TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2011年6月発行ニュースより
感動いっぱい! 22周年の集い 2011年6月発行会報より 5月15日、22周年の集いに、100余人もの多くの方々が参加しました。遠く、埼玉、東京、神奈川、長野、大阪、兵庫からも、九州外の参加者12人も含めてです。 永田俊子さんと森田重則さんの体験発表は感動をよびました。「そうそう、私(僕)も同じだったよ」と、私たち一人一人の体験や思いと重なったからではないでしょうか。 その後の交流でも、お一人おひとりから感動的な話が続きました。涙あり、笑いあり、みんなの心がつながっていきました。まさに「人の話はわが話、わが話はみんなの話」ですね。 東北の会員さんからの「ひとりじゃないよ」という便りも紹介され、胸を熱くしました。 今回は、永田さん、森田さんの体験発表、集いと懇親会での交流、感想文、掲示板の書き込みなど、貴重な内容がもりだくさんです。ぜひ、「わくわく」ご覧になってください! みなさんのお話や感想、掲示板の書き込みの最後には、「ありがとう」や感謝の言葉がいっぱいありました。「ありがとう」は、わが子、わが家族への「ありがとう」だと思います。また、親の会で支えあってきたお互いへの「ありがとう」でもあると思います。これからも、明るく元気に支えあっていきましょう。 ↑ という前書きの会報です。 いつも会報は28〜32ページくらいなのですが、集いでの交流や 夜の懇親会での交流の様子など、この22周年特集の会報は、 なんと48ページにもなりました。 ここでは、体験発表された永田俊子さんと森田重則さんのお話を紹介します。 (会報の2〜10ページです) 体験発表目次 会報は私の心の支え 永田俊子 家族が私を救ってくれた 森田重則 会報は私の心の支え 永田 俊子 こんにちは。永田です。 私が親の会の皆さんと出会えたのは平成19年の5月、息子が高校を退学した直後のことです。丸4年経ちました。 息子は高1の10月ごろから学校に行けなくなりました。 入学以来、部活でずっとつらい思いをかかえていたらしく、心がすりつぶれるまでがんばったけれども、もうこれ以上はムリ!というかんじでした。 朝準備をして玄関までは出るけどそこから動けない、から始まり、ベッドから出てくることもできない状態になりました。 私は、それは甘えだと思って、息子を叱咤激励し続けました。 学校に行かない人生なんかあるものかと思っていましたから。 ある日、朝起こしに行ったとき、ベッドの隙間に息子が氷のように冷たくなっていて、身体が硬直して動かなくなっている時もありました。 もうこの子は病気なんだ、死んでしまうんじゃないかと思いました。 しかしそうではなくて、身体中で学校を拒否していたんだということがあとでわかりました。 学校に行ったり行かなかったりが続いたある晩、息子が野球のバットで2階の自分の部屋をメチャクチャにしたことがありました。窓ガラスはこわさなかったけど、壁や時計や置物をメチャクチャにたたきまわっていました。 次の日の朝そっとのぞいてみると、ガラスの破片だらけのベッドの上で息子は寝ていました。机の上に赤い字で「殺して」と書いた紙が置いてありました。 その下に2歳上の娘が「みんなあなたのことが大好きだから殺せません」と返事を書いていました。 心療内科も受診 そういうことがあっても、私は息子を学校に行かせるということにあきらめがつきませんでした。なんとか学校に行かせる手立てだけを考えていました。 だから、表情もなくなった息子には目もくれず、何度も学校に足を運び、学校と相談し、交渉しつづけました。 無理やり心療内科も受診しました。 それが息子の将来のためと信じて疑いませんでした。 学校からは「60日以上欠席すると留年です。第三者の診断書があれば90日まで認めます」と言ってくるので、私はその診断書ほしさに心療内科の予約も取って、「さあ、行くよ」と言ったんです。 