TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2006年12月発行ニュースより
11月例会報告 「今がいちばん幸せ!」 親が我が子の状態を心から認められるようになると、安心し、我が子に何も求めなくなっていきます。 すると子どもとの関係がとてもよいものになっていきます。 あるがままを受け止め、無条件に愛しいと思う気持ちになります。 夫婦の関係にもあてはまることに気がつきます。 「愛は求めない」ということですね。 「今がいちばん幸せ、この幸せが長く続いてほしい」とGさん、Sさん、Iさん。 辛かったあの時があったからこそ、「今の幸せ」の大切さがわかります。 「息子の不安に全く動じなくなった」というSさん、「娘がなにより可愛い」というIさん。 Gさんは「娘のこと以上に私を心配してくれた夫に感謝」と夫婦の関係にもふれました。 「あのときから自分で生きている感じがする」と高1で不登校になった我が子の言葉を紹介し、「娘は何でも自分で決めて、納得してやってきたからよかった」とEMさん。 MSさんも、我が子の不安からくる要求に動きませんでした。 次第に落ち着いてきた我が子を見て「私は動かないでよかった」と納得します。 「生きてるだけでいいじゃないか」とじぇりさん、我が子の不登校のおかげで自分の人生観が大きく変わったと言います。 我が子の不登校から、自分の生き方に気づいていったという話も大事な教訓です。 Kさんはこれまで自分を大切にしてきただろうか、と疑問を親の会で言えるようになりました。 Jさんも「今まで生きてこられてよかった。親の会のおかげ」と言います。 自分を大切にしようと思う気持ちが解決の一歩になるんですね。 村方敏孝さんもいじめ自殺裁判勝訴後に、帰ってこない勝己君を思って喪失感に襲われたと言います。 家にいても心から休めない日々に、美智子さんが何も言わずに受けとめてくれたという話も感動です。 皆さんの話の中に、たくさんの教訓がちりばめられていて、毎回感動、毎回元気をもらいます。 そしてあっという間にあと一回の例会を残して、今年一年が過ぎようとしています。 今年の感動を来年につなぎ、家族への愛をいっそう深いものにして迎えましょう。 教育を受けない権利――不登校の選択を 11月13日に村方さんご夫婦のインタビューがテレビで放映されました。 1996年の9月18日に中3の当時14才の勝己君がいじめで自殺しました。 今、いじめ自殺の報道が毎日のようにありますね。 私たちの会の子ども達は、たまたま学校を休むことができて、それで命が助かったんですけれども、だけどそうじゃなくて学校に行き続けることで命を失っていくんですね。 文部科学大臣が先日テレビで緊急の訴えをしていました。 「いじめられている君たちは勇気を持って誰かに言おう」という内容のないものでした。 そんなことは言わないです。誰かには絶対に言わないです。 そして「やめろ!と言う勇気を持とう」とも。しかし、勇気を持てるわけがない。 そんな簡単なものじゃない。 きわめて陰湿できわめて暴力的で、実際の暴力もあるけれども、そういう風に重ねて重ねて重ねられて命を絶つということになるんですね。 いじめられている子が登校拒否をすることは学校からの生還なんですね。 短い時間ですが、村方さんご夫婦のインタビューと同時に勝己君がどのような凄惨な暴行を受け死に至ったか、4年半に渡る裁判のもようが簡潔にまとめられていました。 私たちはご両親と一緒に1年半調査をし、裁判前にかなりの事実を明らかにすることができました。裁判が始まると19人の子どもたちが陳述書を提出してくれ、また法廷で証言してくれた同級生が2人という点でも画期的な裁判でした。 インタビューの中で美智子さんがいじめられた子に、「学校に行かなくていい」と言ったところはカットされて、「お家にいて」と言ったところだけ放送されたのね。 今から10年前、当時の文部省は「いじめられている子は欠席を」という緊急アピールを出しているんですね。 それが今、文科省は不登校対策と称して、欠席者をなくすことに一生懸命になっています。 