登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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自分を一番大切に、「わがまま」が肝心!
 内沢 達絵1



 先日、大学でゼミの時間に、学生から、とてもイイ、楽しい話を聞くことができました。



 昨年夏にぼくが書いた「ことわざ・格言と登校拒否・引きこもり」について、ゼミで感想を述べあっていたのですが、「わがまま」をめぐって、意見交換が盛り上がり、楽しい話し合いになりました。


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 その一つは、ぼくが「兄弟(姉妹)を比べるとどちらかが(より)わがままじゃない?」と聞いたところ、うなずく学生がいる一方で、一人の女子学生が「うちは、お姉ちゃんも妹の私も、二人ともわがまま」と言うのです。



なるほど、相対的な比較の問題ではなく、そもそも「私たちはわがまま」なんですって(今の若者はやはりスバラシイ!)。




 もう一つは、わがままなのは子どもだけでなく、親も、いや親が一番わがままという話です。
 別の女子学生の一人は、「うちでは、お母さんが一番」というのです。



 たとえば、美味しそうなショートケーキが何種類かあるとき、親子みんなでじゃんけんをして勝った人から好きなのを選んで食べられる、そういうルールでやっても、お母さんはじゃんけんに負けると、「わたしは、どうしてもコレ食べたいのー」などと頑張るんだそうです。
相当わがままなお母さんですね(このお母さんもスバラシイ!)。みんなで大笑いしました。



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 ところで、ぼくは、この二つの話はとてもよい話だと思います。
わずか参加学生4人のゼミでのことで、偶然的なことかもしれませんが、いやそうではない、子ども達の、若者の、そして家族のありようの良い変化が時代とともに確実に進んでいる、その表れに違いないと思っています。




 昔はだいたいどこの家も貧しく、物もなかったので「わがまま」はかないませんでした。
そんなときに家族みんなが「幸せ」に暮らすためには譲り合いが不可欠で「わがまま」はいわば敵でした(戦争中は「欲しがりません。勝つまでは」とまで言われました)。



 昔は自分の本当の気持ちを第一に考えてはいけなかったのです。
自分の気持ちはできるだけ抑えて、我慢すること、我慢できることがとても大事なことと思われていたのです。



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 それが豊かな時代になって我慢しなくていいようになってきたことは、間違いなく喜ばしいことではないでしょうか。




 豊かなことはいいけど、でも、「わがまま」はやはりいけない?!




 みなさんはどう思われますか?




「わがまま」って、いけないことですか?




 「わがまま」は、たしかに「自分勝手」ですし、その言葉の響きは普通よいものではありません。
最近では「ジコチュ−」という言葉も連想させます。



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 でも、「わがまま」は、「われ(我)あるがまま」という自然な状態のひとつですし、自分の気持ちに素直な、自分を一番大事に考えてのことですから、もともと悪いことではありません。




 たしかに、「わがまま」でないこと、つまり自分勝手ではなく、他人のこともちゃんと考えられることは素晴らしくよいことです。


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でも、わがままでなかったら、本当に他人のことを考え、尊重できるのでしょうか。




 わがままでない人は、とかく自分を抑えがち、さらには自分を押し殺しがちです。



その状態が続くと「こんなに自分は我慢しているのに、あの人は・・・」という気持ちになってしまい、本当のところ、他人を尊重できなくなってしまうことが少なくないように思います。
その状態は、自分だけでなく、他人も尊重していないわけです。



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 もちろん「わがまま」であるだけでは、人間関係はうまくはいきません。




 他人への思いやりも大切でしょう。




 その思いやりの気持ちは、どこから生まれてくるのでしょうか。




 自分の「わがまま」を抑えていたのでは、思いやりの気持ちも自然なものとしては生まれてこないように思います。



 むしろ反対に、自分が「わがまま」に徹してみると相手にも「わがまま」があることがわかって、相手を尊重しなければいけないことを本当に理解できるようになると思うのですが、どうでしょう。



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 そこで、ぼくのモットーは、自分のためだけではなく、他人のためにも「わがままに生きる! わがままが肝心!」ということになってきます。




 先の二つの微笑ましい話は、そうしたことを理屈っぽくなく、自然に紹介してくれているので、とてもイイ話だと思います。
お姉ちゃんだから、妹だから、お母さんだから、といったことはそこにはありません。



 みんな自分を大切にしているし、それでいて、姉妹ですし、親子、そして家族です。
兄弟、姉妹、親子、家族だから、いっそう率直でよいわけですし、遠慮なんていらないですよね。



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 さて、鹿児島の親の会ではこれまで、いっしょに暮らしている家族のことを越えて、遠くのおじいちゃんやおばあちゃん(近くにおられる場合もあるでしょう)、そして親戚のおじさん、おばさんとのことなどが度々話題にのぼってきました。
 先月、5月の例会でも話題になりました。





 おじいちゃんやおばあちゃん、あるいは親戚との関係で、ちょっと困ったことになりそうだ、そういう時はどのように考えたらよいのでしょうか。



具体的なケースについては、例会でのべましたので、ここではおじいちゃん、おばあちゃんとのことについて、一般的に、しかも結論的なことだけ記します。



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 僕たちは、こうした時、わが子にとってどうかとか、はたまた、おじいちゃん、おばあちゃんの気持ちは?などと考えがちですが、そのようには考えないほうがいいと思います。



 わが子にとって、またおじいちゃんやおばあちゃんにとって何が一番良いかではなく、こうした時も、自分を一番大切に、自分にとっては何が良いかを最優先させて、つまりは「わがまま」に考えたらよいのだと思います。





 その場合の自分とは、まず「長男」(「長女」や「次男」「次女」でも同じこと)やあるいは「嫁」としての、自分ではありません。
「長男」や「嫁」の立場から考えるようでは、どだい「わがまま」ではありません。



 そのような立場から考えてしまうと、たいがいわが子のほうにしわ寄せが行ってしまいます。
わが子が辛い思いをするようでは、ぼくらはもちろんうれしくありません。



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 では、ぼくらはわが子との関係では親ですので、「親」の立場から考えたらよいのでしょうか。
これは、「長男」や「嫁」の立場よりはイイのですが、これもじつはオススメできないことです。



 おじいちゃんやおばあちゃんとの関係では、ぼくらは「息子」や「娘」でもありますので、そうした点もまったく考慮しないわけにはいかないのです。
おじいちゃん、おばあちゃんにも、いい気持ちになってほしいと思うことはこれまた自然です。





 そこで、やはり、ぼくらは自分中心に「わがまま」に考えることが一番なのです(これが良い意味での「ジコチュー」です)。



 いろいろと予想をたてながら、なにが一番自分にとってよいのかを考え、判断しておこなったらよいのだと思います。



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 その場合、それは自分の判断でおこなったことですから、結果については他の人のせいにはできません。



 なにが起こっても、おじいちゃんやおばあちゃん、ましてやわが子のせいではありません。自分のせいです。





 でも、そうした立場がはっきりしていれば、それがおじいちゃんやおばあちゃん、そしてわが子にも伝わり、みんな気兼ねなしに、ひと時を楽しく過ごせることは間違いありません。



 だって、今は、遠く離れて暮らしていても、おじいちゃん、おばあちゃんとは、もとはやはり同じ家族だったわけですから。



                    絵くまさん 


以上、たっちゃんの「わがまま」な小話でした。



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Last updated: 2003.8.24
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