息子は行くのをいやがったんですけど、なんとか連れて心療内科に2ヶ所行きました。 私はうつ病と思いこみ、当時慣れないパソコンで「うつ病は薬で治ります」と書いてあったのをすっかり信じこんで「薬だ」と思いこみました。でも、病院の先生は「なんで行かないんだ、留年するぞ」と言いました。 息子は「もう二度と病院へは行かない」と言いました。 それでも私は心療内科へ行き、泣きながら訴えました。「それはいかんなあ、薬を増やしましょう」と薬を増やしてもらったり、でも、息子は一切飲みませんでした。私が半狂乱になっていました。 でも息子はどうしたって学校に戻ることはできず、高1の3月に退学しました。その時の息子は、自信も気力もなくし心にふたをし、人間不信で、対人恐怖で、自分のことが大嫌いだと言っては、壁に穴をあけ、もう私は、どうしてあげたらいいんだろうとパニックになっていました。 高校を離れたことを私がまだ受け入れられずに「この子は一体どうなるの? 私達はどうなるの?」と夫に訴えたら、「大丈夫、親子3人仲良くいつまでも幸せに暮らしました」と言うものですから、この人は何も真剣に考えていない、と思いましたが、今考えると救われる言葉だったと思います。 親の会と出会い、半年ぶりに笑った そして、5月、「親の会」と出会いました。福岡にいる夫のおいっ子が、鹿児島にはこんな会があるよと教えてくれたんです。とてもつらい思いで参加しました。 そしたら、朝目が覚めたらワクワクする話でもり上がっていました。 それって何の話ですか? 引きこもりと不登校、こんなつらくて悲しい集まりなのに…?と思いました。私は、心がワクワクするかんじなんて、ここ半年ぐらい味わったことがないし、朝目が覚めたら、胸に鉛をいれているみたいだと思っていました。 不安を口にする私に、「昼夜逆転もぜんぜんおかしくないし、三度のご飯をしっかり食べなくてもだいじょうぶ、かべの穴もOK」と言われて、びっくりしたけど、すごくホッとしました。 半年ぶりぐらいに笑いました。それまで、そういう状態をおかしくないと言ってくれるところはありませんでしたから。人間、大変な思いをしたら大変な状態になるのはあたりまえなんです、という親の会の考えにとっても救われました。 県外の大学に進学して初めての夏休みに帰ってきた娘に、「家の中が明るくなったでしょう」と言うと、「お母さんが一番暗かったけど、一番明るくなった」と言われました。 それから毎回参加するようになりました。毎月届く会報も心の支えでした。 同じ苦しみを理解してくれる人がいるというのは心強いものだと思います。 それまでは、世間から捨てられたような、離れ小島に置いて行かれたような、ほんとに心細い気持ちで過ごしていましたから。 自分の気持ちも行きつ戻りつしながらでしたが、毎回参加していくと、そのたびに新しい発見や価値観に出会うことができました。 でも、この会で教えてもらうことは、それは確かにそうなんだけど、でも世間では通用しないんじゃないかと不安に思うこともありました。不安な時はHPをくり返しくり返し読み、「自分が自分の人生の主人公、世間が主人公ではない、自分を一番大切に、自分の立場にたって自分にやさしく」とおまじないのように心の中でくり返していました。 不登校やひきこもりを理解するというのは、自分の中の学校信仰、学歴信仰との戦いです、という話も聞きました。まさにそうでした。 「この私が幸せになる」 ある時、例会で「息子が元気になるんだったら、私は矢でも鉄砲でも受け止めようと思うんだけど、何をどう受け止めたらいいのかわかりません。あるがままに受け止めるというのは、どういうことかもわかりません」と訴えたんです。 朋子さんの言葉は「この私が幸せになるということです。この私が元気になるということです。それが子どもを100%受け止めるということです。親が幸せであるということは、それが子どもに対して、あなたを信頼している、あなたはそのままでだいじょうぶ、という何より強いメッセージになります。何より心強い応援になります」というものでした。 