登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2010年9月発行ニュースより



体験談

2010年9月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.169より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら




「うちって世界一だね!」

2010年7月例会報告抄)


表題は7月例会で紹介されたじぇりさんちの子どもたちの言葉です。3人の子どもたちが不登校、夫も若くして仕事を辞めると聞くと、とても大変そうですが違いました。

じぇりさんは子どもたちの不登校のおかげで、気持ちがとても楽になりました。かつての「ガミガミ母さん」も返上し、一人ひとりのペースを大事にして家族みんなが毎日の生活を楽しむようになりました。「うちって世界一だね!」本当にうれしい、いい言葉ですね。

mihoさんはかわいい希実ちゃんと参加。パパ似の「最年少新人」例会デビュー! みんなに祝福されました。mihoさん、辛いこともいっぱいあったけど、とっても幸せで嬉しい。

辛いことといえば家族の病気も。SIさんは「夫や娘の大病を経験して、生きていたらいいじゃないか」「なんで学校にこだわっていたんだろう」とつくづく思うそうです。家族みんなで唐船峡に行き「幸せ」でした。

Tさんも困難は子どもの不登校ではありませんでした。夫のギャンブルにも向きあい、二人で話ができるようになりました。
いけさんは、親の会を通して「娘は娘でやっていく」と思えるように、自分は自分の楽しみを大事にして山登りに夢中になりました。
TKさんは、このほど「息子が夫とふたりで京都旅行」、おみやげに文鎮を買ってきてくれたと嬉しそう。

HNさんは、息子さんが相変わらず口をきいてくれない。でも、耳かき棒を持ってきたので、久しぶりにしてあげたそう。自分を大切にしていくと必ず好転していきます。

みなさんのお話は、今を楽しく幸せに生きていることが伝わってきて感動します。自分を一番に大切にしていくと自信になり、わが子も信頼できるようになります。すると、不安も小さくなってきます。親の会には大切な教訓がいっぱい! ですね。





目次


1 親が「しない」と子どもは「する」ようになる    ちるちる

2 自分のことを一番大切にしています   世話人 木藤厚子

3 「生きているだけでいいじゃないか」  SIさん

4 口をきかない息子がいとおしい    HNさん

5 「うちって世界一だね!」と子どもたちが    じぇりさん





―――
新潟にお住まいの、ちるちるさんのHPの掲示板の書きこみを紹介します。
ちるちるさんは娘さんとふたり暮らしです。娘さんが高校の時不登校になって、私たちの親の会と出会い、以来3年以上のおつきあいです。
ちるちるさんのこの書き込みは、「親が〈しない〉と子どもは〈する〉ようになる」という見事な例でもあります。ちるちるさんはますます自分を大切にしようとしています。とても感動的です。



親が「しない」と子どもは「する」ようになる
    ちるちる


年に数回の便りですが、毎日HPと会報にお世話になってます。
おかげさまで、毎日娘と幸せがいっぱいです。

「しない」と「する」ようになる。

娘が突然、大事な話があるって言うので、何かと思ったら、
就職が決まったから、ひとり暮らしするって言うんです。

もうほんとに突然だったので、びっくりするやら何やら、
??は??  って感じでした。

今は家の近くのスーパーでバイトしているのですが、
一体いつの間にそんなところを探して、面接に行っていたんでしょう。
全然知りませんでした。

娘のことはもうすっかり心配しなくなっていて、
気にもしていなかったので、気付かなかったんですね。

その就職先は同じ県内ですが、市外で、家から通えるところではないので、
近くにアパートを借りるそうです。

娘が出ていってしまうのは正直言ってさみしいけれど、
あの子がとってもうれしそうで、生き生きしている笑顔を見て
ほんとにうれしくなりました。

じゃあ部屋を探しに行かないといけないねー、なんて言っていて、
翌日、私が仕事から帰ると、もう娘は自分で部屋を探してきて、
いいところがあったから、一緒に見に行こうって言うんです。

