TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2007年4月発行ニュースより
「今、生きてる感じがする・・・」 3月例会報告 「今、薬を減らして、苦しいけれど、生きている感じがする。感情に麻酔打って麻痺してたような感じがなくなった。気持ちをはっきり感じるようになった・・・」。 HPの啓介君の書き込みです。親の会に出会って、「薬を止めてもいいんだ。生きていてもいいんだ。苦しんでもいいんだ」と思うようになったといいます。「あるがままの、そのままの自分でいい」と何よりも大事なことに気がついたのですね。 兵庫県から参加のMさんの体験も、みなさんに共通しています。「自分の考えは間違いじゃないか・・・」という自分を否定する気持ちです。自分の見方を変えることによって、それまで大変にしか思えなかった状況も変わってきます。 例会参加後、経済的なこと、息子さんの薬のことなど、自分の意見を夫にも義姉さんにも自信をもってきちんと言えるようになった、と言います。自分の意見に確信を持ってくると、言う迫力も違います。相手を変えるのではなく、自分を変えることで、どんな困難な状況でも必ず打開できる、まさしく「幸せは自分で創る」ということですね。 「親の会に参加して、私が明るくなって落ち着いていくと、家族も明るくなって・・・」というKさんの話も、じぇりさんの「今の生活が自然」という考え方も、初めからそうだったわけではなく、やはり自分の考え方を変えていったからです。 夫のモルハラに対してようやく離婚調停にこぎつけたJさんも、親の会で自分を大切にしていくことを知り、強くなってきたと言います。Jさんの娘さんのまいさんは、「めちゃくちゃな家族だけれど、今は、太い綱でつながっている」と言います。例会後、弁護士さんを交えた話し合いで「父に、涙があふれたけど自分の思いをちゃんと言えた」といいます。結果、学費を別居中の父親に出してもらうことになり、この4月元気に旅立っていきました。 試練には耐える。試練は、幸せにつながっていく太い道です。 そのことをみなさんの体験から教えてもらった例会でした。 目次 1 認知症のお袋に、「優しさ」で接して 山口良治さん 2 自分を大切に、今、離婚調停中です J さん(母) 3 4月から大阪へ行きます まいさん 4 新しい「発見」も、子どもたちから U さん(母) 5 「命があればまるもうけ!」 じぇりさん 認知症のお袋に、「優しさ」で接して 山口良治さん ―――今日は山口良治さんの誕生日ですね。おめでとうございます。(拍手) @山口良治さん:ありがとうございます。息子が日付が変わった夜中にメールを送ってくれたんです。「自慢の親だからかっこよく元気でいて欲しい」という内容で涙が出ました。(―――うれしいですね) はい、本当に嬉しかったです。 ちょうど娘が登校拒否になって拒食になった時に、息子は高専に合格して家を出て行きました。もし息子が家にいたら息子も不登校になっていたかも知れず、それを受け入れることが出来たかどうかはわかりません。(笑) 去年の7月に娘の愛美も外に出て行ったので、今僕は大口に戻り両親と暮らしています。認知症のお袋を看ています。 お袋に同じことを何度言っても分かってくれないとこっちもイライラして、分かっているんだけれどつい怒ってしまうんです。するとお袋は「もう死にたい。お父さんさえいなければいつ死んでかまわないんだ」と言います。そう言われると僕もいけなかったなあと反省して謝ります。 こっちが思っている気持ちがそのまま返ってくるんですね。子どもに対しても、この子はだめだ、何でそうなんだと不安を抱えて接していたら、子どももだんだん不安になるのと一緒ですね。 ―――それは愛美ちゃんに教えてもらったことですね。 そうです。やさしい気持ちで接すると落ち着いているので、ここで学んだことがそういう場面でも役立っています。 ですから子どもが出て行ったからこの会と縁が切れるというのではなく、僕自身の人生を学んでいくために、これからもこの会と繋がっていきたいと思います。 ―――そんな穏やかな気持ちになれるようになって、幸せですね。 そうですね。