登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2011年5月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.177より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


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いよいよ22周年のつどい

2011年4月例会報告
(抄)


長谷川登喜子さんが「励ましあっていきましょう」と呼びかけて、22年前
1989年5月3日に、鹿児島の親の会が発足しました。

3家族で始めた親の会が今では100家族を超え、県外にも、北から北海道、岩手、宮城、山形、茨城、埼玉、千葉、東京、神奈川、新潟、長野、静岡、岐阜、大阪、兵庫、岡山、福岡、熊本、宮崎に会員さんがおります。全国から力をもらって、ありがたいと感謝しています。

22年間、たくさんの大事な教訓が生まれ、親の会に共有財産が蓄積されてきました。
このたび刊行した『自分が自分の主人公! まっ先に幸せになる』の
まえがきにある次の文章はとくに大事だと思います。

いつどんな時も「自分が自分の主人公」。
自分を一番大切にする。
明るく元気いっぱいのときだけでなく、
不安いっぱいだったら、そうしたときの自分も否定せずに認め、
いつも、いま現在を一所懸命に生きる。
そして自分が「まっ先に幸せになる!」

4月例会に久しぶりに参加した長谷川登喜子さんは、「初めはつらかったけど、登校拒否をしたわが子のおかげで、家のなかが明るくなり楽しいことをいっぱい体験できた」「3人の子どもたちは仏さま。私を幸せにしてくれた。大病のときも否定的にならずにすんだ」と笑顔で話しました。

「人の話はわが話、わが話はみんなの話」。
交流をとおして、初めは涙だった会員さんにも笑顔が増え、力強く変わっていく姿はキラキラとかがやいています。元気と安心が会全体に広がってきました。

なんて素晴らしい! 親の会を続けてきてよかったと心から感謝です!

5月15日は、いよいよ22周年の集いです。




目次

1 どっちが大人?!  葵さんからのメール

2 私のわくわくは「嵐」!   TKさん

3 家族がいるから病気と闘える   じぇりさん

4 3人の子どもたちは私の仏さま  長谷川登喜子さん






どっちが大人?!   葵さんからのメール



中3の葵さん(あおいちゃん)からのメールをご紹介します。
葵さんはずっと不登校でした。幼稚園のときから行っていなかったのですが、中2の終わりころに初めて行ってみたくなり、学校に顔を出しました。

ところが、「髪を黒くしないと教室に入れない」と言うのです。
そこで葵さんは少し黒くしたのですが、その後の学校側の対応も
ばかばかしいほどおかしいのです。

一方、葵さんのとてもしっかりした考え方に感心します。
(6〜7年くらい前まで、あおいちゃんは毎月親の会にお母さんといっしょに来て、
隣の部屋で皿回しなどして遊んでいました。今もかわいい「あおいちゃん」ですが、
すっかりお姉さんの「葵さん」に成長して立派です。)

では、メールをご覧ください。



こんにちは。

お母さんから、話を聞いたと思いますが
私から、その時の事を 伝えます。

初めて学校に行ったのは、2年生が終わる頃だったんですが、
最初、髪の毛が茶色いまま行ったら、髪が茶色いからと言う理由で
教室に入らせてもらえず、女性の先生に 色々と注意をされてしまい
その後、学校に行く時は 黒スプレー(一日だけ黒に出来るスプレー)を
して行きましたが、
色が まだらで、すこし茶色い部分があったので
その時も教室には入れませんでした。

自分のクラスに入れなかったので、
みんなが授業を受けてる間は
学校の中を色々と見たり、城山学級(適応指導教室)で
そこの先生と話をしたりしてました。

今は代わってしまいましたが、その時の城山学級の先生は
とても良い人だったので、嫌な事は言わず 受け入れてくれました。

他の先生は、私達を見ると
すぐ職員室に電話して、先生を呼び
その時に職員室に居た先生が、やってきて
また、髪の事 眉毛(剃って整えてたので)のことなどを
くどくどと言われ、とても嫌な気分でした。