またびっくりしてしまいました。
親はなんにもしなくても、子どもは本当に自分がそうしたいと思ったら、
自分でやりますね。

ほんとに親の会の言うとおりです。
私が子どもにすることは、なんにもしないで信頼することだけ。

高校に行けなくなって、ご飯も食べず、眠れず、布団の中でいつも泣いていて、
薬も飲んだし、リストカットのまねごとやったり、
大学に行くと言う言葉に惑わされた私は、学費を稼ごうと休日も働いて、
私は休みなく働いてがんばっていたのに(笑)、挙句の果てに娘は家出して。

その後も、何かしなくちゃだめだと自己否定をしていた娘は
自分で通信教育を始めたけれど、結局ほんの数カ月でできなくなって。
そんな娘が自分の足で自分の人生を歩いています。

学校辞めてよかったね、と言う私に、
学校なんか大っきらい、勉強なんかだーいっきらい!って笑って言う娘が
かわいくてしかたないです。

明日は娘の22歳の誕生日です。
たしか、20歳の誕生日には娘が帰って来なくてメールしたような気がします。
もう2年も経つんですね。
明日はケーキやおいしいものをいっぱい用意してお祝いです。
そして私自身にごほうびです。

それから、
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。
私は会社を辞めようと思います。

今日は休みました。
もう自分を否定され続ける人間関係に、ほんとに疲れてしまいました。
明日から3連休、休み明けの来週火曜日には勇気を出して辞めますと言おうと思います。

こんな勇気を持つことができたのも、
自分を大切にすることを教えてくださった、親の会のおかげです。
大事な自分の人生ですもの、もうどんなことにも無理しないで生きようと思います。

これからの人生がますます楽しみになりました。

ほんとうにありがとうございます。


(2010/7/16 HP掲示版書き込みより)





自分のことを一番大切にしています
   世話人 木藤厚子



長男は今29歳です。
小3のとき、マラソン大会のあとから行ったり行かなかったりがありましたが、完全に行かなくなったのは中2からです。その時はひどく自分を責めて、頭を壁に打ち付けたり、自分はダメだ、死んだ方がまし、と机や窓にいっぱい書いたりしました。

私はその頃から親の会に関わっていて、学校に行かないことは何も問題ないことなんだとわかっていても、我が子のこととなると心底受け止められないんですね。

この子の人生はここでストップしてしまって、このまま成長しないんじゃないかと思ってしまいました。子どもの立場に立てば学校に行かないことは理解できるんですが、「行かなくていいよ」とはなかなか言えませんでした。

息子は家で過ごす中で、パソコンに興味を持ちパソコンの勉強を始めました。
親の会の会報も最初の頃は手書きだったんですが、世話人がテープ起こししたものを息子がパソコンに打ってくれて、今の形になりました。

その頃私たち世話人は親の会だけでなく、子どもの人権を守る連絡会の活動もしていて、知覧中の村方勝己君のいじめ自殺裁判を支援していました。
裁判所に提出する書類や子どもの人権を守る県連絡会ニュースも手伝ってくれました。

ですから息子はとても忙しかったです。不安になってあれこれ思い悩む暇がなかったんじゃないかな。そうしながら自分のことを受け入れていったんだと思います。

大検を取って20歳の時に大学に合格しましたが行きませんでした。その後のことは息子が何をしていたかよくわかりません。

その頃私は親の会の世話人をするかたわら、自分の健康を考えて山登りを始めたり、その体力作りのため走るようにもなり、フルマラソンにも挑戦するなど、自分のことに夢中でした。

ある時息子が「自分は忙しい。もう親の会のニュースを手伝うことは出来ない」と言いました。それで私たち世話人はあわててパソコンの練習したんです。(笑)

私が山登りに一生懸命な時に、息子は大学へ行こうと勉強を始めたようで、ある日突然、「センター試験を受けてみようかな」と言ったんです。私はびっくりして「センター試験は大学へ行く人が受けるんだよ」と言いました。(笑) 
それから手続きなど全て息子が自分でして大学に行き卒業し、今は東京で働いています。


―――
会報作りを手伝ったからこうなったんじゃないんですよ。じゃ、うちの子にも会報作りをさせようかなんて思っちゃだめですよ。(笑)

親が自分のことに夢中になって、我が子を信頼できるようになると、子どもが毎日何しているかなんて関心がなくなり、親があれこれ思い悩まなくなったら、子どもは動き出したということです。自分を一番に大切にするということがいかに大事かですね。

