くから、登校拒否の子ども自身は、怠惰でも無気力でもないむしろ子どもが直面している学校状況にこそ不登校発現の要因が求められることから、登校拒否は子どもの自己主張であり、教育の歪みに対する訴えとして耳を傾けるべきであると述べ、この問題を子ども中心に考える先駆的な見方を明らかにしていました。


 渡辺さんによると、登校拒否は、子どもが学校状況に直面することで感じる危機感から、無意識のうちに不安で学校に行けないようになる、子どもが自分を守るための本能的で無意識的な防衛的回避反応だというのです。(参照2


 私も、この8年間の親御さんとの相談活動や子どもたちとの出会いから、そのように思います。登校拒否の子ども自身に問題があるわけではなく、また親のそれまでの子育てにも特別な問題があったわけではありません。
 登校拒否は、じつは特別なことでもなければ、あとからやや具体的に述べるように対処法がむずかしい問題でもありません。


 むずかしさがあるとすると、それは「専門家」も含めて大人たちが「子どもは学校に行って当然。行かないのはおかしい」とこれまでの「社会常識」にとらわれ、その思い込みからなかなか抜け出すことができないところにあります。


 登校拒否には確かに問題もあるのですが、それは子どもが学校に行かないということ自体にあるのではありません。そうではなくて、子どもにもいまの社会のおおかたの価値観が反映していて、子どもが、学校に行けない自分自身を責め、「ぼくは(私は)だめな人間なんだ」と思い込んで、自己否定的になるところにあります。


 人間だれしも自己否定をして、人生を元気に楽しくやっていくことはできません。それは、子どもも同じです。
 まわりの大人たち、とくに親が、子どもの訴えによく耳を傾け、学校に行かないことを無条件に認め、受け入れていくことが肝要です。


 そうすると、家でゆっくり休んで、子ども自身も、やがては「これでいいんだ!」と思えるようになってきます。
 学校に、「行けない」のではなく、「行かない」ということになると、これは「学校に行かないで生きる」というひとつの立派な選択です。
 そうした子どもの人生を誰が否定できるというのでしょうか。



2 社会とのギャップの拡大、学歴価値の低下
  ー登校拒否が増える背景ー



 
学校状況に問題があって子どもたちは行けなくなっているのですが、それにしてもこの間の増え方をどのように考えたらよいのでしょうか。


 登校拒否は、およそ20年前、1970年代の後半から増えはじめました。その後について、たとえば1985年と95年のデータを比較すると、「学校嫌い」を理由として年間50日以上欠席した児童生徒数の割合は10年間で、小学校で3・8倍、中学校で2・5倍にもなっています。


 この間に学校状況が悪化の一途をたどったのでしょうか?
 公平にみて、そのように言うことはできないと思います。批判もあって、校則の見直しが進んだことなど、部分的であっても、改善がなされていないわけではありません。教師の体罰も以前よりは少なくなってきています。


 では、なぜ登校拒否がうなぎのぼりに増えてきているのでしょうか。
 この問題に対する私の答の一つは、社会と学校のギャップの拡大、という見方にあります。


 時代は移り変わり社会は大きく変化してきています。なんだかんだ言っても、過去の時代と比べるといまの社会は格段によくなってきています。暮らし向きの点でも、また人々が多様な価値観を認めあい、個性が尊重されて、より自由に生きていける方向になってきている点でも。それがほんとうの「豊かさ」なのかどうか、種々の議論はあるにしても、暮らし向きがよくなってきていることなどは、だれも否定できないでしょう。


 一方学校も、部分的な改善はなされているし、まったく変わっていないわけではありません。しかし、学校というところが、昔よりも悪くなってきているわけではなくても、まわりの社会の変化から遅れがあって取り残されているとするとどうでしょう。
 結果として社会との間の溝が広がったとも言えるのです。


 以前は、社会一般の人々の生活ぶりにも多かれ少なかれ画一的なものがありましたので、学校の画一性がとくに意識され、問題にされることも少なかったのです。しかしいまでは違います。一方には、大人たちが昔に比べるとはるかに自由に多様な生き方を探求していくことができるようになってきた社会があり、子どもたちにもそのことが見えています。