すぐには理解できませんでした。私は、親だったら、息子といっしょに悲しんで、苦しんで、恨んで、正しい道を指し示すものだ、と思っていました。 息子の状態に関係なく、親は自分の人生を楽しんでいいと言われても、そんなことができるんだろうか…? でも確かにそうなんです。 息子には息子の人生が一人分、私には、私の人生が一人分、別々にちゃんとあるんだなと思いました。 それから、あまりうしろめたさもなく生活を楽しめるようになりました。 夫と好きな映画や星を観に行ったり、山登りのまねごとを始めたりしました。明日、山に行くという前の晩、リュックサックにチョコレートやおやつを詰めていたら、息子が、「お母さん、うれしいかい」と聞いたんです。「お母さんだけ悪いけど、すごく楽しみ」と言うと、「それはよかった」と言ってくれました。 84歳になる私の母は、「親の会に出会ってよかったねぇ。なによりあんたが元気になったことが一番よかった」としみじみ言ってくれます。 そんな母に私はときどき会報を読んであげます。内沢達さんの「自分自身のかけがえのない友となる」をいただいた時に、これはいいと思って「アランの幸福論」の一部分を読んであげました。「愛する人のためにできる最善のことは自分自身が幸せになる」というところは、母も一番感動していました。 かけがえのない私の家族 息子は、今20歳になり、ずっと家にいます。それが我が家では当たり前で、引きこもりをしていても大切なわが子に変わりないと思っています。そう思えてきたら、ほんとにこの子はやさしい子だとわかってきます。 我が家の愛犬が一昨年に亡くなったのですが、その時も、ずっと何日もそばに寝て看病してくれました。私が病気になった時も、スーパーやコンビニに走り、回覧板を回し、家事もしてくれました。普段は何もしません。でも、いざという時は動いてくれるじゃん、と思っています。 夫が少し前から、畑を始めたのですが、今、それを手伝っています。土を50センチぐらいほり下げて、ふるって石ころをとり除く、という一番きついところを息子がしています。「人間いやなことはできないよ」と言っていた息子だったので、それはイヤじゃないからしているんだろうと思っています。「この辺の筋肉がついただろう」と言っています。 親の会に出会ってよかったと思うことのひとつに夫とのことがあります。 夫は10年ほど前に、コンピューターのシステムエンジニアからタクシードライバーに転職したんです。給料も半分ぐらいになるし、ずっと、なんでなの? という思いでおりました。 でも今さかのぼって、あの時夫もつらかっただろうな、弱音も吐かないですごいなーと、ほんとにありがとうと思えるようになったんです。おもわぬ、不登校の置産物でした。 息子の不登校、引きこもりがあり、親の会との出会いがあった、そして今がある。そのことに感謝したいです。 「不登校、引きこもりになってよかった」とは、まだ大胆に言えませんが、決して悪いことばっかりじゃなかったぞと思います。そして不思議なことに、幸福感はアップしているような気もします。ごく普通に当たり前と思われている道を行くのがいいという価値観もあるし、そうでなくてもいい、どっちの価値観も私は知っているぞと思います。 22年前、たった三家族で親の会を立ち上げてくださった長谷川さん、ずっと運営して下さった、内沢さんご夫婦、世話役の木藤さん、川島さん、渡辺さん、瀬戸山さん、そして親の会のメンバーおひとりおひとりに、心からありがとうございますと伝えて発表を終わらせて頂きます。ありがとうございました。 家族が私を救ってくれた 森田 重則 皆さんこんにちは。 親の会に参加し始めて、この4月で11年目になりました。 内沢さんから体験発表をとの話があったとき、10年前からの会報を自分に関する部分だけ読み返してみました。私の話は、私がいつまでも踏ん切りがつかずに揺れ動いた体験の話です。 私は58歳です。妻と28歳の長男、25歳の長女の4人家族です。 長男は中1で、長女は中2で不登校になりました。 