登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2013年5月例会より


目次


1 息子の不登校のおかげで、いま私は自分らしく   かえちゃん

2 パニックになるのもおかしくない    ここさん

3 理想を掲げて妥協する。「ふり」をする    内沢 達

4 「子どもが笑顔になって、私も・・・」ではなかった   みどりさん

5 人生の終わりも自分が主人公で     なぎささん

6 その時になったら、考えればいい     重則さん・淳子さん





息子の不登校のおかげで、いま私は自分らしく

かえ
ちゃん




お話を聞いていて、3,4年前の私と一緒だなと思って涙が出ました。

今19歳の息子は中高一貫の私立の学校に行っていましたが、中3の12月から行けなくなり、本来ならそこの高校に行くはずでしたが、「他の高校に行きたい」と鹿児島市内の高校に入学し、川内から新幹線で通学しました。

1学期は行ったのですが、2学期になって行き渋るようになりました。私は朝早く起きて弁当を作り、息子を起こして車に乗せて駅まで毎日送って行きました。車から降りてとぼとぼ歩いていく息子の後ろ姿を見ながら、これでいいのかなぁと思いながら、でもそうすることしかできませんでした。息子の後ろ姿が脳裏に焼きついて離れず、苦しかったです。

私が仕事から帰ってくると学校から「今日は来ていません」と留守電が入っていて、慌てて携帯に電話すると「中央駅のトイレにずっといて、お弁当もそこで食べた」と言ったんです。私はなんてことをしていたんだろうと苦しかったです。(涙)

私は、息子の前で泣いたり、「胸が痛い」と言ってわざと倒れる真似をしたり(笑)、息子の大変さをわかるよりも、自分の大変さをアピールしていました。夕方になってもご飯も作れず、閉じこもって自分のことしか考えられませんでした。息子のためにと思ってやっていたことが全部真逆で、息子をどうにかしたいと思っていたんですね。


―――親の会に初めていらして、次の日に「もう学校に行かなくていいよ」と言ってあげたのね。


はい、次の日に言いました。
「不登校をしている君たちへ」の本も息子に渡して、今思うとあれを渡すのは早かったのかなぁと思うんですが、どうしていいか分からず、とにかく読んでほしい、と思って、読んだかどうかは分かりません。

でも口ではそう言っても、自分の心が伴っていないので、学校に行かないことを認めるまではかなり時間がかかったと思います。

親の会に参加して2,3日はいいんですが、次の親の会が待ち遠しくて、次に行ったら1週間はいいけれど、また次の会が待ち遠しくて、それがどんどん伸びて来て、今はもう「ああ、来週が親の会だ」と思えるようになってきて。


―――今、息子さんは家の手伝いをしてくれて、笑顔で楽しんでいるのね。(はい)もう息子さんのことを全然心配しなくなって、自分のことに一生懸命になったのね。


はい。朝私が仕事に出かける時も寝ていたり、夕方起きて来てラーメンを作って食べていたり、勝手にしているので、それが当たり前になっています。

あの時は「この子は自殺するんじゃないか」と思いながらも無理に学校に行かせていました。今、やっぱりニコニコ笑って、妹とも楽しそうにしている息子を見ると幸せです。「生きていてよかった」と思います。


―――あなたもずいぶん変わりましたね。お姑さんに気を使わなくなって、自分のやりたいことに打ち込んでいるのね。


息子が不登校になって、自分の人生を振り返ってみて、私も自分を押し殺して「○○しなければならない」と無理していたんだなあと思いました。人の目をいっぱい気にしていて、人の人生じゃなくて自分の人生だと思って、自分らしく生きたいなあと思いました。


―――その当時、辛い時って誰かと話したいとか思わないでしょう。


そうですね。自分に自信がない時は周りの人が「どうにかしよう」とお茶に誘ってくれたりしたけれど、落ち込むばかりでした。でも自分に自信がついてくると周りの人も一切何も言わないし、自分も堂々としているし、やっぱり自分次第なんだと思いました。


―――今は、「嵐」にも夢中で、念願のコンサートにも行けて良かったですね。(笑)






パニックになるのもおかしくない    ここさん



息子は19歳、家にいます。息子は高校に入学してから行かなくなり、1年が終わる時に退学しました。

先月息子がイライラしているという話をしたんですが、この前もイライラしていて私の肩を殴りました。3年ぶりのことだったのですごいショックでした。その理由が、息子が2階から降りてきた時にリビングにいた夫と目が合った、と言うんです。「なんでリビングにいるんだ」と言って。