しかも、保健の先生は
最初、とても頑張ったと 気持ちが分かると褒めてくれてたのに
私達が行くと、やめてと言っても 職員室に電話をして
私達が居ることを伝え、そこでもまた 他の先生に同じような事を言われ
傷つきました。

保健室は、普通は1時間しか居られなくて
保健室登校は出来ないハズなんですが、保健室登校をしてる子が一人居て
その子はずっと居れるみたいです。
どうして、その子は良くて 私達はダメなのかも良く分かりません。

それから、三年生になり
始業式の日に(十時頃)、友達とクラスが何組か見に行きました。

その時はまだ髪が茶色いまま行っていたので
また先生が集まり、髪の色の事を言われたので
その後友達と二人で、髪を黒く染めて また学校に行ったんですが

先生達が、私達の周りに集まってきて(4〜5人)
まだ染め足りないと言ってきました。

でも、友達も黒いと言い
先生も黒いと言う人もいて

今年新しく入った教頭先生も
何も悪いところは無いと言ってくれたのですが

生徒指導(去年の担任)の先生がとてもうるさくて

この先生だけが、まだ完全に黒くないから
教室にはまだ入れない、もう一度染めて来なさいと言い
他の先生達も、一人だとあまり言わないのですが
集まると うるさく言ってきて 子供みたいです。

教頭先生も もう一回だけ染めてくれないか と言って
染め粉を買うお金までくれたのですが、

教頭先生も、染めてたと知る前は 何も問題ないと言ってくれてたし
他の先生も良いと言う人もいるし
友達も黒いと言ってくれてたので、家に帰って考え直したら
やっぱりおかしくて、納得がいかなかったし、
教頭先生にお金をもらって 丸く治めたくなかったし
もう一回染めるのはやめました。

髪を染めるのは、体にも悪いし髪も痛むからやめた方が良いと先生達は言う癖に
黒に戻すためなら、何度も染めていいのでしょうか。

関係ないですが、その生徒指導の先生の笑顔が気持ち悪いです・・・。

私は、先生達に色々言われる度に、
髪も黒くしたし、教育を受ける権利もあると何度も主張してます。

でも、私達の言うことは ほとんど耳に入れてくれず
何でですか。と問いかけても 曖昧な答えしかくれないし、
「先生達も言いたくないけど、言わなきゃいけないの」と言われます

でも、きっと 髪の毛を黒くしなきゃいけない理由は
みんなが染めたくなるから とか 体に悪いからだと思うのですが

実際、私達は黒くしてるし
学校の子達も黒いと言っているし、何も問題はないハズです。

もともと地毛も、少し茶色かったので
その事を先生に言っても、「元々を知らないから」とか勝手な理由を付けられました。

他の地毛が茶色いと言ってる生徒も
元々は知らないくせに、本当は染めてたかも知れないのに
染めてると知ると、どうしても真っ黒にしようとします。

昔から仲が良くて
染める前を知ってる友達も
髪の毛元に戻ったね と言ってくれます。
なのに、もう変な事だらけです。

私も友達も、行く度に先生達4〜5人に囲まれ
一気に攻められるので、私も友達も
とても傷つき、始業式の日は
家に帰って、悔しくて泣きました。

とても傷ついたので
その後、教育委員会にも自分達で電話をして
その時は、学校に伝えますと言ってくれたのですが
先生に、電話をした事を伝えたら
ただ「知ってるよ」としか言わず 結局、意味はありませんでした。

何が悪いのかまったく分かりません。
いくら 理由を聞こうとも
「学校のルールだから」としか返ってきません。

お母さんも、髪が黒かろうが赤かろうが眉毛がなかろうが
どんな人にも、教育を受ける権利はあるんだから、おかしいと 言ってくれるし、

そうゆう事を、先生達が言ってはいけない事だと思います。

一緒に行ってくれる友達も、
1年生の時に、態度が悪いというだけで
先生に痕が残るくらい強く腕を掴まれて、とても怖くて痛い思いをしたと言っていました。
でも、まだ謝ってもらってないそうです。

