登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2003年7月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.92


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



6月例会報告


梅雨開け宣言はまだですが、夏まっ盛りのような暑い毎日が続いていますね。



 6月例会では、不登校やひきこもりの我が子をどうみるか(どうみていたのか)、最初の頃の驚き慌てた自分の姿を振り返って、そして今の自分と、こもごも話題になりました。



 「私を支えてくれた娘が18歳になって初めて自分の不安を訴えました。
そのとき“お母さんは幸せ?”と聞かれ、今の私は幸せよと心から言えました」と森田淳子さん。このことがいつも言われている「ゆれがいのある親」になっていくということなんですね。




 Uさんは、無条件にあふれんばかりの笑顔でお母さんと呼ぶ我が子を見て、「条件付で子どもを求めていたことに気づいた」と感動的なお話。



 Kさんはご自分の辛かった過去を振り返って、「子どもは繰り返し繰り返し親を困らせて、自分のことを分かってほしいとサインを送る」。
それは子どもの気持ちを理解していく上での大事な指摘でした。




 山口良治さんは、「出口のないトンネル」と思ったことを、「出口は外からではなく、自分の心の中にある」という名言!



 全体を通して変わらなければならないのは自分なんだと納得していく話は感動です。
例会で皆さんの貴重な体験を聞き、自分が変わっていくキッカケやヒントを得て、元気をもらっている様子が見えて、例会が楽しいですね。





1.Jさん 不登校のおかげで自分のことを考えられるように

2.Tさん 頑張るからうまくいかないのです。

3.Mさん 手放した時はだめ

4.Uさん 条件付きで子どもに求めてた

5.Kさん 私のことをわかってほしいと・・・。

6.
森田淳子さん 「お母さん幸せ?」 「とっても幸せよ。」




不登校のおかげで自分のことを考えられるように

Jさん(母)


中3の娘です。娘は中1の11月にいじめが原因で学校に行けなくなり、幻覚が出て常に親が一緒にいないといけない状態でした。
2年生はクラスも替わり、なんとか学校に行こうとしたんですが、五月雨登校で11月の修学旅行後全く行かなくなりました。
その頃この親の会のホームページを見つけ、会にも参加するようになりました。




 私は親の会に出会って子どもを認めることが出来るようになり、娘も3学期はゆっくり休むことができました。
私は娘が学校に行っても行かなくてもいいと思うようになっていたんですが、娘は3年になって急に学校に行くようになりました。




 そうしたら私が精神的に疲れが出てきてしまいました。
子どものことでずっと悩んでいたんですが、疲れの原因は我慢して一緒に暮してきた夫とのことだということが分かってきたんです。



 私は5月ぐらいからすごく疲れて買い物もおっくうになり、引きこもるようになりました。
それからもう夫と離れたいと思いました。それまでは我慢して、気付いてこなかったというか、ずっと無理してきたんですね。
もう1日も一緒にいられないと思うようになり、実家の母に「頭がどうかなりそうだから、そっちに行きたい」と言いました。



 二人の子どもも賛成してくれ、夫には「疲れたから、暫く静養します」と言って引っ越しました。
それから夫とは振り込まれる給料を渡す時以外は接触がありません。
子どもの不登校をきっかけに、ほんとに自分を大切にしていなかったことがわかってきました。




 結婚して18年になりますが、4年前には1年間別居もしました。
その時夫はお金を使いたい放題で、それに意見を言うと「男が稼いだお金をどう使おうと勝手だ」と言い、私にはぎりぎりの生活費しか渡しませんでした。



 当時中1の長男に対しても成績が急に下がったと暴力を振いました。
夫は怒って1日中息子を机の前に座らせ、叩いたりしてすごかったのです。
止めに入った私まで殴られ、もう一緒にいられないと別れるつもりで子どもを連れて実家に帰ったのです。




 夫がそういうことを改めるからと謝ってきたので、また一緒に暮らすようになりました。
給料はきちんと渡してくれるようになり、長男にも暴力は振るわなくなったんですが、今までの結婚生活で怒鳴られたことやいっぱい心に傷が出来ていて、それが積もり積もって嫌になってしまって顔も見たくないほどになってしまったのです。