息子は以前から父親を拒否していて、昨年4月に夫が単身赴任先から帰ってきて一緒に暮らすようになってからも家の中では会わないようにしています。単身赴任の時には夫は家に帰って来ることができなくて、夫は実家に行くこともありました。転勤を機に息子に話して、夫は帰ってきて、1年間は波風立たずに過ごしてきました。

先日息子はお風呂に入った時に浴槽をどんどん叩き、ワァーと叫んだんです。その理由がわからずどうしたんだろうと思って、私も茶わんを洗いながら怖くて震えていました。いつものんびりした犬も腰を抜かした感じで2階に逃げて行って、家具の隙間でぶるぶる震えていました。でも翌日息子はケロッとしてニコニコしていたので、自分自身で解決したのか、その時の感情だったのかはわかりません。


―――自分自身に腹を立てているんでしょう。だからってあなたが何か言うということはないんでしょう?(怖くて言えません)あなたの家は、息子さんの家でもあるけれど、あなたと夫の家でもある訳で、ここはみんなの家なんだから何も遠慮することはない、ということですね。

息子さんが荒れたときこそ、ここさんの「あかべこ」でしょう。思い出してね。
息子さんが学校に行かなくなった最初の頃は、あなたに暴言や暴力があり、すごく落ち込みましたね。



高1の5月から行けなくなって、7月に親の会に参加したんですが、親の会の考えは「学校に行かなくても問題はない」ということで、でも私の中ではそれはおかしい、行けるのであれば行った方がいいと考えていました。しばらく休んだら学校に行けるはずだし、行かないといけないという思いがたくさんあり、その後は参加しませんでした。(笑)

学校からはカウンセリングを受けるようにすすめられ、何か解決の糸口が見つかるんじゃないか、学校に戻れるいい案があるんじゃないか、と思って、心療内科をハシゴして息子のことを相談しました。

息子が薬が欲しいと言うので、私が息子の代わりに心療内科を受診して息子の状態を話すと、医者も「お母さんのカルテで息子さんの分も出せますよ、息子さんに合う薬を出しましょう」と言って、薬をたくさんくれました(笑)。

でも息子は薬は飲みませんでした。息子は、ますます荒れる一方で、私はご飯も食べられず痩せて立ちあがることもできない状態でした。そんな状態で幼稚園に勤めていました。
ある日爆発して荒れて「俺はもう生きる資格はない。なんで俺を産んだんだ。俺の人生は終わった、死んだ方がましだ」と言って、薬を20錠くらい飲みました。

私は慌てて遠ざかったはずの親の会の内沢達さんに電話をしたら、「いびきをかいて寝ているんでしょう。大丈夫だよ」「親の会にいらっしゃい」(笑)と言われて、それからHPを読み直したりして親の会に参加するようになりました。


―――親の会に参加するようになって、息子さんがそういう状態でも、あなたは「お母さんはあなた達のおかげで、自分を大切にするようになった」「お母さんは自分の好きなことがいっぱいしたい」と言って、「第九・合唱」を歌ったり、コンサートにも出たり、アロマの資格を取り、今はタロット占いの勉強をしたり、好きなことが出来るようになったのね。そして娘さんも「私も通信制の高校に行くのは辞める。自分の好きなことをしたい」と言えるようになったのね。

あなたは初めの頃は仕事先でもいろいろ言われたことにすごく傷ついたけれど、自分の見方なんだなと考えも変わって、またそこに再就職しようとしているのね。以前は考えられませんでしたね。



そうですね。息子がこんなに苦しんでいるのに自分だけが幸せになっていいのかなとすごく葛藤もしました。でも親が自分の幸せに焦点を当てて生活することが、それが子どもにとって一番の応援になると毎回親の会で言われて、その通りにしようと決心しました。いつもここで励ましてもらって、背中を押してもらっていました。

娘はちょうどその時「保育士になるために高卒認定を取って大学にも行く」と言って、鹿児島高等予備校の未来学科に籍を置いていました。これまで娘は私立の女子校が合わなくて辞めて、開陽高校の定時制に行き、半年後に全日制に移ったんですが半年で辞めて、しばらくしてやっぱり高校に行くと言って、通信制の宮崎東高に籍を置いたりもしました。

でも無理しているかもと思って、私がそんな話をしたんです。そうしたら娘も自分の好きなことをしようと決心して、福岡に行って服装関係のアルバイトをしたんですね。福岡に行って、2年で帰ってきて、今は彼と一緒に暮らしています。

