体験談
2008年9月発行ニュース 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.147より
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。 その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。
体験談(親の会ニュース)目次はこちら
例会参加 継続は力!
2008年7月例会報告(抄)
「めちゃめちゃ、うれしかった。それまで引きこもりを肯定してもらったことがなかったので」。三重県から参加した青年がホームページを初めて読んだときの気持ちを話してくれました。「鹿児島の親の会なら」と夜行バスに乗って来ました。
熱いものがこみあげてきて、たまらなくなりました。両親の理解もなく、とてもきびしい状態です。でも、動きたくなければ頑として動かない。自分の一番の気持ちに正直になると道は開けます。例会で話を聞いたみんながあなたのことを応援しています。親の会の元気を力にしてください。
Sさんは、「今、夫婦で毎日をエンジョイしています。これも登校拒否をしていた息子のおかげ」と言います。息子さんが働くようになっても、毎月のように例会に参加します。Gさんも娘さんが元気に東京暮らしをしていても、また宮崎に転居してからも例会によく見えます。Gさんの「まだ来ていますものね」に一同大笑い。
町田さんは「息子が仕事をするようになってからのほうがここに来ないといかんと感じる。自分が力を得られる」と。Mさんは「親の会にずっと参加してきたことが一番の財産」と振り返ります。
みなさん、「辛かったときは?」との問いに、一様に「今があるのもあのときがあったから」「家族はかけがえがない」と言います。
2回目のHさんは、前月の初参加で吹っ切れ、息子さんに「お母さん、お父さん、妹、あなた、みんな楽しく、やりたいことをしよう。お母さんも好きなことをするよ!」と宣言したそうです。子どもたちは何よりも親の笑顔を望んでいます。
一人で考えているだけでは「キビシイな」と思って気持ちもなえてしまいます。
そんなとき「ここに来ると気持ちがシャンとします」(Tさん)。
親の会にはみんなが元気になれる財産がいっぱいあります。
継続は力!です。続けてご参加ください。
目次
1 親の会は自分自身の力に 町田さん(父)
2 「初めは関心がなかったですものねえ・・・」(笑) Gさん夫妻
3 「この会に出会えたことが一番よかった」 Nさん夫妻
4 「お母さんも好きなことをするよ!」 Hさん
親の会は自分自身の力に 町田さん(父)
今20歳の息子は、中3の1学期の途中から学校に行かなくなって、高校も一応入学したけど2日行っただけで翌年辞めました。
家でゆっくり引きこもったあと、19歳から調理師見習いの仕事を始めて、1年数ヶ月です。今はアルバイトじゃなくて正職員です。
―――町田さんが一番辛かったときというのは、どういうときですか。
一番とは言えないけれどショックを受けたのは、中3の1学期は何とか行かせようとしたけれど、夏休みに生活習慣を切り替えて、2学期から行ってくれるようにというつもりでいました。
それで2学期の初日は行ったので、「これでよかった」と思ったのに、次の日に行かなかったのはショックだったですね。
―――その当時は息子さんのことが、頭の中にいつもありましたか。
それは、もうずっとありました。
―――いろんなところにご相談に行かれたのですか。
私が相談に行ったのは行かなくなった2学期で、教育心理学の先生とか、息子も一緒に行って相談したこともあったし、高校に入って、そこにも担当の先生とかカウンセラーの先生がいるということで相談しました。
その時は息子は別で夫婦で相談に行きました。
妻のほうが月1回何回か行っていました。私は初めどういう相談かなということで1回だけ行って、次からは僕は行かなくていいかなという感じでしたね。(笑)
―――町田さんは親の会にはずっといらしたけど、(そうそう) 親の会には行かなくてもいいとは思わなかったですか。(笑)
それを思いはじめたのは、つい最近だよね。(笑)
初めの頃は、自分が息子のことを相談するような気持ちで来ていました。