実は先月の会報を読んで、僕の発言について僕の体験をよくまとめて書いてあるなあ、と思って(笑)、それでまたいろいろなことを思い出しました。 お袋がおかしくなって、すると親父まで元気をなくし、どんどん痩せてしまいました。とてもしっかりしていた親父なのに、計算が出来ない、字が書けない、と言うのです。親父は毎日日記をつけていたんですが、お袋の調子が悪くなってから日記をつけるのをやめていたんですね。 今はお袋は症状が落ち着いているし、親父は食欲も出てきて体重も戻ってきました。 ―――良治さんは親孝行ですね。毎日やさしく接するなんてなかなかできませんからね。これからはご自身の健康にも気をつけてくださいね。 自分を大切に、今、離婚調停中です J さん(母) 今の方のお話を聞いて、私と全く同じだなと思いました。 今私は夫と別居し離婚調停中です。 私も夫から生活費をもらい、家のローンのやりくりをしながらやってきました。夫は給与明細を破って給与の一部しか私に渡していませんでした。 当時夫は残業も多く、私は5万円くらいの小遣いを取っていたのだろうと思っていたら、夫がひとりで給料の半分もの大金をずっと毎月使っていたのです。本人も処分すればいいものを破った明細を3年分くらい大事に綴って仕舞っていたのでわかったのでした。(大笑) 本人に問いただすと、「男が稼いだ金をどう使おうと勝手だろうが」と怒鳴られて、信頼がガラガラと崩れてしまいました。その時私は離婚書類に署名捺印して、夫に渡しました。「子ども達の養育費は払ってね」と言ったら、「そんなもの払えるか!」と言い、話になりませんでした。 1年間別居したのですが、夫が泣いて「チャンスをくれ」と言ったので、夫も変わるだろうと期待して夫の許に帰りました。しかし全然反省の念もなく、私ももう夫の怒鳴り声に我慢の限界を超え、苦しくて、苦しくて、もう精神的にも追い詰められていました。そんな中娘が不登校になっても夫の協力は何もなく、学校との応対も私ひとりでやっていました。 インターネットで親の会のHPを見つけ、2003年2月から親の会へ通うようになり、夫との関係について「この人と夫婦でいても自分の人生にとってマイナスだ」と思うようになりました。 母も私の電話の声で私の異常に気付き、「帰っておいで」と言ってくれました。そのときはもうボロボロの状態でした。実家に帰っても今でも人が怖く、外出も出来ない状態です。 3年間別居していたのですが、昨年9月、生活費の振込みがなかったことをきっかけに離婚を決意しました。 3月の初めに2回目の離婚調停があり、娘の学費について話し合いました。娘は大阪にあるアニメーションの専門学校へ行きたいという希望があります。夫は弁護士を通じて無収入の私に娘の学費の1割を払えと要求したのです。 娘は2月の初めに、夫が学費を出すと言ってくれたので「お父さんもひとりで寂しそうだから、私がしばらく一緒に住んで食事や身の回りの世話をする」と言って、夫のところに行ったんです。 私は、娘と夫の関係がうまくいくならそれもいいと思っていたところ、夫の娘への態度も誠実ではなく、「1,2年鹿児島にいてから、専門学校へ行くんだったら学費は出す」とか「寮に入らないとダメ」と話がコロコロ変わっていくのです。 娘にだけは誠意を示してくれるのではないかと思っていましたから、ほんとにもう泣きました。再度、娘と夫、双方の弁護士さん4人で話し合いを持つことになりました。 結局3週間一緒に暮らしましたが、娘は父親と生活するのに気を使いすぎて身体がおかしくなりました。頭がガンガンするというので内科へ行きましたが治らず、ストレスと悲しさでもう本当に大変でした。 私はあんなに夫が怖かったはずなのに、どうして我慢して暮らしていたんだろうと思います。感覚が麻痺して、怖いという感情がわからなくなっていたんだと思います。今朝、目覚めて、夫の顔を思い出すだけでも「怖い」と思いました。今まで、夫にされてきたことを弁護士さんに見てもらうために書き出す作業をしてきました。忘れていることも多く日記帳を見てみたら、とても疲れてしまいました。そういう生活だったんだなとあらためて思いました。 4月から大阪へ行きます まいさん ―――まいさんはお父さんが寂しいだろうと思って、3週間一緒に暮らしていたのね。 