登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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 44人の体験者が語る!
登校拒否もひきこもりも明るい話
 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)15周年記念誌
2004年10月発行

南日本新聞「南風録」にて取り上げられました。記事内容はこちら→




↑表紙

↑中身
↑写真をクリックすると大きく見れます。


 
登校拒否、引きこもりは自分を大切にする生き方です。
 初めは不安だった私たち親もわが子の不登校から学んで強くなってきました。
 一人ひとりの人生に心から感動します。



1冊千円で多くの方にご購入いただき、ありがとうございました。
2010年6月22日までに完売しました。
記して感謝申し上げます。




ここでは、15周年記念誌の一部を紹介します。






閉じこもりは自分の力を蓄える大切な時期   木藤厚子(世話人)


親は何もしない、子どもの生きる力を信じて  長谷川登喜子さん


息子を抱きしめ、心から「愛しい」と   Bさん

辛い時もあったけど今は幸せ      Kさん

生きてるだけでこんなに嬉しい     Jさん


生き方、考え方を変えた 私の人生に感謝  HP管理人 (内沢玲子)



Jさんの体験談はこちらでも紹介してます。
(10月発行親の会ニュースより 高校をやめてよかった!! Jさん)→




閉じこもりは
自分の力を蓄える大切な時期


                         木藤厚子(世話人)

 私には不登校を体験した23歳と22歳の息子がいます。今は、ふたりとも県外で大学生活を送っています。
 この記念誌の原稿を書くにあたって、5年前、10周年の時に書いた原稿を読み返してみました。
 そうだった、学校に行かなくなったあの頃、長男はひざを抱え、悲しい目をして、自分はダメだとため息をついていたんだ、とその姿を思い出しました。


 長男は中2から不登校になりました。その時、私は親の会に携わっており、たくさんの不登校の経験を聞いていました。学校に行きたくないという子どもさんの気持ちがよく分かり、学校に縛られることはないと思っていました。
 けれど、我が子の不登校に直面すると、学校に行きなさいとは言わないけれど、「学校に行かなくていい」とはなかなか言うことが出来ません。このまま息子の心も体も成長が止まってしまうのではないか、これからどうなるんだろうという将来の不安に駆られてしまっていたのです。


 それからは毎月の親の会に真剣に参加しました。皆さんのお話から、子どもさんの気持ちが良くわかりました。


 それは息子も同じ気持ちなんだと、我が子に重ねながら、いつも我が子の気持ちだけを考えていようと思いました。そしてもし私がこの子と同じ立場だったらと考えると、外に出たくない、昼夜逆転するのも当たり前なことで、息子の状態を受け入れることが出来ていきました。


 また全国合宿で、「家の中で私の安心できる場所はトイレの中だけ」という子どもさんの発言を聞き、ショックでした。そんなことはしたくない、家庭を安心して生活できる居場所にしなくてはと思いました。


 初めのうちは自己否定をしていた息子ですが、パソコンに興味を持ち、昼夜逆転しながら、説明書と格闘するというような日々を送っていました。親の会や当時同時進行していた「子どもの人権を守る連絡会」のニュース作りを手伝ってくれるようになって、だんだんと自分を受け入れていったように思います。


 本屋やパソコン館に行ったり、床屋に行ったり、用事があるときは外に出て、自然に自分のことは自分でやっていました。自分のペースで生活する中で、大検を取り、20歳の時に大学受験をし合格しましたが、その時は息子に行く気持ちがなく、取りやめました。


 私はその頃から登山をはじめました。自然の素晴らしさに魅かれ、時間があれば山に出かけるようになりました。朝早く出かけ、時には泊りがけで出かけますので、その間の家のことや、家族の食事はしっかり息子に頼んでいました。
 そんなふうに、家に息子が居るのが当たり前で、またいつしか息子を頼りにする生活をしていましたので、息子が去年10月に、「センター試験を受けてみる」と突然言いだした時は、本気なの? と驚いてしまいました。


 後から話を聞くと、息子は自分で受験勉強をしていたと言うのです。今年4月、息子は希望する大学に入学しました。


 10年間、我が家でゆっくり過ごした息子は心も体も大きく成長しました。私の当初の不安は全く根拠のないもので、まさに目に見えない将来への不安に怯えていたのです。
 親の会で、「子どもは自分の中で納得ができたときに動き出す」と言われますが、本当にその通りで、息子も自分の納得で動き出しました。