 夫は切れるとすごく怒鳴るので、ちょっと大きな声で話しているだけでも、私はドキドキしたりするんです。
一緒にいる間は洗脳されたようになっていて、それがあたり前と思い離れられなくなっていました。
 だからEさんが別居しているのを聞いて、あんなになれたらと思いました。(笑い)




 別居して1ヶ月になりますが、最初はちょっと考え事をするだけで頭がすごく疲れて、体が動かなくなる感じでしたが、今はだんだん元気になってきました。



―――「自分を大切にする」ということがヒントになってよかったですね。



 はい。子どもの不登校をきっかけに、自分のことも真剣に考えられるようになったと思います。




頑張るからうまくいかないのです。

Tさん(母)


 夫は銀行に勤めていて預金獲得のノルマが厳しいなど仕事に疲れ、心身を痛め長い間精神科の薬を飲み、その量も増えたときもありました。



 私は子どもの不登校と夫のことを一人で抱えてきました。
姑からはこうなったのも私のせいだと言われ、結婚して22年間耐えて来ました。



 それに今度は舅が入院して一時期私はそれも看て、もう限界になりました。今は夫が実父を看てそこから通勤しています。
この10年は私の母と同居しています。
 私は仕事に出るようになり、そのときだけが私が気が休まって楽しいときです。




この親の会で自分を大事にすることを教えられ、今そのことを考えています。



―――長男さんは中学で不登校になり、その後福岡の専門学校に行くということで、福岡に部屋も借りたけど1日もそこには泊まらず、往復グリーン車を使って帰ってきて、グリーン車のお金を渡さないと暴力をふるい、お母さんが怪我をして警察を呼ぶという事態もありましたね。



 暴力は収まったけど、お金を要求するのは収まらず、お母さんに厳しく言ってくるわけですね。



 それと携帯電話が怖いと言って不安がるのでしたね。
もうどうにもならなくなったと昨年6月にご相談の電話を頂きましたが、あれからちょうど1年、現状は変わらないのですね。
ブランド物もいろいろ欲しがり、3日に1回5,6万円要求するんですね。




 はい。まだ頑張れるんじゃないかと思ってやってきましたが、何も変わらず事態が深刻になってきたんです。
今まで工面して息子にお金をやってきました。



 私の出勤前に泣き叫び、やらないと夫の実家へ行くものですから、いいなりになって与えてきました。
あの子がいるとホッとする時間がないです。




―――先日のお電話で、「お金は一切やってはいけないこと。わめいてお姑さんの方に行こうが、世間からどう見られようが取り合わないで逃げなさい」とお伝えしましたが、その後どうなりましたか? 



息子さんに1月50万円くらいあげている勘定になりますが、お金はどう工面するのですか?




 結局、今までは足りないのは両方の親に出してもらっていました。
昨日息子が夫の実家に行ったときは、お金は渡されなかったようです。




―――いろいろたくさんあるんですが、以前は言えませんでしたけど、自分の家のこと、夫のことなど初めてお話されましたね。(はい) 
あなたがこの会でこうして言えたことでずいぶんと気持ちが楽になったでしょう。




 しかし、あなたのお話は三つ巴になっていますね。
夫のこと、夫の実家のこと、息子さんのこと、この3つが1つの団子になり整理されず、解決の糸口も見えずに混乱して重石になっていますね。




 まだ頑張れると思ってやってきましたが、もう限界です。
息子は夜中だろうが、朝だろうがわめき散らします。



 同居している私の母はもう我慢しきれずにお金を出してしまいます。内沢さんに言われてから絶対出したらだめと話しているんですが…、もう家中をどんどん叩くし、夜中に疲れると一端寝て、また元気になってわめきます。




―――そりゃそうでしょう。エネルギーを溜め込んでいる息子さんの体力には勝てませんね。(笑い)



 もう、どう思われてもいいというふうに腹をくくったらいいんですが、でもまだまだ気にしていますね。
子どもの無理難題の要求は聞かない。そうしないと長い間息子さんを苦しめ、ますます自分自身を苦しめます。




