登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2008年10月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.148より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



大人も自分を大切にすると道が開ける

2008年9月例会報告(抄)




学校にとらわれて、不安いっぱいの若葉マークのお母さんに、「大丈夫だよ」と「先輩」の皆さんが。重則さんは「子どもの人生は子どものもので、ちゃんと自分の人生を生きていく」、だから「周りが心配しないで」と。

みどりさんは「私がニコッと笑ったら、子どもたちも笑ってくれた。家族の笑顔が一番」と言います。Nさんは「1年たって、心から“学校辞めてよかったね”と言うことができた」。息子さんも「そう思う」と。

自分の不安がなくなって、気持ちが穏やかになってきました。妙子さんは息子さんの誕生日に「生まれてきてくれてありがとう」と手紙を添えました。「わが子のおかげで自分を大切にできるようになった」と言います。

やすしさんは「夫婦で過ごす時間が増えて楽しんでいる」と嬉しそう。maaさんは「夫が失職して、大変になっている気がするけど、そう思うと大変になるから」と「毎日を大切に、自分を大切に」暮らしています。

「子どもを特別扱いしないようにしたら、子どもも自分も落ちついてきて、気持ちが楽になった」というお父さん。mihoさんは、「私が不安いっぱいなとき、娘が私の頭をなでなでしてくれて、子どもたちにありがとう!」ですって。今はなんでも相談しあえる関係です。

「イライラしているときは、自分を大切にしてないんだな、と気がつくとき。泣いて悲しいときも泣きつくすと落ちついてくる」。高校で不登校。拒食・過食をして23歳で家を出た愛美ちゃんの話です。今25歳、一人暮らしをしている福岡から参加してくれました。

親の会は、わが子のことをきっかけにして自分の人生を考える会です。
自分の不安に気がつくと、「自分を大切にしていないな」とわかります。
今まで思ってもみなかった「自分を大切に」。
すると、自分への自信が芽生えてきます。

そして、自分も含めて、わが子への家族への限りない愛情があふれてくるのですね。
わが子へ「心配」のまなざしが「信頼」へと変わっていきます。
無条件の愛情が響きあう、それが「家族」なのですね。
感動をたくさんありがとう!



目次

1  3人の子どもたちが不登校「だから」幸せ!   みどりさん

2   「やっと引きこもりを受け入れる入り口に立てたな」・・・
    Nさん(母)


3  「夫婦ふたりの時間を楽しむようになりました」 直美さん、やすしさん

4  「わかってほしかった」  山口愛美さん



3人の子どもたちが不登校「だから」幸せ!  みどりさん




長男は17歳で、小2から不登校になりました。
次男は15歳、中3の年齢で、家の中で一番背が高いです。
全く学校には行っていないんですが、始業式とか終業式などの勉強のない日には友だちに誘われたりすると突然行ったりする子なんです。


1学期の終業式の前日に「俺、明日行くから」と言うんです。制服が入るかしらと思っていたら、案の定ズボンがきつくなっていて、やっとボタンをしたという感じでした。
それで息子も「今日で最後だ」と言ったのがおかしかったです。(笑)


娘はもうすぐ12歳になります。娘は幼稚園の時から行ってないんですが、幼稚園に1週間しか行ってないのに1年間は行ったような話をするんです。
私が「ああ、あの1週間行った話ね」と言うと、「お母さん、私1週間だけだったっけ? 私もっと行ったと思っていた」と言っています。(笑)


秋葉原事件のニュースを長男と一緒に見ていた時に、私が冗談半分で「こんなことをしなさんな」と言うと、息子は「お母さん、俺はチキンだから(気が小さいという若者言葉)こんなことはできない」と言いました。
長男は細かい作業をすることが好きな子で、以前、ギターの専門学校に行きたいと言ったことがありました。


あなたはそういうことが好きだよねと言った時に、「だから俺はギターを作ったり、修理をしたりする仕事がしたいと思って専門学校に行きたいと言ったのに、お母さんに焦っていると一刀両断されたんじゃん」と明るく言いました。
そういう話もさらっと話せるようになって、今楽しく暮らしています。