 8月、夏休みになり、息子が久しぶりに帰ってきました。私は、夏休みはずーっと鹿児島で過ごすものと勝手に思い込み、楽しみにしていました。しかし息子は、2週間も居れば十分と、さっさと帰ってしまいました。


 すでに我が家は息子の居場所ではなくなっている、本当に巣立っていったんだなあと実感し、寂しくもありました。
 10周年記念誌の原稿を書いてからこれまでの5年間は、息子は自分自身を深く見つめ、力を蓄えていた、そんな気がします。そして納得するまでに、それだけの時間が必要だったんだと思います。


 次男は、高2の11月に退学しました。教師からの傷つく言葉や、人間関係でいろいろあったようです。私は長男の不登校を体験していましたし、自分の居場所のない学校には行けないだろうと思いましたので、辞めていいよと伝えました。


 息子は3ヶ月間考えて、自分で退学届けを出しました。数週間経ってから、やっぱり辞めてよかった、と言っていたのを覚えています。
 1年間は、ゲームとギターづけの生活をして、ゆっくりと自分の時間を過ごす中で、いろんなことを学んでいたと思います。その後、大検を取り、大学に進学しました。今は1年間カナダに留学しています。


 本当に子どもはやりたいと思ったら、どんどん行動していくのだなあと思います。


 息子達が学校に行きたくないという気持ちを早くに受け入れられたのは、親の会と併せて、私の体験と重ねて考えることが出来たこともあると思います。
 私は北海道で生まれ育ちました。結婚で鹿児島に来て驚いたのは、小学校から制服(標準服)を着て、頭のてっぺんからつま先まで、同じもので統一され、更には持ち物まで同じ。中学生の男子は髪型まで丸刈りと校則で決められていることなど、私の自由な学生時代とのギャップに驚き、唖然としました。私自身が学校に対して疑問を感じていました。


 また私は義父が亡くなってから、1年の3分の1くらいを義母と同居をするようになりました。息子達が2,3歳の頃からで、全ての世話を私がしてきました。
 いつも嫁として求められているような気がして、そうしなければならないし、私が頑張ればいい関係が作れる、わかってもらえると一生懸命でした。
 でもそれは自分に無理をしていたわけで、そのことにもどかしさを感じていました。


 親の会では、「自分を大切にする」とよく言われます。息子たちは自分の生き方を模索しながら、納得しながら生きてきました。
 一方、私は自分を大切にしているだろうか。そのことに気づいていったのです。そういう私の体験から息子達の体験を通して、私自身が成長していったのです。


 今、義母はヘルパーさんをお願いして、ひとりで暮らしています。義母のためにも自立した生き方をしてもらおうと、夫婦で話し合って、話をすることが出来ました。
 私が全てやっていた20年前に比べたら大きな違いです。


 親の会の世話人として15年、毎月の例会に参加し、たくさんの方と出会いました。
 初めは、不安いっぱいで涙を流していた方が、回を重ねるごとに、だんだんと明るく、力強く変わっていく姿。親子の信頼を取り戻し、子どもさんが長い時間をかけて少しずつ自分を受け入れて行く姿。その姿を目の当たりにし、たくさんの感動をいただきました。


 その感動の中で、私はやはり「自分の人生は自分が決める」、「自分の人生の主人公として生きる」ということを学んだと思います。
 たくさんの方の人生に立ち合わさせていただいていることに感謝し、私の人生観を変えてくれた親の会に感謝します。


 私は子ども達にとって、家が居場所であり、そこでゆっくりと過ごすことがどんなに大切なことかをあらためて思います。
 子どもはいつか巣立っていきます。それまで子どもと一緒に暮らせることに感謝して、楽しんで生活することが大事だと思います。
                               (世話人・鹿児島市) 




 親は何もしない、
 子どもの生きる力を信じて


                          長谷川 登喜子

 親の会。私の人生の柱になった会です。

 15年前、当時9歳(小3)の次男が学校に行き渋り、誕生日を境に行かなくなりました。学校を休んだら、将来はどうなると不安だらけで、親の私は学校に行かせることだけを考えていました。
 腹痛が止むのを待って、何時であっても学校に追いやっていました。私は学校に行かせようと必死でしたから、カバンを玄関に投げたり、ドアの外に出してカギをかけたこともありました。夫も帰宅すると、毎日「学校へ行ったか」と聞きました。当時のことを思うと今でも胸が痛みます。


