TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2010年10月発行ニュースより
「娘が帰ってきてうれしい!」 2010年9月例会報告(抄) 表題は、一夫さんのひとことです。Gさんちの大学生の娘さんが、就活がうまくいかなくて、大学のある東京から、宮崎の家に帰ってきました。 少し不安を言う妻の寛子さんに、夫の一夫さんは「娘が帰ってきてうれしい!」、愛する妻と娘に囲まれて「おれは幸せだなあ」とおっしゃったそうです。 妻とわが子への限りない愛情と信頼が伝わってきます。 mihoさんは経済的なことやお母さんの病気についての不安で少しパニックになってしまいました。そんなとき4ヶ月の「のんちゃん」が家族みんなを励ましてくれました。「なんとなく大丈夫な気がしてきた」と言います。 Tさんは夫のギャンブルが不安でした。夫とパチンコ店の閉まる10時まで一緒にいるのが続いています。誕生日にバッグをプレゼントしてもらい、「今ではなんでも話し合える仲」です。 しずりんさんは毎日畑で汗をかいて自分の楽しみに夢中です。 永田さんは、息子さんが以前「人間、いやなことはできない」と言ったことを紹介。その永田さんもTKさんも「わが息子はかっこイイ!」と。なんてステキな言葉でしょう。 誕生日に「あなたのおかげ」とわが子に手紙を書いた妙子さん、永田さん、しずりんさん・・・、そう言えるおひとりおひとり、私たちは自分の幸せに感謝ですね。考え方を少し変えるだけでわくわくがいっぱい生まれてきます。まさに「解決の道は自分のなかにある!」ですね。 今月の例会の中心的なテーマは「親は子どもの辛さに手を貸さない」でした。 わが子の状態を否定的に見て、ついいろいろと言ったり、してしまいがちですが、子どものうわべにだまされてはいけません。その点で、Sさんの体験談はとても大事です。 板倉聖宣さんの「世の中、悪くするのは〈善意の人〉なんです」を読み合わせしました。 永田さんの例会後の投稿も紹介します。 目次 1 「人間、嫌なことはできないよ」 永田さん 2 今、夫婦で楽しむことができるようになって Sさん 3 「娘が帰ってきてうれしい!」 Gさん 「人間、嫌なことはできないよ」 永田さん ―――例会数日前の永田さんのHP掲示板への投稿を紹介します。 会報届きました。ありがとうございます。 エミ画伯のイラスト入りでなおいっそううれしかったです。 笑さんありがとうございます。 今月、息子が二十歳の誕生日をむかえました。 高一で不登校になり、退学、そしてずっと家にいる息子です。 あの時は16歳でした。小柄な子でしたから、まだ中学生のような風情で不安な目をしていた息子が、丈も伸び、美しい若者(←親だけが美化している)に成長してくれました。(←親ばかです。誕生日なのでお許しを!) 息子に手紙を書きました。 「二十歳の誕生日おめでとう。 先日、お父さんと霧島の中岳登山に行って、最高に気持ち良かったです。 最近のお父さんとお母さんは、自分たちの人生を大切に楽しむということに重点を置いています。だから楽しくて幸せです。 不思議ですよね。 不幸と絶望の始まりでしかないと思っていたあなたの不登校、ひきこもりが、いろいろなことを考え直すきっかけを作ってくれたのですから。あなたにお礼を言わなくちゃいけないかもしれませんね・・・」 自分の気持ちを一人称で伝えるというたっちゃんの言葉が、耳に強く残っていて、自分の気持ちを伝えました。 もうすぐ親の会ですね。二か月ぶりに皆さまにお会いできるのを楽しみにしています。 (2010.9.15 HP掲示版書き込みから) “美しい若者”と書いてしまったことが親ばかだったかな・・・(笑) ―――かっこいいんでしょう。若者はかっこいいですよね。そう書けるあなたはとっても素敵ですね。 はい。