 そうしたときだからこそいっそう、以前と比べて悪くなってきているわけではなくても、こんにちの学校状況が問題となるのです。子どもだからといってどうして四角四面な学校に縛られなければならないのか、そんな、意識的また無意識的な疑問や反発が子どもたちの間に広がっています。登校拒否がどんどんと増えてきた背景には、そういった社会と学校のギャップの問題が横たわっています。


 もう一つ大きな背景として、学歴価値の低下ということがあります。(参照3)
 科学史・科学教育が専門で「たのしい授業」の提唱者でもある板倉聖宣(きよのぶ)さん(国立教育研究所名誉所員)は、「明治以後の日本の学校教育の学習意欲は、学歴主義によって支えられてきた」と言います。


 いまでは「学歴と学力とは違う」と言われることが少なくありませんが、過去には「学歴は学力を反映していた」と考えて間違いない時代がありました。そうしたときは、自分の出世のためにも、「学ぶこと自体が楽しい」と思われなくても、「競争して勝つ楽しさ」があったりして、「きびしい勉強」の成果も期待でき、それに耐えることができました。


 しかし、高い学歴をもつ人びとが増えると、同じ学歴でも、学歴のもつ価値がだんだんと低下してきます。板倉さんは、「昔は中学(旧制)を出ていれば、必ず部長になれたのに、いまは大学を出ても課長どまり、ときには課長補佐どまり」ということになったり、「課長や部長になっても給料がそれほど高くなるわけではない」ということが見えてくると、「高い学歴のためにきびしい勉強に耐える」というのは馬鹿らしくなってくるとも言います。


 私には、子どもたちがそのへんも敏感に感じとっているように思われます。「うちのお父さんは、大学をでているのに、たいしたことないなー」とか、「お父さん、お母さんは、高(中)卒だけど、うちの暮らしはちゃんとしているじゃないか」などと。


 昔は絶対的な存在であった学校というものに対して、いま、子どもたちの見方が変わりはじめています。
 私は、登校拒否というものが、子どもたちが無意識のうちに、私たち大人に対して「そんなに学校、学校といって、学校での勉強にこだわらなくても、この世の中をちゃんと生きていけるよ」と訴えているあらわれのようにも思われます。


 先に登校拒否が増えはじめたのは、70年代の後半だと記しました。この時期は、日本の教育史上、学校制度がほぼ量的な普及を終え、高校・大学進学率もピークに達して、その後停滞していく境目の時期でもあります。


 以前の学校は、教育の内容にそれほど中身はなくても、高い学歴への志向によって支えられてきました。その根底がくずれてきているわけですから、これからはそうはいきません。


 子どもたちの学校離れが進み、登校拒否が増えていることは、以上から、ややおおげさに表現すると歴史的必然とまで言うことができるかもしれません。




3 学校に行くことは権利であって、義務ではありません


 ところで、大人たちの「子どもは学校に行って当然!」と考える思い込みは、この際、考え直していただかなくてはならないと思います。
 どうも、子どもが学校に行くことは、義務であるとなんの疑いもなしに考えておられる方が少なくないのですが、それは権利であって、決して義務なんかではありません。


 「えっ、じゃ、義務教育って、いったい何なの?」ということにもなりますが、義務教育を受けること、つまり、小・中学校に行くことも、もちろん権利です。義務教育という言葉の「義務」という表現に、多くの人々が惑わされていますが、日本国憲法や法律(教育基本法、学校教育法)のどこをさがしても、子どもに義務を課した定めを見つけることはできません。


 義務教育の「義務」とは、「保護する子女に普通教育を受けさせる義務(子女を就学させる義務)」を親・保護者に課したものです。


 いまではほとんど考えられませんが、昔は親の勝手な都合で学齢にたっしても子どもを学校にやらないということがありました。そのようなことがないように、最低限9年間の普通教育については、どの子にも教育を受ける権利が保障されるようにと、親・保護者に義務が課されました。これが、法律上の義務教育の理解の仕方です。


 ところが高校も含めて、「学校は病気でもなければ休んではいけない」「とにかく行かなければならないところだ」といった観念がひろくあります。日常の理解として、大人も子どもも学校に行くことを義務だと思いこんでしまっているのです。


 子どもが学校に行くこと、そしてそこで教育を受けることは、間違いなく権利です。
 憲法にも「国民の教育を受ける権利」が明記されています(第26条第1項)。
 そして「権利」とは、行使してもよいし、行使しなくてもよいものです。