 「どうしたら学校に行くかな」と内沢さんに相談しました。「学校を休ませなさい」と思いもよらないことを言われて「えっ、何?」と理解できず、行かせ続けました。
 お腹が痛いと言っていたのが、夜泣き、ひとりで風呂に入れない、人が来たら隠れるなど、たくさんの不安を出すのに時間はかかりませんでした。


 ある日「学校へ行こう」と言ったとき、息子は青白い能面のようになり、表情が全くなくなりました。
 「学校に行かせるということは、こういうことなんだ!」。内沢さんが言われたことが初めて分かりました。「学校よりも息子の命が大事」と100日かかってやっと腹をくくりました。私の苦い体験です。


 子どもが不登校になって1年経ち、自分の周りを見たら、不登校の親子が見えず、私は独りぼっちになった感覚に襲われました。
 「子どもの人権ってな〜に」という集会で、「親の会を作りましょう」と呼びかけて15年になります。


 月一回開かれる親の会は、よほど用事がない限り休みませんでした。親の会に参加して勇気と元気を貰って、自分の生き方に自信を持ちました。
 今までやっていたPTAの役員も全て辞め、私も学校との関わりを一切断ちました。
 担任にも子どもが休んでもなんの問題もないことを話すと、安心したのか何も言わなくなりました。


 私は学校の盾となって子どもを守りました。おかげで中学になった時は、クラスも担任も知らされず、それがとても楽で、幸せに生活することができました。
 親がゆっくり生活していると、だんだん子どもが楽しいことを言ってくるんです。「わー、こんなことを感じるんだ」、「こんな言葉の使い方があるんだ」と、新しい発見がたくさんありました。
 しかし、一番大切なことは、親の中にある登校拒否に対する偏見や差別をなくすことでした。


 その後、不登校の9歳の息子が時間をどう過ごしていいか分からず、畳の上をのた打ち回りました。どんなに苦しんでも、私はこれは息子が自分で決めることだと思い、「あーしたら、こーしたら」と言わないで、どんなに辛くても見守りました。


 それは、私が腹をくくらずに息子を学校にまだ行かせ続けていた時、「あーせ、こーせと言わないで!」と息子が叫んだことがありました。「ああ、私は学校と同じことをやってるんだ」と胸をつかれる思いで、どんなに苦しんでも手を貸すことはやめました。これが私の基本でした。
 子どもが不安な時は黙って手を握る、黙って抱き締める、私は息子の布団の横で一緒に寝てやりました。よけいな言葉は要りません。


 15年の親の会の歴史の中で、私は多くのことを学びましたが、一番感じていることは、「親は子どもの不安から出る言葉に振り回されない」ということです。
 一生懸命応えようとすることは、我が子をいっそう辛くさせます。どんなに泣きながら不安を訴えても、子どもの言葉で右往左往しないでほしい。親が先に答えを出してはいけない。子どもが出す答えを親はじっと待つことが大事だと思います。それが本当に我が子の生きる力になるのです。


 今、息子は24歳になりました。6年間一度も学校へ行かず、ゆっくり休み、疲れを癒していった息子が、「通信へ行く」と自ら選んだ通信制高校を4年で卒業して、今はフリーターをしています。
 仕事場に近いところに友人とアパートを借り通っていましたが、この春から長女が我が家の近くに引っ越してきたと同時に、そこへ居候をしています。家に居る時は家事を手伝っていたのに、娘のところでは、「何もしないなら追い出すよ!と言っても帰ってくる」と娘は笑って言います。姉弟の仲がいいです。


 「ロボットになりたくない」と高1で中退した長女は今29歳。結婚するまでずっとアルバイトを続けていました。私はよく頑張るな、でも自分で結論出すだろうと見ていました。娘は「お母さん、10年間私はずっと頑張っていた。結婚してやっと息抜きしているの。今はひきこもり」と言っています。
 娘は、今毎日のように家にきています。親の会の会報を読んで、「達ちゃんがお母さんのことを書いてるよ」、「親はなにもしない、本当にお母さんは何もしなかったよね」、「私達がいたからよかったんだよね」って、フフフフ、親の気持ちも知らないで・・・。


 2000年1月に私は職場のストレスと過労で倒れました。毎日、毎日看病をしてくれた娘と息子。夫は休暇をとって付き添ってくれました。
 職場はリストラで人数が減らされ、そのため仕事量は増えて追い詰められる状態でしたが、無理して行っていました。「辞めたいな」と思った時はかなり体調も悪くなっていたんです。
 それでも無理して行っているうちに、「行かねばならぬ」という思いになってしまい、朝起きれなかったり、血尿が出ても、ただ疲れているからだろうなと思うだけで、大量の痛み止めの薬を飲んで自分をだまして、とうとう職場で意識がなくなり、倒れてしまいました。