肌の張りも違います。(笑) そんなふうに書いたんですが、お母さんたちは元気になったよ、だから今度はあなたが動く番よ、とついつい思ってしまう気持ちがやっぱりあるんですね。 けれど「求めない」ということですよね。書いたようにはかっこよくはなく、気持ちの揺れはいっぱいありますが・・・ ―――息子さんは、畑仕事はお父さんと一緒に続けているんですか。 それは夕方しています。高校を辞めて半年くらいしてから高認の資格を取ろうとしたことがあるんです。そのとき通信教育の教材を申し込んで20万円くらい払いましたが、だけど息子は何もしませんでした。資料や教科書がいっぱい送られて来て、たまに手紙がくるくらいでした。 レポートを出して勉強すると高認を受けるくらいの実力がつきますよ、という教材だったと思います。私もここで学ぶようになっていたので続くわけがない、当たり前だよなと思っていたんです。 その時に息子が「人間、いやなことは出来ないよ」と偉そうに言ったことがあるんです(笑)。 だから畑仕事は嫌じゃないから続いているんだろうと思っています。 ―――「いやなことは出来ない」。名言ですね。苦しいことより楽しいことをもっと見つける、楽しいワクワクした人生を送ることは大事ですね。 親の会にもそういう宣伝がよく来ます。不登校生を対象にしたスクール、通信教育、合宿キャンプなど。なんとかして、不登校の子を学校に戻して、戻れないのなら資格取得の勉強をさせて、という産業が盛んになってくる。 親も子もあたかも学校に戻ったり勉強することが一番の解決であるかのように錯覚していくんですよね。 学校に行かないことは何も問題ないんです。問題は「学校に行けない僕は、私はダメなんだ」という自己否定ですね。この自己否定ほど辛いものはありません。 自分を大切にしてないなと本能的に自分を守るために不登校をするんですが、まわりも自分自身も不登校に否定的です。「学校絶対」の信仰は害悪ですね。子どもも家族の愛情も破壊していくんですから。不登校だからダメなのではなく、不登校を否定していくから辛くなるんですね。不登校は自分を大切にしたいというアピールなんです。 私たちの親の会では、永田さんをはじめ、学びあって愛情を取り戻した家族がたくさんあって、何よりの大きな財産になっています。 息子が20歳になって、国民年金の書類が送られてきました。自分に来た公的文書だったので、めずらしかったのか隅々まで読んでいました。自分でしないといけないと思ったらしく、「手続に行きたいけど場所がわからないから送ってほしい」と言われ、私が支所まで送って行きました。 「なんかドキドキする」と言うので、「受付のおばさんが事務的にするだけよ」と言って後から迎えに行ったんですが、「受付はおばさんじゃなくきれいなお姉さんだった」(笑)「事務的じゃなくてとても愛想よく教えてくれた」と言いました。働いていないので猶予の手続をしました。「でも一生それではダメなんだよ」と言ったら、「わかってる。30歳までが限度だと書いてあった」と言いました(笑)。「30歳から払い始めたら遅くなるから早く払うようにしなさい」とまたついつい言ってしまいました(笑)。 でも手続に行ってほっとしたようです。 ―――2ヶ月も間があると不安も貯金されて、「ついつい」言ってしまうのね(笑)。8月の親の会はお休みでしたが、どうでしたか。 とてもさびしかったです。(笑) ―――でも御夫婦で中岳登山に行って楽しんで来られたのね。 はい、9月になって行って来ました。平日だったので誰もいなくて貸し切りでした。今「龍馬伝」で話題の高千穂峰の写真も撮ってきれいでした。 ―――永田さんお幸せね。 ・ ・・はい。(笑) (例会で読み合わせした板倉聖宣さんの「世の中、悪くするのは〈善意の人〉なんです」についても、永田さんの後日の投稿を紹介します) 「みんな善意の人だったんです」 先日の親の会、お世話になりました。