 権利を行使することばかりを考えて、行使しないことを考えなければ、それはやがて「行使しなければならない」という理解になってきます。「しなければならない」となるとそれは「権利」の理解の仕方とは言えず、「義務」とほとんど変わらなくなってしまいます。


 一般に、権利や自由の問題は、「〜する権利(自由)」だけではなく、「〜しない権利(自由)」をあわせて考えなくてはなりません。たとえば信教の自由の問題がその好例で、神や仏を信ずる権利だけでなく、信じない権利もあって、はじめてそれが自由と言えるわけです。


 子どもは「教育を受ける権利」の主体ですから、学校に行く、行かないも、子ども自身の意思を大切にしていかなくてはなりません。権利の行使は、たえず選択的です。


 子どもが学校に行くときは、行くことがいまの自分にとってプラスになる、自分のためになる、だから行くんだというように、子ども自身が考えられる場合がよいのです。小さな子どもだと、そこまでの自覚は無理ですから、そのときは大人のほうの理解の問題としてこのことを受けとめていただきたいと思います。


 端から見ていても学校がたのしそうだ、気持ちよく自然に足が向いている、そういう場合には学校に行き、通い続けるようにしたらよいのです。そうではなくて、行くことが苦痛だ、足どりも重たい、そういうときは無理をする必要はまったくありません。


 大人のほうの理解で言えば、いま現在、子どもが学校に行くことのプラスの面を見いだしがたい、あるいはマイナスの面のほうがはるかに大きそうだという場合です。そのときには、子どもが「学校に行く権利」を行使しない自由、おなじことですが「学校に行かない権利」の行使を認めていくことがとても大切だということです。


 このように権利というものを、主体的かつ選択的に考えていくことが重要で、子どもは、「学校に行く権利」を持っているだけでなく、行くことがいやならば、いわば「学校に行かない権利」(学校に行くことを強制されない権利)も持っており、それを行使することができるのです。




4 親がずばり「行かなくていいんだよ。休もうよ。」と言えるか


 さて実際に、わが子が学校を休みがちになったり、行くことをいやがったりしたとき、どうしたらよいのでしょうか。対処の仕方について述べます。
 まず登校をうながすようなことがあってはいけません。


 登校刺激は、子どもをさらにつらく、苦しくさせます。行ったり行かなかったりしているとき、このあいだは行けたのだから、またなにかきっかけや手助けがあれば行けるようになるのでは、と思ってしまいがちですが、それは親御さんの勝手な思いにすぎません。


 子どもはよく「来週から行くよ」などと言ったりしますが、それは親を気遣って言っているわけで、本心からではありません。また担任から「学校ではとても元気にしていましたよ」などと連絡があるといっそう心を動かされますが、ほんとうに行きたいのなら、行き渋ることはありません。


 朝になると腹痛を訴えたり、また行こうとしても身体がいうことをきかなくなるのですが、真実は、親に心配をかけまいとして言った「明日は行くよ」という言葉にではなく、身体のほうにあらわれています。やはり学校に行きたくないというのが子どものほんとうの気持ちです。


 登校拒否気味の子どもさんは、親御さんの想像以上に、心身ともに疲れきっています。疲れているときは、ゆっくりと休んでもらうにかぎります。親は、いま現在苦しんでいるわが子の一番の味方になってほしいと思います。親が味方にならずして、いったい誰が味方になれるというのでしょうか。


 普通、そうしたときには親もたいへんなのですが、当の子ども本人が誰よりも苦しい状況にあることを忘れないでいただきたいと思います。私は、親がほんとうに子どもの味方になれるかどうか、その試金石のひとつは、ずばりわが子に「学校は行かなくていいんだよ。しばらく休もうよ。」と言えるかどうかにあると思っています。


 すでに述べたように、問題は、学校に行かない子どものほうにはありません。「子どもは学校に行って当然!」「行かない子どもをなんとかしなければ」と考えている大人のほうにあります。


 問われているのは、子どもではなく、大人たちの考え方であり、姿勢です。昔から、学校や学歴などには関係なく、人生を立派に生きてきた人たちがたくさんいます。「それは、昔の話だ。いまどき学歴がなければ?」との見方は、人々の意識のなかで強いだけであって、客観的事実としてそう言えるわけではありません。