娘は今は鹿児島で同じような仕事を続けています。初めのところはお店の人から髪の色や化粧について、いろいろ言われて辞めたんです。でも次に受けたところでは「あなたの髪型もお化粧もグッドよ。うちで働いて」と言われて採用されたそうです。娘から「仕事には恵まれなかったけど、産まれた環境や親しい友人にはすごく恵まれた、ありがとう」とメールが来ました。私はそれがすごくうれしかったです。

さきほど読み合わせた緑の冊子(「自分が自分の主人公!まっ先に幸せになる!」)の「“しない”と“する”ようになる」に、パニックになるのもおかしくない、と書いてあって、またこの本をちゃんと読みなおそうと思いました。






理想を掲げて妥協する。「ふり」をする    内沢 達



―――まつぼんさんは退院してすぐに家の近くある職場で働いて、とてもいい職場だと先月言われてたけど、すぐ辞めたのね。そしてすぐに次の職場に変わってこんなメールをいただきました


「家のすぐ近くの知的障害者授産施設の事務補助パートで働き始めました。作業所で起こったことがトラウマになってしまいそうです。下請け作業をしているのですが、少しでも休んでいたり、おしゃべりが見つかると罵声が飛んで来たり、居眠りをしていると エアーを吹きかけて起こしたり・・・。それにどの指導員も薄笑いで平気になっている様が怖い。助けることもできない自分が悲しいです。毎月、親の会で自分を大切に、そして相手の立場で考える、などたくさん学んできました。障害者の方とお話ししたりするのは楽しいし、慕ってもらえてうれしいという反面、自分がだめになりそう・・・。」


―――(内沢達):僕らが働くとき、毎日気持ちよく働ける職場環境だったらそれに越したことはない。けれど現実は簡単に行かない。そういうとき、自分は何を大切にするか、自分にとって何がいいかという考え方がとても大事だと思います。たとえば、とにかく収入、かせぎがあればいいという考え方だって、自分を大事にした考え方なのでいいと思います。

まつぼんさんの職場は、障害を持っている人たちのための施設なのだから、利用者にとってどうなのかということがあります。こんな施設では障害者がかわいそうということが確かにあると思います。でも、自分の職場なのだから、自分にとってどうなのか、自身の気持ちを一番に考えていいと思います。そうしないと「自分が自分の主人公!」にはなれません。

やがて職場環境も変わり、利用者さんが喜んでくれるようになる。そうなることはもちろんいいけど、そうならない限り自分の気持ちはおだやかにならないとしたら、自分が主人公とは言えないと思います。自分の気持ちは環境やまわり次第なのですから。

世話人の一人・瀬戸山さんは精神病院という大変な職場にいるけれど、少しでもメンバーさんの相談相手になれたら、少しでもメンバーさんが喜んでくれたらそれでよし、とされているように思います。

たえず自分を中心に自分が少しでも気持ちよくあるためにはどうしたらいいかを考えていくことが人間関係をうまくやるコツのように思います。相手やまわりは簡単には変わらない。でも、自分自身は自分次第です。

自分が大切にしたい理想はもちろん大事にする。でも、理想は簡単には実現しない。そういうとき自分の気持ちを一番に考えて、まわりとは妥協したってかまわないんです。「理想を掲げて妥協する」「いい加減はよい加減」といった板倉さんの発想法が参考になると思います。


理想だけで突っ走るのは危険です。
他者よりも自分自身を一番傷つけてしまいかねません。

かと言って、大変な困難だからと理想を捨ててしまうのも問題でしょう。
それは妥協ではなくまわりへの追随です。
もちろん「自分が自分の主人公」とは言えません。

「理想なければ妥協なし」。
逆に言うと、自分が大事にしたい理想があるのであれば、妥協したって全然かまわないんです。理想と妥協をセットにして考え対処していく。

決して無理はしないで、少しでも理想にプラスになるようなことがあり、自分の気持ちが楽になるのであれば、妥協を拒んじゃいけないと思います。



まつぼんさん:今それで揺れています。作業所で作業するのはすごく楽しいんですが、事務所に帰るのはとても嫌で、そこで揺れています。いろいろ言われても適当に流すようにはしていますが・・・。


―――(内沢達):そう、「適当に流す」のがいいと思います。
いろいろと聞いた「ふり」、いろいろとする・した「ふり」をすればいいんです。
(笑)
「理想を掲げて妥協する」というのは、自分もまわり(との関係)も大切にする知恵です。