それが家にいた息子が仕事をすることになってからの方が、これは親の会に行かないといかん、やっぱり皆さんのお話を聞くことは、私自身が力を得られることなんだ、と逆に最近非常に感じています。
―――町田さんのお話で大事なことは、気がつくといつも頭の中にあった息子さんのことに関心がなくなったということですね。
自分に不安がなくなって信頼する関係になっていったのですね。
カウンセラーとか教育心理学者とかは、「この子をどうにかしなくては」ということですものね。
それともうひとつ、中3の正月、息子は嫌だと言うと思っていたけど「お正月だから、伯父さんのところに行こうか」と、当時校長先生をしている伯父さんのところへ誘うと、「いいよ」と言うから、「しめた」と思って連れて行ったんです。(笑)
今振り返ってみて、一番息子に謝りたいのは、
正月伯父のところに連れて行ったこと。
そのときの息子の気持ちが最近になって分かってきて、父親のことを気遣って「いいよ」と言ってくれたけど、息子の気持ちは如何ばかりのものだったかと、今非常に思います。
―――子どもって、自分が悪いことをしているから心配かけている親に悪いと思って、自分の気持ちに無理するんですよね。
でも、それはみんな体験しているんです。
その伯父さんとは、あなたは今お付き合いしているんですか。
それは当然、非常に親しくしています。
今、退職されたんだけど、不登校の子の相談者になっています。(―――あまり余計なことを言ってほしくないですね)(笑)
「初めは関心がなかったですものねえ・・・」(笑) Gさん夫妻
(夫)現在54歳で、52歳のとき退職しました。
―――そこを間違いないように、ちゃんと54歳に見えますよ。(笑)
この頃はですよ、こんなこと言うと当たり障りのある人もいますけど、私の頭を見て、妻が「あんたのは禿げ散らかしている」と言うんです(笑)。
今私が日頃してることは、釣りに行ったり、実家の農作業の手伝いで、田植えも終わりました。
この頃就職のために履歴書をあちこち送りますけど、ショックなことに面接までいかなくて、丁寧にお断りの文章をつけて履歴書が返ってきます。
丁寧に当たり障りがないように書いてですね。(笑)
何とか面接まで行きたいと思うんですけど、履歴書に免許資格を記入する欄がありますが、私はほんとにないんです。車の免許しかもってないんです(笑)。
通信教育はたくさん受けたんですが、そこに書く資格というのがないんですね。自分で立派なもんだと思い、車の免許のところに必ず、「22年間無事故、無違反です」と書いて(笑)アピールするんですが、なんのアピールにもならないんです。
それともうひとつ、この色黒は「農作業、魚釣り、そして焼酎焼け」です。(大笑)
―――今、愛する妻のために家事一切しておられるのね。全然苦にならないのね。
はい、やっています。気にならないです。
以前は宅食を取って。こういうふうに作りなさい、という説明書を見て作っていましたが、
この頃はそれに飽きて、自分で材料を揃えて簡単な物を作っています。
―――すごいじゃないですか。
娘さんが高校1年のとき行かなくなって、単身赴任中のあなたがおられる川内の高校に転校したけど、1日も行かなくて、家族3人で単身赴任先で暮らして。
あなたも娘さんの不登校をきっかけに、自分もそんなに無理して働くことはないんだと、仕事をお辞めになったんですね。
その娘さんも昨年、気がついたときには、東京の大学に行ってしまった。
あなたが一番辛かったときはいつですか?
先ほどからその話題になったので、私も自問自答していつが辛かっただろうかと思っていたんです。
私が単身赴任で川内に行った時、明け方の3時,4時頃、都城に住む妻が携帯電話をしてきたときが何回かありました。
でも私が川内から都城に帰るのには時間がかかるし、妻はその時が一番辛かったのかなと思って。
―――娘より妻のことなのね。
娘のことですか・・・、その時はそれなりにだったんでしょうけど、これというのは覚えてないですね。
思ったのは妻のことでした。(笑)
―――いつもあなたのお話で、一番辛かったのはやっぱり妻のことよね。
川内に親子3人で住んでいたときに、朝起きたら、あなたの妻が川内川に行ってなかなか帰ってこられなくて、それがとてもご心配だったんですね。
その思いが相手に通じて、今も仲がとってもいいんでしょう。(笑)
私の家にはじめてご相談にいらしたときはどういう思いからでした?