―――(内沢達):夫婦間の問題はともかくとして、お父さんの調子が悪いのはいろいろあるけども、一つは薬だとは思いませんか? 
僕は薬の弊害がお父さんに現れているとしか思えません。



 銀行員として永年こつこつ仕事をされてきたのですが、窓際族的な処遇をされると誰だって自分に自信が持てなくなってしまいます。
医者もひどいもので薬をどんどん投与します。だから、自分自身が大変な状況で、息子さんどころではありません。




 息子さんは息子さんで西高通信のときから周りを気にしていました。
いい子であろう、いい子であろうとすごく無理してきました。
お父さんもそうでしょう。銀行員として一生懸命やろうとしました。



 お母さんはご不満かもしれないけど、お父さんは仕事が大変だったからです。また、医者がひどいからです。




そしてお母さん自身も、いい嫁として、いい母親として、頑張ろうとしてきたけど、とうとう頑張りきれなくなりました。



 結局、3人は、お父さんも、お母さんも、そして息子さんも、自分を大切にしていないという点で共通しています。
お母さんが頑張り切れなくなったことはいいことです。




 まわりや他の人のことではなく、みんな「自分が一番」、もっともっと自分を大切にする、いや、しなきゃいけない、そういうきっかけになると思います。



 親自身が自己犠牲的な生き方をしていて、悩んでいる我が子に「あなたは自分をもっと大切に」などと言ったって、誰がその通り!と思えることでしょうか。



 子どもから見て「そういえばお母さん、この頃、お母さん自身の自分の幸せを口にするようになったなー」とか、「お父さんも最近、わがままになってきたなー」ということがあって初めて、子どもも今の自分を肯定できるようになるのではないでしょうか。




―――頑張っていいことはないですよ。マラソンの円谷選手が、練習しても練習してもうまくいかないときに沿道の人たちに頑張って下さい、頑張って下さいと言われて、自分は頑張っているのにこれ以上頑張れと言うのかと、とうとう自殺しましたね。頑張る必要はないです。



 頑張ることは自分を殺すということです。
自分の人生を抹殺して人に尽くすことが頑張ることです。うまくいくわけがないですね。




 この会で自分を大切にするというヒントをもらったならば、もっと参考にして下さい。
仕事のときが一番楽しくても、それは問題を解決していることにはなってないでしょう。



 どうしたらいいかというハウツウの問題ではなく、どうやって生きていくかという考え方の問題です。



 この頃嫁は何を言っても響かなくなって、違ってきたなと言われるように自分をしっかり持ってください。自己主張していく大事なチャンスですね。




 この人はすごく気を使っているなというのと、自分を大切にしてるなというのは、周りも接し方が違ってきます。



私はこうしたい、私はこうありたいとはっきり主張することが周りにとってもいいことです。
姑などに気を使い「お母様からどうぞ」ではなくて、「私は一番。お母さんは2番目。」と何でも自己主張することですね。
(大笑い)




手放した時はダメ 

Mさん(母)


 息子は非行に走り、荒れて本当に大変でした。
今でもそういう感覚を持つことはあります。今19歳の息子は県外へアルバイト先を見つけて行きましたが、辞めて帰ってきました。
その後、こちらでバイトもしましたがそれも辞めて、今家にいます。  




 最近は私との会話も増えました。息子は「どこか行きたいなあ」と言うので、私も「行ってきたらいい。どこへ行きたいの?」と言うと、「カナダかな」と言うのです。
「お母さんも若い時は、いろんな所へ行きたかったよ」と話がはずみます。



 すると息子は「お母さん一人暮らしできるの?」、私「したことはないけど、大丈夫だと思うよ」、息子「一人暮らしはさびしいよ」。県外で1ヶ月一人暮らしを体験したものですから。(大笑い)
「外国へ行けば」と私が言うと、「怖い」と言うのです。「族はね、集団では強いけど一人になると弱いのよ」と言いました。(笑い)




