登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2008年5月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.144より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


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「子どものことが気にならなくなった」

2008年4月例会報告(抄)



「以前は毎日、わが子のことで頭がいっぱいでした。それが気にならなくなった。今は自分のことや好きなことに夢中です」。そんな体験が多く出されました。


わが子が不登校なったり引きこもったりすると、親は何とかしようとします。初め、世間にあわせることが「解決」だと勘違いします。でもうまくいきません。そうするとわが子への愛情も薄らぎ、自分自身への信頼も弱まってしまいます。


不安の中心は子どもではなく自分自身でした。そのことに気づくと道が見えてきます。
子どもは、親の無条件の信頼と愛情で、ちゃんと生きる力を育んでいきます。


子どももそうであるように、親は自分の人生を大切に生きることです。
そうすることが私たち親にできる最大の支援です。


「子どものことが気にならなくなった」という表現は、「もう子どもはどうでもいい」ということではもちろんありません。そんな投げやりな見方でないどころか、反対に、今までにない、あるいは今まで以上の愛情いっぱいの子どもに対する見方を表現したものです。 「わが子が本当にかわいい。心から信頼できるようになった」ということと同じです。


親が安心し、大きな幸せを感じていることが伝わってきます。
毎月の親の会で安心の輪が広がっていると実感できることはとてもうれしい。


Sさんは「荒れていた時のことでも、いいことばかりが思い出される」とわが子への信頼を話しました。
Kさんも「以前は息子のことを忘れるためだったけど、今は本当に自分の好きなことに没頭できる」と言います。
I さんは、「娘は生まれたときから私の大きな支えだった」「娘が不登校になったおかげで、たくさんのことを学びました」と言いました。


T子さん、mihoさんは、離婚を通じて「自分の人生を生きています」と明るく笑顔で話しました。
恵さんは「親の会に出会ったおかげで、今、彼に恋をしています」と夫婦関係を取り戻しました。
Gさんは「女房への愛」が家事をしている原動力だと話して大きな拍手に包まれました。


みなさんの体験はどれをとっても感動的です。



目次


1 娘は私の大きな支え   I さん

2 認知症のお袋を支えて ── 困ったときがチャンス!  山口良治さん

3 それは「女房への愛」です   Gさん

4 今は、好きなことに夢中です!  Kさん

5 荒れていたときも、想い出は「いいこと」ばかり  Sさん



娘は私の大きな支え   I さん



現在18歳の娘が高1の3月に退学し、家にいます。母娘の二人暮らしです。
娘が私に「ご飯はまだ?」と言ったので、私はカチンときて「私たちは平等だからね。掃除をするか、ご飯を作るかどっちかを選びなさい」と言ったんです。(笑) 娘はいつもご飯を作らない方を選ぶんです。
そんな感じで暮らしています。


―――
母娘で仲良く暮らしているんですね。家の中にいて娘さんはもうイライラしたりしませんか。

そういう感情はもう出しませんね。以前、無理して1回だけアルバイトに応募してダメだったとき、私がわざとらしく会報を置いていたら、ビリビリに破って、背中まであった髪を3センチくらいに短く切ったことがありました。


―――
それはあなた自身が動揺して辛かったときですね。


はい。でも、あれがあったから、もう期待したらいけないなと思うことができました。
「いつになったら動くんだろうか」とかなり娘に求めていた私がいたから、やっぱり平気そうな顔をしていても、いろいろ考えて日々心の中は苦しいところもあるんだろうな、と分かってやるのが大事だなと思うんです。


娘はこの前はひとりで桜島まで行ったり、ときどき運動しないと、と言って散歩に出ます。でもほぼ家にいます。
私は1日中家にいてクサクサすると精神的によくないので、土日は山に登ったり遊んだり、平日は仕事を探しています。
私が4月の初旬に嘔吐下痢症になり、熱発して2日寝込んでしまい、全て娘にやってもらい助かりました。買い物しておかゆを作ってくれて。