 学歴の価値は低下してきていますし、ひとりひとりの人生はじつに多様で、学校にちゃんと行ったかどうかで決まるほど単純なものではないでしょう。


 当たり前の話ですが、学校に行くのは、親ではありません。行くのも子ども、行かないのも子どもです。元気に学校に通っている子どもに、親が「行くな!」と言うことがおかしいことは誰でもわかります。じつは、子どもの気持ちや意志を認めていないという点では、それとまったく同じで、学校に行きたくない子どもに「行け!」と言うことの問題に気づいていただきたいと思います。
 くれぐれも、親の勝手な思いや考えを子どもに押しつけないでください。


 登校拒否気味の子どもは、多かれ少なかれ、自分を責めています。学校に行けない、行かないことがなにかとても悪いことでもしているように思っています。


 登校拒否それ自体(渡辺位さんが言う「一次反応」)は、なんら異常なことではなく、いまの学校状況や社会とのギャップなどを考えるときわめて自然で正常なことなのに、そのような理解がまわりになく、登校刺激や叱責などが重なると、不安が増大して子どもは葛藤状態におちいります。


 その結果「二次反応」としていろいろと神経症的な様相を呈してきたりします。食欲がなくなり、みるみるうちにやせ細って、「この子は大丈夫か?」と命の心配までしなければならないようにもなってきたりします。


 さすがに、学校をとるか、子どもの命をとるかといったら、答えはハッキリしています。ところで、命と言わないまでも、いま現在の子どもの健康や明るい笑顔が他のなにものにもかえがたいことは、これまた確かなことでしょう。


 親が学校に「行けない、行かない」わが子を無条件に認め、「学校は行かなくていいんだよ。しばらく休もうよ。」と言うことができれば、子どもの気持ちがどれほど安まることかわかりません。


 親が学校へのこだわりを捨て、わが子のあるがままを認めることができれば、やがて子どももゆったりとした気持ちをとりもどしてきます。以前悩んでいた日々がうそのように家庭の雰囲気も明るくなり、子どもにも笑顔がもどってきます。


 すでに述べたように、学校は義務で行くところではありませんので、子どもが登校しないこと、学校を休むことをもっと気楽に考えていただきたいと思います。
 私は、普通一般に考えられているように、登校拒否問題の解決は子どもがまた学校に行くようになる、つまり再登校することだとはまったく思っていません。


 しかし、気楽に学校を休むことができるようになると、少し疲れをいやしてから、また学校に行くようになる、今度は無理をしないで行くようになるケースもあります。「はて、うちの子もやがては学校に行くようになる?」。それはわかりません。誰にもわかることではありません。


 また行くようになれば、それはそれで結構なことですし、ずっと行かない、「行けない」のではなくて「行かない」ということになると、それは立派な選択のひとつです。親として、「学校に行かないで生きる」というわが子の生き方をじっくりと応援していけばよいのではないでしょうか。


 いずれにしても、出発点で、学校に「行けない、行かない」わが子を認めることがとても大切です。そのことを契機として、子ども自身が「学校に行かない」あるいは「行かなかった」自分を肯定できるようにならなければ、たとえまた学校に行くようになったとしても、自己否定的な意識を引きずってしまうことになるからです。




5 わが子のあるがままを認める。進級・卒業はちゃんとできます


 さて、親御さんのなかには、わが子が学校に「行けない、行かない」ことをひとまず認めることができるようになっても、「学校に行かなくてもよいから、家で勉強をしてくれたら」と勝手な思いを抱いてしまう方が少なくありません。
 ここでも、考え直していただきたいことがあります。


 またしても当たり前のことですが、普通、学校で学ぶようなことを勉強するのは、親ではなく子どもです。つまり、勉強するのも子ども、しないのも子どもです。


 子ども自身のことなのですから、「する・しない」は子どもの意志に委ねられなければなりません。親の押しつけは禁物です。「少しは勉強したら・・・」などと言って子どもを傷つけ、また言った親自身も嫌な気持ちになってしまう、どちらにとってもよくないことを言うのはやめましょう。


 登校拒否状態にある子どもは、とくにその初期の段階では、多くの場合、とてもではありませんが勉強に手をつけられる状態にはありません。家では、教科書などを開くどころか触れようとさえしません。いまは、学校的なものをいっさい拒否している時期なのです。


