登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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10周年記念誌より(体験談)


登校拒否とは、何だろう。
それが何かを見つけようとするとき、専門家ではなく、同じ当事者の意見ほど、重要なものは、ありません。


 ここでは、私たちの会の10周年記念誌より、二家族の登校拒否etc..を通しての体験談をご紹介します。



1.今の命を大切にして親の会とともに10年

 
親の会を最初に呼びかけた長谷川さんの体験談です。


2.
親の会は明るくパワーいっぱい

 
親の会の世話人であっても最初は悪戦苦闘しました。世話人の木藤さんの体験談です。


3.
登校拒否は明るい時代の前ぶれ
 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)10周年記念誌


 親の会10周年記念誌の紹介をしています。




今の命を大切にして親の会とともに10年

長谷川登紀子さん


 当時小3の息子が不登校になったころ、私は子どもの人権を守る県連絡会の内沢さんに「どうしたら、学校に行くのかな」と相談に行きました。皆さんも最初はそういう気持ちでいると思います。



 ところが、内沢さんに「学校を休ませなさい」とおもいもよらないことを言われて、
「えっ、何?」と思い、なかなか休ませることに、踏み切れませんでした。



 ところが息子は、お腹が痛いと言いはじめ、しまいには夜泣きをしたり、一人でお風呂に入れなくなったり、誰かが来たら隠れるようになってしまいました。
私はすごく息子を追い詰めていったのです。



 私が「学校に行かなくていい」と腹をくくったのは、ある朝、息子に「学校に行こう」と言ったとき、
息子の表情が青白い能面のようになり、表情がなくなった時です。



 このとき、「あー、学校に行かせるということは、こういうことなんだ」と、内沢さんが言われたことが初めて分かったのです。



 またこのことが、私が「息子を学校に行かせない」という原点になってきました。
これは決して忘れてはいけないし、私の苦い体験として毎回皆さんにお話しています。



 子どもが学校に行かなくなって、私も同じように学校をやめました。
数々のPTAの役員をやってきましたが、全部やめました。



 子どもが学校に行っていないのに、どうして親が役員をやらないといけないのかと思いましたから。
このことはとても良かったと思っていることの一つです。


 子どもが不登校になって1年たち、自分の周りを見たら、不登校の親子が見えず、私は一人ぼっちになった感覚に襲われました。



 子どもの人権を守る県連絡会と弁護士で作る青年法律家協会共催の「子どもの人権ってなあに」という集会の会場で、「親の会を作りましょう」と呼びかけ、発足したのが10年前のことです。
3家族で出発し、毎月悩みを語りあってきました。



 鹿児島は保守県です。
子どもが行かないことに、親はすごい非難や圧力を受けてきました。



でも子どもの命がかかっていましたから、私はそういうことは何でもなくなりました。
そういうところにも、きちんと話をしながら学校を休ませてきました。



 そういう私を支えてくれたのが、月1回の親の会でした。
自分の子どもの現状を出し合いながら、輪がだんだん大きくなっていきました。



 最初は、親の会で元気になって帰っても、すぐ周りの圧力でしょぼんとなりました。
親の会に参加して勉強して、勇気と元気をもらって、ということの繰り返しでした。



 学校に行かないと将来がたいへんと親が思っていると、子どもに伝わります。
一番大切なことは、親の自分の中にある登校拒否に対する偏見や差別をなくすことです。
私は親の会に参加する中で、私自身のそういう差別や偏見がなくなっていきました。



 そして、一歩離れたところから、学校でのいろんな問題を見聞きするたびに、今度は「あー、学校へ行かないで良かった」という喜びに変わっていきました。
そうやって、ずっと今までやってこれました。



 それと私は、担任が家庭を訪問するときは、「先生という肩書を脱いで、一人の大人として来てください。
 学校を背負って来ないでください」とお願いしていました。
先生には、こちら側の気持ちをきちんと伝えて、登校拒否の6年間を過ごしました。