 溶血性貧血でした。自分を失っていました。学校と同じだなと思いました。「行かねばならない」と思っている時は何も見えなくなります。
 私が倒れてもう命も危ないと言われた時に、「私は登校拒否の子どもと同じことをやったなあ。これだけ分かっているつもりが、自分を追い詰めていた。親が行かせることは、大事な命にかかわることなんだ」と自分の身を持って体験しました。


 命の危険にさらされた2ヵ月半。助かってよかった。
 助からないと思いこんでいた私は、ある日病院から外を見ました。桜が公園にいっぱい咲いていました。
 生きている自分に気がつき、涙が次から次に溢れ出ました。生きてる、家族がある、友達がいる、それを励みに、入院中ずっと親の会の仲間の写真を抱いていました。


 息子の不登校から15年、私が倒れてから5年。私は身をもって「自分を大切にする」ことを学びました。命の尊さを身に沁みて感じました。子どもの命がけの叫びを親たちは受け止めて欲しいと思います。


 夫は7月に胃の手術をしました。家族皆で看病しました。医者は言いました。「早く分かってよかったね。ラッキーですよ」と。
 これからも夫婦仲良く、毎日を楽しく生きていきます。
                                     (鹿児島市)




 息子を抱きしめ、心から「愛しい」と   Bさん


 今18歳になる息子が、学校に行くのを渋りだしたのは、小学6年のときからです。
「頭が痛い」、「お腹が痛い」、「熱がある」等の典型的な症状を訴えて、50日以上学校を休みました。
 この頃は、仮病でも使って学校をサボっているんじゃないかなどと安易に考え、学校との連絡などはすべて妻に任せていましたが、私立中学校に入学して5月の連休明けには、またそういう症状がでてきました。



 このときには私も、朝、自分の部屋から起きて出てこない息子を起こし、無理に着替えさせ、車で学校まで送ったりしていました。
 6月のある日、車のところまで行った息子は、車には乗らず、突然走って逃げました。
そして、私たちの方に向かって石を投げてきました。
それが息子の「学校には行きたくない」という意思表示でした。その時のことは、今でもはっきりと覚えています。
 


 その頃は「登校拒否」とか、「不登校」などという言葉は、私たちにはまったく無縁のものだと思っていましたので、本当に驚き、愕然としました。
 <まさか自分の息子が・・、何が悪かったのか・・、これからどうなるのか・・、どうしたら学校に行けるようになるんだろうか・・>。



 私たちは何とかして息子が学校に行けるようにしてあげたいと思って、いろいろな機関や施設を訪ね歩くことになりましたが、この頃はどちらかといえば私は及び腰の状態で、あまり積極的には関わっていませんでした。
 それでも夫婦でいろいろやっていた頃はまだよかったのですが、何をやってもうまく行きません。
息子が元気に学校に行けるような状況にはなかなかなりません。



 それどころか非行の芽が垣間見えたりと、状況は悪くなるばかりです。
そして、学校に行けなくなったのはお父さんのせいだと、息子は私を責めてきます。
 私はそういう状況に苛立ち、妻を責め、夫婦仲まで悪くなってしまい、ついには離婚話まで持ちあがってしまいました。
 そのときは二人でよく話し合って、ということで落ち着きましたが、このことが息子の登校拒否に二人でじっくりと取り組もうというきっかけになりました。「雨降って地固まる」です。



 息子は中学3年で、私立中から公立中へ転校しました。
当初は楽しそうにしていましたが、そのうち悪い仲間と付き合うようになり、お金を脅し取られたり、暴力を受けたりと、いろいろなことが続きました。
「学校に行かなければ悪い仲間と付き合うこともないんだ」と、6月になってようやく学校に見切りをつける決心がつきました。



 そこで息子に、「学校にはもう行かなくていいんだよ」と初めて言うことができました。
「学校信仰」を捨てるまでにずいぶんと時間がかかりました。
 私たちが親の会を訪れたのは、その年の12月の例会からです。
そして今までのことが息子をどれだけ苦しめていたのかを理解できたのは、親の会に入って数ヶ月経ってからのことでした。