 わが子のあるがままを認めるとは、学校に行かないことだけではなく、勉強しないことも認めるということです。


 さらには、昼夜逆転の生活や「だらだら、ごろごろしている」ことも、どれもわが子のあるがままですし、理由や必要があってそうしていることです。


 端から見ると「とにかくなにもしないで家にいる」と思われるかもしれませんが、子どもはなにもしていないわけではありません


 登校拒否は、増えてきているといっても、全体からみるとまだまだ一部の子どもです。
他の子ができない、していない「学校拒否」をしているんです。しばらくは休息の時期で、たっぷり休んで、心身の疲れを癒す必要があります


 そして、親の理解や支えもあって、子ども自身が、登校拒否を否定的にマイナスにではなく、これを肯定的にプラスに受けとめるようになると違ってきます。子どもは動きはじめ、なにか好きなことに熱中するようになったり、勉強も、興味がもてることや自分にとって必要だと思えるものは始めるようになります。
 その気になれば、学ぶ手段に事欠かないこんにち、勉強は、学校だけでなく家庭においても十分に可能です。


 ところで、子どもが学校に行かないと「進級や卒業のことが心配だ」ということもありますので、登校拒否の子どもの今後や将来のことにも、少し触れます。
 まず進級・卒業問題です。


 よく耳にする「年間3分の1以上欠席すると進級できない」といった規定は法令にありません。課程の修了や卒業の認定は、学校長の裁量によります。
 そこで、親が進級させてください、卒業させてくださいとはっきり意思を学校に伝えれば、中学校まではちゃんと進級・卒業できるというのが実状です(ただし、親の意思がはっきりしていないと登校の督促などがあり、子どもを苦しめることになりますので、親の姿勢が肝心です)。


 私たちの会には、最長6年余りものあいだ、小学校3年の終わり頃から、それこそ1日も行かないで、小・中学校を卒業した子どもさんもいます。
 次に中学を卒業してからのことですが、子どもが高校進学を望むならば、だれもが無試験で入学できる通信制の高校もあります。4年制で、授業料は無償、校則もありません。本県の場合は鹿児島西高通信制で、県内各地にその協力校があります。(2003年4月からは鹿児島県立開陽高校通信制です。3年以上の在籍になります。)


 勉強が好きで大学進学を考えている、しかし高校には行かない(あるいは中退する)のであれば、大学入学資格検定試験(通称「大検」)をめざします。通信制の自由コースでの単位取得との組み合わせもあります。(2005年度からは「高卒認定」試験)


 また中学を卒業したからといって、土台、ただちにどこかに身を置いたり、なにかをめざさなければならないと考える必要はありません。人生は長いわけですから、中卒後もしばらくは家でゆっくりしている、それで大いに結構かと思います。やがてアルバイトでもやってみようかということになってきたりします。


 このように登校拒否の子どもの将来も、いろいろと考えられます。しかし、それはその子自身のこれから先の人生の問題ですから、親が「ああしたら、こうしたら」と先回りして何かを用意したり、またここでも押しつけをするようなことがあってはいけません。


 情報提供は結構ですが、すべては試行錯誤も含めて、子ども自身の判断と選択に委ねられなければなりません。親が何かするときは、子どもの求めに応じてです。
 求めが法外なものではなく、親としてできることであれば、してあげたらよいと思います。


 私たちの会のベテランのひとりであるSさんは、ある月例会で、「子どもが辛いうちは、親が、子どもの前に立って、わが子を守る。落ちついてきて、動き出したら、親は、子どもの前に立ってはいけない。」と言いました. 短い表現ですが、登校拒否のわが子にどのように接したらよいのか、ポイントを端的についていると思います。


 さて、どの子にとっても未来は不確実です。不確実な未来のために、いま現在を犠牲にしてはいけないということを強調しておきたいと思います。今というときは未来のために(だけ)あるわけではありません。十歳の子には十歳という、十五歳の子には十五歳という、いま現在に価値があるのではないでしょうか。


 登校拒否の子どもの場合、学校に行っていない、「行かない」という現在がまわりから認められ、子ども自身も「これでいいんだ」と思えるようになる。家族がそれぞれ、学校に行く子も行かない子も互いに認めあって、毎日をたのしく送る。親も親自身の仕事や生きがいなどに打ち込んだらよいと思います。
 