―――
良かったですね。


はい。そのとき、弱った心で考えたんですが、今までもずっと娘に助けてもらっているなと思いました。
結婚して7年くらいでやっと一人娘が産まれて、生後6ヶ月で夫がガンで亡くなりました。
6ヶ月の小さい赤ちゃんで大変だったけど、夫が亡くなった後も娘は私の大きな支えでした。


そんなありがたみも忘れ、子どもが学校に行かなくなったら、行かせようとしたり、厳しさが足りないのではないか、甘えじゃないかと思った時期がありました。
子どものいっぱいいっぱいの気持ちを分かってあげようともしなかった自分がいけなかったと、今反省しています。


―――
とってもいいお話ですね。あなたも精一杯だったんだよね。
(はい、いっぱいいっぱいでしたね)
毎日働きながら、一生懸命生活を支えてきたわけね。


はい。自分が楽しむことをあまり考えなかったですね。
でも、ここの会に出会って、楽しいことをいろいろ探すことが出来るようになって、山に出会いました。


―――
I さんの笑顔の写真が山の会のHPにたくさん載っていますね。


そんなに出ていますか。楽しいですね。(笑)


―――
生活のため、生活のためと言ってるけど、本当は違うんだよね。
その時その時で楽しむことってたくさんあるんだよね。人生はどんなときでも楽しむことができるのね。
がん患者の会にも行っておられるの。


はい、最近はお休みしていますが、「命のリレー」というがん患者の交流のイベントが今年も9月にあります。
今、鹿児島にがん患者サロンというのが出来ていて、今年もその実行委員をやろうかなと思っています。


―――
積極的ですね。そうやって楽しんでほんとに生き生きと暮らすことが、結果として何より我が子への応援になるのよね。


子どもには悪いけど、子どもが不登校になって学んだことがすごく大きいから良かったな思っています。子どもから怒られるかもしれないけど。


―――
娘さんも学校に行かなくて、こうなって良かったと、思う日が必ず来ますよ。(今は思ってないみたいです) 私の娘も充分に引きこもって、社会に出て行くときはすごいエネルギーが満ち満ちていました。その時というのは、親のアドバイスは何もいらないですね。
アルバイトをしたいと言ったらインターネットでちゃんと調べて、自分でどんどん動いていきました。それがほんとに動くということですね。


娘は今ひとり暮らしで働いていますが、「親の会の考えが今も私の生きる指針」と言っています。


我が子が不登校になったから、学んだことも大きいし、幸せもたくさん発見できた。親がそういうふうに言えるようになったら、その子はちゃんとひとりで生きていけるということですね。そんなふうに考えられるようになって良かったですね。


不登校や引きこもっている子は、そうでない子たちに引けを取らず、その分すごく生きる力を持っていると私は思います。
生きる力というのは、ほんとに自分の人生を、自分を大事にして生きていくということですね。




認知症のお袋を支えて ── 困ったときがチャンス!

山口良治さん


―――
良治さん、無呼吸症候群はどうなりました?


無呼吸症候群に1年前になりました。運転中や会議中に一瞬寝ているのでおかしいと思って。娘と一緒に暮らしているとき、「お父さん、寝ている時に息が止まるよ」と教えられました。


―――
愛美さんが昼夜逆転で良かったね。(笑)


病院で1泊して調べると、1晩のうちで450回無呼吸で、1番長いのが1分50秒止まっているほどの重症で、今後、寝る時シートアップという器具を使って気道を確保して、それはずっと付き合わないといけないようです。
器具を付けて寝ると少し寝苦しさはあるんですが眠れます。根本的には痩せないといけないというのもあります。


―――
娘さんの愛美さんが高校で不登校になり、拒食・過食となり、同居しているお祖母ちゃんから、拒食のときは食べろ食べろと言われ、過食のときは食べ物を隠されたり、いろいろあったので、お祖母ちゃんのいる大口から父娘二人で鹿児島市内に引越しをされたのね。
愛美さんは5年間ゆっくり休んで飛び立っていきました。



別居するということは青天の霹靂でした。僕自身が大口の両親を置いて、娘と二人で暮らすこと自体がほんとに頭の片隅にもなくて、親の会で初めて朋子さんから「別々に暮らした方がいいよ」と言われて、幸い職場との関係で実現できました。