長男は4年ほど前から働き始め、長女は自宅でゆっくりとしております。 自宅は指宿にありますが、転勤で昨年4月から大隅半島にある鹿屋に妻と二人で暮らしております。指宿には子ども達が二人で住んでおり、金曜日の夜に指宿に戻り、日曜日の夜に鹿屋に行く生活をしております。 私の話の中では、徳之島と鹿屋(今も鹿屋に住んでいる)という地名が出て参りますが、それぞれに2回ずつ転勤しており、徳之島には1回目は昭和59年から平成元年までの6年間(この時は家族で)、2回目は平成8年から12年までの5年間、2回目は単身赴任でした。鹿屋は平成13年からの2年、徳之島に引き続いて単身赴任し、今は2回目の鹿屋で夫婦だけの生活を楽しんでおります。 見て見ぬふり 長男は私が2度目の徳之島に転勤となった時に不登校となりました。 徳之島からは月に一度戻る程度で、中学校から戻ってきた長男が玄関で動けない状態にあるのを、クラブ活動で疲れているのだろうと勘違いし、早くご飯を食べて風呂に入って寝るように言うような始末で、全く息子や妻の状況が見えていない、本当は見ないようにしていた状態でした。本当は学校でいろいろなことがあり、精神的にも肉体的にも疲れ切って帰ってきていたのでしょうが。 徳之島の5年間は妻に任せっきり、息子が荒れる、妻を責める、そういう状態を見て見ぬふり、背を向ける状態で、当然の結果として家に帰っても私の居場所がないし、妻にも心を閉ざし、夫婦間はギクシャク。子どもたちとも向き合おうともしないし、挙げ句の果てには自分自身も見失い、酒におぼれる生活を送り、毎月10万円ぐらいは飲み歩いていました。その頃は長女も不登校となっておりました。 徳之島の5年間では数回親の会に参加したことがありましたが、確か初めて参加した時だったと思います。内沢さんからの質問に、「私はよくNHKラジオで子ども相談の番組を聴いていたので、不登校のことは理解している」と話した覚えがあります。今思えば、あんなことをよく言えたものだと恥ずかしくなりますが。息子が通信制高校をやめた時にも、学歴は必要だ、社会は甘くないと説教したり。 親の会では子どもを変えるのではなく、親自身が変わることを目指しますが、当時の私は「自分が変わらないといけないのは嫌だ」と妻に言い、妻を苦しめていました。そのころは私の中では離婚も選択肢としてありました。 そのような状態で、鹿屋に単身赴任で転勤になるわけですが、妻からは「後はお願いね。今度は任せたからね」と言われるし(妻は今度は一緒に向き合ってねと言いたかった)。 毎週金曜日の夜に指宿に戻り、月曜日の朝早くに鹿屋に行く生活で、息子が荒れて、妻を責める、それも私に聞こえるように責める。もう見て見ぬふりはできず、関わらざるを得ない訳ですが、本当にどうしていいか判らない。 親の会には、@言いなりにならない、A腫れ物扱いしない、B異常視しないの三原則がありますが、三原則の反対のことをし続けていました。 仕事をしている最中も、また何か起こっているのではないかと、ありもしないことを想像し不安を募らせていく、そんな毎日でした。眠れなくなるし、落ち込むはで、睡眠導入剤(ハルシオン)と精神安定剤を服用する状態で、ハルシオンを百粒以上貯めて、何かあれば何時でも自殺できるようにとしていたり、車で走りながらこのまま海に突っ込めば楽だろうなと考えたり。そういう状態でしたので、金曜日の夜は内沢さんのお宅に伺い、話をして元気をもらいながら、指宿に戻る生活を続けました。 長男は今までは妻だけを責めていたのが、段々と私にも言うようになり、俺をこんなにしたのは親のせいだと責められる。落ち込み、おどおどする私。どうしていいか判らない、何か答えないといけないと緊張し、挙げ句の果てに自分は駄目だと自己否定しはじめる始末でした。 家族と一緒に住もう 私は決心して、鹿屋は2年で転勤希望を出しました。 職種が変わることで給料がダウンすることも承知の上でした。 私の職種は通常5年サイクルの異動で、毎週末に自宅に戻る生活が、一緒に住む生活より逃げ道があって楽なので良いのですが、仕事を変えてでも家族と一緒に住む生活を選択しました。 