(「3人の子どもさんが不登校とおっしゃったみどりさんが、うらやましいです。(笑) 明るく話して、すごいと思って。どうしたら、ああなれるのかなと思いました」と言う「若葉マーク」のお母さんに)


長男が不登校になったのは小2の時でした。その時に内沢さんに「おめでとう」と言われたんです。「良かったね」と言われて、「この先長いのに、どうしておめでとうなのかしら」と思いましたし、3人ともそうなったらどうしようとも思いました。
次男が幼稚園に行きたがらなくなったとき、私は「この子だけは絶対行きたいはずだ」と思い込んでいました。


私が不安だったから「ひとりでも不安なのに、二人とも不登校になったらどうしよう」という気持ちに捉われて、自分に暗示をかけていたんだなあと、今わかります。
次男は「お母さんを悲しませてはいけない」と自分のことより先ず私の気持ちを考えるような子でした。すごいかわいそうなことをしたなあと思います。
幼稚園の先生に、「お兄ちゃんと妹はお母さんとずっと一緒に家にいるのに、どうして僕だけ幼稚園へ行かないといけないの」と話したらしいです。「この子に我慢させていたんだ」とやっと分かりました。


子どもたち3人を休ませて家で生活していても、色々なことがあって、戦争のような日々でした。
小2の長男と幼稚園生の次男が包丁を握ってケンカを始めたときは、「私の家は壊れてしまった、これから先はどうなるのかしら」と落ち込んでしまいました。子どもたちは涙を流す日もあったけど、私がニコッと笑ったら、子ども達も笑ってくれて。


その笑顔を見て、子ども達は「僕が学校に行かないからお母さんを悲しませているんだ」と心を痛めているのに、私は30数年も生きてきたのに、どうして子どもたちの盾になって守ってやれなかったんだろう、「学校なんて何!」 と言ってやれなかったんだろうと、子どもたちに気付かされました。
私は全て理解できたわけではなかったけれど、親の会のアドバイスを信じてやってみようと思ってやってきました。


学校からの連絡にも「こちらから連絡するまで電話しないで下さい」とはっきり断れたとき、自信がついて、子どもたちにも「行かなくていいよ」と言えました。
そのときの子どもたちの笑顔が本心からの笑顔でしたから、ああ、私はこの笑顔が見たかったんだ、長男が学校へ行き続けていたら、この世にいなかったかもしれないと思いました。
今長男は18歳でひきこもっているけれど、家ではすごく明るいし、いつもご飯を美味しそうに食べてくれるので、私はいつもこの笑顔を一番大切にしていたいんだと思っています。


―――
ありがとうございました。親の会に参加して、自分の考え方に確信を持ってくると本当に安心していくのだと思います。




「やっと引きこもりを受け入れる入り口に立てたな」・・・

Nさん(母)



今のお話(息子さんが高校で不登校になったという別の方のお話)を聞きながら、自分の息子が不登校していたときの辛さが思い出されて、涙が出てきました。
息子は高1の10月から行けなくなり、翌年の3月に退学しました。
初めの頃は、まだ親の会を知らなくて、学校から連絡があると、息子も電話を替わるものですから、私は「ああ、本当は息子は行きたいんだ」と解釈していました。「行きたいんだ」と勝手に思ったものですから、担任が家庭訪問したときには「先生、また来てください」と頼んだりもしました。(笑)


担任が帰った後は、息子は元気になったものですから、私は「刺激を受けさせるのはいいことだ」と思っていました。(笑)
今は、先生が帰っていったから元気になったんだと分かるんですが・・・。息子は我慢して2時間くらい「はいはい」と黙って聞いていたので、帰るとホッとして、元気になったんだなと思います。


ただ、高校を辞めることには、私はすごく抵抗があって、家族の中で最後まで反対しました。
でも息子の意思は固かったし、夫も「こいつは絶対行かないだろうから、中退させて地に足をつけさせてやらないと」と言いました。