 最初のころは、息子は新学期が始まったりすると、そわそわしました。
そんなとき親の私が落ち着いていると、2、3日でそわそわしなくなりました。



 また遠足などのときは、「学校が遠足だから、僕にもおやつを買って」と言ったこともありました。
それも最初だけで、その後は全くそういうこともなくなり、テレビを見たり、ファミコンに没頭しました。



 2年くらいが経つと、子どもが落ち着き、私は仕事に出ました。
私が仕事をするようになると、黙っていても家事を手伝ってくれるようになり、ずいぶん助けてくれました。



 中学校になると、学校からは全く何も言ってこなくなり、年度がわりに、「進級しますか?」と言われたときに「はい」と言うだけでした。それが一番楽でした。



 卒業すると、息子は通信制高校に自分から希望して行きました。
小学校から友達というのは、ないに等しい状態でしたが、高校時代はたくさんの友達ができ、その子どもたちが我が家に来て、遊び、語りました。
 息子に「どうして、そんなにお友達ができたの?」と聞いたら、「ふっきれたのよ」と言いました。



 また夫が作った借金がひどく、私はすごく怒って、もう離婚しようと思った時代もありました。
そのとき、私の気持ちを止めてくれたのも、息子でした。



 「この子の登校拒否を通して今まで勉強してきたのは、何のためだったのか?
 子どものあるがままを受け入れなさいと勉強して、じゃ大人はどうなのか?」と考えました。
そのとき私は、夫を許す気持ちが出てきたのです。そして現在に至っています。



 今、息子は自由に生きています。
先月は名古屋に3週間遊びに行きました。
ちょうど台風にあたり、飛行機が欠航したのですが、知り合いのつてを頼って泊まり、次の日に帰ってきました。



 「お母さん、バスにも乗れなかった僕が、飛行機に乗って、名古屋、大阪と行ってきたんだよ」。私は「そうだよね、あなたは高校に入るまでは、バスにも何にも乗れなかったものね」と話しました。



 バイト先の店長も快く3週間の休みに応じてくれ、「帰っておいで。あちらに住むんじゃないよ」と言ってくれ、餞別まで下さいました。
「僕は皆に支えられているんだよね」と息子は嬉しそうでした。楽しい旅行ができました。


 私は、本当に学校を休ませることの大事さが分かりました。
子どもが暇を持て余してどんなにのたうちまわっても、いろいろ悩みにぶつかったときも、
子ども自身が葛藤しながらも、自分自身で何かを探していくのだと思います。



 当時高校生だった長男が、弟に「お前は1日中、何もしないで暮らしている」と言ったとき、
「何もしないでいるんじゃない。僕は考えているんだ」と答えたことがありました。



 苦しんでいるというか、本当に考えているんだと思います。
 息子は、6年間溜めたエネルギーがあって、社会にでたときに、初めてぱあーっと蝶の卵がさなぎになって羽化するように、活動できたんだと思います。



 卵をつついて、「出なさい、出なさい」というのではなく、幼虫からさなぎになって蝶になる。
それは自分の力でやることで、私は小学校、中学校と蝶になっていく息子の傍で、ただ黙っていて、どんな蝶になるかだけを楽しみにしていました。
それが今の息子の成長であるのです。



 先ほど、なぜ夫のことを話したかと言うと、あのときは非常に私が苦しい、辛いときでした。
私が家を飛び出そうとしたとき、息子が私を身動きできないようにしっかりつかまえて、守ってくれたのです。



 「あー、私はこの子に助けられている」と実感しました。
息子が傍にいて私を支えてくれていたのです。
小、中学校のときは、私が息子の楯になり支えてきましたが、今はしっかりした大人になって、私を逆に支えてくれたのです。



 ですから、皆さんもバタバタしないで、じっくりわが子を見て、まわりから子どもを見守ってやってください。
将来のことだけを心配するのではなく、今の幸せがないと、次の幸せはありません。



今の命を大事にして、毎日を幸せに過ごしてください。
私も息子を通して、息子のお陰で今幸せです。今は、息子の成長に心から安心しています。



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親の会は明るくパワーいっぱい!!