すいません、私はあの時ははっきり申しまして、何の思いもなく、妻が「一緒に付いて行って」と言うので。
まあ嫌々ながらというか。
なんの変わり映えもしないだろうと思って。(笑)
―――それ以前にもいろんなところに相談されたのね。
はい、あちらこちらでしました。あちこち行っていましたから、変わるはずはないと思っていましたから。
―――ほかの所と違いましたか?
スイマセン。その時は他のことを考えていました。(大笑)
それがほんとのことです。
―――とにかくここに座っておればいいと。妻が言うからと。
そんな感じで参加してた。
はい、親の会も最初はそんな感じでした。
しばらくしてからでしたね。ここは今迄のところと違うなと。
川内から宮崎に引っ越すときも、「最後になります、もう宮崎からは来ません」と言いましたけど、まだ来ていますものね。(笑)
何か惹かれるものがあるからでしょうね。(笑)
(妻)奥地圭子さんの『登校拒否は病気じゃない』の本の後に、内沢さんの紹介が載っていました。
あの時は産婦人科で、「あなたの子育てが悪いから子どもがあーなったんだ、あなたが全部悪い」と医師に言われ、ショックで半分泣きながら内沢さんに電話したのが始まりでした。
その時は、心療内科に娘の薬を私がもらいに行って、夫は飲ませない方がいいと言っていたのですが、医療職に携わっている私としては、薬を飲めば治るというのがあったのです。
でも、内沢さんに「薬を飲ませない方がいい。病気じゃないのよ」と言われて目から鱗が落ちたようでした。
内沢さん宅に夫にはとにかく付いてきてと頼みました。
あれからすごく楽になりました。
娘はひとりっ子でしたから全部の愛情を注いで、手取り足取りやった私が娘をこんなにしてしまったと、ずっと自分を責めて、悪かったなと思っていたんです。(涙ぐむ)
夫もいないし、娘は死んだように眠り、学校にはやっと行ってる状態でしたから。
その時は川内の学校に転校してもやっぱり行けなくなったときで、
「あなたは悪くない」と肯定されたのが初めてだったから、すごく嬉しくて。
そのお陰で夫と仲良くなれたかな、と最近思います。(笑)
時々、夫が実家に帰って留守の日は寂しいなあと思います。
何もなく過ごしていたら、こんなふうに思えたかな、と。
―――あなたの夫はあなた一筋でしたね。(笑) (夫:ですね)(笑)
あなたはお幸せですね。
そうですね。東京の娘の話で、いろんな友だちができて、自宅から通っている子がよく授業に遅れるそうなんです。
聞くと親が起こしてくれないって。「あんたが起こせばいいのよ」と言うから、「なんでアパートから通ってる私が、家からの人を起こさないといけないの」と、娘はそんなふうに思うようになったんだなと思って。
楽しそうにしてるからいいかな、ひとりで映画鑑賞や、この間事件があった秋葉原に行ったりして、大都会でひとりで暮らしてすごいなあと思います。
娘から色々教えられています。
―――良かったですね。あなたが辛かったときは川内川を見つめてね。
はい、何回か飛び込もうかなと思ったんですけど、今度は娘が自分を責めるかなと思ってできなかったです。
だから、夕方サラリーマン風の人が川を見つめていると、何かやるんじゃないかと思って。(笑)
―――娘さんを信頼することは、ほんとうに自分の人生を大事に生きるということだと教えられたのですね。(はい)
「この会に出会えたことが一番よかった」 Nさん夫妻