―――
あなたの夫は「おれが一生食わせてやる。いいじゃないか、三人で暮らせば」とおっしゃったんでしょう。


はい、私が「中退した後どうなるの」と夫へ言ったら、「いつまでも三人仲良く暮らしたらいいじゃないか」と言いました。
2つ上の娘は、大学進学のため、家を出るときでしたから。
先日、息子が18歳の誕生日を迎えたのですが、その夫が息子に「お前は、もう働けや」と言っていました。(笑)


―――
親の会に参加している人と、そうでない人との違いがでたわね。(笑)


息子はヘラヘラと受け流していました。
私は後で夫に「そんなことを言わないでよ」と言いました。
息子は元気にしていて、毎日パソコンとテレビとゲームと漫画にはまっています。
高校を中退してもう1年半になります。


今、思い出すと、息子へ私はひどいことを言ったんです。
とにかく息子にはなんとしても高校へ行って欲しかったから、どうしたら学校へ行ってくれるかと、そればかりを考えていました。
すると娘が「もうお母さん、弟は家に居場所がなくなったら、死ぬしかないんだよ」と言って・・・。


―――
例えば、どんなことを言ったの?


言えません。(大笑) 
昨年5月に親の会を知るまでの、あの時の6ヶ月間が一番辛かったです。
今はそれぞれ好きなことをして、自然に毎日が過ぎていっていますけど、時々「これでいいのかな」と息子を見て思ったりします。
ゆっくりゆっくりと過ぎていくものですから。息子は「俺の12月くらいまでは、30分くらいの間隔で過ぎるぞ」と言います。どういう意味かわかりませんけど、まだゆっくり過ごすという意味かも知れません。


―――
あなたは「高校を辞めてよかったね」と息子さんに言えたんでしょう。


はい、そうです。
高校辞めて1年くらい経った頃から、やっと自分も穏やかな気持ちになって、そう言えました。
息子も「うん、良かった」と言いました。何が良かったかといえば、今、何もしていないけど、気持ちは楽になったということですね。


―――
そうですね。あなたのお気持ちが楽になった、ということが大事なのね。


はい、そうですね。
学校に行かなくなってから、2回誕生日を迎えたわけですけど、確かに背も伸びて大きくなり、ちゃんと成長しているんだと思います。


この夏休みは、お盆でお寺へ行くことがありました。
息子へは強制はしなかったんですが、自然についてきました。でも、出かけた先で、すごく顔色が悪くなり、お腹が痛いと言ったことが2回ありました。


そして家に帰ってくると、すごく元気になるんです。
「ああ、この子の居場所は家なんだ」とわかり、やっとひきこもりを受け入れる入り口に立てたなという気がします。本当に入り口ですけど。


―――
それは良かったですね。ひきこもりはその子の人生にとって、とても大切なんです。
あなたのHPへの書き込みも今日の資料にご紹介しました。
お誕生日に息子さんへ「お母さんは今のあなたが一番かわいい」と手紙を送った話、とてもいい書き込みでしたね。


我が子に学校へ行ってもらいたいと思っているうちは、確かに我が子への愛情は薄れていきますね。
しかし、このままでいいんだという自分の気持ちに安心感が出て来ると、無条件にとても可愛いと思えるようになっていきますね。


無条件の愛情が響き合うから、安心がちゃんと息子さんに伝わる。そして息子さんも安心していったんですね。
昔のことなんかもうとっくに許してくれていますよ。





「夫婦ふたりの時間を楽しむようになりました」  直美さん、やすしさん




―――
大阪の堺市からご夫婦で今回で3回目の参加ですね。直美さんは娘さんの不登校で以前はずいぶんとご自分を責めてしまいましたが、今はお気持ちが楽になってきましたね。


直美さん:はい。今15歳の娘が中1の時から不登校になりました。中学の時は「あれを買って、これを買って」という娘の要求に従って洋服を買い、ひと財産使いました。(笑) 不登校になる前に私への暴力もありました。


―――
あなたはそれですごく疲れて、知らず知らずのうちに娘さんに気をつかうようになり、朝も起きられないくらいになったんですね。
一時は夫も怖いとおっしゃっていたけれど、今は娘さんが食事の支度もしてくれて、あなたは以前に比べてずいぶんと心が穏やかになった。



はい、そうです。高校を辞めてからですね。嫌なら作らなくてもいいと私は言っているんですが、娘はパンも焼いたりして、朝も昼も作ってくれるのでありがたいです。


高校は70万円くらい使って入学したのに、2日行っただけで辞めました。(笑) その後、高校からは20万円くらい返ってきました。今娘は休む時間がぐるぐる変わっていって、夜中に起きていたりと様々ですね。


―――
あなたは鹿児島の親の会を知るようになって、自分を責めたりはしなくなりましたか?