お姑さんとの関係も昔は12月ごろから家に来て4,5カ月滞在するというパターンを17年間も続けていたんですね。しっかり「お嫁さん」もして、涙、涙の日々だったの。
(笑)
しかしある時ご夫婦で「私達は一緒に住めないからね」と宣言したら、今はお姑さんはかえって福岡でちゃんと自分のことは自分で出来て、自立して生活されているんですね。

今、次男さんが家にいるんですね。



今28歳の次男がニュース作りに関わっています。(笑) 
次男は高2で中退して大検をとって、大学を卒業し就職したんですが、司法試験を受けたいと会社を1年で辞めました。何年か勉強に打ち込んでいたのですが断念しました。いま家にいます。
気持ちが荒れたときもありましたが、私は何も言いませんでした。


―――
今はギターを弾いたり、家でゆっくり過ごしているのね。次男さんが家に居ることは自然になっているのね。


はい、なかなか役立っています。(笑)





「生きているだけでいいじゃないか」  SIさん



4月30日に娘が脳腫瘍の手術を受け成功しました。
8月にもう1回評価入院というのがあるのですが、今は家にいます。
脳の手術というのは、外傷がなにもないので、病気だったということも忘れてしまいがちで、ついつい細かいことで叱ることもあったり・・・。

娘が大きな病気をのりこえ、夫も大病で1年間療養したせいか、「生きているからこそ、こんなに考えたり悩んだりするんだなあ」、何にしても一番は「生きているからいいじゃないか」とつくづく思いますね。

息子が不登校になったばかりの以前の私だったら今の方と同じで、毎日ドキドキしていて、ケイタイを見るのがこわかったです。学校から毎日のように電話があり、月に1回くらい三者面談を受けていましたから。

担任と学年主任が息子に何度も「どうするんだ」と聞くんです。
そう言われると息子も「行きたいです」と言いますよね。「いつから?」と聞かれて「来週から」と答えていました。

それで親は「ああ行きたい気持ちがあったんだ」とホッとして、土日は嬉しくて、しかし月曜日になるとやっぱり行けなくて、それの繰り返しでしたね。

親の会に参加するようになって、「行きたい」というより、「行かざるをえない」ような状況に私達が追い込んで、そういう言葉を言わせているんだなと気づいていきました。

息子は高校の夏休み明けから不登校になり、部活だけは行っていました。高2の終わりに本人がまだ迷っていましたが、学校からは90日間は診断書があれば休んでもOKと聞いたので、心療内科で診断書を書いてもらって、一応3年へ進級させてもらいました。3年生になっても行けない日がほとんどでした。

私は、毎日チェックしていましたね(笑)。それがだんだん自分にも負担になってきていました。

この会へは3年の5月に参加しました。最初行かせるためのアドバイスをもらえると勝手に思い込んで参加しましたが、学校へ行かせる会ではなかったとわかりました(笑)。

参加するうちに子どもよりも自分の不安だとわかり、担任へも「行かせよう」から、「もう本人に任せますから」と伝えました。担任は私が変わったので「おかしくなったのではないか」と思ったと思います(笑)。

私がだんだん担任と関わらなくなっていったものですから、本人はそれで落ち着いていったように思います。息子も同級生が卒業した時に退学届を出しにいきました。

今、20歳になっているのですが、なぜ学校に行くことに、私があんなにこだわっていたのかなあと思います。今は息子のことはほとんど気になりません。

昨年、同級生が大学へ進学した時には、息子にもあせりがあったみたいで、予備校へ行くと言い出しました。私はお金は出さなかったけど、夫が全額出して、70〜80万円使いました。5月の連休明けから行かなくなりました。

1年間様子を見ていると、週末には友達と遊びに行ったり、12月に入ると友達と勉強してくると言い出したり・・・とか。3月末に「もう1年、がんばらせてくれ」と言いましたが、私は「ああ、そう」と言ってあまりとりあわなかったんです。

予備校の先生もあきらめたのか、授業料の請求はなくて(笑)、結局、息子は自分の小遣いから自習室代というのを月1万何千円か払ってまた行きはじめていますが、親は一切出していません。