(妻)長女は小学校の頃から不登校ぎみで、中1から行けなくなりました。
次女も姉を見ていて、「私も行かない」と言って行かなくなりました。
初めのころは長女は本当に不安がいっぱいで引きこもっていましたが、後半は私の支えとなり、食事の準備からお弁当作りと主婦業をせっせとやってくれました。
どっちが主婦か分からないくらいでした。(大笑)
その娘達は23歳と20歳になって、今はコンビニでアルバイトに頑張っています。1年近く経ちました。
―――あなたの一番辛かった時はどんな時でしたか。
自分が一番辛かったときはいつだったかなと思い出してみると、自己否定し続けていた長女が「自分は虫けら以下だ」、「もう1回お母さんのお腹の中に戻りたい」と言っていた頃でした。
その時はもう私はこの親の会に参加していましたが、長女は自ら命を絶つのではないか、との想いが強かったです。
だからどうしたらいいのだろうか、という気持ちで参加していました。
ここで想いを吐き出して、帰る時には娘がいとおしいという気持ちと、随分自分の気持ちも楽になって、少しずつ少しずつ意識しながらやってきました。
その結果「ああ、この子は大丈夫だ」と思えるようになりました。
途中、娘が焦って動き出そうとしたことがあります。
私は「勉強したいから塾に行きたい」と言う娘の言葉を本気にしてしまいました。
親の会では「違う、焦っているんだよ」と言われたけど、娘が本気でそう思っているのなら、応援してあげたいと思って、その体験でちょっと勉強しました。(笑)
高い授業料を払う形となりましたが(笑)、ああ、やっぱり違ったなあと思って。(笑)
―――ここではなく家庭教師に高いお金を払ったのね。(はい、そうでした)。(大笑)
でも、娘さんは不安からくる「勉強したい」という思いで、違っていたのですね。
娘が動き出そうとしているのに何故それを応援しちゃいけないのかな、という思いが私の中にあったものですから。
でもやっぱり違ったんですよね。
娘とのバトルもあり、娘に説得力があったものですから、出してあげたいという気持ちと、いや、それをしてはいけないのだという葛藤がありました。
手を出さずに見守ってきたというか、内心ではオロオロしていたのですが、内沢さんに相談しながら「これでいいんだ、これでいいんだ」と自分で納得しながらやってきたのが、今となっては良かったなと思います。
ああ、親の会の言う通りだったと認識を新たにしました。
それ以来、お金は出さないと心に決めてやってきました。
娘たちには焦りもあります。「このままではいけないんだ、もう何月だ」と言ったりもします。人間関係に落ち込んだりもします。
そんな様子を見ると、つい「どうしたの?」と言ってしまうけれど、手も口も出さず、ただ見守っていくというのは、なかなか難しいですね。
つい余計な事を言ってしまいます。
娘たちはもう私の気性を十分分かっているので、「お母さんの心配症はもう病気なんだから」と言っていますね。(笑)
親の会に出会えたことが本当に良かったです。
―――無理して動き出そうとするときと、エネルギーが貯まって本当に楽になって不安がなくなった時とは全然違ったものね。(はい)
今はしっかりしていて、どっちが親なのか、子どもなのかという感じですものね(大笑)
親がこんな調子なものですから、子ども達がしっかりしてきますね。(笑)
今の私の関心は、娘たちより夫との関係ですね。(笑)
今は娘たちがいてくれるからいいのですけど、夫と二人きりになったときの心配があります。