まだ責めている部分はあります。
娘の不登校のことを私の母など身内から言われるのがしんどいです。先日も母に言われて私が動揺したものですから、すぐに娘に伝わって。


私が揺れると娘はすぐに反応するんです。私も「うるさい」と叫んでケンカになりました。
娘はHPの掲示板や親の会のニュースも読んでいます。
娘とケンカをした後は私が家を出て外に行くんですが、帰ってくると娘は穏やかになっています。


私の友人から「会いましょう」と電話やメールが入るのですが、私は会いたくないので返事もしませんが、どこかで気をつかってしまうところがあります。
そしたら娘が「メールも返さなくていい」と言うので、「はい、その通りです」になります。(笑) 


それは私がまだ娘の不登校を否定しているから友人と会えないのかなあと考えてしまいます。相手は普通に子どもさんが学校に行っている人です。


―――
娘さんは大したものじゃないですか。会いたくなければ会わなくていいんです。自分の気持ちが疲れているときに赤の他人に会うのはとてもエネルギーがいるんです。
自分の気持ちを大切にしなさい、と娘さんに教えられているのね。



高3の息子も妹の不登校を全然理解していなくて、「外へ出ろ、バイトをして500円くれ」(笑)と言いました。
その時私は黙っていましたが、兄が外出した後、娘が怒って私に言ってきたので、「そんなことはちゃんとお兄ちゃんに言いなさい」と言いました。兄は私が妹をかばっていると思っていると思います。


大学受験のことで夫と息子が話している時に、息子が「行っても辞めるかもしれない」と言うと、夫は「辞めたらいかん。ちゃんと行かないと」なんて娘の隣で話しているんです。(笑) 


すると娘は「私には行かなくていいと言うけれど、お兄ちゃんには大学に行って欲しいと思っているんじゃないの。おとうは」とパンパン言ってきます。私も負けじと言い返します。(笑)


―――
兄妹げんかの時にあなたが黙っているのはいいですね。あなたは言いたいことが言えて、二人の子どもさんを信頼しているようね。


夫はまだ理解できていないけど、娘には「お父さんがどう思おうと、関係なく自分の道を進んだらいい」と私は言いました。
まだ外へ出る段階ではないし、「お兄ちゃんにちょっと言われて、それくらい傷つくことがわかってよかったじゃない」と言いました。


―――
あなたすごいことを言えたじゃない。(笑)


いえ、その前に内沢さんにメールをしてそのようなことを言われたので(笑)、まあ、いいかと思ってそのまま言ったら、娘はすぐ落ちつきました。


―――
あなたは初めて参加された時より、ずいぶんお気持ちが楽になったのね。
朝起きられずにいると夫から「いい身分やなあ」と言われて傷ついたことがあったとありましたが、今はどうですか?



「ええ身分やなあ」と言われた時は、「あなたのおかげです」と言いました。(大笑)
その後は何もないし夫も以前ほど怖くありません。(笑)
もともと昔は夫は怖くなかったし、私の方が夫よりずっとすごかったと思うので(笑)。


―――
やすしさんはどうですか。ご夫婦の関係はうまくいっていると思いますか?


やすしさん:そうですね。うまくいっていると思います。
ふたりで映画に行ったり、息子の行事に参加したり、以前より夫婦で過ごす時間が増えました。
初めて親の会へ参加したときも久しぶりのふたりきりの旅行でした。


娘のことは気にはなりますが、中学時代と比べると、ずいぶんと明るくなっているし、よくしゃべるし、お笑い好きで、そんな番組をよく見ています。
本人は辛いかもしれませんが、僕らは僕らでふたりで外へ出ていったらいいかなと思っています。


―――
そうです。ふたりで楽しめばいいのです。
娘さんはそんな親の様子を見てとても安心して嬉しいでしょう。
最初の頃、あなたは「自分を大切にしていないかもしれない」とおっしゃっていたでしょう。
(はい)
今は、どうですか?