「子どもが笑顔になって、私も・・・」ではなかった

みどり
さん




我が家は3人の子ども達が不登校で、今日初めて参加された方のお話を聞きながら、昔のことを思い出していました。

長男が小2の時でしたので、初めの頃は夕飯も作れず、自分も精神的に大変で涙、涙で過ごしていました。言葉を口にすれば長男に嫌なことを言いそうで、そういう時に限って夫は仕事が忙しくて帰ってこない、私は24時間子どもと一緒にいる状況で辛くて、でも自分の不安がいっぱい、いっぱいなのに、どこかで私はあなたのことを思っているのよ、と押しつけがましく発信していたんだと思います。でもその時の自分にはわかりませんでした。

15周年の冊子にも書きましたが、子どもたちは私を見て、お母さんをこんなに悲しませているのは自分たちなんだ、と思っていたんですね。私は子どもが笑顔になって自分が笑顔になると思っていたんですが、私が笑顔になった時に子どもたちが笑顔になったので、自分だったんだと知らされました。

先程、朋子さんが「このことで必ず子どもさんに感謝する日が来ますよ」と言われましたが、私もその時は自分の思い描いていた家庭のイメージが崩れたことが悲しくて、「どうして私の家庭はこうなってしまったんだろう、なんで私なの」と思ってしまいました。

でもそのことがなかったら、うわべだけで通り過ぎて、子どもや夫ときちんと向き合うことがなかったのかもしれないと思います。私自身、自分を出してきたことがなかったんですが、子どもたちのケンカを見ていて自分を出さざるをえない状況で、お母さんだってひとりの人間として怒るし、イライラもするし、と感情を出せるようになりました。ケンカも3つ違いの男の子だったので包丁を持ち出すこともありました。

私は3人兄妹の真ん中で、いつもお姉ちゃんでしょう、と言われて育って来て、子ども達にはそれだけは絶対に言わないと思っていたんです。子どものケンカをよく観察していると、子どもってなんでこんなに一生懸命になれるんだろうというくらい、自分が大切にしているものに弟が何かしたら、全身全霊で怒りをぶつけているんだなとわかりました。自分にはこんなに悔しがったりすることはないなと思って、命にかかわる時や危険な時にだけ割り込めばいいんだとわかりました。

今長男は22歳で高認を取って大学2年生です。友達から家で勉強を教えていたの?と聞かれるんですが、親の会の言う通りに一切教えていません。次男は今年20歳で、娘は17歳ですが、ふたりとも幼稚園も卒業していません(笑)。


―――いま国分の山形屋の洋服店で、「動くマネキン」(笑)で、楽しく働いているのね。


はい。先ほど妥協も必要と言われましたが、仕事をすればいろいろ流すことも多くて、それとの闘いでもあります。でも年齢が上がって来ると、まあいいかといい方向に考えることができ、働いてお金をもらっているわけだからそうそう楽してもらえないかとも思います。

今次男も娘もアルバイトをしているんですが、夜が多いんです。私が8時半頃に帰っても、家が真っ暗という状況で、それは今までになかったことですね。(笑)






人生の終わりも自分が主人公で     なぎささん



97歳の母、94歳の叔母、91歳の姑3人を看ていました。母は今年1月に亡くなって、姑は夫に任せて、叔母は私にとって母と同じ様な愛情があり、独身なので私が看ているんです。

私は、不安になってしまうと他の人の言うことが耳に入らなくなってしまうんです。以前、次女が高校生のときに円形脱毛症になって、私は心配のあまり娘に60万円のかつらを買おうと思ったことがあって(笑)、それと同じ気持ちに先日なってしまったんです。

叔母は、今は中心静脈の点滴をして生かされている状態で、それを取ろうとするので両手を抑制されているんです。目を覚ましていたら苦痛を感じるので、「呼びかけたら返事をするぐらいの安定剤」をお願いして入れています。でも、それも鼻からチューブで入れている薬が胃から逆流するようになって、出来なくなったと言われたんです。

ちょうどそのとき、以前申し込んでいた施設から「入所できます、どうしますか」と言う電話があって、私は拘束が取れるならと、施設に行かせようと思って、でも施設は、今のままでは引き取れませんと言うことだったんです。胃ろうをしないと入れない、そのためには、病院を移って胃ろうの手術ができる体力をつけなくては。

私は、それじゃ転院して、そこでリハビリして、せめてベットに起き上がって、自分で薬を飲めるようになって、と思いつめていきました。現実には、今死にそうな叔母を移すことなんかできないのに、どうしてもこの叔母をどうにかしないとこのままじゃ可哀想と一心に思いつめて、夜も眠れなくなりました。

その時は周りの人に何を言われても入ってこないし、また私も「私の言うことに文句言わないで」という態度だから、じゃあ、あなたがそれで落ち着くんだったらという感じだったんですね。