一番大事なことは、「学校に行きたくない子は行かなくていい」ということです。 「教育を受ける権利がある」と同時に、「受けない権利もある」ということを、私たちは心して学ぶということが大事だと思うんですね。 村方美智子さんの講演 「かけがえのない我が子を失って」へ→ <目次> 1 愛は求めない Mさん 2 ふたりで支えあって 村方敏孝さん・美智子さん 3 疲れたときは自分の家でゆっくり休もう 内沢玲子 4 私たち(両親)に不安がなくなったとき・・・ Sさんご夫婦 5 私は私のために生きています。 じぇりさん 愛は求めない Mさん 今19歳の息子が高校で1年間休学した後、退学して、今、家にいます。 先日、木藤さんからこの会の誘いを受けたとき、なかなか休みがなくて今日が久しぶりの休みでした。 元気だったら行きますと言った話しの中で、私の仕事は視力障害の方たち、老人の方が多いんですけれど、例えば、新聞も読むことが出来ない、字を書くことも出来ない、テレビも音声でしか分からない、外に出歩くのも一人では出来ないという現状であきらめの気持ちがすごく強いという感じなんです。 そうじゃなくて、現在非常に不便はしているけれども、今ある視力をいろんな道具を紹介して、ちょっとでも生活の質を高めませんかということをしているんです。 つい先日も、拡大読書器という器械を種子島まで行ってご説明したんです。 今まで読むことも書くことも出来ない方が、ほんの2,30分で自分の力で書けたんです。 「こういう道具があれば、お孫さんにも自分で荷物を送れますよ」と、話しました。 そういう仕事の上でも、ここの会に来ていろいろお話を聞けることが非常に意味があることだと思って、木藤さんにお話したんです。 でもそういうことより、今私にとって妻との溝が深まっていることが問題です。(笑) ―――どうして溝が深まったんですか? 何かあってというわけじゃないですが。 妻は最近会にも参加しないし、昨日「一緒に行こうよ」と誘ったら、「自分の気持ちを手紙に書く」と言われて、今手紙がここにあるんです(笑)。さっき読んだんです。 「家にいる息子とはいろいろ話していてすごく楽しい」んだそうです。 息子は父親と話しているときと、母親と話しているときと話題を選んで話している、母親と話しているときはテレビの話題だとか、私から見ればくだらないことかもしれないけれど、自分たちにとってはとても楽しい、でも私と話すときはまた違う話になっていて、そういう違いがあると。 私は妻と話すとき、以前も言ったことがあるんですが、反省すべき点が多いんだけど、高圧的な言い方をしているんです。 ―――ここでは全然高圧的じゃないですよ。(笑) 妻に何故、親の会に参加しないのか聞いたら、「会に行って仲のいい夫婦みたいなのを演じるのがもう嫌だ、人の前で話すときと、私と話すときの差がありすぎる」と言いました。 ―――じゃあ、奥さんは悩んでいらっしゃるのね。(そう、悩んでいるんです) あなたも悩んでいらっしゃるでしょう? そこがいけないところなんでしょうね。 僕はあまり悩んでいないんです。 だから僕にもっと悩んで欲しいんじゃないですか。 ―――あなたは本当は奥さんを愛しておられるのに、その一番大切なところをしまいこんでいらっしゃるんじゃないですか。 私にとって達ちゃんは、傍からみたら、あんまり魅力がなくてよぼよぼしているかもしれないけれど、私にとってみれば、かけがえのない、なくてはならない存在なんです。 玲子よりも誰よりもね。(笑) でもそれも達ちゃんが心筋梗塞になってから気がついたことです。 一番大切なことをね。 例えば手紙の中にも書いてあったけど、「あなたは家の中で好き勝手に振舞っている、私はそういうあなたの表情や姿を見て、今日は機嫌がいいのかそうじゃないのか、そういうことを気にする」と。 ―――ともすれば、夫を怖がるということですね。 (そうそう、そういうことですね) それに対しては、夫はあまり感じない。 最近私も、だんだん間がちょっと離れている感じかなと思っていたから、「今日の例会に一緒に行こうか」という話から始めたわけです。 でも、これは、これからだなと思ったんです。 