話が色々飛んでしまってすみません。

その後
木曜、金曜日も行きました。

でも、やっぱり
授業は受けさせてもらえませんでした。
その間は、暇なので 学校が終わるまで 外で話をしたりしてました。

城山学級にも行ったんですが、
新学期になり、先生が代わってしまい
今度の先生は受け入れてくれず、入ろうとしたら
職員室に電話をされました。

そこは、不登校の子だったり
イジメられてたり、勉強についていけない子など
わけありの子が行くところなのに

そこにまで入れなくなりました。

何で学校に行きたくなったかと言うと
勉強は別に良いのですが
友達が欲しいのと、どんな授業を受けてるか など
中学校の雰囲気や風景を、写真とかでは無く
ちゃんと目で見ておきたかったからです。

本当は、行けたら一年生から行きたかったのですが
小学校もまったく行ってなかったので
朝から行くのは怖くて、勇気がなくて
その時の仲が良い友達は、みんな朝早くから行ってたので
一緒に行くことも出来ず、諦めていました。

でも、今学校に一緒に行ってくれてる子は、
気分で学校に行ったり、給食だけ食べて帰るような子で
仲良くなってから、一緒に学校に行くようになりました。

制服も、その子がくれると言ったので
もらいました。

最近はもう、学校は行きたいですが、授業は出なくてもいいかなぁと
思ってきましたが
先生に言われて傷ついたことなど、色々納得がいかないことがあるので、
その友達にも、私にも、とりあえず謝ってほしいです。

そして、授業に出れるようにしてもらいたいです。


―――こういう話って懐かしくもあります。私たちは親の会の発足の1年前から「子どもの人権を守る鹿児島県連絡会」も活動もしていて、以前だとこういう話を聞いたら、すぐにでも学校に行っていましたね。今はもう全然行く気ないです。(笑)

お母さんのみどりさんも、「葵ちゃん、学校ってそんなもんよ」と言われたそうです。

あまりにもお馬鹿さんな、こんな学校を相手していたら、こちらまでおかしくなってしまいます。

葵さんのこのしっかりしたメールをみて、葵さんはたくましいな、ちゃんと自分で生きていけるなと思いました。

また進展があったら教えてください。






私のわくわくは「嵐」!   TKさん



息子が不登校になって、この会に参加して1年半になります。
その時は不安がいっぱいでしたが今はないですね。
どんな不安だったのかもう忘れました(笑)。

もう思い出しもしないですね(笑)。
でも、1年ぐらい前は、その話をしながら自分で泣いていたりしていたんですけど、今は全然そんなことはありません。


―――その時は、あなたは息子さんを行かせようとして毎朝早い新幹線に乗せようと駅まで送って、息子さんは電車に乗らないで帰ってきたり、乗って行っても中央駅のトイレで1日中過ごしたりしていたこともありました。

でも親の会に参加して「行かなくていいよ」と言えたんですよね。



この会に来て最初に言われたことを息子にただ言ったんですけど、自分の言葉じゃないし、分かって言ったんじゃないので。

不登校の本も読んで欲しいと渡したり、今考えると必死だったんだなあと思います。
「行かなくていいよ」と言いながら、行って欲しかったのかなあと思います。

今息子は17歳です。無理して行っているときはすごく機嫌が悪くて、険しい顔をして、ドアをバーンと閉めたりはありましたが、暴力はなかったですね。妹にもちょっと意地悪していました。

中学3年の12月から行かなくなったんですけど、2年と数ヶ月よく行ったなと思います。今は穏やかな優しい顔をしていますね。兄妹の仲もとてもいいです。


―――あなたも穏やかな優しい顔をしていらっしゃいますよ。(笑)


私も怒らなくなりました。ちょっとしたことでも怒っていたので、つまらないことでよくイライラしていたなあと思います。体の調子もおかしくなっていましたね。親の会に参加して翌年の3月の高1の終わりに退学届けを出しました。