先ほどの「世間を見ない」ということは大事ですね。
自分や子どもの立場に立ってどうしたらいいのか、と考えて一番いい選択をしていけばいいんだなということだと思います。


僕もそうやって、ただ親の会に参加し続けてきました。
このごろHPの書き込みを見ていて思うんだけど、全国から高い交通費をかけて、あるいは地方から時間をかけて参加されている。
僕は近くに住んでいるお陰で、努力しなくても例会に参加できて、こういう生の例会の空気に毎回浸ることができて、それだけで元気になっていったわけです。


親の会に参加して、僕自身が楽になる、それが子どもにも親にも世間にもと広がっていったんじゃないかと思うんです。
今、僕は大口に帰り両親と暮らしています。お袋が認知症になり、たった今、料理の野菜を刻んでいたことも忘れてしまうという状況で・・・。


―――
お母さんが料理されるの?


ほとんど僕がするんですが、お袋に手伝ってもらうんです。脳の活性化には包丁を持つのがいいらしいんですね。
お袋は「だしを取る」という基本的なことまで忘れてしまっています。


他人が見たら別にどうもないように見えるんだけど、生活すると大変です。
先のことを考えると不安がいっぱいになって動けなくなるので、ここで学んでいるように、僕にとっては良い医者がいるので(笑)手本にして・・・。


―――
それは親の会で・・・

HPの書き込みを読み、これは素晴らしいなあと感動し、僕には近くに良い環境があることを感謝しつつ過ごしています。(笑)
ここの皆さんはかけがえのない財産です。


―――
ありがとうございます。(笑) みんなで励ましあってきましたからね。


娘も今、旅行誌「じゃらん」やいろいろなモデルの仕事をエントリーしてオーディションを受け、今回こそはいいかもと思っても落ちたりして、そんなときは「お父さんの声が聞きたかった」と言って電話がかかってきます。


その時「それはひとつの経験で、それが肥料となる。順風満帆もいいし挫折するのもいいいし、なんでもOKじゃないの」と言える自分がいます。


―――
すごいじゃない。「困ったときがチャンス」と言ってあげるんですね。


そう、そう。ここに参加してそういうことを感じられるようになったわけです。「なんでもありよ」、「困ったときがチャンス」とね。
実はほんとにチャンスで、それを真正面から捉えていけばそこにまた道が開けていく、ということでね。


―――
良治さんは愛美さんが小さいときに離婚されてね。
今は7年越しの恋愛が実って(笑)、もう少ししたらご一緒になるかもね。幸せだよね。
(はい)
一方ではお祖母ちゃんを抱えているけどね。ほんとに人生って楽しいですね。



それは「女房への愛」です    Gさん


―――
お久しぶりですね。臨時のお仕事をお辞めになったんですってね。以前T産業にお勤めでしたが、この仕事では自分を大事にできないと思い、52歳でお辞めになったんですね。
9キロも痩せられたそうで。


はい。以前は76〜7キロでしたが、今は肋骨が見えるようになりました。県の施設で臨時で6ヶ月働いて辞めたんですが、一番良かったことは給料が安くても休みが多かったことですね。1ヶ月で20日と決まっていました。その間私が自慢できることは、毎朝5時半に起きて、弁当と二人分の朝食を作り、掃除はしませんでしたが、洗濯をして、夕方6時に帰ってきて、今度は夕食も作りました。


―――
T産業を退職され、どの位で臨時のお仕事に勤められましたか。


1年半くらいでした。その仕事もつい先日辞めたので、それで今月は例会に来ることができました。辞めてすっきりしました。
でもしばらくしてせっかく痩せた体重が元に戻ってきて、すぐに2,3キロ増えました。(大笑) 今はチラシ配りを手伝っていて、1日500件配ります。


―――
だから日焼けされているんですね。


いえ、これは魚釣りか焼酎焼けです。(大笑)
今はそんなに早起きしなくて6時半でも妻の食事作りはできるほどになりました。(―――
えらいですね) 自分でも感心します。(笑)