二か月ぶりに皆さまのお顔を見られてホッとしました。いつも「人の話は我が話」で考えさせられます。 ラブリーな希実ちゃん、だっこさせてもらいましたよ〜ギューってしたらやわらかくて、かわいい!!mihoさんありがとうございました。 娘さんの不登校のことで、はじめて会に参加されたお父さんがいらっしゃいました。学校側の対応に憤りを隠せないご様子、気持ちがよくわかり、かつての自分ことが思い出されて胸が痛みました。今、現在、ご家族も大変つらい思いでおられるのだろうなと思いました。 息子が登校拒否の時、私も何度も学校に足を運びました。学校側に対する不満は爆発しそうでした。でも、どんなふうに訴えたってラチがあきません。なぜだったんだろう、、、。 たっちゃんが用意してくださった資料「世の中、悪くするのは〈善意の人〉なんです」をまた家で読み返して、なんとなく合点がいったような気がします。 みんな善意の人だったんです。担任も主任も顧問も、話はしなかったけど多分、教頭も校長も教育長も文部科学大臣も、そして私も、みーんな善意の人だったんです。 だから、なにを話しても水掛け論になり、結論なんかでるはずもなく・・ 私は(息子を学校に戻すことだけを考えていましたから)、どうしたって学校に行けなくて表情もなくなった息子には目もくれず、必死で戦って(いるつもり)おりました。息子のために、、、。 でも肝心の息子は・・・疲れ果てて、外へ向かうエネルギーはゼロになっていて、ただ家でゆっくり休みたい、それだけだったのかもしれません。もちろん学校でいっぱい傷ついたからなのですが・・・ もう一度先日の資料をゆっくりよんでみようと思います。また発見があるかもしれません。ありがとうございました。 (2010.9.22 親の会HP掲示版) 今、夫婦で楽しむことができるようになって Sさん ―――Sさんもかつてはずいぶんと「子どもの辛さ」に手を貸してしまったのね。息子さんは何歳になられましたか。 息子は11月で31歳になります。働き出してもうすぐ4年です。辞めたいと言ったこともありましたが、最近は楽しいらしく何も言いません。 学校に行かない気配が見えたのは中2からです。今日は行くのか、行かないのか、学校に休みますと電話していいのか、起こしたほうがいいのか、と毎日ハラハラしていました。 友達をしょっちゅう家に連れて来て、言葉使いが荒くなってきたのは3年あたりからです。でも息子の中には卒業しないといけないというのがあったらしく、休み休みですが結局卒業式まで行って高校受験もしました。 はっきり行かなくなったのは高1の連休明けです。 ―――部屋を借りて、と言われて借りたこともありましたね。 一度ウィークリーマンションを借りたことがあるんですが、そこがゲーム友達のたまり場になっていきました。入れ替わり立ち替わりいろんな友達が来ていたので、それも孤独じゃないからいいかなと思っていたんです。夫が行ってみるとすごく荒れた状態になっていて、私達が掃除をして解約しました。 息子の気持ちがすさんで焦ってきたのが、友達が大学に進学したり、就職が決まったりしたあたりからです。息子も大検を受けたり、通信でもいいから何かしなければと焦ってきたみたいです。 親ももちろん焦ってしまって、友達と一緒に大学も行かせてやりたいし、通信教育を受けたい、専門学校に行きたいと言えばお金を出して、息子の言う通りにしてきました。ずいぶん言いなりになってお金もかなり使いました。 ―――中学にも高校にも行かせてやりたい、高校を卒業させてやりたい、大検を受けさせてやりたい、大学に行かせてやりたい、とずっと思っていたんですね。 はい。やっぱり思っていましたね。行かないとだめな子になると。 