TOPページ→ その他 → 家の真ん中に「15周年記念誌」を置こう!─ 親自身の課題への取り組み ─
家の真ん中に「15周年記念誌」を置こう! ─ 親自身の課題への取り組み ─ 2005年6月 内沢 達 私たちの会の登校拒否やひきこもりについての考え方は、ものすごく革新的で根本的です。 なにしろこれらを明るい事柄と考えているのですから、世間一般の考え方と違うだけでなく、こうしたことを子どもや若者の困った問題としかみなさない相談機関や「専門家」と呼ばれる人たちの考え方とは180度異なっています。 インターネットなどで「鹿児島の親・市民の会」の考え方を知ったり、例会に参加したりして、私たちの考え方に励まされる方々が少なくありません。 それまで、「親が悪い」「子どもがダメだ」といったことを散々言われてきたところに、「それは全然ちがいます」「子どもさんはどこもおかしくないどころか、スバラシイです」「親御さんも自分を責める必要はありません」といった新しい見方に接して、今までとはまったく違う明るい展望が開けてくるようにも思われていることでしょう。 実際、例会に参加し続けて他の方の経験からも学んで、わが子のいま現在の「あるがまま」を認め、親が子どものことではなく、自身のありようを第一に考えられるようになると、以前とはハッキリ違ってきます。 結果として、子どもにもよい影響が出てきます。 ところが、「そうなればいいな〜」という願望があるだけで、親自身の課題を受けとめられないと、事態は好転していきません。 不登校それ自体にはなんの問題もありません。ひきこもりだってそうです。 問題があるのは、それ自体にではなく、そうしている「自分はダメな人間なのだ」という子どもの自己否定やわが子の状態を否定的に見る親の姿勢や考え方にあります。 子どもは、いまの自分を肯定できない辛さをいろいろな形であらわします。 そうしたときこそ、親が本当にわが子を認めているかどうかが問われる場面です。 子どもが落ちついた状態にあるときには、わが子を認めることは比較的容易です。 そうではなくて、暴れたり、親に無理難題を突きつけたり、自傷行為や非行などに走ったりしているときです。 ホームページの掲示板に、また親の会にメールで、毎日のようにと言うのは少しオーバーだとしても、子どもがそのような状態のとき「どうしたらいいのでしょうか?」といった相談のない週はないと言ってもいいくらいです。 例会でも毎月話題になります。そうしたとき、「子どもにどう言ったらよいのか」「子どもにどう接したらよいのか」というように、「子どもに」というところに焦点を当てて考えることは、「子どものいま現在を認めている」ことにはなっていません。なんとおっしゃろうとも、そのときの意識は「困った子だ」とわが子を否定しています。 「家庭内暴力にどう対処したらよいのか」ということでまとめられてきた 鹿児島の親の会の「3原則」 1 子どもを異常視しない、 2 子どもの言いなりにならない、 3 腫れ物にふれるような、ガラス細工を扱うような接し方をしない は、家庭内暴力に限らず、世間の見方では「子どもがちょっと(かなり)おかしい」と思われるときの親のありようを示したものです。 1 子どもが暴れたりするのは、いま現在がとても辛いのです。 辛く大変なとき、ちょっと「普通」じゃなくなる、異常な状態になるというのは、じつは反対に正常であることの証明です。 2 親に突きつける無理難題は、本当のところ子どもが求め欲していることではありません。 子どもは無意識のうちに親を試しているだけです。なのに、言いなりになって「親が犠牲になってでも、相当に無理をしてでも」何かしてあげるというのは、子どもの奴隷になることで、やってはいけないことです。 3 子どもが暴れ、なにかしでかすかのではないかという恐れから、「暴れないように、なにもしでかさないように」と親がオロオロして絶えず子どもの顔色をうかがうようでは、「あなたのことを信用していないよ」と日々言っているようなものです。 それにしても、「ウチの子の状態はひどい」とおっしゃる方がおられるかもしれません。 「2度や3度ではない。もう何ヶ月も何年も続いている・・」などと。 それは、「3原則」に則って対処していないからです。 子どもは無意識のうちに「こんなにひどい俺(私)でも認めてくれているのか」と続けているのですから、今までのやり方を根本から改めなくてはなりません。 鹿児島の親の会は、名前の通り親のためにある会で、子どもをどうにかしようとする会では絶対にありません。 「3原則」にしても、親が、「子どもに」ではなく、「親自身に」課してほしいと、会の長年の経験からまとめられてきたものです。 ところが、初めての方のなかには「子どもをどうにかしよう」「どうにかすることができるのではないか」と思っている方が結構いらっしゃいます。親であれ、誰であれ、子どもを変えることなど、できることなのでしょうか。 また、してよいことなのでしょうか。 「人間が人間を変える」なんて、いわば「洗脳」です。 恐ろしいことです。そうしたことは、オウム真理教や統一教会、金正日あたりだけにとどまっていてほしいことです。 人間は自ら変わることができるが、他人によって変えられてはいけないと思います。 では、自己否定が強く、よく暴れたりしている子どもが、変えられるのではなく、自らの意思でどのように変わっていくのでしょうか。 