2ヶ月前に、夜中の1時から4時ごろまで納得するまで言いあったというか、話し合いました。
以前の私だったら「違う」と思っても、それ以上は夫に伝えなかったけど、今は100%は言えなくても「私はこう思っている」と言えるようになりました。自分自身変わったなあと思います。
―――良かったじゃない。以前は夫のことを「怖い」と思うこともあると言ってましたけど、今はどうなの。
怖い人ではないけれど、他人様にはものすごく愛想がいいんですよ。(笑)
でも、私にはそうでもないのです。(大笑)
私への言い方がきついんです。
昔は夫のそういう点は仕方ないと思っていたのですが、この会でだんだん私も学んでちょっとたくましくなって。(笑)
「何、それ、家族を1番大切にしなくちゃいけないのに、他人様にいくらよくしてもねえ」と夫へ言います。(笑)
夫の言い方が怖いときもあるけれど、「ここでちゃんと言わなくては」と思って言えるようになりました。
―――良かったですね。我が妻がたくましくなってどうですか。(笑)
(夫)立場が逆転しました。(笑)
―――俺が稼いで食べさせてやっている、という気持ちはもうなくなりましたか。
いや、まだ半分くらいはあります。(大笑)
そういう気持ちが多分自分の中にあるのだと思う。
うちは女三人で強いんですよ。(笑)
しかし、子ども達と会話が出来るというのはいいですよ。
妻は心配性なんです。
子ども達からもそう言われていますので、僕は逆に「ああ、子ども達はしっかり親を見ているんだなあ」と思います。
―――あなたが1番辛かった時は、いつ頃ですか。
う〜ん。私も心の中で「いつが辛かったかな」と考えていました。
不登校になったときも、嘘だろうとショックでした。
知覧に住んでいて、長女が小3で行きたくない、と言った時に、車に乗せて校門まで強制的に連れて行ったことが何回かありました。
「宿題をしない」と言って、他の子と比較して、娘を責めたことを思い出すと、今でも涙が出ますね。
「学校へ行かせないとダメだ、この子はダメになる」という思いが強かったです。
転勤で京都にいるときに不登校になったんですけど、その時もショックで辛かったです。
ただその後は色々あったけど、今振り返って見ると、どこが辛かったかなと忘れてしまっていますね。
娘たちも「自分達はいい人生を送っている」と言っていますから。それはありがたいですね。
この会に出会えたことが一番良かったです。
もう、10年参加しています。
昔私は「お父さんは好きなことをするからね」と娘たちに言ったことがありました。
親が自分の好きなことをして生きてきたことが良かったのかもしれません。
娘たちはただ学校に行ってないだけなのに、世間からは「精神障害があるんじゃないか」とか、「こんなふうにして学校に行かせた方がいいよ」とか、いろいろ言われたことがありました。
しかし逆に立派な子どもに成長したと思いますので、すごいなあと思います。
―――やっぱり「学校へ行け、行け」と言って、無理やり車で連れていったことは深い傷だよね。(はい)
でも、それがあっても子ども達は許してくれるよね。
ご夫婦の仲も一層深まって良かったですね。(笑)
基本的には仲がいいですよ。(大笑) たまにはいろいろありますけど。
―――そうね、ここで堂々とお互いのことを言えるということがそうだものね。
娘さん達はもうお父さんのことは批判したりしないの?