 中学を卒業すると、息子は糸が切れた凧のように、まったく制止がきかなくなり、茶髪、タバコ、深夜徘徊、外泊と、非行の道を本格的に辿り始めました。
 そして家庭内暴力。2歳年上の娘は大学受験が間近でしたが、大変辛い思いをさせました。
妻が息子に突き倒されて骨折し、1ヶ月ほど入院したのもこの頃でした。
 今思い返してみますと、私はこの頃の1,2年が一番辛い時期だったような気がします。



 当時、私は鹿児島市の自宅から開聞町の職場まで車で通勤していました。
帰りには睡眠不足で居眠り運転をしそうになったり、でも、このままあのダンプと正面衝突したら楽かもねとか、このまま車ごと海に転落したらすべてが終わるだろうなとか、海岸沿いの国道を走りながら思ったりもしたものでした。
 できればこの現実から逃げ出したいという気持ちでいっぱいでした。



 中学を卒業して1年後、暴走族との関係を断つために、東京に3ヶ月ほど行っていた息子が帰ってきたとき、私たちは息子に、「学校に行かせようとして、いろいろあなたを追い詰め、苦しめた。ほんとに悪いことをしたと思っている」と今までのことを謝りました。
 その頃から息子に対し、「ゆっくりすればいいよ」とも言えるようになりました。
 その頃の息子は自己否定が強く、私に対しても時々暴力を振るっていましたが、私はまったく手を出さないようにしました。
 息子が暴力を振るうときの目は、いつも涙でいっぱいでした。



 以前、私が息子のことを理解できなかった頃は、その時、よく息子を叱りつけ、叩いたこともあったのです。
 その時の私の手の痛みは、心の痛みとなって、今も忘れることは出来ません。
4月のある日、私は暴れている息子に飛びかかり、抱きしめました。
 心から息子を愛しいと思いました。
 「お父さんは、親の会で変わったんだ!」、 「今までのお父さんではない!」と伝えることも出来ました。



 その頃には息子に頭ごなしにあれこれ言うことも少なくなり、息子も自分の思いを私に直接言えるようになってきました。
 息子も、「どうも今までの親とはちょっと違ってきたぞ」と感じはじめていたような気がします。



 しかし、それからも息子の非行は続き、私は警察に何度か息子を迎えに行きました。
ここにいたってはもう覚悟を決め、ここからは親父の出番と心に決めていました。
 警察からの呼び出しがいつあるかもわからない状況でしたので、晩酌もやめました。
心が休まるときがありませんでした。
 その年の7月に「登校拒否を考える夏の全国合宿」が霧島で開催され、その時の懇親会でのビールがおいしかったこと。



 8月から裁判所や保護司との付き合いが始まりましたが、その頃には私の気持ちも、「息子を信じよう。息子にどんなことがあっても、それをしっかりと受け止めよう」という気持ちになっていましたので、息子も落ち着いてきていましたし、自分がやったことをしっかりと受け止めようという気持ちになってきていたのだと思います。
 この年の7月からは、私が警察に出向くことはなくなりました。



 息子の登校拒否が始まって、8年目を迎えています。
 最近はだいぶ落ち着いてきましたし、笑顔で冗談も言えるようになりましたが、まだまだ自己否定や不安、焦り、甘えが強く、大検、塾、東京の学校など「願望」がいっぱいでてきて、私たちを悩ませます。



 子どもの無理に手を貸してはいけないと、繰り返し親の会で学びますが、いざ自分のこととなると、実践するのは大変むずかしいことです。私は大いに揺れてしまいます。
 親の会に参加させていただくようになってまだ4年足らずです。
これからも親の会でしっかり学ばせていただき、揺れてもいいから、「揺れがいのある親」になりたいと思っているところです。
                             (鹿児島市)

 
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閉じこもりは自分の力を蓄える大切な時期  木藤厚子(世話人)
親は何もしない、子どもの生きる力を信じて  長谷川登喜子さん
息子を抱きしめ、心から「愛しい」と Bさんへ
辛い時もあったけど今は幸せ   Kさん
生きてるだけでこんなに嬉しい  Jさん

生き方、考え方を変えた 私の人生に感謝       HP管理人(内沢玲子)
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 辛い時もあったけど今は幸せ   Kさん


 「ママのために明日から幼稚園に行く」この言葉は私にとって忘れられない言葉です。
息子は行ったり休んだりしていました。
原因があったとしても、幼い子どもが言葉に言い表すことは難しいことだったと思います。