直接今すぐ言えないから、手紙に書いておくと言って、昼前、私に渡したんです。 ―――それはよかったですね。 我妻に感謝して「手紙をありがとう」と、おっしゃったらいいですね。 そしてやっぱり、あなたの妻も一緒にやっていこうと思っておられるんだと思うんです。 だからこそ手紙に自分の想いを託したんではないですか。 お互いにこの人が好きで結婚しようと思ったわけでしょう。 その原点に気がつくいいチャンスですね。 我が子の生まれたときのあの笑顔は無条件に愛おしいものですね。 だから愛情に自信がなくなったら、我が子の写真を見てほしい。 「ほんとに条件なしの愛を持っていたんだ」と、その時の愛情がたちまちよみがえります。 私は夫婦でもそうだと思うんですよ。 その時のことを思い出して「我が妻にし、我が夫にし、大切に生きていきたい」と二人で家庭を作っていきたいと思ったときの、その時の気持ちに帰ればいいと思うんですね。 Mさんはお連れ合いさんに何かを求めていらっしゃる。 これは僕のわがままですかね。 妻にもうちょっと強くなって欲しいと思うんです。 「あなたが強い」と言うんだったら、「君も強くなったら」と。. ―――それはだめ。「優しさは、優しさで気づく」んです。 優しさが一番大事、愛が一番大事なんです。その中にこそ強さもあるし、相手を思いやる気持ちもあるんです。 言い方ひとつあるじゃないですか。 私は自分に向かって言っているんですよ。 自分に余裕がなくなると、自分を大切にしなくなります。 そして気持ちがイラだって大切なはずの家族に当たってしまいました。 ほんとに強くなってもらいたいと思うんだったら、ご自身が、妻に対して心から優しくしてあげたらいいですね。 でも心から優しい気持ちにならないと優しくは出来ないですよね。 それが大事ですよね。 妻に求めない。 相手に求めないで、自分の優しさがほんとにあるかなあって、自分を振り返ったらいいんですね。 仕事がすごく忙しいと余裕がなくなるから、うちに帰ってもイライラしているでしょう。 あなたのお連れ合いさんは、それを敏感に感じておられると思うんです。 あなた自身が自分をもっと大切にされたらいいですね。 仕事で忙しくて、相手に対してもトゲトゲなっているんです。 そのことを考えるいいきっかけになるんじゃないですか。 誰だって忙殺されて心をなくすと自分に対してやさしくできないんです。そう思いません。 やっぱり今日来て良かったと思います。(笑) ―――(内沢達):Mさんは、息子さんには何も求めていませんね。(はい) 「子どもに何も求めない」というのは、すごいことですよ。 でも、奥さんには求めちゃう。(はい)(笑) 「たのしい授業は子どもには何も求めない」(板書)というのが板倉聖宣さんの考え方です。 板倉さんは、初めて「登校拒否は明るい話題だ」と言った方です。 「学校に行かない子どもはたいしたものだ」と、登校拒否を積極的に評価した人です。 「引きこもりも明るい話題だ」と述べています。 詳しくは、僕が書いた「ことわざ・格言と登校拒否、引きこもり」にありますので、お読みください。 「たのしい授業は子どもに何も求めない」って言うと、「子どもに何も求めないで授業が成り立つの?」と普通は思いますね。 学校では、普通、子どもに求めてばかりです。 「ちゃんと前を向きなさい」「先生の話をよく聞きなさい」「大きい声で発表しなさい」「忘れ物はしないように」「予習・復習もしなさい」などと。 ところが、「あーしなさい」「こーしなさい」と言わないで、子どもには何も求めず、それでいてとても上手くいく授業があるんです。 「仮説実験授業」という、誰もが科学や勉強を好きになる、とっても楽しい授業なのですが、ここでは省略します。 話は広げて、「愛は求めない」(板書)ものではないでしょうか。 愛は相手がそこにいてくれる、それだけでもう十分で、「あなたはこーあるべき、あーあるべき」などと、相手が変わることを求めるものではないと思います。 Mさんは子どもさんには何も求めていないのですから、おつれあいさんにも何も求めなければいいんです。 