そのような家庭の子ども、いま現在の自分に素直に、たのしく毎日をすごそうとする子どもに未来が開かれないはずがありません。



6 学校・教師にのぞむこと


 おわりに、学校・教師にのぞむことをいくつか記します。
 まず、学校と教師の側でとりわけ心得ていただかねばならないことは、登校刺激を加えないことです。子どもと家族を追いつめるようなことをしてはいけません


 たとえば、近所の子を迎えに行かせることもやってはならない登校刺激です。それは、以前からの友だちが自然にその子の家に遊びに行くことと同じではありません。


 また教師は励ましのつもりかもしれませんが、クラスのみんなに手紙を書かせることも問題です。
 学校に「行かない」子にとっては、まったく余計なお節介ですし、また登校拒否の初期の段階で「行かなければいけない」と思っていても「行けない」子にとって、普通に学校にかよっているクラスメートから手紙を受けとることがどれほどつらいことか、ちょっとでもその子の立場になって考えるとわかることでしょう。
 書かされるクラスの子どもたちにとっても理由がないことです。


 「熱心な先生」ほど、なにかをしなければと考えがちですが、その子と家族に対して特別なことをする必要はありません。あたたかく見守ってほしいと思います。


 それでも、できることがあれば何かをと考えている方がおられるでしょうから、少し付け加えます。春先の家庭訪問とは別に、教師がその子の家に行くことがあるかもしれませんが、それは間違っても登校を促すことであってはならないことはもちろん、再登校の準備であってもいけないということです。


 学校の影を引きずってくる教師は、まず間違いなく子どもから拒絶されます。そこで登校拒否というものをマイナスイメージで考えない、その子の現在をそのまま認めることができる教師だけが、ときに話し相手や遊び相手になれることがあります。


 もし子どもが欲しておれば、その子の登校・不登校に関係なく、つきあっていただきたいと思います。また親御さんが子どものことを心配していれば、「いま、お家で元気にしている。それが一番じゃないですか。」と言える教師であってほしいと思います。


 いま学校では、保健室登校なども熱心に勧められている現状があります。それも登校刺激のひとつですからやめていただきたい。子どもは「保健室だったら(かろうじて)来れる」などと無理をしているわけですから、そっと「無理しなくていいんだよ。ゆっくり家で休んだら。」と言える“保健の先生”であってほしいと思います。


 さて、すでに述べたように登校拒否は、こんにちの学校状況とも深くかかわっており、子どもの不適応というよりも「子どもに対する学校の不適応」と捉えるべき問題でもありますので、学校の現状は大きく改めていただかなくてはなりません。


 たとえば教師の体罰や暴言をなくしてください。
 合理的な理由がない校則で、子どもたちをしばりつけることもやめてください。
 いじめの問題にも適切に対処していただきたいと思います。


 また、学校というところは何はなくても勉強をするところですから、子どもたちが学んで楽しい、賢くなったと感ずることができる授業を実現して行ってほしいと思います。


 それらは、登校拒否の子どもが再登校できるようになるために考慮されねばならないことではありません。もともと、どの子にとっても大切なことであるから、なされなければならないのです。


 登校拒否の子どもにどう対処したらよいのか、これまでに述べてきたことから、すでにある程度は、おわかりいただけるのではないでしょうか。それが特別な対処法を必要としていないこと、教師もこれまでの「社会常識」や思い込みから抜け出すことができれば、だれもが、ごく普通にかかわっていけることです。


 先の協力者会議の報告のなかにも、「特別な心理診断や心理療法等を行うことに意味があるのではなく、一人一人の児童生徒をありのままに受けとめ・・・」とあります。この「ありのまま」という記述は何度も登場します。よって、そのことだけでも結構ですから、それこそ「ありのまま」受けとめていただきたいと思います。



参照1 坂本昇一「登校拒否にどう対応するか」、エイデル研究所「季刊教育法」第88号、1992年春季号、参照。

参照2 渡辺位編著「登校拒否・学校に行かないで生きる」(太郎次郎社、1983年)参照。

参照3 板倉聖宣「授業における“たのしさ”の意義」(仮説社・月刊「たのしい授業」第142号、1994年6月号)参 照。




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