上に1つ違いの兄がいて、「あいつは大学まで行ったのに、弟の俺は行ってない」とか言われるのが怖かったというのもありましたし、親がしてあげないといけないと思っていました。 本人もいろいろ探してきて、NHKの通信教育があるとか、これを準備しろとか、俺は東京に行くとか言ってくるものだから、ああ行く気があるんだな、やる気があるなと勘違いして言う通りにやって一生懸命でしたね。 ―――息子さんがなにかするといったら喜んで問題集を買ってきたり、これをするといったら、あれをするといったらと喜び・・・、親の会が言うのと違う方法をずっとして・・・(笑) 学校に行かなくてもやればできる子なんだ、行かない子だからできるんだ、と変な学び方をしていました。勉強する気配があれば喜び、どこかに行くという気配があれば喜び、大検の教材なんかも送られてきた段ボールのまんま押入れに入っていましたので、引っ越しのときに全部片付けましたけど、こんなによくお金を出したなぁと思って(笑)。学校に行かなくても家で勉強して、これで試験でも通れば万々歳かなと喜んで出していました。最終的には自分で通信制の高校に行って、他の子達とは1学年遅れて大検を受けたんですが、その間の費用もすごく使いましたね。(―――精神的にも大変でしたね) もう仕事中に、どこどこに申し込んだかとか、あれはどこにあるかとか、しょっちゅう電話がかかってきましたから、そんな毎日でした。結局、本人の無理にずいぶんと親が手を貸してしまっていたんですね。 ―――息子さんは次第に追い詰められて荒れていきました。家中の包丁を全部しまったり、店屋物で食事をすませることが続いたりしたこともありましたね。 ありましたね。台所に子どもがいると、もしかしたら包丁を持って向かってくるんじゃないかと思って。ここでじっと待つべきか、一歩踏み出していいのかどうかと迷いました。 倒れた家具と家具の間に寝ていたり、目が覚めると頭の上に包丁が置いてあったりとか。親がビクビクしていたのは目の前の子どもの気持ちに振り回され、本心をつかみ切れずにいたんですね。 本当に苦しかったのは子どものほうだったと思うんですけど、親が不安だと本当の気持ちというのはわからないものですね。 ―――親が不安になると、これでもかこれでもかと親を試す、子どもの方がもっと不安になっているということなんでしょうね。それで息子さんは大学を卒業してからやっと引きこもることができ、何年間くらい引きこもったんですか? 鹿児島に帰って来てからヘルパーの資格を取りに行っているので、垂水に行ったり、あちこちの病院に行ったり形的には出ているんですけど、動きながらも自己否定が続きずっと気持ちを閉ざしていました。家に帰ってきても黙っていて会話もなくて、食事もひとりでするし、その後就職試験を受けるんですが、落ちては荒れて、失敗するたびに気持ちを全部親にぶつけて来ました。 それが4年くらい続き、コトッと音がするたびにびくっとしていました。 その頃は、なぜ中学校から行けなくなったのか、なぜこんなふうに引きこもったかと徐々に話し始めて、言いながら荒れてもめて、というのが最後の1,2年で少しずつ落ち着いていきました。 最終的には親である私達が親の会の考え方に確信を持って揺れなくなった時ですね。 「俺は中2の時に理科の先生からみんなの目の前で恥をかかされた、そして俺の親友が目の前でぶたれて先生が嫌になった。あの先生は公務員でぬくぬくと生活しているのに、俺はなんのために学校を辞めてこんな人生を送ってるんだ。俺の人生を狂わせたのはあの先生だ」といったことを全部ぶつけてきました。 しかし「どうなんだ」と答えを求めて来るので、私達はそれにどう応えたらいいのかと気持ちがすごく揺れました。 本当は優しい子で小さい頃から変わらないんだと小さい頃の写真を見て思うんですが、目の前の子どもを見ると揺れるものだから、なおさら親の弱いところをみて、言いたいことを言ってくるんですね。 