 休むことが大切と今なら思い、そう言えるけど、当時はなかなか心からは言えませんでした。
 周りの圧力もすごかったです。電話もかかってきて、母親の育て方を責めているような言葉が多く、夫からも昼間「今日は行ったか?」と確認の電話が毎日のようにあって、夫からも責められているようで辛かったです。
電話の音でドキッとするようになるくらい追いつめられていきました。
 周りの言葉に傷つき、自分を責めて夜中にひとりで何度涙を流したかわかりません。



 そんな日々の中、小さな息子の「明日からママのために幼稚園に行く」という言葉でした。
息子は感受性豊かなやさしい子で、私が周りに色々言われ、元気がないのは自分のせいだと思ったのでしょう。
 息子が一番辛いのに、母親の私のことを心配してくれている。小さな息子を抱きしめながら二人で泣きました。この子は私が守ると思いました。



 私は奥地圭子さんや東京シューレの本を注文して読みあさりました。
当時は不登校の知り合いも誰もいなく、本を読んでいる時だけが安心できる時でした。
振り返ってみると、私ひとりで周り大多数と対決していた感じでした。



 1年生になって、熱心な担任から「1日でも休ませると不登校になってしまう、とにかく連れてきて下さい」と言われました。
息子を学校へ連れて行く日々で、親子とも疲労の極限でした。



 出口のないトンネルとは、こういうことなのかなと思いました。
しかし、ちゃんと出口はありました。
 1年生が終わる頃、鹿児島に転勤することになりました。
私は夫に「不登校という生き方があることを認めたい」と初めて言いました。
それは自分自身に言い聞かせる言葉でした。



 そして鹿児島で2年生。
はじめの少しの間、私はまだ息子と一緒に行ったり、休ませたりしていました。
知らない土地という心配もあったのは確かですが、私はまだまだ無知そのものでした。
そして約1ヶ月後、5月3日に愛犬を我が家に迎える事になりました。
名前はダス。家族が増えました。



 ダスが来て数日後、私達は担任と話をしました。
私は「全ての子どもが学校という枠にあうとは限らない。あわない子がいて当たり前。行こうとしても熱が出たり、お腹が痛くなったりするのも、甘えではなく、その子にとって自分を守るためのサインです。今まで私も悩みましたが、連れて行くことは辞めます」と話しました。



 時間がかかりましたが、自分の中ではっきり答えが出て、全面的に行かないことを受け止められたように思います。
息子にも「休んでいいよ、ママは連れて行かないから、行くか行かないかは自分で決めていいよ」と私の思いを伝えました。



 息子は次の日から行きませんでした。
今までと、今の「休んでいいよ」とでは、私の心に違いがあります。
子どもって親の心をちゃんと感じているのですね。



 そして私は、今までのことを心から息子に謝りました。
やさしい息子は許してくれました。その時の我が子の気持ちを思うと今でも心が痛みます。
そして私と息子とダスの三人の昼間の生活が始まりました。



 振り返ればいつも息子とダスがいる。
私はやっと子どもの側に寄り添って立てました。夫も何も言いませんでした。
朝、お腹が痛いとか、微熱がでることもなくなり、いつも息子の笑い声があります。
 親子ともとても楽になれましたが、時々小さな不安や疑問が出てきたりします。
その時、1冊の本の中に内沢さんの名前を見つけました。



 ドキドキしながら初めて電話をしました。
内沢さんは会ったことのない私の話を「そうね・・・辛かったね・・・」と聞いてくれました。
電話の後、熱ーいなんとも言えないポカポカした気持ちで、心が幸せでいっぱいでした。
 親の会は私にとって、とても大きな学びの場となりました。



はじめは「我が子のために」でしたが、少し経つと「自分の生き方のため」と変わってきました。
親の会では不登校の話はもちろん、夫婦の話も、家族関係の話も、何でもみんなが隠さずに堂々と話されます。
大きな家族のような感じでホッとします。
みんなの暖かさ、やさしさ、強さが伝わってきます。
時には涙して、時には笑い、時には大笑いもあったりして。



 私は親の会で、自分と重なる部分や、自分の今までの生き方を振り返ってみることもできるようになりました。
 私は子どもの頃に非行に走ったことがありました。
親の会でも、子どもがいろんな形で辛さを表してくれているという話がでてきます。
私もそうだったんだと気がついていきました。会は自分自身を見つめなおすよい機会でもあります。



 非行に走った時は、大切なものは何もない、何をしてもあまり続かないし、とりえもない自分はダメだ・・。もう、どうなってもいい、となげやりでした。
反発や非行を繰り返し、居場所を求めて転々とする自分がホントに大嫌いでした。
自己否定があるので高校時代希望していた動物の仕事も、「どうせ私にはムリやし」といった感じで、どんどん悪いほうに進むのです。悪循環です。