何故なのかと以前聞かれたことがあります。 最初の徳之島は長男が1歳になる前に妻と三人で転勤しました。 長女が生まれて4人で生活。職場の隣に家があったので、夕方はいつも近くの小学校に長男と長女を連れて遊びに行きました。長男は三輪車の後ろにおもちゃのダンプカーをひもで引っ張って、私は娘の手を引いてその三輪車を引っ張る、ウサギに餌をやったり、滑り台で遊んだり、息子はいつも砂場の砂をダンプカーに乗せて、家に持って帰る。妻と四人で近くの海岸でバーベキューをしたり・・・。そういう一日一日の楽しい生活の思い出が私の家族の原風景としてDNAにインプットされていて、家族と住む生活を選択させた、家族が私を救ってくれたのです。 このようなことで、自宅から通勤できる生活をし始めましたが、慣れない仕事で通勤も車で片道一時間はかかる。朝早く出て、夜も遅く帰る生活。息子は不安をいろいろ形を変えて訴えてくるし、妻から相談を受けても都合が悪くなると、二階へ逃げる。妻の後ろに隠れ、妻や息子の顔色をうかがっている。でんと構えておれない。当然ですが、なかなか思い通りにはいかない。息子が不安を訴えるとそれを解消するために、常に小手先の改善策に先走っていました。息子は不安がなくならない限り、いろいろな形で不安を表してくるのが当たり前なのに、それがなかなか判りませんでした。 一緒に住むようになると、私に対しても不安を現してくるのが増えました。今になって思うと、お父さんはまだまだおどおどしているけれど、少しは大丈夫になったかなと思ったのかも知れませんが、そういうことに対しても自分の不安が強く、どうすればいいか判らない連続でありました。息子の顔を常に見て(気を遣っている)、相変わらず腫れ物扱いしていました。同じ不登校している娘にはほとんど気を遣っていないのに・・・(不安を現していないから)。 内沢さんからは夫婦の生活を大事にして、映画を観に行ったり、旅行をしたりしなさいと言われるのですが、それがなかなかできない。映画を観に行っても、何かあるのではないか、携帯に電話がかかってくるのではないかと、どきどきしながら観ている。気持ちは子ども達に向いているわけですから、半分うわの空で内容はあまり覚えていない状態です。内沢さんが子どもを信頼して家を空けることが大事。親の不安が消えた時、子どもは楽になる。そう言われることがなかなか理解できませんでした。 少しずつ気持ちが楽に でも親の会に通い続けることで少しは変わってきたのか、少しずつ気持ちが楽になってきたのも事実です。 徳之島から鹿屋に転勤した平成13年8月に東京で親の会の全国合宿があり、私は藁をもつかむ思いで内沢さん、木藤さんと参加しました。その時に不登校の子ども達の元気な姿を見て感動しました。 子ども達はおかしくないのだと強く感じ、その後の私が、子ども達と向き合う(半分後ろ向きになりながらではあったが)源になったように感じています。 その後も平成14年に鹿児島であった登校拒否を考える全国合宿のリレートークで長男のことを話しました。しかし、「許可なしに勝手に僕のことを話すな」と責められ動揺する、そういう自分がいやで自己否定する。面と向かって初めて言ってくれたのでうれしかったのですが、子どもの不安に振り回されている、そのことすら気づかない状態でした。 15周年記念誌の原稿のことでは、妻が書いた原稿のことで妻と息子が言い合いになっているのを見て、自分も原稿を書いていながら、息子とトラブルにならないように息子のことに触れないようにして書き直したり。このことでは妻も私にものすごく不満を感じたようでしたし、大波・小波にもまれる連続でした。 今回、会報を読んでみると、息子が妻に「お父さんは僕のことを悩んで元気をなくすのではなくて、もっと自信をもってほしい。僕が安心してぶつかっていけるように」と話しているんですね。 親の会で妻がそのことを話しているはずなんですが、隣に座っていながら全然覚えていない。