登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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「子どもの人権を守る鹿児島県連絡会ニュース」第36号(1997年8月25日発行)に掲載。


不登校・家庭内暴力を考える
  〜「治療施設」への疑問〜          内沢 達



 先般閉会した国会で児童福祉法の一部改正がなされた。私にも危惧の念がまったくなかったわけではない。
 しかし、六月二十四日付け南日本新聞が報じたような動きがこの鹿児島であろうとは、まったく知らず驚いた。


 九州では初の「情緒障害児短期治療施設」(児童福祉施設の一つ)を、今回の法改正により対象を二十歳まで引き上げ、不登校や家庭内暴力の子どもも入・通所する施設として、県が設置(社会福祉法人を認可)していくという。


 たしかに、不登校や家庭内暴力で悩み、苦しんでいる子どもと親は、たくさんいる。そこで、そうした「施設」があってもよいのではないかと思われるかもしれないが、違う。
 特別な施設を用意することは、不登校に対する誤解や偏見を助長し、子どもや親たちをいっそう苦しめることになる


 文部省の調査研究協力者会議は、すでに六年以上も前に「登校拒否はどの子にも起こりうる」として、それまでの特別な子どもの、特別な問題と考える見方の転換をうながした。厚生省は、未だ、これを特別視している。


 子どもが学校に行けない、行かないという不登校(一次反応)自体は、何もおかしなことではない。このことに理解がなく、登校刺激が重なると二次反応として、家庭内暴力、チック、拒食・過食、閉じこもりといった行動をするようになる。
 しかし、これらとて、決して異常なことではなく十分に理由があることであって、否定的に見るべきではない。


 子どもは、無意識のうちに自分の辛さ、苦しさをわかってほしいと訴えているのだ。それらは、理解すべき対象であって、断じて「治療」の対象としてはならない。以下、とくに家庭内暴力のことについて述べてみる。



 普通、親は、わが子が不登校になると困惑する。自分たちの子育てに問題があったのではと悩み、落ち込んだりもする。しかし、子どもの不登校の責任は親にはない。かといって、単純に「学校に責任、問題がある」とも私は言わない。


 今ここで問題にしたいことはその先である。親は、わが子の不登校をなかなか認めることができず、嫌がるわが子を何度も何度も学校に行かせようとしなかったか。多くの場合、親は子どもに無理強いをしている。


 ところで子どもはというと、じつは、うわべとは違って、誰よりも「学校に行けない」自分自身を一番責めている。年齢や学年・学校段階が上になるほど、それが強くなる。自分を責めているところに、親から「また休むの!」と叱責され、たとえ不登校が一時認められたとしても「少しは勉強をしたら」と言われ続けたらどうなるだろうか。


 教師の「善意」でクラスメートから「励まし」の手紙が届けられることもある。不登校の子どもは必死になって、みんなが通っている学校に「自分も行かねば」「勉強もしなければ」と思っているのだが、そうすることができない。それができない自分、自分自身を許すことができず、自己否定をしているのだ。
 その苛立ちや辛さが家庭内暴力となって現れてくる。


 言葉は乱暴になり、ものを投げつけ壊し、ふすまや壁には穴があき放題。親は、やさしかったわが子の「変わりよう」に驚く。親を殴り蹴り、包丁を突きつけ「殺す!」と脅し、無理難題をふっかけてくる。地獄のような毎日だ。親御さんにとって確かに辛い。
 しかし、誰よりも辛いのは子ども自身であることを忘れてはならない。


 このように家庭内暴力にも十分な理由がある。それは、子どもの異常心理の現れといったものでは決してなく、「僕(私)の辛さ、苦しさをわかってほしい」という訴えにほかならない。辛さを表に出してくれているのだから、じつは親が子どもの訴えを受けとめる絶好のチャンスでもある。


 暴力は、文字通り「家庭内」に限られていて、よそ様に迷惑をかけているわけではないのだから、世間体などは気にしない。大事なのは「もの」ではなく、もちろん人間であり、わが子である。


 直接的な暴力はできるだけさせないようにしなければならないが、ものを壊すことなどはたいしたことではない。後からどうにでも修復することができる。子どもの多少の暴力はどの家庭にもあることだ。


 親が子どものいま現在の状態を否定的にではなく、これを肯定的に見ることができるようになると、子どももやがて自己肯定ができるようになり、落ちつき元気になっていく。
 先日、私が世話人の一人になっている「登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)」が八周年の集いをもった。


 そのときの案内の文句、「たのしく登校拒否を考える」や「登校拒否でわが家は幸せ」に驚かれた人が少なくない。登校拒否のどこが「たのしく」「幸せ」なの? というのが普通の感覚だからだろう。
 しかし、「たのしく」「幸せ」に登校拒否をしている子どもがおり、しかも増えてきているのだから、この事実は消しようもない。もちろん、それは親の見方の転換や支えがあってのことである。


 子どもが義務感から「学校に行かねば」と、親も「行って当然」と思っている限り、不登校は辛く、苦しいものでしかない。ところが、小、中学校の義務教育も含めて、子どもが学校に行くことは権利であって、義務ではない(義務とは親にとっての義務である)ことを知ると違ってくる。


 元気に学校に通っている子どもに「行くな」ということは、誰でもおかしいと思う。その本当の理由は、子どもの意思を認めない親の義務違反だからだ。子どもは権利の主体だから、学校に行く権利は行使してもよいし、また行使しなくてもよい。


 行きたくない子どもの場合は、後者を認めてあげることこそ親の義務である。
 子どもは、家でゆっくり休んで疲れをとる。やがて動きだし、必要な勉強も始めるようになる。


 このようにみてくると、不登校は、親がその気になれば誰でも対処が可能であることがはっきりしてくる。親ができるというよりも、親でないとできないと言うべきか。


 子どもたちの学校離れは、避けられない傾向にある。
 これからはもっともっと多くの親たちがわが子の不登校と遭遇するであろう。
いま、県の施策に必要なことは、時代に逆行する特別な「施設」を、しかも税金を投げ込んでつくることではない。


 子どもと親たちが安心できるように、不登校について、これを否定的に見ない考え方を明らかにすることである。




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最終更新 : 2012.4.7
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