 息子は今も時々、夜中に出かけることがあって何をしているのか、わからない点もあるものですから心配で不安です。



 お兄ちゃんと下の娘だけだったらこんな苦労しなかったのにと思ったこともありましたが、でも私の価値観を大きく変えたのもあの子だし、今の生き方をさせたのもあの子だし、あの子がいて、もう一度自分の人生を生きていこうと決めたのも本当です。




 本当は私も森田さんご夫婦のように、できれば死ぬまで夫と連れ添えたらよかったのですが…。(笑い) 
できないのだったら、きちんと自分の人生を歩んでいく中で子ども達を育て上げ、又自分の人生をひとりで生きていきたいと思っています。



 二男にはまだ私が必要みたいなので、二男が何かをしたい時に、私が手助けできることがあればしたいと思っています。




 今でもかわいくないなあと思う時もあるけど、小さい頃の写真が部屋中いっぱい貼ってあるのを見ると、ああ、あんなかわいい時もあって「お母さん、ごめんなさい」と言ったのに許さなかったよなあと思い出して。(笑い) 



 あの時許していたらという後悔もあるけど、でも私だからあの子は思いをぶつけてくるんだと思っています。




息子が14歳の頃から親の会へ来ていますが、あの頃の息子は全く眼に輝きがなく、無表情でした。
 今は細かった眉も太くなって、表情が豊かになってきています。
眼の輝きを見たら、息子がどんな生き方をしているかわかります。
眼はとっても大事ですよね。




 ただ息子が「ごはん、早く作れよ」と近所に聞こえるぐらいの大声で叫んだりすると、同居している実母がびっくりして、息子が私をたたくのではないかと心配するので、娘の私としては両親に心配をかけていることに心が痛いです。



 先ほどお金のことが話されましたが、私も100円のお金を息子に叩かれながら渡した時期もありました。



 今は多額のお金は請求されなくなりました。いつ頃から請求されなくなったんだろうと思い返してみると、いろんなことを息子と話し合う中、逃げたりもしたのですが、息子も「お母さんは、お金を本当に持っていない」とわかったようでした。



 今はお金を持っている時は請求しないし、私が千円あげても「今、金は持っているからいらない」と断ります。
暴力だけは私に振るわなくなりました。ちょっと気分をそこねると、手がでるかなという不安はいまだにありますけどね。




―――あなたは息子さんに大変な目にあわされながらも少しもやつれてないわね?(笑い)



 いえ、すごく悩んでやせた時は「お痩せになったわねえ」と内沢さんに言われましたよ。(笑い)
 息子が14,15歳で深夜徘徊している頃は「いなくなればいいのに」と思いつつ、「あの子が死んでしまうんじゃないか。いなくなって消えてしまうのではないか」と心配しました。



その当時、内沢さんに「たとえそうであっても、その子の寿命だからと腹をくくりなさい。おろおろしてはいけない」と言われて、夜息子が出かけていく姿を見ながら私は泣いていました。



 帰ってくると私にお金をせびり、私をたたいて又出かける息子でしたが、私は息子のことをいとおしいと思いつつ、闘いでしたね。
暴走族に入っている時も心配しました。




 私は手に負えなくなって息子を施設に預けたものだから、息子から「お母さんに裏切られた」と言われ、心を閉ざされたのです。



 失敗しました。少年鑑別所に入っている4週間の間、私は息子に毎日手紙を書きましたが、息子の心を取り戻すまで、とても長い時間が必要でした。




 だから最近話せるようになったのです。
手離そうと思った時はダメですね。子どもの心はとても鋭くて、観察力もあり、自分が気づかない親の心を先に気づいてしまうから。



 その点では私の安定した心と、どっしり構えることが大切だなあと心から思いますので、もう施設に預けようとは思わないです。





条件付きで子どもに求めていた

Uさん


 小2から不登校だった長男は小4から学校に行きだし、今年中学校に入学しました。



いま部活の卓球が好きで燃えています。
今月は2週間続けて休まず学校に行ったので、どうしたんだろうと心配していたら、「今週は休む」と言ったので、私は「しっかり3週間くらい休まないとね」と言いました。