その当時はほとんど会報を読んでいない状態でしたので、読んでいれば少しでも早く自分が変われたのかな、家族に負担をかけずにすんだのにな、と反省して、会報を読むことの大切さを知らされました。 その後も親の会には通い続けました。楽になりつつはあるが、行きつ戻りつの繰り返しでした。新しく親の会にこられた方々がどんどん変わって行かれるのも見て、どうして我が家だけは長引くのだろうと考えておりました。当然、あせりも・・・。 当時の親の会で「妻の後ろに隠れるのではなく、せめて妻の隣にいたい、妻の港になりたい」と話したことがあるのですが、港になるどころか、横にもいない状態でした。その頃、妻の父親の具合が悪くなったりして、妻も不安が大きくなっていきました。妻が不安になると当然私も不安になり、港どころではありません。親の会に来ておきながら、この部屋に入れなくて引き返したこともありました。 そういう時に、内沢さんから「なぜ森田さんが長引くのか。子どもが自己否定する不安に親も不安を重ね、不安・元気の繰り返し。何故なのか。親が腹をくくれていない。会報をくりかえし読み込みなさい。“人の話は我が話、我が話はみんなの話”です。人の話の中からたくさんの力を得られる」とお叱りを受けました。 正直言ってもう見捨てられたかなとの思いもよぎりましたが、そういう不安を妻が世話人の渡辺さんに話した時に、渡辺さんが「いつでもそばにいるよ」と言って下さった(後で妻に聞いた)。 世話人の方々は決して私たちを見捨てるのではなく、支えて見守ってくれるのだと判り、その後も親の会につながって行くことができました。感謝する次第です。 その時から数ヶ月間の会報では多くのページ数が私たち夫婦のために割いてあり、今が腹のくくり所と伝えてくれておりました。 夫婦ふたりの「今」を大切に 私は子どもを信頼しないで心配していたんですね。 山口さんからは、息子を信頼しなさいよ、との助言もいただきました。 そんなことを経ながら段々と私たちも落ち着き出し、ふたりで霧島に泊まりで山登りに行くなど、夫婦で楽しい時間を過ごせるようになりました。 親の会で話すこともいつのまにか子ども達のことではなく、自分達のことを話すように変わってきていて、すると、いつの間にか長男が動き出していました。 親には黙って車の免許を取りに行ったり、ハローワークで仕事を見つけて働き出しました。達さんが言われる「しないとするようになる」のとおりでした。 息子は今でも不登校していた自分を認め切れてはいませんが、子どもの人生は子どものものです。親が子どもの人生を生きられるわけではないので、それでいいと思っています。娘も自宅におりますので、自分がぶれないようにこれからも親の会に通い続けようと思っています。家族4人で暮らせることがとても幸せです。 夫婦の間には私の姉妹のことなどで波風が立つことがありますが、二人で仲良くこれからも生きていきたい。このゴールデンウイークも内沢ご夫妻のようには遠くの山とはいきませんが、手近な近くの山に登ったり、日課になっている夕方の散歩ではわらびやタケノコを採ってきたりと、夫婦の時間を大切に少しずつワクワクを楽しんでおります。以前は朝早くから夜遅くまで仕事、仕事でしたので夢のようです。 内沢さんが親の会で「人の話は我が話」と言われます。世話人の皆さんは苦労して例会のテープ起こしをされて、会報を発行されます。会報を読み込んで自分の血肉にする。その大切さを今回の体験発表のお話をいただいた中で思い知らされました。今後も親の会には通い続けます。世話人の皆様の後ろには多くの親がおります。今後ともどうかお元気で、私たちを見守ってください。 これで私の体験発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。 |
最終更新: 2011.7.24
Copyright (C) 2002-2011 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)