トモちゃんが先ほど言ったように、我々は自分の子どもが生まれたとき、しばらくまだ何もしゃべれなかったとき、話せるようになってもまだまだ小さかったとき、子どもには何も求めなかったはずです。 その存在自体が何ものにも代えがたく、かわいくてたまりませんでした。 いろんな愛があります。 僕とトモちゃんが出会ったときも、互いに何も求めませんでした。相手の存在だけでもう十分という感じだったと思います。 “あばたもえくぼ”であれ、“恋は盲目”であれ、だからなのか、何も求めていませんでした(笑)。 ところが、連れ添うようになると、我々は勝手なもので「妻だったら、夫だったら、こーあるべきでないか」などと求め始めるんです。 そのあたり、もう一度原点に戻りませんか、ということです。 Mさんの場合、求めなくなって、息子さんととても良い関係ができてきました。 子どもに求めない親は、子どもから認められるようになります。 わが子との関係だけではなく、夫婦の関係も、学校での教師と生徒の関係もまたしかり、人間関係はすべて、そういうものだと思います。 「求める」とだめなんです。 なんと反対に「求めない」と相手は応えてくれるのです。 深い!!ですね。(笑)どうしてそうなのかを、ゆっくりと探っていきましょう。 相手が子どもであれ、大人であれ、求めたらうまくいきません。 相手を変えようとしているからダメなんです。 「もう少しこうしたら、ああしたら」などと求めると、相手も「そういう、あなたは一体何なのよ!」となってしまい、うまくいきません。 そうではなく、相手のそのままを認め、求めなくなると違ってきます。 相手に信頼が伝わり、伝わった相手は自分を信頼してくれる人とそもそも悪い関係を作ろうとするはずがありません。 ということで、「愛は求めない」です!(笑)。 ふたりで支えあって 村方敏孝さん・美智子さん ―――村方さんご夫婦も勝己君が亡くなった大変な時期にも二人で支えあい、苦しみを分かち合って来られましたね。 その後二人とも以前より一層夫婦仲が良くなられて。 村方美智子さん:勝己の死から10年経ちました。 裁判中はそのことに夢中でしたので、夫婦のことを考えるゆとりもありませんでした。 今は次男の直己も独立して家を出ているので、全く二人きりになってしまいました。 裁判後の空しさというか、達成したのに、終わった後には勝己が生きて帰ってくるわけではないし、どうしたらいいのかと思いました。 そのときは、敏孝さんの方が私より喪失感が大きくて、心身ともに疲れて果てて、仕事にも行けなくなりました。 私はそのとき夫に「いいよ」と言えました。 私が仕事に出かけ、夫が家事をしてくれました。 夫が家にいることについて、それまでの私だったら、きっと世間体を気にしていたと思いますけど、今はもうどちらでもきつい方が休んでいいな、と思うようになり、暮らしぶりも収入に合わせればいいと思えるようになりました。 ―――当時は美智子さんが働いて帰ってくると、敏孝さんが「先にお風呂がいい? 夕飯にする?」と言ってくれたり、朝起きるとお味噌汁がサッと出てきたりしたんでしょう。(笑) 美智子さん:そういうことは絶対に他人には言うなと敏孝さんに言われていました。(笑) 村方敏孝さん:7ヶ月くらい具合が悪くて家にいました。 しかし家にいてもゆっくりしていることに罪悪感があって、何かしないといけない、何かしないといけないと思って、家事を色々しました。 主婦って本当に大変だなあと思いました。 彼女が朝出て行くと、食事のかたずけをして、洗濯して干して、掃除をすると、すぐ昼になって「もうすぐ帰ってくるなあ、昼飯を作らなくちゃ」と思って(笑)、本当に忙しかったです(笑)。 でも、自分は遊んでいるのだから、何かしなくてはいけないと思って、心から休めなくて、精神的にはきつかったです。妻を働かせて自分は休んでいると思ったら。今までと逆ですもんね。 ―――子ども達が学校を休んでいても心が休まらないのと一緒ですね はい、不登校の子どもが家にいてもゆっくり出来ず、何かしなくてはと焦るという話を親の会で聞いていたけど、全く同じだなと思いました。 ―――でも、美智子さんが「あなた、もうそろそろ働いたら」なんて一言も言わなかったでしょう。 敏孝さん:はい、一言も言いませんでした。 