 そんな時期、私にとって唯一大切だったのは一緒に育った犬でした。
なかでも大型犬と私は、特別強い心の絆で結ばれていました。
無条件でそんな私を受け入れてくれたのです。
 しかし、自己否定はそう簡単に消えるものではありません。



もとの自分に戻れても、心の奥底に眠っています。何かの時にひょいっと出てくる時があります。周りからは「根性がない」とよく言われました。
ダメなことは自分がよく知っています。
そこに輪をかけて、言われるのですから、ますます自分を責めてしまいます。
 私は焦りや不安から、ますます自分を追いつめ、休むことも知らず、バイトしたり、遊んだり、ゆっくりすることなく、とにかくよく動いていました。



 ところが親の会では、例えば「不登校になりました」と言えば、「それは良かったですね」と、子どもの荒れは、「そういう形で辛さを表してくれてるのね」と子どもの側の立場なのです。
 私の時もそうでしたが、悪いことをしたという表面だけを見てしまい、心の叫びを聞いてくれませんでした。
そうなると誰も信じられなくなるし、どんどん自己否定し、非行も繰り返します。このままではいけないと思いながらも、非行や反発を繰り返しました。



 特に母親に対する反発はすごかったです。
心では母に悪いなあ、母がかわいそう、これも全て自分のせいだと思うのですが、素直に母に「ごめんね」と言うこともできませんでした。
悪いことをしながら、どこかで母を試していたんですね。



 きっと無意識のうちに、誰かに辛さをわかってもらいたいというのがあるのだと思います。
ただ一人でいいからわかってくれる大人がいたなら、大丈夫です。
今では過去のそういう自分を素直に受け入れることができ、とても気持が楽になりました。



 親の会に行き始めて特に思うこと。
それは休むことの大切さと、自分を大切にすることの大切さ。そしてこの休むことと自分を大切にするということは、つながりあっていると思います。



 息子が学校を休み始めてすぐの頃、一日に何度か「しんどい」、「疲れた」と言う時がありました。
好きなゲームをしても、すぐに「疲れた」と言ってやめていました。
私はその頃、なぜ休んでいるのにしんどいのだろう? ゲームは好きなのになぜ? とよくわかりませんでした。



 それからだいぶ月日が経って、ある日私がそんな感じに一度なりました。用事をしてもすぐに疲れてしまう、何もしなくてもしんどい・・朝起きた時、すでに疲れていてしんどいのです。
うまく言えませんが、心が疲れているというか、心と体がとても疲れている自分にはじめて出会いました。
 その時に昔、息子が言っていた「疲れた」の意味がわかりました。



 親の会でよく問われることですが、「子どもに休むことは大切と言いながら、はたして自分(大人)はどうだろうか?」と。そうです。
それまでは疲れていても、自分が頑張らないといけないと、休むことなく、自分のことはついつい後回しになりがちです。



 私は子どもの頃に、母に、世間に、大人に、全てに反発していたにもかかわらず、自分が大人になり子育てしていると、子どもの頃には自分の中にはなかったのに、知らず知らずの内に染みついた世間の価値観や世間の目を気にする部分があったのです。



 それがわかったのは、息子の不登校がきっかけです。
我が子の不登校を通して、私は自分に染み付いた価値観や世間の目を気にしていた部分など、多くのことを捨てました。そして全く違う生き方を、我が子から、そして親の会から学んでいます。今では私と母もお互いよくわかりあえるようになりました。



 親の会の人たちに出会えたことは、私にとって宝となりました。
昔よく泣いていた私は、今はよく笑います。
自分の好きなことも出来るようになりました。
自分で言うのもおかしいけれど、私もかなり強くなりました。そして我が子の成長が楽しみです。



 私と息子で小さな家庭菜園もしています。
二人で育てた野菜を、夕方二人で料理するのは楽しいです。
普段は無口な夫が、「これ家のキュウリ? トマト?」と聞いてきます。



 子どもって自分で知りたい、学びたいと思った時に普段の生活の中から自分で学び吸収していく力がとてもあります。
畑でも何の野菜の葉っぱなのかすぐに覚えます。
計算をしていたり、難しい漢字を読んでいたりして、いつの間に覚えたのだろうと思う時も多々あります。
好きなゲームや本の遊びの中で自然に覚えていったのですね。
二人で始めた将棋も、ぐんぐん腕を上げ、私に勝ち目は全くありません。
 教科書の上での勉強ではないけど、生活の中や遊びの中で、知りたいやってみたいという気持ちがどんどん出てきて、自分で学んで自分の力にしていくのですね。