―――
お弁当や朝夕の食事を作るきっかけは何だったんですか。


やっぱり、「女房への愛」じゃないでしょうか。(大笑)(拍手)
いや、きっかけは分からないんですよ、何でだろうかと思ってですね。妻が「あなたは私が早く死んだ時、ひとりで生きる知恵を少し覚えていた方がいいよ」と言って。(笑)


―――
娘さんが高2で不登校になったのでしたね。(はい) 
とても人が怖くなり、階下の人に自分がいることを感づかれないように、トイレの水も流せなくて、カーテンも閉めてじっとしていたのでしたね。


そして、お母さんがすごく不安になって、精神科に行かれ薬をもらったりして。ここで、薬を飲まなくても大丈夫だよ、と分かるとすぐ止めたのでしたね。



そうでしたね。
その頃、私は川内に単身赴任中でした。妻と娘は都城の社宅の4階に住んでいて、周りに気兼ねしていました。
妻から聞くには、トイレも行けない、水も流せない、カーテンも閉めて、洗濯物を干すときは外から見えないようにしゃがんでやっていたようです。


妻が心配と不安のあまりうつ病になって、それで単身赴任先の川内の単身用の1ルームマンションに3人で暮らしたんです。ほんとに狭かったですね。
そのときに良い条件で全国何千名という退職の勧告があり、辞めて良かったなと思います。今は宮崎に家を建てて住んでいます。


―――
親の会に参加されるようになって元気なっていかれたのでしたよね。


どういうふうに元気なっていったんでしたかね。(大笑) 川内に引っ越した後も、娘は転校先の高校に1,2日行って、全然行きませんでした。


妻も不安が大きくて、近くの川内川に早朝5時くらいから散歩に行って、1時間半くらいたっても帰って来なかったですね。


―――
ひとりで行かれて、ご心配でしたでしょう。


はい、心配しました。あまり遅いと私も探しに行かないと、と思うときがありました。


―――
そのとき、ご夫婦の愛はいかがでしたか。(笑)
(あまり変わり映えはなく)
(笑)、今の方が仲が良いということはないですか。
(あまり変わらないですよ) 
じゃあ、昔も今も仲が良いのですね。(大笑)


そうですね。(笑)
その時は、皆さんが言われたように、旅行や山登りなど妻を誘ってよく行って、ここでどこへ行ったと発表していましたよ。
とにかく、「あなたたちご夫妻が楽しみなさい」ということでしたので(笑)


―――
楽しかったですか?


はい、楽しかったです。あれから、私もだいぶ体力が回復しました。
最初はいむた池の外輪山も途中までしか登れなくて、下で待っていました。しばらくして縦走もできるようになりました。


―――
気がついたら娘さんは大学に・・・

はい。宮崎で予備校に半年行き、高校の認定試験を受け、今は大学に行っています。今20歳なり、大学2年です。


―――
寂しくないですか。


最初はそうでしたが、この頃はそうでもないです。帰ってきたら色々ケンカしたりして、また東京に帰ったあとは2,3日寂しくなります。
後は夫婦ふたりで楽しくやっています。



今は、好きなことに夢中です!     Kさん(母)


―――
先月はお舅さんから夜中に電話で「病院代を援助してくれないか」と言われて、これ以上の無理は出来ないと、自分の気持ちを言えるようになったんですね。


それ以来、電話がかかってこなくなり静かなんですけれど、また来たらどうしよう、今度は何を言ってくるかな、という感じです。
でも、夫がちゃんと断ってくれたので、やっぱり、はっきり言うことはいいことだなと思いました。自分の意思は貫く、私はそれでいこうと思いました。


―――
今までの自分の人生の中で画期的なことでしょう。
夫の実家に盆正月に帰って働いて、今までいいお嫁さんで、そういう感じで、今まで自分の気持ちを言ったことはなかったでしょう。
(そうですね)
息子さんは中学で不登校になって、今17歳ですか。


5月の初めに18歳になります。
毎月第3日曜日の親の会に来て、1年が過ぎるのが早いなあと思っています。
たまに、いつまで続くのかなと思ってしまうことがあります。(笑)