娘が入院する日の夜中に、息子から「お母さん、僕、交通事故にあった」と電話が入ったんです。予備校へはバイクで通っているものですから。なんでこんなに重なるのと思ったけど、大雨のためスリップして車と接触したわりには、ほとんど無傷でした。(
よかったね〜!!
それで予備校にはもう行かないだろうと思っていたら、やっぱり今だに通っています。(笑)


―――
あなたの中では、ほとんど気にしてないのね。


ええ、ほとんど気になりませんね。ただ行っているとそれが当たり前になり、行かない時は・・・私は「ああ、自分はまだまだだなあ」と思います。

根本に娘や夫の大病を経験したせいか「生きてるだけでいいじゃないか」と思っています。
昨日は、天気が良かったので4人で指宿の唐船峡に行ったんです。車の後部座席からみんなを見て「ああ、幸せだなあ」とつくづく思いました。


―――
あなたの夫は、1年間自宅療養して、家で娘さんがゴロゴロしている姿がイヤで娘さんとバトルをくり広げたことがありましたね。今はどうですか?


そうですね。夫と娘がバトルをくり広げているときは、「さわらぬ神にたたりなし、だよ」と息子に言われて(笑)。「だよね」と私も言って、口を出さず2人で解決させるようにしていました。

今は夫も職場復帰して、仕事に少年団のコーチにとわくわくを見つけていますので、娘へはもう言わないです。息子にも思っているでしょうけど、「大学へ行け」とも一切言わず平穏無事な毎日です。幸せだなあと思っています。


―――
あなたは介護保険のご相談を受けているのね。


はい、ケアマネージャーなんです。人の相談には第三者として冷静に対処できるんです。
家族の方が心配してご相談にみえます。「それは、あなたの不安であって・・・」と言いながら自分で自分がおかしくなります(大笑)。
ここにきて、自分も変わって、いい勉強になりました。

しばらく参加できなかったけれど、会報を読むと気持ちが落ちつきますね。
今、現在、不登校の子どもさんをかかえている方の気持ちは、手に取るようにわかります。
私も毎日ドキドキして、「明日がくるのだろうか」と思っていましたから。息子と違う高校の制服姿をみても「いいなあ」と思って涙が出ていましたから。






口をきかない息子がいとおしい
    HNさん



今15歳の息子で、今年高校に入学しました。中3の2学期から3学期にかけて行かなかったんですが、今は毎日自分で通っています。


―――
あなたと口をきかない息子さんに耳掃除をしてあげたという心があったかくなるお話があったのね。


小さい頃から私がずっと耳掃除をしていて、この頃はずっとしてないなと思っていたんです。夫が「耳の掃除は一生しなくても大丈夫」と言ったんですよ。そしたら、息子が耳かき棒を持って来て、私の頭の上でブランブランさせるんです。

娘が「お姉ちゃんは出来ないよ、ママしかできないよ」と言うと、私のところに来たんですよ。
「おいで」と言ってひざに頭をおいてしてあげたんです。久し振りだなと思って。娘が「信じられないよね。しゃべりもしないのに耳の掃除はママしかできないと思ってるんだね」と言って、笑い話になりました。

息子は高校に入ってワンダーフォーゲルに入ったんですが、先生が心臓病になって山登りができなくて、まだ活動がないんです。本人達はがっかりして、それで家族で霧島に行きました。
遊歩道なんですけど夫と私はゼーゼー言って、息子はたたーっと走って登って、下りて来て、また登って行きました。夏は長男が東京から帰ってくるので、高千穂峰に登ろうかと話しています。

私は仕事に行くのに2ヶ月前から往復歩いています。昨日も近くの運動公園に夫と行って歩きました。近くにあるおいしいおそばをふたりで食べたり、鹿児島に映画を観に来たり、楽しんでいます。

それができるようになったのはコンビニを10年間ちゃんと満了して終了したからです。やっと夫も10年ぶりに休みがとれてゆっくりしてるところです。

息子はまだ口をきいてくれませんが、私はまだ2,3年かかるかなぁと思っています。楽しいことをやっていけばいいと思っています。
今2カ月歩いて、220キロ歩きました。(
すごい!!)今どこまでいっているかなと毎日計算しています。それも楽しみに私も山登りに挑戦したいと思っています。