木藤厚子 (登校拒否を考える親・市民の会世話人)


 長男は10月で19歳になりました。
今私の目の前にいる息子の姿は、少し自信をつけて、すっと前を向いて立っている姿です。



 息子が学校に行かなくなったのは5年前、中学2年生の時です。
その頃の息子の様子を振り返り思い出してみると、膝を抱えて体を丸め、心を閉ざしていた姿が浮かんできます。



 不登校になった理由は何かと聞かれても、息子自身はっきりとしたものは答えられないと思います。



 ただ小学校の頃からの学校生活の疲れが積み重なって、限界に達したんだと思います。
 息子は小学校3年生の時、持久走大会が終わってから1ヶ月間不登校になりました。



 その時の担任は、忘れ物をしたら漢字2千字という罰や、テストで間違えた数だけたたくという体罰もしていました。
 持久走大会に向けては、クラス全員でグランドを何周も走らせました。
朝ご飯を食べてすぐのことだったので、息子はお腹が痛くなることをいつも気にしていました。



 持久走大会が終わってからすぐに、息子はランドセルをしょって玄関に立ったまま、足を踏み出すことができなくなってしまったのです。



 以前から私は担任や校長に抗議して、子どもを守っているつもりでしたが、このまま学校に行かなくなったらどうしよう、将来はどうなるんだろうという不安がありましたから、1ヶ月休んで登校した時はほっとしました。



 しかしその後の学校生活も、新しくもらったばかりの教科書の表紙を半分に折られたり、プロレスごっこでいつも下敷きにされたりなど息子にとっては嫌なことが重なっていきました。



 中学校に入学した当時は、男子の髪型は校則で丸刈りを強制されていました。
息子は丸刈りには絶対にしたくないと、ひとり長髪のまま中学校に入学しました。



 入学した当初は、「かっこいい」と言って上級生が教室まで見に来たり、「君のおかげで長髪になる。ありがとう」と感謝され握手を求められたりということもありましたが、校庭の掃除をしていると2階の窓から「長髪野郎!」と罵声を浴びせられたりもしました。



 先生が長髪のことで直接息子を注意したことは一度もありませんが、全校生徒の集まりでは「髪の長い者は切りなさい」と言うわけですから、間接的な圧力がかかります。



 周りの生徒の中には、息子にいつ髪を切るのかしつこく聞いたり、掃除の時息子が拭いている床に水をわざとまいたり、ボールをぶつけてきたりなどあったことが後になってわかりました。



 小学校より中学校のほうが楽しいと言っていた息子でしたが、だんだん疲れがたまり、学校でお腹が痛くなることが多くなりました。



 学校を時々休むようになっていた息子が、ある朝、「もう学校に行きたくないんだ」と言って、涙を流して泣きました。



 13歳の男の子が涙を流して泣いた姿に、どれだけ精一杯頑張っていたのかがわかり、その時私は何も言えませんでした。



 私は以前、息子が不登校になった時、親の会に参加していろいろな体験談を聞いていましたし、頭の中では「学校は行かなくていい」ということもわかっていたつもりでした。



 でも実際、我が子の不登校に向かい合うと、学校に行きなさいとは言わないのですが、「行かなくていいよ」とはなかなか言えません。
私の気持ちはどうなのか、親の会に参加しながら1から勉強のしなおしでした。



 毎月の親の会はとても勉強になり、いろいろな情報を得ることができました。
皆さんの話を聞きながら、自分に置き換えて考えました。



 不安な気持ちも親の会に参加すると元気になって、息子の気持ちを一番に考えよう、今の息子を受け入れようと、「そのままでいい、そのままでいい」と自分に言い聞かせながら、だんだん息子を認めていきました。



 でも親の会で、元気にいろんなことに挑戦している子どもさんの話を聞いたり見たりすると、家に帰って、貝のようになっている息子を見ると、私はこんなに受け入れているのに、なぜもっと元気になってくれないのとイライラしてしまうこともありました。



 息子は学校に行かないことに引け目を感じ、時々ため息をつき自分はだめな人間だと言いました。部屋に閉じこもり、食事を摂らなかったり、お風呂に入らなかったりしたこともありました。