 中学になって最初は緊張感があったようなんですが、教科によって教員が替わり、そのほうが息子に合っているのか毎日楽しい様子です。
今は葛藤して休むのではなく、気楽に休めるようになったと思います。




―――あなたが最初親の会にいらしたときは、自分自身がすごく辛くて精神科を受診しようかとまで悩んでいましたよね。
あの時はお子さんが不登校になってご自身が落ち込んでしまったのね。




 そうです。私がだめだからこの子もこうなんだという思いでいっぱいでした。
昔から私は自分を自己否定していたんですね。
私も学校は嫌いだったし、長男のときは担任のせいというのがあったので行かないことは受け入れられました。



何かのせいという理由があるとすごく気が楽ですよね。でも理由を取り除いても目の前にいる子は学校に行かない、結局育てていくのは私だと思えば全部自分にかかってくるわけで、過去のことからずっと引きずってしまって、こんな私だからだと自分を責めていましたね。




―――Sさんのようにこの子さえいなければとは思ったことはありましたか?



 思いましたよ。すっごい憎らしくて。不登校になったのは小2の頃なんですが、とにかくやんちゃな子で学校が終わったら遊びに行くんですが、その前に必ず宿題をやるんです。



 フーフー言って宿題をするのでしなくてもいいじゃないと言っても、いいや、しないとだめだと言って。学校で疲れているものですから、手がつけられないというかカリカリしている状態で、私も自分の思い通りにならない子が目の前にいるとやっきになってしまい、ある時息子に「お母さんはうるさいほうだよね」と言われてしまいました。



 担任がヒステリックで学校できつかった分、家で発散して弟や妹をいじめるんです。
私は原因が何かあると思っていても余裕がないので上の子を叱ってしまい、その悪循環でこの子がいなきゃいいのにと思ってしまいました。




 最初この会に来た頃は、子どものことをそんなふうに思うなんてと言われたら、私はもっともっとどん底に落ちて立ち上がれなくなると思って、そのときは話せませんでしたね。



―――最初この会にいらしたときはすごく肩に力が入っていましたね。今はあれもいいじゃん、これもいいじゃんというふうに自然になりましたね。



 そうです。バリアーを張っていましたね。そういう自分がまたすごく嫌というか…。



 ある時、公園に行ったんですね。そしたら長男が、「お母さん、お母さん、見て見て」とあふれんばかりの笑顔で私を呼ぶんです。



 こんなに無条件にあふれんばかりの笑顔を私に向けてくれている、私は条件付で子どもを求めていたんだなあと気づかされました。




 そんなふうに1つ1つのことを子どもから教わってきました。
そういうことを発信してくれる子でよかったなあと思っています。どこまでも私の思いばかりを突きつめていっていたら、いつまでもわからなかっただろうなあと思います。




 子どもの不登校によって、私は私でいいと思えるようにもなりました。
すごく子どもに助けられています。不安になる時もありますが、もっと不安なときがあったので、またどうにかなるのよという気持ちです。





私のことをわかってほしいと・・・。

Kさん


小4の息子が不登校です。今はこれといって波風は立たずに過ごしています。
ある時息子に「学校に行ってないことで何か思っていることがある?」と聞いたら、「悪いことをしているのかな? 先生は怒ってるのかな? と悩むときがある」と言いました。



親が行かなくていいと思っていても、自分で自分を受け入れるのに時間がかかると玲子さんや愛美さんがよく言われるように、息子も同じなんだなと思いました。




―――あなたもこの子さえいなければと思ったことがありましたか?