うん、まぁ、自分のことも少しは考えるようになりましたね。


―――
親がちゃんと自分のことを考えて、自分を大切にしていく、そして安心して我が子を信頼する。それが一番の子どもへの支援ですよね。(はい)

子どもは、ちゃんと生きていけるし、生きているのですから。何も心配いりません。
娘がごはんを作ってくれてありがたいな、ふたりで映画を観にいって幸せだなぁと、いうことですね。

娘さんの不登校が、自分たちの人生を考えるキッカケになってくれたのですね。私は掲示板を何回も読んで、直美さんはずいぶん楽になってきているなぁと思い嬉しかったです。



直美さん:内沢さんが紹介していた夏樹静子さんの『椅子がこわい』(新潮文庫、文春文庫)を読んで、また気づいて、気持ちが楽になりました。




「わかってほしかった」  山口愛美さん



―――
今は福岡にひとり住まいの愛美ちゃんにお話ししてもらいましょう。
愛美ちゃんは高1の時に不登校になり、拒食・過食になってお父さんもすごく心配したのね。



多分元気になりたくなかったんです。
薬を飲んで元気になったら、私の辛い気持ちをわかってくれない、と思って。私がわかってほしいのは「病気である」ということではなく、「自分の心の辛さがあるから、そうなっているんだ」というのをわかってほしかったのです。


――― 
一番わかってもらいたかったのは誰?


お父さんかなとも思うけど、おばあちゃんかなとも思う。
その時は、おばあちゃんと一緒に暮らしていて、一番私を責めてくるというか、関わっているのは、おばあちゃんだったからね。
お父さんは、会社へ行って夕方帰ってくるし、面と向かって責める人ではなかったから。


―――
拒食の時は、食べろ、食べろと冷蔵庫いっぱいに食べ物を入れるけど、過食になると冷蔵庫の食べ物を全部取り出して食料庫に入れて、そこにカギをかけて愛美ちゃんが食べられないようにしたのね。


お父さんが愛美ちゃんを守って、食料庫のカギを壊したこともありましたね。
「みんなまともになっているのに、どうして愛美だけは治らないの?」と食事のときに、責められたりもしたのね。



よく言われたのは「お金がないのに、お金がないのに」でした。
でも後で気づいたけど「お金がない」と言ってるうちはあるんだとわかりました。(笑)


責められている時はやっぱり辛かったですね。四六時中いるのは、おばあちゃんだったし、母親代わりだったから。
薬を飲まなかったのは、やっぱり、今でも思うけど精神的なもので病気というのではないんじゃないか、と思うんです。(―――
すごいねぇ


やっぱり、辛かったり、苦しかったりの気持ちをわかってほしくて、暴力とか、強迫行動とか、手をずっと洗ってきれいにしたことで自分を許すとか、私だったら食べることで自分の辛さを軽減したり、するんだと思います。
それは薬で治るものじゃない気がする。


―――
大学病院へ入院する前日に私に電話をかけてくれたのね。


『登校拒否は病気じゃない』という本をお父さんが借りてきて、「辛いだろう、よく読んでみたら」と言って渡してくれたんです。
でも私は、辛くて、苦しかったから、本を読めるような状況ではなかったんです。


でもその前日にお父さんが「ワァー!!」とお風呂場で叫んだことがあって、「お父さんだって、叫びたいこともあるんだよ」と言ったんです。
お父さんとは仲が良かったから、辛いことも、苦しいことも今までも全部話していたけど、私が不登校になり、おばあちゃんとの確執もふえ、お父さんに負担が全部いっていたんだなぁとわかりました。