―――
息子さんが口をきかないのは気にならないのね。


やっぱり自分の精神状態で、まったく気にならないときと、すごく腹が立つときとありますね。


―――
マリア様ではないんですから腹が立つときがあってもいいんです。ご夫婦で楽しみを見つけて一緒に楽しんでいらっしゃるのは何よりですね。





「うちって世界一だね!」と子どもたちが
    じぇりさん



―――
じぇりさんの夫は喜界島で小学校の教員だった時に、標準服の強制に反対する親たちの運動を支援したんですね。それで職場でいやがらせにあい入院し、休職・退職しました。いまは別の仕事をしています。


結局、喜界島から離れる避難場所を求めて入院したんですね。知り合いが勧めてくれたところに3ヶ月入院しました。
病院にはどんなことがあっても行く人ではなかったのに、その夫が行くと言った時にこれはけっこう大変な状況なんだと思いました。
私はそれほど夫の大変さに気づいていなかったんです。

夫は朝起きたら私が寝ている間にもう学校に行っていて、夜は遅くまで頑張っていました。本人は頑張っているのではなく、今もそうですが、したいことをしているだけなんです。

それで子ども達も学校に行かなくなって、それは学校に対する当てつけで夫が行かせてないんじゃないか、と言われて。私も高校で非常勤として勤めていて、そこでもいろいろありました。
学校でもセクハラや人権侵害があり、それはおかしいんだよと子ども達に話したらそれが問題になって、学校側から私も目をつけられました。


―――
精神的に非常にダメージを受けて、3ヶ月間入院した後も、鹿児島県にいることができなくなって、宮崎県都城に転居されたのね。


そうなんです。誰か知っている人に会うのが嫌だったんでしょうね。
退院した後、夫は喜界島に帰りたくなくて、国分のウィークリーマンションで1ヶ月家族で過ごしました。

それは1月で、ちょうど異動の身上調書を書かなくてはいけない時期でした。
校長から朝昼晩1日3回連絡するように言われて、私は8時、12時、5時と電話をしていました。
ウィークリーマンションには電話もFAXもあったんですが、FAXではダメだと校長が言って、部屋に電話がかかってくるのは夫も辛いだろうと思って、私が近くの公衆電話からしました。

そこはひとり用の部屋だったんですが、旅行気分で出てきて家族5人でそのまま居たんですね。
でも子どもたちは楽しかったようです。そのあと宮崎県の都城に住んだんですが、1回4月に復職したんですが、やはり無理だったようで、秋の運動会の前に辞めました。


―――
半年間大変だったんですね。


教員住宅だったので出なくちゃいけなくて、また宮崎県の都城に借りていた家に戻ったんです。私は3ヶ月でそこを出るつもりだったんですが、今も住んでいてもう10年過ぎました。(笑)

ですから、人生はわからないと思います。子どもが学校に行かなくなってから、夫が2学期2日行って3日目からダメでしたね。

子ども達が不登校になったのは、一番下の次男が小学校入学まもなくで、長女が小6で、長男が小5でした。1学期の間にみんな行かなくなりました。
上のふたりはまさか行かないとは思わなくて、でも「行くのも行かないのも自分で決めていいんだよ」と一応情報を提供するつもりで伝えたら、行かないと言って(笑)。それもまたこんなに続くとは思っていませんでしたけれど。


―――
その時と今とを比べてみてどうですか。


はい、もう全然気持ちが楽です。

私は不登校の子どものことより夫のことの方が心配で親の会に来ていました。
みなさんのお話をいろいろ聞いて、夫はそういう気持ちなんだなと夫のことを理解したいと思いました。

小学校に入学間もない次男が能面のような顔をしていたのを見て、ああもう生きているだけでいいと、それが自分の中の一番の原点です。

何かに迷った時にもその時の顔を浮かべます。笑っている今がいいと自分に言い聞かせて、子どものことは子どもに任せるのが一番いいと思って、私からの働きかけは絶対にしないと決めていました。