 マジックで机に自分が死んだ絵を書いて、自分をさげすむ言葉をいっぱい書いたこともありました。息子のそうした行動は、親の気持ちを感じての行動だったのですね。



 そんなことを繰り返して一年経った頃、息子はパソコンをはじめました。
もともと機械や電気に興味を持っていた息子はパソコンに夢中になり、昼夜逆転の生活となりました。
 テキストを何度も何度も繰り返し、分かるまで取り組んでいました。



 テレビ番組のパソコンの情報はすべてビデオに録画し、夜中、誰からも邪魔されない時間にゆっくりと見て、自分の好きなように過ごしていたようです。



 中学校を卒業してからも、息子はそのまま家で過ごしました。
 友達は一人もいませんでした。



 外出は小学校の頃から習っていたピアノとフルートのレッスンに週一回づつ休むことなく通い、その帰りにはパソコン館と本屋に立ち寄るということぐらいで、たんたんとした毎日の繰り返しでした。



 その頃、息子は親の会のニュース作りを引き受けました。
毎月毎月原稿をパソコンに打ちこみながら、自分だけが不登校をしているのではないことや、親の考え、他の子ども達の様子を知り、その繰り返しの中で、不登校している自分を受け入れていったのではないかと思います。



 2年半ニュース作りに係わり、だんだんため息をつくことが減っていきました。
その後も連絡会ニュースやいじめ自殺裁判の資料作りも引き受け、いつのまにか縁の下の力持ちの存在となり、今も会を支えてくれています。



 5年間かけて息子は学校生活の疲れを癒してきました。
親はゆっくりと待つことを教えられたと思います。
私は息子が誠実で信頼できる青年に成長したことがなにより嬉しいです。



 次男は昨年の11月、高校2年で中退しましたが、不登校の兄を見ていましたし、高校受験の頃は、不登校の友達との係わりの中でやすらいでいたので、学校を辞めるまでは悩みましたが、決めてしまえば学校に行かないことへの引け目はありませんでした。息子達は今年大検を受け、合格しました。



 私は毎年、不登校の全国夏合宿に参加していますが、いつも鹿児島の親の会は明るく、パワーがあると感じます。それは考え方、発想が一歩すすんで明解だからだと思います。



 「親が学校に行かなくていいと言っただけではだめ。もっと踏み込んで、親のほうが学校に行ってはいけないと言えるかどうか」、「親が子どもに対し、生き生きと生きてみせることが大切」と指摘されると、親の本音や生き方を問われます。



 家庭内暴力や拒食について、「子どもが暴力で辛さを現してくれている、食べないことで苦しさを訴えている、それはむしろありがたいことだ」、「閉じこもりを心配するのではなく、むしろじっくり閉じこもらせることが必要」という考え方を聞けば、なるほどと納得し、親の子どもへの対し方が自然と変わってきます。



 初めて参加し涙を流していた方も、先輩の話を聞くと、自分の気持ちが楽になって明るくなっていきます。



 なかなか話せない夫婦のことや家庭内の小さな出来事も、分かり合えるから正直に話ができ、お互いに影響しあっています。
 本当に親の会は、自分自身の生き方を見つめる勉強の場だと思います。


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登校拒否は明るい時代の前ぶれ

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)10周年記念誌

(おかげさまで完売しました。)

 登校拒否は、子どもたちの学校に対する「意義申し立て」です。
私たちは、子どもたちが学校を休む権利があることを訴えてきました。


 私たち親の会は、登校拒否を選択した子どもたちの生きかたを応援してきました。 親は、子どもたち一人ひとりが自分の人生の主人公として生きていくときの伴走者です。

登校拒否は明るい時代の前ぶれ 親の会10周年記念誌


 登校拒否に専門家は必要ないと思います。 しいて言うと、専門家は「子どもたち」です。こどもたちの「声」や「行動」にこそ真実があります。


 この文集を親の会のかけがえのない「財産」として発行できたことを誇りに思います。  
 この記念誌には、大人27人、子ども2人が体験を紹介してくれています。






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Last updated: 2003.11.24
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