なんか、もう、自分が相談したり話したりする場所がなくなったと思って、読みたくない本を開いてパラパラッとめくっていたら、本の後ろに、この親の会が紹介されていて、トモちゃんを知りました。
それで私が電話をかけて、お父さんに親の会へ行ってもらうようにしました。


―――
お父さんは、いつもあなたの味方だよね。


はい。今でも辛いこと、苦しいこともいっぱいあって、もうどうしていいかわからない時には、お父さんに電話しています。


学校へ行かなくなったのは17歳からです。高1のときは拒食にはなったんだけど、学校へは行っていたんです。
高2の5月に過食になり、五月雨登校になって、その年の秋に学校を辞めました。
それから6年、23歳までひきこもっていました。


―――
自分は、いつまでもこうしているのかと悲しく思ったことがあった?


いっぱいあったと思うけど、辛いことって忘れるなぁと思います。


―――
途中、お父さんとふたりでアパートを借りて、鹿児島市内に住むようになったのよね。


目の前に自分を否定する人がいなくなって、初めて自分と向き合うことが出来るようになり、それから自分から親の会へ参加するようになりました。
ここでも、自分のことを話しているうちに「ああ、そうだ」と思えて・・・


―――
気持ちが自然に楽になっていった。


うん、そうですね。楽になっていきましたね。


―――
お父さんを悲しませて、自分は悪い子だと思ったことはあったの。


うん、あった!! すごく自分に自信がないから、お父さんは私に愛情を注いでくれているけど、それが信用しきれないというか、自分がそんなに愛情を注がれるほどの存在なのか、と思って。


ふたりで市内に暮らし始めた頃は、昼夜逆転しているのに、頑張って朝5時に起きて朝食を作ったり、Yシャツにアイロンがけをしたけど、1か月も続かなくって・・・、でもお父さんと生活していくうちに「これでいいんだ」と思えるようになったんです。


ひきこもっている時は、すごい疲れていたし、人と会うのも怖かったと思う。もう辛いことだったから、忘れてしまったけど、辛くてしようがなかったというのは覚えています。


―――
はじめのうちは自分で自分の頭をたたいて、「もうダメだから」と言って、お父さんに泣いて電話したことも何回もあったよね。


それは、私の辛さをわかってほしくて、お父さんの気を引くためにやっていた部分もあったと思います。
「こんなに辛いんです」という自分の気持ちを表現したくて、わかってほしかったんです。


―――
後半は、だんだん気持ちが楽になって、23歳の時、「外へ出ても大丈夫かな」と思って、今福岡で暮らしているのね。


今は福岡の芸能プロダクションに入って、モデルをしたりCMに出たり、舞台もしながらバイトもしています。
最近、本当に落ち込んだことがありました。初めて彼氏ができて、1年半くらい付き合ってきたのに、今年の7月に別れました。それが本当に辛くて悲しくて、自分を全部否定された気持ちでした。


そのとき思い出したのが、不登校になって、出口のないトンネルを歩いているような不安で悲しい気持ちでした。
こういう経験はもう二度としないだろうと思っていたのに、それと同じくらい辛かったんです。その時、お父さんに電話をしました。


1ヵ月くらいしてHPの書き込みに、トモちゃんが恋人のことじゃないけど、本当に辛い時には友だちは必要としないとありました。
私はバイトをずっと休みなくやって、その合い間に撮影に行ったりしていたので、疲れているので彼に辛くあたったりしていました。自分でバイトのシフトを入れて自分で忙しくして自分で招いたことなのに、彼に当たって甘えていました。


ですから、自分の足で立って、自分で考えて行動しなさい、ということだったのかなぁと思って!!