 いえ、私は逆に世界中を敵に回してもこの子を守ると思いました。
これまでの話を聞いて私は自分の過去を思い出していたんです。



 私は母親にこの子さえいなければと思われていたんです。母は姉と父と犬とで暮らせれば幸せと思っていたんです。
私はいらないとずっと思われていたみたいです。ですから子どもさんの気持ちと、あの時の母の気持ちが両方わかりました。




 私は中1まではすごくいい子だったんです。どこに連れていかれても、騒がずにずっと横に座っていられる、口答えもしないいい子だったんです。



 でも親戚から裏切られることを目の当たりにして、中2でガーッと悪くなって、家出もしたし、いまだったら恥ずかしいと思うんですが化粧もばっちり決めて、夜遊びにも出かけていました。



母は決まった小遣い以外は絶対にくれませんでしたので、高校のときは学校に行くより洋服や化粧品を買うために必死になってアルバイトに行くという生活でした。高校はあと1日行かなかったら留年になっていたと思います。




 補導されたこともあります。
よその親は血相変えてすいませんとやって来るんですが、うちの母は補導員の方が電話をしても、「そんな奴はうちの子ではないから、少年院でも鑑別所でも、警察にでもどこへでも連れて行ってください。煮るなり焼くなりなんとでもしてくれ」と言って、迎えに来たことはありませんでした。



友達のお母さんが身元引受人になってくれて家に帰ることができたんですが、母は無表情ですごく怖い顔をして座っていました。
会話もなくて拒否されているというオーラがすごく出ていました。




―――あなたはお母さんにどうして欲しかったんですか?



 多分、試していたんだと思います。家出したときも母親は私を探しませんでした。



 よその親は悪いことをすれば迎えに来る、でもうちの親は補導されても迎えに来ないし、家出しても探しもしない。
なんでだろう、私のことを好きなのかなあって思いましたね。



 でも母は身内のごちゃごちゃの中で頑張っていたし、世間体もすごく大事にしていたから、私がいることで世間体が悪くって、私がいなければいいと思っていたでしょうね。




 母とはずっと分かり合えずにきたんですが、私が息子を産んだ時にはじめて孫のことがかわいかったようで、あんな奴が産んだ子がこんなにかわいいのかという感じになりました。



―――今はお母さんのことが好きですか?



 今はわりと好きですね。昔は母の顔を見るのもいやで、お母さんと呼んだことがなかったんです。
「あんた」とか「ちょっと」と言って憎んでいました。でもその憎い裏側にすごく愛して欲しいというのがあったと思います。



 でも母からはこいつはいらないというオーラが出ていて…。私の中では父親は眼中にないんです。父親像はすごく薄くって。(笑い)




 私は小さいときから姉と比べられ、成績も悪いし、何もできない、ずっとあんたはだめと言われ続けてきました。
そうするとグレてきたときに自分はだめなんだからと投げやりになって、いつもしょうがないとか、どうなってもいいとかすぐ開き直ってしまって、でも母親は知らん顔状態で、辛かったですよね。




 でもいま皆さんの話を聞いて、母も辛かったんだろうなって思いました。
今は普通にしていますが、私の場合は私と世間体とどっちが大事かと比べていたんだと思います。母は世間体だったんですね。




―――繰り返し繰り返し困らせることをして、親を試して、僕のこと、私のことをわかってくれと訴えるんですね。



 特に大好きなお母さんにそうするんですね。お母さんはお母さんで自分が孤独で世間体に縛られて、その価値観の中でもがき苦しんでいるんですね。




 お話の中でお子さんが悪いことをしてと言われていましたが、私も悪いことはわかっているし、してはいけないこともわかっていました。



 万引きも別にその商品が欲しいわけではないんです。
お金も持っているんです。でも盗むんです。そういう子達はみんなそうなんです。



 補導されて親とやりあうわけですが、親は知らん顔をしたり、迎えに来ても帰ったら頭ごなしに怒られたりで、結局親子の溝がなかなかかみ合わないんですね。
でも私も外ではニコニコしているのに、家に帰れば怖い顔に変わっていましたしね。




 私が悪かったときにずっと心の支えになってくれたのが家で飼っていた犬だったんです。
土佐犬の血が混じっているすっごく大きな犬で、咬まれたら死んでしまうような犬と唯一仲がよくて、その犬小屋に入っていけるのは私ひとり。