「大丈夫よ、私が働いているから」と言ってくれました。 美智子さん:もう、かわいそうだったんですよ。 車の運転さえも出来なくなって。病院で精密検査をしても、どこも異常がないので薬も出なしも出ないし、だけど、やる気は出ないし・・・。 本当に死ななくてよかったなと思います。 ―――そういう大変なときにお互いに励ましあって本当に良かったねえ。 美智子さん:気がついたら現在になっていて。 私もヘルパーの仕事をどんどん入れてもらって1日に5,6件訪問していました。 私が働かないといけないと思っていたので、少々具合が悪くてもこなしてきました。 そうしたら、今度は私の方が頭が痛くなってしまって、資格もとったので、絶対に休んだらいけないと思ってふんばったんですけど、身体がついていけずダメでした。 見た目にはどこも悪くないし、しかし、本当に頭が痛かったんです。 病院へ行って「緊張性頭痛と変形性腰痛症」の診断書を夫にも見せて、1ヶ月休みました。 それ以後はたくさん仕事を入れず、自分のペースで仕事をして、収入に見合った生活を心がけています。 ―――あなた方ご夫婦の大変さは、私も十分知っています。 困難な時、苦しい時に心が辛くなるのは自然なことです。 やらねばならぬと自分に課すと本当に大変になるんですね。 その体験を大事にして、自分を大切にして下さいね。 疲れたときは自分の家でゆっくり休もう 内沢玲子 私は今27歳です。 私は昨年の9月、仕事をするためにタイに行きました。 タイで一生働こう、永住したいと思って、皆さんとお別れしましたが、タイで充分働いたので先月日本へ帰ってきました。(笑) 今自動車学校に通っています。 私の場合、高校3年間ははっきりしたいじめがあったわけではありませんが、陰口を言われたり、グループの中に入れなくて無理して学校に通っていました。 その時は高校を卒業しないと自分の人生はメチャメチャになると思っていました。 両親が「学校に行かなくてもいい」と言ってくれても、「いや行かないとだめ、自分の人生がダメになる」と本気で思って、3年間ずっと自分にプレッシャーをかけていました。 本当は高校に行きたくなかったのに。周りが何かしていると、自分も何かしないといけない、自分だけしないのはおかしい、病気だとまで思っていました。 本当は学校での人間関係にすごく疲れていただけだったのです。 今ならわかるのですが、当時はそんなふうに考えられませんでした。 卒業後も無理してバイトをしていたので、自分の体力やパワーがどんどん落ちていきました。 ずっと何かしないと、と思い続けて、学校の疲れを癒す時間を自分に与えてこなかったので、23歳の時についにバタッと倒れてしまい何もできなくなりました。 人が怖くなり、電話にも出られなくなりました。 親の会の世話人の方が家にいらした時も、世話人の方は私のことを受け入れて理解してくれていることが充分わかっているのに会うのが恐怖でした。 すべてシャットアウトして、そこから3年間ゆっくり休みました。 初めはすごく焦りました。 1年目は「私と同世代の人はもう働いているのに私だけ家にいて何もしていない」と思って、でも本当に何もできなかったんです。 2年目には少し元気が出てきて親の会のHPを立ち上げたり、会へ出席しました。そういう中で、今無理して働くよりは人生80年と考えて、その中の3年、5年休んでも、パワーを貯めたら将来いくらでもチャンスはあるし、学びたいと思ったときはいくらでも学べるんだと少しずつ自分自身が納得できました。 自分で納得して休んだらパワーが貯まってきました。 それで昨年、私はタイが大好きだったのでタイで働きたいと思って、1年ちょっと働きに行きました。 タイではタイ人が外国に行く時は給料や銀行残高を調べられ、会社の推薦状もいるし、日本へ遊びに行くんだったら日本からの招待状が必要です。 滞在中のホテルや何をするかも全部明らかにしないといけません。私と同年代の人もタイではあまりチャンスがありませんね。 タイに行って、日本はいろんなことを制約なしに出来る素晴らしい国なんだと実感しました。 