振り返れば中2から本人が納得するまで大変な時期が延々とありました。 ―――結局お父さんやお母さんはよかれと思って先まわりしていろんな事を手助けしてきたんですね。息子さんは焦っていて、せめて400CCの大型バイクの免許を早く取りたいとお父さんの車でいろいろ廻るんですが、自動車学校に来ても中には入れず更に落ち込んだんですね。 夫は息子のために仕事も返上して、九州各地の自動車学校をまわりましたが、しかしなかなか受け入れてくれるところがなく、見つかって学校へ行っても息子は中に入れず、車にもどってきて父親にやつ当たりしました。 天草の自動車学校に行ったり、次は川内の自動車学校だとか、結局は、家に帰ってきて荒れて、そんなことを何ヶ月もくり返しましたね。その頃は私も夫ももうビクビクしていました。 夫は近くの広場で息子に練習させて自信をつけさせたらうまくいくんじゃないかと考えて、早々にバイクも買っていました。バイクを自宅から広場へ移動させるために免許が必要だったので、夫は息子よりも先に大型バイクの免許をとっていたんです。それを見つけた息子は怒って「なんで俺より先に免許をとったんだ」と夫の首元へ包丁をつきつけて部屋の奥まで追い込んでいきました。私はそれを見ていたのですが、夫が私に見るなと合図をしたので、台所へ引込みました。 しかし、ドタン、バタンと音がして、怖かったんですが見にいったんです。 私は無意識のうちに息子に「○○、お前はお父さんのやさしさが一番よくわかっているでしょう」と言ったら、息子がポトッと包丁を落として、「俺は昔の自分に戻れるだろうか? 親をこんなに責めてきたけど、昔の自分に」と言いました。 私は「あっ、この子は本当にやさしい子だったんだ」と思って、その夜は久しぶりに夫と息子と3人で食事をしました。 その後息子は気持ちを落ち着かせていきました。「やさしさはやさしさで気づく」という手記を10周年記念誌に書いたのもその頃でしたね。 ―――親が子どもの無理に手を貸しちゃいけないんですね。これは最大の親の課題です。これはSさんに限らず、親はみんな、その時は必死で夢中ですから。我が子だから、親としてなんとか力になってあげたいと思うんですね。しかし時間が経つと、その時無理していたなあと後で気づくんです。大事な教訓がたくさんありますね。 でもよくご夫婦ふたりで支えあってやって来られましたよね。息子さんもすごく優しくて親孝行なんでしょう。(やさしいですね)今はご夫婦で土日になるとヨットに乗ったり、一緒に出かけられ楽しんでいるんですね。 海外にも行っています。(笑) 遊べる時に遊ぼうと今は台湾、中国、ベトナムとかアジア方面に行っています。夫も真っ黒になりながら仕事もがんばっています。 ―――Sさんの体験はとても大事な教訓です。HPにもたくさん載っていますので、また是非読んでいただけたらと思います。 「娘が帰ってきてうれしい!」 Gさん 夫は、昨日は夫の実家の稲刈りで、今日は芋掘りで、私ひとりで参加しました。夫は毎日農作業で、私は手伝いませんし、行きません。(笑) 娘は高1で不登校になって、夫の単身赴任先の川内の高校へ転学したけど2日で行かなくなりました。「辞めたら」と私達は言いましたが「それはダメ、ダメ」と言って、やっと1年後に本人も納得して退学しました。夫の赴任先の狭いアパートに親子3人で暮らしていました。 夫は50歳で職場を早期退職し、宮崎に家を建てて引越しました。夫も退職前は出社拒否のような状況で、本人は覚えてないらしいですが、Yシャツを着る手がワナワナ震えていました。朝からため息ついて、やっと出社する感じでした。 ―――あなたも娘さんの不登校で悩んでいた時は、早朝5時ころに家を出てなかなか帰ってこなくて、夫の一夫さんはあなたが川内川へ身投げするんじゃないかと、とても心配していましたね。 