お父さんの所へ帰ったのは、お父さんと話したときに「3年前に家を出て行ったときから、帰ってきたらいいのにとずっと思っていた」と言われたからです。(涙ぐむ) 戻るのは私だなあと思い、お父さんの所に帰ったけど、逆に自分が無理して行ったんだとわかりました。 どこかで父が変わっているだろうと期待していたけど、3年経ってもお父さんは変わってなくて、私もお父さんを変えようとしていたと気付きました。 私は両親が離婚するのは嫌だったから、お父さんに「お母さんやお兄ちゃんは、お父さんにされたことですごく傷ついているんだよ」と話しました。でも、お父さんは「お兄ちゃんにしたことを悪いと思ったことは一度もない」とはっきり言いました。(涙ぐむ) 今度お母さんの代わりに家事をして、お母さんよりは私の扱いはマシだったけど、こんなひどい状況の中でお母さんはずっと我慢してきたのだと思ったら、「すごい人だな」と思い、私やお兄ちゃんを守ってくれたお母さんを本当に大事だなと思いました。(涙) お母さんやお兄ちゃんにひどいことをしても、私はやっぱりお父さんが大好きなんです。 でもお父さんが変わることはあきらめて、お父さんも勝手に暮らしていくだろうし、お父さんとお母さんが離婚することに本当に納得しました。 私が学校が嫌だという気持ちと同じなんだなというのが、3週間の「熟年離婚体験コース」でわかりました。(笑) ―――良かったねえ、お母さんの気持ちもわかってね。 4月からアニメの学校へ行こうと思っています。入寮体験もしてみたんですが、部屋にはいった途端、学校に行っていたときのことを思い出し、恐怖がわいてきて、もう体が拒否したんです。だから寮には入れないんです。 ―――お父さんが「寮に入らなければ学校のお金を出さない」と言って、その不安や困難はあるけどやってみようと思ったのね(はい)、そこは学歴は関係ないの? はい、全然問題ないと言われました。本当に腕が物をいう職人の世界です。セル画といって動いていく場面を描く仕事で、やればやるほど力をつけて行く仕事です。 お父さんにアニメーションの仕事と言ったのに、「コンピューターグラフィックの仕事はどうなったね」と言ったので、この人は私の話を何も聞いていないと思いました。(笑) 逆に笑いが出ました。 先のことは何もわからないけど、やってみようと思います。 私はお父さんとの暮らしに3週間でギブアップでしたけど、お母さんは何十年と耐えてきたわけですから、偉いと思いました。 ―――まいさんは4月から大阪に行くんですね。しばらく会えなくなりますね。 はい、私はこの会に出会わなかったら、どうなっていただろうかと思います。ここに通って、いろんな人に会えて、いろんな人から元気をもらって。ほんと親ってみんな一生懸命で、私のお母さんも将来を心配して、色々してみたり、辛いことを言ったりして、それでも切れない何かがあって繋がっているといっぱい教えてもらいました。私もどこに行ってもこの会を思いながらやっていきたいです。 ―――まいさんは大阪でひとりになるけれど、でも、後ろを振り返ったら、あなたの家族がちゃんとあなたのことを思っているし、親の会も思っている。そのことがあるから、あなたは元気にやっていけるんだよね。決して無理をしない、いつも自分を大切にすることを親の会で学んだ、その原点を忘れないでほしいの。 中学のときに家がめちゃくちゃで、今もめちゃくちゃと言ったらめちゃくちゃだけど(笑)、今よりも切れそうな細い糸で繋がって探り合っていたのが、今は太い綱をひっぱりあって、安心して転んだりしているような気がします。 なにか生きてるなあと感じながら、私も言えるようになったし、親に受け止められたり、お母さんを受け止めたり(笑)、何を見ても「ありがとう」と繋がっていて、どんなに怖いことを言うお父さんでも繋がっていて。お母さんが私にお父さんの所に行きなさい、と言うくらい私たちの絆は太くなってきたんだと思います。 こういうふうに思えることが出来たのは、この会がそういうことに気付かせてくれたお陰だなと、誰にあっても何を見ても、「ありがとう」と思います。 ―――私は会報の「扉の言葉」に 〈「幸せ」ってなんでしょうか。私は「愛」だと思います。家族への愛、つれあいへの愛、わが子への愛。愛情の対象があることは何よりの幸せと思います。無条件の愛は幸せをもたらしてくれます。