いえ、やはりしますよ。(笑)
価値観が違うし、私は自分の意見を押し通したいものだから、娘たちは「それはダメだよ」とはっきり否定してくるものですから。(笑)
(妻)私たちは夫と意見が違うとき、どういうふうに歩み寄って新しい答えを出そうかと考えるのですが、
夫は「自分はこう思うのに、お前たちはどうして、そう思わないのだろうか」というように押し付けてくるのです。(笑)
「私たちは」というといかにも3対1に分かれているように聞こえますが、(大笑)「いつも自分は否定されている」と言います。
(夫)長引くことはないんですよ。
以前は自分の意見を押しつけるのが多かったですが、大分変わって、押しつけることは減りました(笑)
テレビを買ったので部屋の模様替えをしようと言って、今までは「お父さんはここに置く」と言っていたのを、「試しにやってみようや」と言えるようになりました。(笑)
―――すごいじゃないの。
そのうちに「ここの家に住まわせてもらっている」と思えるようになります。(大笑)
だんだんね。それでちょうどいいんです。
働かせてもらって家族がニコニコして、幸せ、ありがたいな、と思えるようになりますよ。(笑)
(夫):はい、そうですね。頑張ります。
「お母さんも好きなことをするよ!」 Hさん
先月娘と初めて参加して、今日が2回目の参加です。
今高2の息子ですが、中1の頃から不登校です。前回参加して、一番心に残っているのが、内沢さんに言われた「それだけ追い詰めていったのにお兄ちゃんはやさしくてすごいねぇ」という言葉でした。それを帰りの車の中でずっと考えていました。
最初、息子は頭痛を訴え不登校になったので、体に悪いところがあるのだろうと思ってMRI検査やそのほかにも検査を受けました。
さらには神様や心療内科まで行きました。
今思えば、自分の安心のために何が原因なのかを探り、転々としてきたんだと思います。
息子は私が持ってきた話をうんうんと聞いて、高1の暮れには心療内科へ二人で行き、安定剤のような薬が処方されました。
夫は最初から薬に頼っていてはだめだと言っていましたが、私はちょっとでも頭痛がなくなって、息子が変わっていってくれればいいと思って、2回飲ませました。
しかし息子は「あの薬は何なの。眠くなるだけだ」と言って。(笑)
私は毎週通おうと思っていましたが、息子は「そこに行って何をするの? 大丈夫だから」と言い、それっきりでした。
中学の時には吉田の研修センターに連れて行き、親子3人でカウンセリングを受けました。そこに行くと出席扱いになったんです。
子どもじゃなく、今日は出席扱いになって良かった、という私の変な安心になっていました。
あれだけ連れまわしたのだから、反抗するとか、家庭内暴力とか、あたりまえなのに・・・。
ですから、いろいろ思い出すと先月の内沢さんの言葉が重くて心に響きました。
家に帰ってから息子に、親の会のことを話して、HPもよかったら見てと話しました。
息子は携帯で見たようです。
私は先月参加した1回で単純なんですけど何か吹っ切れて、息子に「お母さんの人生、お父さんの人生、妹の人生、あなたの人生、みんなそれぞれだよね。だから楽しくやりたいことをやればいいんだよね」と言えました。
息子は私の目を見て「うん、そうだよねぇ」という感じでした。
「お母さんも人生半分来たから、これからは好きなことをしようと思うの。コンサートに行ったり、運動を楽しんだり。あなたも楽しみを見つけてね」と言えました。
息子は今、マンガを見たり、お父さんが若いころ興味があった改造車をみて、「お父さんの気持ちがわかる」と言っているので、それでいいかなあと思っています。
―――5年間追い詰めてきたのに、わかるのも早かったですね。(大笑)
本当にその言葉は重かったです。自分の安心のためにいろいろ連れまわしていたのに、それが息子を追い詰めていたなんて考えたことすらなかったですから。逆に息子のためと思っていましたから。
今、実際、高2の出席日数が足りなく、進級できるかどうか危うくなっています。
昨年は日数が危うく、なんとかならないかと学校にすがっていた自分がいました。今回は息子に「今まで学校にすがっていたお父さん、お母さんがいた。でも、いつかあなたがこれをやってみたいというのが出てきた時にやればいいんだから。年齢に関係なくトライしたらいいわけだし」と言いました。
息子は「今、辞めるか、転入するか迷っている」と言いました。
以前の息子はただ黙っていて、そんな言葉は一切口にしませんでした。
―――じゃあ、もうすぐ辞めると言いますよ。(笑)
不自然な状態を続けることは心が疲れていくことですね。
あなたの気持ちが楽になったことが1番息子さんを安心させることになるんですね。
子どもは自分で生きる力を持っています。
親は親の人生を生きていく。
そのことが我が子に対して、あなたのことを信頼しているよ、心配していないよというメッセージを送ることになるのです。
だから親の会は、子どもが働いているから終わり、子どもが大学に行っているから終わり、という会ではないんですね。
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