朋子さんと電話で話をして、私はすごく不安で迷っていたんだなあと気が付きました。「不安なときは、何もしない」と言われて、そうだったなあと心が落ち着いてきました。


―――本当に肉親ならば、なんとかして、と思いつめていきますよね。
でもそれがご本人にとって、どれほどの苦痛か、「いつまでもそうやって生かし続けられることはどうなのか。本人の立場に立つとどうなのか」と話しました。

人生の終焉はその人が人間らしい終わりを迎えることだと思うんです。意識もないまま、無理に生かされ続けることが本人にとって幸せなことなのか。大きな大問題ですね。

なぎささんは、とてもいい経験をしましたね。



今はとても気持ちが楽になりました。そうなって、先生に「やっぱりここで最後までお願いします」と言ってからは、ふしぎなことに、叔母はとても穏やかにしているんです。






その時になったら、考えればいい   重則さん・淳子さん



重則さん:この春定年退職して、再雇用で民間で働いています。生産物の割り当てのほかに選挙の割り当てもあって。(笑)

淳子さん:今の話で週3日ぐらいだったらいいんですけど、昨日土曜日も仕事だったので、前よりも忙しくて、収入は減って、拘束時間はすごく長くなりました。

重則さん:もうちょっとゆっくりしたいな、畑仕事が出来ないというのがちょっと残念なんです。5月の連休は2日間は休みだったので、畑仕事をずっとやっていて、そのあとはずっと仕事でした。先週の土日は、亡くなった姉のことで長崎に車で行って、翌日からまた仕事でしたので疲れます。


―――息子さんが中1で不登校になって、下の娘さんが中2で不登校になって、今息子さんは30歳、娘さんはもうすぐ28歳なのね。


息子は11年ぐらい家で過ごして、24歳ぐらいから動き出して、働いています。娘も今生協でアルバイトをして1年経ちました。


―――先ほどのしずりんさんや皆さんのお話と同じなのね。親が、やっぱり自分のことが辛くなるのね。親の会でその辛さを何度も出してきましたね。


淳子さん:今日も不安のお話だったんですけど、4月に息子が引っ越したときに、家を出てくれてよかったあと思って送り出したんですけど、そのあと「ちょっと体調が悪い、病気かもしれない」と電話がかかってきたら、私は、以前心配していた病気とかいろんなものが、ワーッと押し寄せてきてすごいパニックになってしまいました。

親の会で言われた「どっちに転んでもしめた」なんてそんな事はありえないと、ものすごく心配して(大笑)、自分が今また、こんなに不安が出てくるなんて思っていなかったので、パニックになったんです。

でも、その時夫がすごく冷静で(笑)、息子は「疲れ」からくる体調不良だったらしく、夫は「その時になったら、考えればいい」と言ったんです。私が「すごいね!」と言ったら「何年親の会に通っていると思っているんだ」と言ったんです(笑)。

娘が「お父さんは、お母さんに引っ張られないで、今度は偉いね」と言っていました。(笑)

後で娘に「お母さんはいろいろ心配していたけど、お兄ちゃんや私が本当にそうなったことはないでしょう」と怒られました。娘が今働いていることも、「お母さんは、私が働くとは思っていなかったでしょう」と言われました。

心配し過ぎないようにと思っているんですけど、息子の身体のことが心配で、息子はものすごい努力するんです。休みの日も配達ルートを回ったりしているんです。息子に「80%ぐらいにしなさいよ」と言ったら、「俺の仕事に口出しするな」と言われました(笑)。

ほんとだなと思って、動揺しない自分になりたいと思ったんですけど、なかなか・・・


―――(内沢達):不確実な未来のために現在を犠牲にしない。先のことはわからない。わからない先のことをいくら考えても、不安が増すばかりでいいことは何ひとつない。将来のことは重則さんが言ったように、その時になったら考えればいい。

大事なのは今のこと、今一所懸命になれることがあれば、一所懸命になればいい。「一生」懸命じゃありません。一生じゃ疲れちゃう。今、なれるのであれば、「一所」つまりひとつのところ、ひとつのことに懸命になれれば十分です。

淳子さんが言った「不安が不安を呼ぶ」ということもがある。それは考えようもない「不確実な未来」のことをあれこれ考えるからそうなるんだけど、でも、それも根本的にはそうなっている「今」を認める。「不安が不安を呼んでいる」今を一所懸命認めてあげたらいいんです。

不安になったり、動揺したりするのが人間です。人の気持ちや心は揺れ動くものです。だれかが言っていたけど「心」という漢字は字体からして乱れているものね。

不安を否定しない。
不安があれば、不安とともに今を懸命に生きたらいいのだと思います。





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最終更新: 2013.8.6
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