でも、やっぱり学校に行かないにしても同じ年齢の子達と遊んだ方がいいんじゃないかとか、上の子達はそれなりに基礎的勉強はしていましたが、次男はまったく書くことも読む事も出来ませんでしたから、どうなるのかなとチラッとよぎることはありました。
でも、まあ3人そろってテレビを見てニコニコしていれば、こんな仲のいい兄弟はいいなあと思って、それでいいんじゃないかと思いました。

私は子ども達が小さい頃すごくガミガミ言う母親だったんです。
自分ではそれがいいと思って手伝いをさせ、ご飯も残さず食べるとか、将来困らないようにと細かいことをたくさん言っていたんです。
それは何の意味もなかったし、せっかく子どもと楽しく過ごせる時間をそういう関わり方しかできなかった自分が情けないやら申し訳ないやら後悔がすごくあったんです。それに気付いた時から私は絶対に言わないと決めたんです。


―――
どうして気づいたの?


高校生と出会ってからです。
子どもの立場の気持ちを聞いた時に、我が子を見ていたはずだったのに心が触れていなかったと思ったんです。
だから、学校に行かないと言った時に、私は何も言わないし、理由も聞なかったんです。わからなくても子どもの言うことを受け入れたんです。

そのうち能面みたいな顔をしている子どもの顔を思い出すことがなくなったんです。それが多分自分の中で大丈夫と思えた時だと思います。それがいつだったか自分でも覚えてはいませんが・・・。


―――
あなたの夫が仕事を辞めて、だからといってすぐに別の仕事が出来る状況ではなかったんですね。


ずっと家に引きこもっていました。多分人に会うのは嫌だというのがあるんだと思います。喜界島の実家にも全然帰りませんし、鹿児島にも来ません。親の会にも学校を辞めてからちょっと来ましたが、あまり来たい場所ではないというのがあるんだろうなというのはありますね。


―――
今はまた夢中になった風力発電で、今、韓国や中国にご指導に行って忙しくしているのね。


はい。でも待遇は変わらずボーナスも手当てもありません。(笑)


―――
お姉ちゃんはいっとき人の顔を見なかったりしたことがありましたね。


はい、ありました。部屋から出てこなかったりもしました。でもここで大丈夫と言われて気にしないでいたら、大丈夫でしたね。

5月の末に娘が自分の行きたいイベントがあるから東京に行きたいと言いました。娘は地理にうとくて、次男を誘って一緒に行きました。私が次男を誘うと忙しいと言って一緒には行かないのに、お姉ちゃんが言うと次男も楽しみたい所があるみたいで付き添いという感じでふたりで行くんです。

娘は今月23歳になります。長男は21歳、次男は今月18歳になります。次男は小学校に入学して間もなくから行っていませんが、未だに毎日日記を何ページも書いているんです。興味も尽きないみたいです。

娘たちを鹿児島空港に迎えに行った時に車の中でいろいろおしゃべりしました。
私は娘に妹がいたらいいなと思って三人目を産んだんです。(笑)
でも男だったんです。でも結局娘と息子は一緒に旅行に行って、女ではなかったけど私の願った通りになったね、と言って。(笑) 

そしたら「家って世界一だよね。いろんな個性のメンバーがそろって、おもしろいよね」と言ったんですね。世界一という言葉が出てきてすごく嬉しかったです。


―――
みんなが「うちの家族は世界一!」と言えたら最高ですね。
じぇりさんの家庭の最高傑作は「したくないことはせず・させず」ですね。
茶碗は洗いたい人が洗う、掃除機はかけたい人がかける、洗濯は洗濯機がする。
家の中はきれいですかと聞いたら、きれいじゃないですと。
(笑)


庭も草がボーボーでたまに夫が機械で刈っているので、“草刈まさお”と言っています。(大笑)


―――
5月例会報告にもじぇりさんの発言がありますので、是非お読みください。





このページの一番上に戻る ↑


体験談(親の会ニュース)目次へ→


2010年7月発行ニュースはこちら→
    TOPページへ→    2010年6月発行ニュースはこちら→



最終更新: 2010.10.29
Copyright (C) 2002-2010 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)