私たちの会には、最近、10代後半の子どもや20代の若者の参加も目立つようになってきました。 なかには、親御さんに理解がまったくない人もいます。 インターネット社会ですので、子ども自身が親を通さないで、私たちの会と出会うことも可能になっています。 子どもからのメールでの相談も増えてきています。 たとえ、親の理解がなくても、子どもだけでもやっていけなくはありません。 でも、親の理解があるのとないのとでは、やはりあったにこしたことはありません。 そこで、「親の理解」とは、いったい何なのでしょうか。 それは、悩んでいるわが子に、精一杯無理をして「あなたは大丈夫」などと言ってあげることではもちろんありません。 それは、親の本心でないことを言っても意味をなさないだけではなく、より根本的には「子ども」に焦点を当てているからダメなのです。 親が会に参加したのは、わが子が不登校やひきこもりになったからで、初め「子どもの問題」だと思われたことに無理はありません。 でも、参加していくなかで、問われているのは「子ども」ではなく、親であり、大人たちや社会一般の誤解や偏見であることに気がつかれてきたことと思います。 また、わが子の不登校やひきこもりのおかげで、親が自らの生き方を見直したほうがよいことにも気づき、あまり頑張らずにいま現在をもっともっと楽しむことの大切さも確かめあってきました。 わが子の不登校は、最初は悲しいことだったのですが、いまでは感謝の対象にもなってきています。 ならば、いっそう、課題は、「子どもに」ではなく「親自身に」向けられるべきではないでしょうか。 僕は、8年前に(1997年)、「隠さないで、親の会のニュースは堂々と!」という文章をまとめています。 いまでは、毎月発行のニュースだけでなく、とてもスバラシイ昨年発刊した「登校拒否もひきこもりも明るい話」(親・市民の会15周年記念誌)もあります。 これを是非、家の真ん中のテーブルなどに絶えず置いておいてほしいと思います。 子どもさんが落ちついた状況にあろうがなかろうが、そうしてほしい。 これは、子どもにも読んでほしいというのが主な意図ではありません。 親の会で勉強してきて、本当に自分自身のためになってきたと思われるのでしたら、是非やっていただきたい。 すでにそうされている方も多いことでしょうが、会に参加して日が浅い方は、まだの方が少なくないのではないでしょうか。また、ベテランの方でも、子どもさんがいまちょっと荒れ気味だということで控えている方はいらっしゃいませんか。 自己否定がある子どもさんの場合は、記念誌を見かけただけで、「なにが明るいんだ!」ときっとイラつくことでしょう。 破り捨てたりするかもしれません。「二度と俺(私)から見えるところに置くな!」と言うかもしれません。表紙などをめちゃくちゃに破られても、新しいものを2冊目、3冊目と置くようにしてください。 これは、間違っても子どもさんを説得することが目的ではありません。 親自身の課題に取り組んでほしいということの具体的な提案のひとつです。 わが子を信頼できず、初めのときのように「子どもの問題」と考えていては、できることではありません。 しかし、わが子を信頼できるのであれば、「なんでこんなものを俺に見せつけるんだ!」と言われても、 「違う。これはお父さん、お母さんのために置いているんだ。 お父さん(お母さん)は、お前の不登校のおかげで、お父さん自身の生き方を考えさせられた。 とても自分自身にとって大事なものだから、ここに置いているんだよ」 と答えられると思います。 子どもが「自分が親から信頼されている」ことがわかるのは、言葉でどう言われたかではありません。 親のまさに「3原則」に則った行動が、子ども自身が「自分も今のままでいいのかもしれない」と思うようになっていく、つまり自己肯定のきっかけにもなりうるのです。 不登校やひきこもりは、どうっていうことありません。ゆっくり休んで、なにも「しない」自分を認めることができるようになると、やがて「する」ようになります。自ら動き出します。 学ぶ手段に事欠かないこんにちでは、学校に行っているかいないかは問題でありません。 何歳であろうが、これから学校を活用するすべも含めて学びの方法は、じつに多様にあります。 学び以上に大切なことは、人間関係です。 親子の関係は、たしかにプライベートですが、人間関係のひとつであることは間違いありません。 親が「子ども」に対してではなく、「親自身」の課題に取り組んだとき、子どもは、他者を信頼できることを実感できます。 人間不信の塊では、この社会を楽しく生きていくことはできないでしょう。 でも、親子とはいえ、他者との関係ですから、子どもが「人間って、信頼できるし、自分も信頼されているのだ!」という気持ちを自分のものにできたとき、この先、どんなに辛いことがあっても自分で生きていくことができる大きな一歩を踏み出したことになります。 15周年記念誌はあくまでもひとつの例です。 毎月の例会の様子について、夫婦で家に帰ってからも食卓で語り合うなど、他にも具体的な課題がたくさんあります。 毎月の例会では、今後とも、そうした親自身の課題についてどのように取り組んでいるのか、経験交流をしていきたいと思っています。 |
Last updated: 2005.7.19
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