―――あなたの夫はどうでしたか。


もう何も言わなかったですね。私がイライラして言っているのを聞いているだけでしたね。夫はおとなしい人なので我慢していたと思います。

私が不安だから、友達が寄ってきては「大丈夫、大丈夫」と話を聞きたがったり、「大丈夫なの」と心配してくれて、それがかえって辛かったです。

弱っていると人が寄ってきますね(笑)。今は寄ってこなくなりました(笑)。
気持ちが楽になりました。

二回目に参加したときに、木藤さんに「何でも自分でしようと思っているんじゃない。それをやめても実は周りの人はそんなに困っていないんだよ」と言われて、それまで私は仕事のことも家庭のことも、子どものこともちゃんとしないといけないと思って一人で抱えていたので、しなくても大丈夫なんだよと言われて、私が楽になりました。

それまでは、私はこれだけしか出来ない、他の人はちゃんとやっているのに私はちゃんとやれない、と思っていました。

自分を好きになっていくこと、自分を認めていくことが出来るようになりました。
自分がOKならそれでいいと思えるようになったら楽になりました。


―――今「嵐」に夢中なのね。


はい。関ジャニもいいなと思いながら(大笑)、関ジャニならコンサートのチケットも取れて、行けるかなあと思ったりして。(笑)






家族がいるから病気と闘える   じぇりさん



―――すてきなウイッグですね。


息子にやっぱり安物は分かるねと言われて。(笑)


―――乳がんの手術をして、1回の抗がん剤治療で抜けてしまうのよね。


ほぼ抜けて、きれいに抜けたらいいのに汚く抜けるんですね。
(―――あんなにふさふさしていたのにね
そうですね。4回目の治療が金曜日に終わり今入院中です。

やることがないというか、私は編み物をして遊んでいるんですが、副作用も1回目の晩だけが強くて後は吐き気もなく食事も普通なので、通院でいいんですが、たまたま1回目が入院だったので、ずっと楽な入院にしています。

私は病院が大嫌いだったんですが、今の入院生活は嫌いじゃなくて、自分がまさか病院に行くのが嫌と思わなくとなるというのが考えられないことで、治療自体は受けないにこしたことはないけど、治療はただその時間点滴すればすむことで、残りの時間は優雅な旅行みたいな感じです。


―――なりよりでしたね。3人の子ども達が学校に行ってなくて、3人とも大きくなりましたよね。


はい、娘は23歳、長男が22歳、次男が18歳です。


―――あなたの夫は喜界島で教員をしておられたけど行けなくなって、精神的にすごく疲れて鹿児島県に入られなくなって、今は鹿児島県と宮崎県の県境、都城に住んでいるのね。ゆっくり休んで今は風力発電の仕事をしておられる。

今や中国や韓国にもご指導に行っているんでしょう。そして3人の子ども達が不登校だから、とても幸せですと言って。



はい、夫は行きたくないらしいのですが仕方なく技術指導で行かされて。何が楽しいかと言うと自分で研究開発して商品が出来上がっていくことだそうです。

今も全然給料はよくなくて、手当てもボーナスも出ません。けど、やりがいに関してはもう学校とは比較にならないと、ことあるごとに言うので、まだ学校にこだわっているなと(大笑)思って。

365日会社に行かない日はないくらい行って。(―――よく病気をされないですね) 丈夫な身体をもらってよかったねと私は言うんです。

今は私は仕事を休んでいますから、暇つぶしが下手でダラダラしています。子ども達は飽きずにこういう生活をずっとしてそれを満喫してやり続けてきたことはすごいなと、誰からも言われないですべて自分のスケジュールで、小学校のときから11年もやってるってすごいなあと思って。(笑)


―――あなたがいるとお掃除の邪魔だというんでしょう。


そうなんです。だから「明日帰ってくるのか」と息子からメールが来て(笑)。
洗濯は娘で、長男が掃除機をかけて。(―――あなたは掃除機を触ったことがないのね)はい、ないですね。「掃除機をかけるからどっか行って」と言われます。(笑)


―――今までもそうだったけど家族に支えられているな、幸せだなと思っているのね。


そうですね。あんまり病気という感じが自分もなくて、最初告知されたり、治療が決まるまでは不安だったり色々あったんですが、今はその自覚さえなくて、それを過ぎるともう当たり前になって落ち着いているのが今の段階ですね。