―――
すごいじゃない。辛いことって必ず自分の栄養になるよね。


親の会にもずっと来たかったけど、土、日にレッスンが入っているので、参加することに自分がこだわっていたのです。
ステップアップするためには、レッスンを受けないといけないから、自分の気持ちを押し殺してレッスンに参加していたのです。


今日は、本当はレッスン日で、しかも次回公演の配役のオーディションがあるから絶対参加なんだけど、どうしても自分の気持ちは親の会へ行きたかったので、そう決めて鹿児島へ帰ってきました。
それができたのも「自分を大切にして休むんだ」と納得できたからだと思う。


イライラしている時は自分を大事にはしてないけれど、イライラし尽くすとストンと落ちてきたりします。
泣いて悲しいときも泣き尽くすと落ち着いてきます。


―――
こうやって、ひきこもっていても、外へ出て行っても自分を大切にして生きるということなのね。そうすると大丈夫だよ、また人生を生きていけます、ってね。


今も、ひきこもっていた時も、あんまり変わらないと自分では思っているのね。その時は何もできないぐらい辛かったけど、今も家にいて過食して何もしたくないというのはあるけど、そこから「同じことをくり返していくんだな、どんな経験も勉強で、ひとつひとつ学ぶことがあるんだ。でも学ぶスピードは早くなったかなあ」という感じですね。



山口良治さん:先ほど愛美が話したように、風呂場で叫んだことを思い出しました。


―――
NHKのラジオ教育相談に相談したり・・・


そう、そう。


―――
他にも飲み屋で話して過食を治してあげる、と言われてグラッときて、もう親の会辞めてそっちにいこうか、なんてね。色々ありましたね。


それは、忘れていましたね。(笑)


―――
その過食も当たり前になって、愛美さんがバケツで吐いたりする傍で、晩酌出来るようになって。


そうですね。最初、学校から来てないという連絡が来て、一生懸命探したら、自分の家の屋根にうずくまっていたんでした。どうして学校に行けないのか、僕もショックを受けました。
とりあえず行かなくていい、でも拒食は治したい。


こんなに痩せてしまって、30キロちょっとでしたから、僕も気づかなくて。登校拒否や過食・拒食など話には聞いていましたが、まさか我が娘に起こるとは夢にも思っていなかったし。
娘が小さい時に離婚したので母親はいなくても、娘は高校で生徒会長をしたりして、順風満帆にいっていると思っていましたので、大きなショックを受けました。


私は学校はもういいけど、成長期の娘の体が心配で、拒食は何とかしたいと思い、大学病院へ連れて行って薬をもらいましたが、娘はその薬を1錠も飲みませんでした。
「なんで飲まないの」と聞くと、「私は病気じゃない」と言いました。
病気じゃないのにどうしてこんなに痩せているのか分からず、とにかくもう一度病院へ連れて行って入院させようとしましたが、娘は「絶対、私は行かない」と拒否しました。


次に、拒食から過食になったら、先ほどの話のように拒食のとき心配していたお祖母ちゃんと娘のバトルになり、私は嫁と姑の間に立った婿さんのように板ばさみになって、その時が一番苦しかったかなと思います。
2年近くそんな状況でした。
他にも、愛美は弟と揉めて、包丁を持ち出して追いかけたりしたこともありました。


そんな時、親の会で朋子さんに「離れることが1番だよ」と助言され、大口の実家を出ることは思いもよらなかったことだけど、条件もでき、娘と二人で暮らし始めました。
日常のバトルがなくなって、私も娘も気持ちが楽になっていきました。
娘は6年間ひきこもり、博多に出て行きましたが、その後も「お祖母ちゃんは受け入れられない」と言ったので、そうとう心の傷になったんだと思いました。僕のお袋だし、愛美のお祖母ちゃんだし、娘が否定するのはすごく辛いことした。でもやっぱり母親より娘の方がどっちかというと可愛いですね。(笑)


―――
今は実家に帰って、認知症のお母さんのお世話をしているのね。えらいよね。


えらくはないですよ、これがなかなかね。


お付きあいの方もいらっしゃるので心強いですね。(笑)
すごい辛いこともあったけど、あっという間ですね。愛美さんが出て行って寂しいという気持ちもあるけど、毎晩のように電話して話をしているんですって。(家族間は通話料がただですからね)
親孝行ね。相手をしてもらっているうちが花よね(笑)


鹿児島で父娘で暮らした5年間が一番想い出に残るというか、楽しかったですね。


―――
同志みたいなものよね。その時が楽しかったと言えるようになるのがいいですね。私も娘、玲子がひきこもっているときが一番楽しかったですね。





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Last updated: 2008.11.11
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