でも考えてもしょうがないなあ、本人の人生だし、私が何を言っても動き出すのを決めるのは本人ですから。


―――
よく変わられましたねえ。(笑)
以前は昼夜逆転していることも不安でしたね。早く寝なさいと言ったり。



そうでした。だから、それが今なつかしいです。
二階に上がってドアの隙間から電気の明かりがついていると、「早く寝なさい」と言ってました。
学校から「規則正しい生活をさせてください」と言われて、私もそれが正しいのかなと思って。


今は息子が何をしようが何も思わないですね。息子は私の顔を見たら「腹へった」です。(笑) 私が何時に起きて何時に寝るということも全部知っているんです(笑)。
朝、私が起きると、もう息子も起きていることもあるし、予定があるときはその時間にあわせて起きていますね。


―――
ゲームをしていることも気にならなくなったんですか。


だって、達さんが、ゲームに集中できる子はすごくいい子だっておっしゃったので。(大笑) もう、いいのかなと思って。
することといったら、パソコンとテレビとゲーム、あと友達とのメールで、土、日は遊びに行ったり、うちに来たりといったことです。


春休みに1年ぶりに遊びに来た友達がいました。顔が変わっていたので新しい友達なのかなと思っていたら、ニキビもできて青年という感じで驚きました。


―――
あなたも不安な時はいつも息子さんのことが頭から離れませんでしたか。


登校拒否して家にいた最初の頃はそうでした。
私も買い物は同級生のお母さんに会わないように、時間をずらしたりしていました。
悪いことはしていないんだけど、聞かれるのが嫌で泣いてばかりでしたね。


今はもう、息子のことは全然気にならなくなりました。それより自分の好きなことを楽しみたいと思っています。
今、私の関心事は、自分の気持ちや夫の両親のことのほうに移っているから、息子のことは息子に任せればいいという感じです。それが一番だと思います。


以前は、息子のことを忘れるために何か集中することが欲しいと思っていたけれど、今はそれはもうよくて、本当に自分の好きなこと、お花つくりに没頭しています。楽しいです。


―――
不安がなくなっていくと、我が子への関心がなくなっていくものです。我が子を信頼している何よりの証拠ですね。
そうやって自分を大切にしていくことが、確実に息子さんの人生も応援していくことにつながるんですね。



荒れていたときも、想い出は「いいこと」ばかり  Sさん(母)


お久しぶりです。昨年の12月に母が亡くなりました。母が倒れた時は息子が荒れてピークの時でしたが、11年間看病してきました。ああしてあげればよかった、こうしてあげればよかったとも思いますが、まあ精一杯良くやれたかなと思います。


93歳の夫の母も独り暮らしをしているので介護問題で忙しく、なかなか親の会に参加できませんでした。私は郵便局に勤めていますが、郵政民営化になってからいろいろ仕事が忙しくなっています。でも職場には恵まれたなあと思っています。


―――
あなたは息子さんが荒れて大変な時でも頑張って仕事をしていましたね。


はい、それがあって良かったのかなあと思っています。悪いことを言ったらきりがないんですが、良かったことを数えてみると、母が倒れて息子のことはさておいて母の方を重要視していましたし、子どものためにといって仕事を辞めなかったこともよかったです。


なんだかんだあっても子どもが不登校の間に家を建て直して、自分たちの思うようにしてきました。旅行にも毎年泊まりがけで3,4回行っていました。
ここで暴力があった時は逃げなさいとか、車の中に寝なさいとか、夫婦で旅行に行きなさいとか、何をしているのかわからないまま言われるとおりにやってきて(笑)、今になってそのことがよかったんだとわかります。


その渦中にいると訳がわからないんですね。
HPは携帯でよく見ています。皆さん、好きな花を作ったり、山に登られたり、自分のことを楽しんでらっしゃるんだなあと思います。
今思えば、自分の好きなことをやってきてよかったなと思いますね。


自分が好きなことをしていると、子どもが思っていることを言ってくれるんですね。
不安を全部ぶつけて、結局試されているんですね。息子は「お前たちは俺がこんな状態で仕事ができないとわかっているのに家を建てて大丈夫なのか」と言っていました。
それも親が好きなことをやっているから安心して言ってくれた言葉なんだなと、今になってわかります。
犬も飼いました。息子が「なんで散歩させないのか、つながれているのは俺と同じだ」と言って、それで夫が散歩に連れて行きました(笑)。名前はマルというんですが、いまだに「犬、犬」と言っています(笑)。