家族のみんなによくしてもらっているので、自分はちゃんと出来なくても支えがあることで何とかなっていくんだな、と思って、私はほんとに恵まれています。


―――親の会との出会いがあってよかったですね。


そうなんですよ。この会との出会いは奥地圭子さんの講演会からでした。講演会の主催が親の会で、その後夫のことがあり繋がっていったんです。

喜界島にいたら参加することもなかったでしょうけど、夫も子ども達も辞めて都城に住み親の会に参加できて、すべて整えられて私のための道があって、と思えるくらいありがたい出会いでした。


―――あなたはまだずっとお若いから、自分の生きる力を信じて、今の幸せを大切にしていけば、必ず病気は治っていくと思っています。






3人の子どもたちは私の仏さま  長谷川登喜子さん



久しぶりの参加です。二男が小3の9歳の時に不登校になり、息子をどう育てていけばいいのかと悩んだときに内沢さんに相談しました。

同じ悩みや気持ちを持つお母さんやお父さん達と支え合っていきたいなぁ、と思って、22年前の5月3日に、「みんなで集まりましょう」と呼びかけて3家族で親の会をスタートさせました。皆さんに支えられて今日まで来たなあ、私は本当に運が良かったなぁと感謝しています。

その息子も31歳で、今は大阪で働いています。二男はいっしょにいる時間が長かったからか、離れていても「あの子は大丈夫」と心の底からの信頼があります。

1番上の長女は36歳です。登校拒否をして高校を中退しましたが、学校へ行かないのだったら働かないといけないと思って、無理して頑張っていたそうです。それがわかったのは15周年のときで、とてもショックでした。

私は二男の方にばかり目がいっていて、お姉ちゃんが悩んでいたことに気づいてやれなかったことが申しわけなかったです。

娘は結婚しているんですけど、今でも辛さがあって、でも彼がとってもいい人で、黙って見守ってくれるので安心です。「いつまでひきこもってるの?」と言ってくれます。

長男は34歳で、結婚して3人の子どもがいます。
小学1年生と2歳半と6ヶ月の孫に、私はまごまごして(笑)、とても癒されて幸せな日々を送っています。

私は親の会で、「ここがわからないんだけど、ここはどう考えたらいいの」とずっと食い下がってきた時期もありました。
皆さんも子どもを信頼して、わからないときは、内沢さんに食い下がって聞いてください。
私は親の会を始めて本当に良かったと思っています。


―――あなたは子どもさんのことで「仏さんに囲まれてしあわせ」と言われましたよね。


子ども達から教えられることがいっぱいでしたから。
本当に子どもが登校拒否をしてくれて、家が明るくなって楽しい時をすごすことができました。だから自分のものの見方、考え方ひとつです。

「学校へ行かないとおしまい、この子を学校へ行かせよう」と思っている間は、親も子どもも追いつめられました。ここで「学校を休ませたらどうですか?」と言われた時、「えっ、どういうこと?」と、言っている意味がわかりませんでした。だけど、追いつめられたらこうなるよ、というのも全部子どもが見せてくれて、子どもが全部教えてくれました。

「ああ、私は今、この子を追いつめているな」とわかったし、「私が今安心しているから、この子もなんだなぁ」とわかりました。
他人は、登校拒否をしているかわいそうな家庭だ、と思うかもしれないけど、当事者の私達は、他の人達が経験したことのない楽しいことをいっぱい体験できてすごく幸せでした。

私は2000年1月、「溶血性貧血」という病気で死にかけました。最初は体のあちこちが痛くて、痛み止めをずっと飲んでいたんです。そうしたら意識がなくなってしまったんです。

4年前にリュウマチとわかって、なぜ身体中があんなに痛かったのかがわかりました。
今でも長時間歩いたり、座ったりができません。この2,3年は私の体調がすごく悪かったけれど、否定的にならずに病気につれ添っていけばいいし、と思えば楽かなと思いました。
会にはなかなか参加できないけれど、笑さんが声をかけてくれるので、「毎月声をかけてね」と言っています。




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最終更新: 2011.7.24
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