 私だけを許してくれて、それだけ絆が強かったんです。
私がどんな悪いことをしても無条件の愛をくれるんです。ですから子ども心に犬が大好きになりました。




―――子どもの気持ちがよくわかるとっても大切なお話を聞かせていただいてありがとうございました。




「お母さん幸せ?」「とっても幸せよ。」

森田淳子さん


やっぱり父や母が年を取って来ていますので、近くにいますから具合が悪いときはいろいろ面倒見ますよね。でもそうしながらも父母が妹を無条件にかわいがっているのを見ると、この年になっても私もかわいがられたいという気持ちがありますよね。




 娘は6月で18歳になりました。
去年の今頃は不登校の3周年パーティをして欲しいと言われて、息子がどう思うだろうかとドキドキしながらやって、今年は盛大にやろうと思っていたんですが、そしたら18歳の誕生日を前に1週間くらい食欲がなく、将来が不安だと言い出したんです。




 「お母さんが死んだら私はどうしたらいいの?」、「お母さんが死んだら私、自殺していいの?」と聞かれました。



 「お兄ちゃんが18歳の時には何でそんなことを悩んでいるんだろうと思ったけれど、同じ年齢になってみると同じことで悩むよ」と言いました。



 なぜ18歳なのかというと、「同級生が大学か、就職かという時期で、大学に進学するということに対してはうらやましいともなんとも思わないけれど、働くということに対して自分も働けるんだろうかという不安を持っているの」と言うんです。




 息子が不登校になったきっかけにはいじめがあったんですが、娘の場合はそういうこともなくて、自分で選んで学校に行かなくなりました。
幼稚園のころから習っていたピアノもそのまま続けたいと言い、友達と一緒の時間帯のまま続けてきました。



学校に行かないこと以外は生活を変えたくないと言ったので、一面それは頼もしいと感じていました。



 しかし最近ピアノに行くと友達から公務員試験を受けるとか、就職するとかの情報が入り不安になったようで、6月はピアノを休みたいと言って自分で先生に電話をかけました。それからは少し落ち着いたようです。




 娘にもその時その時の不安というのはあるんだと思います。息子のように責められなかったので落ち着いていられましたけれど。



 その時娘に「お母さん幸せ?」と聞かれました。
私は「あなたが悩んでいるけれど、でもお母さんは幸せだよ」と答えたら、「お母さんが幸せだったら私はうれしい」と言ってくれました。
それは嬉しかったけれど、まだまだ娘は自分の辛さや感情を出し切れずにいると思っています。




 兄妹の仲はとてもいいです。
息子が「ほらお母さん、妹は俺の苦しみを今味わっているんだ」、「拒食・過食になったらどうするんだ。毎日、食べて吐くんだよ」と言うので、「大丈夫だよ。親の会で体験された方のお話をたくさん聞いているから心配していない。
いくらでも拒食・過食になっても大丈夫」と言いました。(笑い)




―――娘さんが不安を訴えたときに、あなたは不安になりますか?



 訴え方が息子のときと違い、ちょこちょこと出すんですね。
出し方が違うので不安にはなりませんでした。夜になって死ぬなんて言われると落ち着かないところもありましたが…。
今からもっとたくさん出してもいいと思っています。




 娘は不登校によってこれまでの人生を変えたくないというのがあったので、立派な不登校のような感じで頑張ってきた部分もあったんじゃないかと思います。
 夫がいないときも、兄が荒れているときも、私の話し相手になってくれ私を支えてくれましたから、自分の辛さを言わなかったんですね。



初めて不安を訴えたように思います。「大丈夫だよ、今からもいっぱい不安が来ると思うけれど、お父さん、お母さんに話して大丈夫だからね」と言いました。




―――娘さんが言ってくれて本当によかったですね。もっともっと自分の思いをぶつけて欲しいですね。ご夫婦の時間は取れていますか?



 いえ、夫は新しい仕事が楽しいらしくて、忙しくしています。離れているときは時間を作ってドライブに出かけたりしていたんですが、今はまったくないんです。



仕事が忙しいのはわかるんですが、もう少しこっちを向いて欲しいと思います。
だから無理やり来週は出かける約束をしました。(―――どこに出かけるんですか?) 鹿児島…です。(笑い)




―――本当に夫婦の時間は大切ですよね。




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