息子はパチンコ店に勤めて1年5カ月になりますが、薩摩川内市に転勤となり一人暮らしを始めました。たまの休みには息子がバーベキューをしようとお肉を買ってきてくれるんです。


―――
すごいじゃないですか。嬉しいですね。
不登校になったのは中3からで、高校入学後すぐに退学したんですね。お兄ちゃんよりランクが上の学校に行くと言って、高価な問題集を買ったり、部屋を借りたり、全部言いなりになって、でも試験の前日に息子さんはモヒカン刈りにして自分で受験できないように条件を作ったんですね。


親のそんな状態に息子さんは、荒れて、蛍光管を壊したり、寝室に包丁が置いてあったりと、いろいろな形で親は試されましたね。
通信制の大学に行くために東京に部屋を借りて、そこで引きこもっていたんですね。その後就職となった時に、やっと動けなくなりました。


いいことだけを思い出すっていいですね。
以前新年会にいらしたときに、「私たちはこの親の会の考え方とは違うんです」と言われたこともありましたね。(笑)



そうでしたね。わからなかったんですね。大学を出て、自分で動き出そうとしているところに、なぜ親が背中を押してはいけないんだろうか、とその意味がわかりませんでしたね。
でも就職の段階で、ヘルパーの資格を取ろうとして動けなくなったんですね。やはりやりたいことではなかったんだなあと思いました。
でもそこから夫が本音で立ち向うことができました。うちは長かったですから。


―――
でも振り返ってみたらたくさんの思い出をもらったでしょう。
新しい家で息子さんが荒れて、「何事もなかったように帰ったらいいですよ」とお話したら、ご夫婦で「ただいまでござる」と言って帰られた。すると隣の部屋からこれを飲めとヤクルトが飛んできたというお話。こんな親孝行な息子はいないと思ったでしょう。



そうでしたね。やさしい子だとは思っていましたが、本当にやさしい子ですね。


――― 
一緒に苦労を共にして、だから同士みたいなものですね。
ご夫婦で励まし合って一生懸命やってこられましたものね。



私はHPの掲示板を見て、私だったらどう答えるだろうかとまず考えてみるんです。
でも朋子さんの返信を見て、まだまだ人様に答えるまでには至っていないと思って、これから先も勉強しなきゃと思っています。


―――
毎日自分を大切に暮らしてらっしゃるんですね。
一時は「この子とは親子らしい会話ができないんじゃないか」と思われたこともあったでしょう。



我が家だけが特別だと思っていました。


―――
私も娘が引きこもっていた時、そんな会話が出来ないんじゃないかと思ったこともありました。でも自分を取り戻したときにすごく優しい会話ができるようになって、本当にそうなんだなと思いましたね。


母のお通夜の時に息子の会社の方が全員来て下さったんです。仕事が終わるのが遅い時間帯なのに皆さんが制服のままお線香を上げるために来て下さったんです。母親ならわかるんですが、おばあちゃんですものね。


その時に「S君はこうですよ」というお話もしてくださいました。前のお店の方も皆さん来てくださって、しかもしばらくいて下さったんです。
いい職場に恵まれたなあと思っています。息子は「俺の人徳かな」と言っていましたけれど。(笑)


―――
いいお話ですね。だから異常じゃないんですよね。
ちゃんと人間らしく生きたいという訴えなんですね。紆余曲折あったけれど、今考えてみたらすべてが糧になっているということなんですね。
あなたも、ボケとか、うるせーとか、いろいろ言われましたか?


うちは言葉の他に、蹴ったり、殴ったりがありましたからね。
恵さんがお花を植えて、花壇の前に佇んでいる時間が幸せ、優しい気持ちを呼び戻してくれている、という書きこみを見て、そういう時間が少しずつ増えていったらいいなあと思いました。




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Last updated: 2008.6.7
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