愛が深ければ深いほど、人は幸せになれる。〉 と書きました。まいさんもお母さんからたくさん愛情をもらって、だから強くなれたんだよね。 なんかちょっと駆け足ししてるところもあるかなと思うんだけど、それでも離婚してしまうふたりだけど、一度も悪いと思ったことはなく、別な人は考えられなくて、めちゃくちゃな家庭でよかったなと(笑)、このめちゃくちゃが私を育ててくれて、強くしてくれたから、すごくすごくありがとうって。私は横から「ああ、やってるな」という感じで。支えてくれたこの会があったから、めちゃくちゃ出来たと思います。 ―――ありがとう、元気で行ってらっしゃい。(拍手) 新しい「発見」も、子どもたちから U さん(母) 先月、長男がギターの学校へ行きたいと言った時に、私も舞い上がってしまったという話をしました。その後は、ダイレクトメールが次々来るんですよ。本人宛ですので、長男に渡すんですけど、それを見ても、すっかり冷めてしまったという感じになっているので、やっぱり舞い上がらなくてよかった、木藤さんに相談してよかったなと思いました。(笑) 私も熱しやすく覚めやすいので、長男もそうだから、何かあったときにはデーンと一回深呼吸して考えることだなと思いました。 その時の長男の訴えは、「自分でギターを作る専門課程を目指したい」と言ったんです。私は「そういうことまで考えているのか」と思って、説得力があったんです。しかし、長男は「今じゃないと僕はダメなんだ。今入ると、同じ年の子が高校を卒業するのと一緒になるから」、「とにかく手に職を早くつけて社会に出て行って、自分と同じ年の子が卒業する前にその人たちよりも、すでに上に立っていたい」と言ったんです。 私はその時、それもすごいと思ってしまって(笑)、そこまで考えていたんだと思いました。木藤さんと話をしていたら、逆にそういうことを言うのは、まだまだ自分のことを認めていないんだなと分かりました。 親って見えてるようで見えていないんだな、やっぱり「かわいそう」という気持ちがあるんだなと思いました。 木藤さんに言われるまでは、私がそんなふうに受け止められなかったんですけど、息子が素直にそういう自分の気持ちを言ってくれたのはよかったなあと思いました。それまで思っていたんでしょうけど、口に出して言ったことがなかったので、やっぱり同じ年の子を意識して、「やっぱり、自分はダメなんだ」という自己否定があったんだというのが分かってよかったです。その後、息子も吹っ切れたようでよかったです。 しばらくは「お母さんは一度は行かせてくれるようなことを言って、僕のために働いてくれないの」と、ガーッと言ったんですけど、「悪かった。よくよく考えたらやっぱり金銭的な面もあるし、いろいろ考えたら無理だと思う」と言いました。 私も一時は動揺したんですけど、「そんなこと言ったって、お母さんは働く気もないし」と言って。それまで穏やかに暮らしていたんですが、久しぶりにお互いに言い合いました。それはそれでよかったと思います。 今、長男は落ち着いて、家でニコニコしていていいんですけど、だんだん私がうるさくなってきて(笑)、パソコンがリビングに置いてあり、それをするのに2階から降りてくるんです。その度に私に話しかけてきて、笑顔もすごくいいし幸せに感じるときと、聞きたくないときもあり(笑)、話し合って折半でパソコンを買って自分の部屋でやっています。ご飯のときしか降りてこないので楽です。 次男は今中1ですが、最初ちょっと行って、実際授業を受けてみて、なんかやっぱり合わないなというのが分かったみたいで、自然に行かなくなりました。 小学校の時はスポーツ少年団に行っていて、担任も面白い先生で、次男は人気者になるタイプで、行くと場の雰囲気が明るくなるので、周りの子も分かっていてくれて結構行っていました。休むときは休んでもいました。 3番目の娘は10歳になりました。幼稚園に1週間行っただけで行っていません。私は娘に助けられていて、赤ちゃんの頃も、私が不安になると「ちょっと来て」と言って抱っこするとすごく落ち着いていました。(笑) 私が落ち込んだとき「お母さんは何も出来ない」と言うと、娘が「お母さんはね、料理も上手でね、優しくていいんだよ」と、いっぱい言ってくれて、すごくいいなあと思い嬉しくなります。 ―――無条件に愛されるということは心から安心するんですね。我が子からもそうやって癒される、大切なことですね。 「命があればまるもうけ!」 じぇりさん 私は今、スイミング教室のインストラクターをして2年になります。 採用のとき私は泳げると思っていたら、それは自己流で違ったようで(笑)、未経験でもよくて40歳までという条件だったんですが、浮くことは出来ましたが43歳でした。(笑) 前の仕事を辞めて、1年間家でのんびりしていた時に、喜界島のときのお友達に誘われてオーストラリア旅行に行きました。そのときにマイナーだなとすごく感じたんです。 例えば、自分の中で年齢の枠とか、妻だから、母だからと、誰も言っていないのに自分でこれはしないものと選択肢から結構はずしていることがあるなと思って。 オーストラリアで、すごい年配のお祖母ちゃんが可愛いサンダル履いてワンピース着て、お腹が出てる女の人がTシャツからお腹が出ていても普通に歩いていたり(笑)、はだしで歩いてる子もいたりして、人にも干渉しないし、自分がよければいいみたいな、日本じゃないなと。 もし自分でやろうと思ったら、OKなんだよなと思って。そこでの初めての経験で自分が思っている以上に影響が大きかったんだと思うんです。 今までの人生もそうですが、今の仕事も、その流れで面接だけでも行こうかなと思って、行って楽しければやろうかなと思って、何となく行って、採用になって、気がつけば2年経っていた、という感じです。 続けようとしてやったわけではないのです。自分がやりたいように出来て、楽しいからまあ行ってるわけです。自給も850円で安く、肉体労働だし、かぜなど引いたりすると仕事を休まないといけないし、結構歳なので風邪も長引くし(笑)、周りの理解はあるんですが、いつまで出来るかわからないのです。出来なくなったらまた別なことをやればいい。 先ほどの玲子ちゃんの話ではないけど、「面接って自分が試されるっていうよりも、相手に自分を見る目があるかというのがわかるのが面接だよ」、と夫も言ってましたが、自分をOKと言ってくれるところがあって、なかったら違う所にいけばいいだけなんです。 私も夫も給料が安いけど、子ども達が学校に行ってないのでなんとかやっているのですが、学校にでも行かれたら私はもう勘弁してよ、と思うまでになったんです。(笑) 子ども達が行かなくなったときは、この現実を受け入れようという感じだったんですが、8年も過ぎたら、その生活が当たり前になっています。 夫が辞めたときは「命だけあれば丸儲け、どっちにころんでもシメタ」と一生懸命思うように、自分に暗示をかけるようにしていました。 今すごくそれが、「ああ、そうか、生きてるからOKで、後のことはいいかな」と自然と感じるようになってきているんです。 ―――自然な生き方なんですね。 年数が経つ中で、こうしないといけないとか、ああしないといけないという強い意志とかなくても、ただ生きてるだけで、だんだんそう感じてこれたのがよかったんです。それはこの会があったからです。(笑) ―――子どもさん達はいくつになりました? 長女は今度の誕生日で二十歳になりますし、長男が18歳、次男は14歳です。 ―――あれから8年、月日の経つのは早いですね。 ここと出会ってすごく良かったです。たまたまここと出会ったんです。 夫が教師を辞めると言ったときも、「この先どうなるんだろうか、お願いだから休職にして」と心の中で思いつつも現実を受け入れたのでした。 ―――はじめは本当にお辛かったでしたものね。夫のなおぶーさんが職場である学校にどうしても行けなくなって、鹿児島の精神科に入院して、そこを3ヶ月で出されて、喜界島に帰れなくて、親子でウィークリーマンションで生活したときもありましたね。(そうでしたね) それが、歳月がたつと「生きているだけで丸もうけ」と自然になってこられたんですね 自分の生きる価値観を変えて、自然体で人生を送っているあなたの人生観には大いに学んでいます。まさしく「幸せは自分で創るもの」ですね。大切なお話をありがとうございます。 |
Last updated: 2007.4.24
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