私が一番言いたいことは、どこの国であっても、疲れたときは自分の家でゆっくりせかされないで休むことが大切ということです。 ○○歳だから何かしないといけないと追い立てられずにゆっくり休み、そしてパワーが貯まったら動けばいいと思います。 私たち(両親)に不安がなくなったとき・・・ Sさんご夫婦 ―――息子さんは、中3の3学期に不登校になり、高校に入学しましたが行かなくなり、その後大検を受け通信制の大学に行き、卒業後就職をしようとして立ち止まってしまった。 そこから、また5年ぶりにご夫婦で親の会に参加されるようになって、息子さんに向き合うことができるようになった。 息子さんは今は家でゆっくりされているんですよね。 @Sさん(母):息子は今月27歳になります。 今、息子は元気がない状態です。私たちが知らない間に、かなり前からだったらしく心療内科に行って薬をもらって飲んでいたんです。 何も言わずにいたら、1週間前に「俺がこうして心療内科に行ってるのにお前たちは何もしてくれない」と言ったので、(―――「何もしてくれない」、と言うのが息子さんのキーワードですね) 私たちがしばらく黙っていると、「今日中に返事しろ」と言ったのです。 私は切れて「お母さんは薬も飲まなくてもいいし、病院に行く必要はないと思ってる」とカーッとなって言い、2階へ行ってしまいました。 残された夫が何て言ったのか気になって聞いてみると、「俺も病院へ行く必要はない」と答えたと言いました。 そういうのがあったのか、息子とは余り会話がありません。 でも、食事には2階から下りてきて、一緒に食事をしますので、それが一番嬉しいです。 ―――ハローワークには行かなくなったんですか はい、もう全然。 私は安心しています。 このままが幸せですので、この幸せがずっと続いてくれたならと思ってるんです。 子どもも外出はあまりしなくなって、買い物やパチンコぐらいに出ます。 ―――「今一番幸せ」と言えるようになってよかったですね。 親の会に参加されないときには、お母さん自身が病院に行かれて、「私が具合が悪いんです」と言ってうつ病の薬をもらってきて、それを息子さんに飲ませたりとか、おかしなことをいろいろされていましたね。(笑) ご夫婦で参加されるようになって、ある日息子さんが荒れた時に「息子の言いなりになる親父を見て、お前はいやじゃないのか」とお父さんが開き直ったんですよね。 それから息子さんが安心し、御両親を信頼するようになったんですね。 でも、ときどき「親は何もしてくれない」というキーワードを発するわけですね。 Sさん(父):はい。(―――そんなふうに言われても以前のように動揺はしなくなりましたか?) しないですね。(笑) 前回の例会前まで2ヶ月くらい調子がよくて、「ああ、いいなあ」と思っていたら、例会以降、今言ったみたいなのがどんどん進んできて目つきから変わってきて、だんだん言葉がなくなって、最終的には「何もしてくれない」と言うんです。 この前も「自分でやったら」という形で話して、そしたら「何もしてくれない」、最終的には「死ぬから」とも言います。それに対しても答えはしません。 ―――その言葉にも動揺はしませんでしたか 最初のころはしましたが、今はもうしません。 そうやってる間に2,3週間経過したんで、表情が柔らかくなって、テレビを一緒に見ながらふくみ笑いもしています。 元気がないのは言葉があまりでないことです。必要最低限しかしゃべらないです。 ―――そのことにご心配はありませんか 全然思っていません。 たぶんしばらくしたら元に戻ると思います。 ―――ご両親がデンとされていると、大きな荒れ方から振動が小さくなって、ひょっとしたら俺はこのままでいいのかなと思ってくるんですね。 不安いっぱいの子どもは自分の状態をいろんな形で「これでも大丈夫か」と親を試します。 そのときに親が動揺しないでいると、子どもは自分の状態を次第に受け入れて自分を肯定していきます。 非常に教訓的ですね。 そして「今」の幸せを感じることができるようになってこられたんですね。 (母):はい、なるべくなら今は動かないほうがいいかなと、こんな思い方でいいですかね。 ですからハローワークに着ていくように出していた背広も黙って仕舞ってしまいました。 ―――親の不安がなくなると、無理なのかそうじゃないのかというのはすぐ分ります。 親は不安なときは見えなくなるんです。 何とかして子どもに答えをやろうとします。何とかして言葉をつないでいこうとしますけど、そういうことはいらないということですよね。 私は私のために生きています じぇりさん ―――じぇりさんは親の会HPの掲示板にとても大事なことを書いていますね。 担任の「お子さんは楽しそうにしていますよ」、「元気でいいですよ」という言葉に、親は安心するんです、安心したいから。 でも、授業参観したときに子どもの死んだような目を見て、「ああ、私は何もわかってなかったんだ」と親が気がつく、そのことの大事さを書いて下さっています。 HPをまた読み返して頂けたらと思います。 先月は母子で東京に行き、いろんな所をまわられたんですね。 はい、20数年前、学生時代に東京に住んでいたんです。 年月が経ち、今あの頃から思ってもみない自分があって、子ども達のお陰で東京に行って、子ども達が興味を持っているものや想いを感じることができました。 先ほど親族との関係のお話が出ましたが、我が家は夫が退職して、3人の子ども達も学校に行かなくなりました。 夫が体調を崩したのも私のせい、子どもが行かなくなったのも私のせいとなり、夫の両親とは離れて暮らしていましたけど、そのときから私はプチンと切れて絶縁状態で1回も会っていません。 夫の退職には「途中で仕事を辞めるなんて」と私の親も理解がないので、そのときに夫婦で話して、「私の親は私が、夫の親は夫が、それぞれが大事にすればいい」ということになったので、お互いの親に気を使うことはありません。私も自分の親とも離れて暮らしています。 「誰かの期待のために私は生きていない」という思いがあって、こういう母でなくてはとか、こういう嫁、娘、妻でなくてはとか、全部ないです。 そういうふうになれたのは、子どもが学校に行かなくなって、「生きてるだけでいいじゃない」というのを理屈じゃなくて、感じられたからだと思います。 だから、出かけるときなども、ご飯の用意をしないと出かけられなかったのが、今は何の用意もしないです。 先月末に友達に旅行に行こうと誘われて行ってきましたが、振り返ってみると毎週末、私は家にいないんです。 今月末も私は熊本までライブに行く予定です。 休みは結構夫が食事を作ったりしますが、夫がいないときは長男が作ったようです。 私がいない状態を重ねるたびに、私がいなくても、全然大丈夫だなと思います。 夫は夫で全然休みもなく、私が寝ているときに帰ってきて、寝ている間に仕事に行っていなくなっていることがしょっちゅうあって、しかもお給料も出なかったりするんです。 「給料も出ないのに、あんなにせっせとよく働くよね」と次男に言ったら、「○○○(お父さん)がやりたいからだろう」と一言、言ったんですよ(笑)。 「あ、そうだね」と納得しました。 誰かに強制されたわけではなく、自分でしたくてやってるわけだから。 夫は仕事がしたい、私は遊びたい、子どもはそれぞれパソコンなどやりたいことをやる。それぞれでいいんだなと、たわいもない会話の中でまた改めて感じました。 上の二人の子どもは自分の部屋でいつも好きなことをやってるんです。 小学入学して間もなく行かなくなった3番目の次男が、暇なときに私にそうやって話にきます。この子が私の相手をしてくれて嬉しいなと思いました。 ―――ねばならないとか、自分を縛っている鎖がどんどん離れていく、子ども達の不登校のお陰でね。 夫も私に何も期待していないので、洗い物がたくさん溜まっていたら出勤前に片付けていく状態ですから、「ありがとうね」と言ってます。 我が家ではしたくないことはしない、気付いた人がやるという感じなんです。 そんなことを他人に言うもんじゃないと言われましたけど。(笑) ―――とっても大事なお話です。ありがとうございました。 |
Last updated: 2006.12.22
Copyright (C) 2002-2006 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)