そうでしたね。3人が3人とも大変な状況で落ち込んでいました。夫が仕事を辞めて宮崎に住んで、娘は予備校へ通い大検の資格をとりました。それからは急に勉強しなくなって、何もしたくないと家の中でゴロゴロしていました。 その時、木藤さんに電話したら「大丈夫、自分でちゃんと考えていくから」と言われて、「ああ、また娘へ期待してしまった」と悟り、私も働き出して娘のことが気にならなくなったら、娘はまた予備校へ通い出しました。でも授業には出ず自習室で勉強して東京の大学に合格しました。 今、4年で昨年(3年)の10月から就活していたのですが、いい所まではいくけど、最後に落とされています。自分に自信がないのと、今氷河期なもんですから、私達は何も言わないのですが、だんだん、自分はダメだダメだと思っていたらしいです。私も仕事を辞めようかどうかで悩んでいた時でしたから、娘の話をあまり聞かず「うん、自分で決めないとね」と言っていました。 「就活やめて、大学院へ行きたい」と言い出して勉強したりしていたのですが、祖父が亡くなったり私がバタバタしていたら、勉強する気がなくなったみたいで、7月から引きこもり状態になったんです。食事の時とゲームを借りる時だけ外へ出る生活だったらしいです。私も仕事を辞めたときでヒマなもんですから、娘の事が心配で心配で、親の会では「こんなこと、考えてはいけない」とわかっているのですけど。(笑) 今は娘が家へ帰りたいと言って、自宅に帰って2ヶ月です。帰ってきた時はため息をついたりして元気がなかったけど、今、少しずつ元気になってきています。 娘が一日中家にいるものですから、夫と余り話せなくて、娘も耳をダンボにして聞いているので・・・(笑)。 ちょっとだけ夫に「あなたどう思っているの?」と聞いたら、「娘が帰って来て嬉しい」と言いました。(笑) 愛する妻と娘がそばにいて「おれは幸せだなぁ」と言うんです。(笑) 「就職どう思う?」ときいたら「就職できないと思うよ」と。「じゃ、どうするの?」と言ったら「知らん、俺はわからん」と。(笑) ―――「娘が帰って来て嬉しい」。いい言葉ですねぇ。考え方を変えるだけで、気持ちが明るくなる、今の幸せに感謝することができます。なによりも我が子を信頼しているご夫婦の姿が娘さんに伝わっていて嬉しい。 一夫さんは3,4年「主夫」したのかな? 朝から釣りをしたり、食事作りや家事を一手に引き受けてね。あなたは助産師さんのお仕事をされてね。 はい。私もまた9月27日から仕事を再開します。今度は特老で働きます。 私も3年で5ヶ所もかわって(笑)、これからもどうなるかわかりません。 私の高校時代の友人に娘の状況を話したら、「今、悩んでいるからいいんじゃないの、年取ってから悩むより」と言われて(大笑)、「あっ、そうだなあ」と妙に納得しました(笑)。 ―――あなたの夫も、ふたりとも仕事がない時も「お金がなくても3人で幸せに暮らせたらいいじゃないか」とおっしゃったのね。 私の方がたくさん親の会に参加しているけど、少ない夫の方が揺れないので、「すごいなあ」と思います。 ―――娘さんは、高校へ行かない時、トイレの水も流さないほど物音をたてないでひっそりと生活していたのよね。精神科の薬も飲んだりしてとても辛い日々を親子で過ごされましたね。親の会に出会って、薬は必要ないんだと伝えると、「お母さん、ありがとう」と言ってくれて。 今までどおり親子が信頼しあって、一夫さんの言われるとおり「幸せだなあ」ですね。「就職しなければならない」というのも「学校へ行かないといけない」と同じで、自分を追い詰めて自己否定してしまう。かけがえのない命にくらべればなんの問題もない、ということですよね。 |
最終更新:
2010.10.29
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