 私も今はとても安心しています。
 昔、膝の上で「ママのために幼稚園に行く」と言っていた我が子。
今は小5で元気に不登校しています。
 家族みんながダスと話し、笑います。
昼間、ダスと息子が家にいるのは、今の我が家ではとても自然で当たり前。
そしてその当たり前が今の私の幸せです。私も今、自分を大切にゆっくりと休んでいます。



 夜はよく息子と夫の将棋大会が開かれます。
見てるととても楽しいです。私は毎日、息子とダスに囲まれ両手に花! とても幸せです。
息子にありがとう。
ダスにママの子になってくれてありがとう。
夫にありがとう。
親の会のみなさんありがとう。
みんなに感謝です。
                 (松元町)

目次
閉じこもりは自分の力を蓄える大切な時期  木藤厚子(世話人)
親は何もしない、子どもの生きる力を信じて  長谷川登喜子さん
息子を抱きしめ、心から「愛しい」と Bさんへ
辛い時もあったけど今は幸せ   Kさん
生きてるだけでこんなに嬉しい  Jさん

生き方、考え方を変えた 私の人生に感謝      HP管理人(内沢玲子)
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生きてるだけでこんなに嬉しい


 私は今15歳。もうすぐ16歳です。
 中学校の1年生の時の不登校するときのこと、思い出そうとすると、気持ち悪い、とても嫌な感覚がすっと体を通る。
 涙が出る。思い出せない。



あのときはいつも親の会のホームページを見ていた。見るたびに心が軽くなっていた。
 中3になって、お母さんと兄ちゃんと私はお父さんと別居して、パソコンのないおばあちゃんの家に居候することになった。
 ホームページを見る機会はなくなった。



 中3のときは、早く高校に行きたかった。
2年生まで、ずっと学校に行かなかったけど、3年になって急に行きたいと言い出して、毎日学校に行くようになった。
きっと、先のことばかり考えてしまっていたんだろうな。自分はできそこないの人間だと思っていた。



 毎日が受験勉強のための時間ばかりの学校で、1年以上行っていなかった私は、家庭教師を自分から頼んだ。塾には行きたくなかったけど、学校の勉強についていけなかったので、そんな自分が嫌で頼んだ。



 だけど、家庭教師を頼んでも点数が上がらなくて、「出来の悪い私は、家庭教師を頼んでも駄目なんだ、どうしよう、あんなにお金払ってもらってるのに、あんなに細かく教えてくれたのに」と、いろんな人に迷惑をかけているのに、期待に応えることのできない自分が嫌になった。



 そんなとき、「学校行ってれば、きっとトップだったんだよ。気にしないで」と家族に言われると、余計申し訳なくてしょうがなかった。
 イライラしたときは、家族に怒鳴ったり、物を蹴ったりして当り散らした。
「やっぱり学校に行ってほしかったの」と言いたいのをこらえた。
「そりゃそうよ」、と言われたらどうしようと思ったから。



 テストの点が悪かったと泣きながら相談する友達に、「あなたの努力が足りないんだ、もっとがんばりなさい」と言う先生。
 遅刻すると別の部屋に行かされる生徒。
 家に帰っても、不安から夜遅くまで勉強とは言えない舟をこぎながら睡眠学習をする自分。
 全部普通の、当たり前のことだと思っていた。
「がんばらなくちゃ、いい人間になれない、いい人生はやってこない、後で絶対後悔をするんだから」と思っていた。



 勉強していないときは、しなきゃ、しなきゃと心臓がドキドキしていて、勉強しているときも、今本当にこれをやってればいいのか不安で、いつも誰かに怒られるんじゃないか、私は何かまたをミスしているんじゃないか・・・気が休まるときがなくて、不安、不安、どうしよう。の、毎日。



 そんなふうに気を張りつめていても、宿題を忘れたり、時間に遅れたり、何かとミスしてしまう私。ミスをするたびに、ああまただ、と自己嫌悪になって、プラス何かと怒鳴る先生が、怖かった。
 自分のために勉強してたんじゃなくて、怒られたくないために、あと、少しでも誉められたら・・・と、必死だった。



 何かを選ぶのにものすごく悩む私だから、高校を選ぶときも、ぎりぎりまで悩んでいた。
「ここなら受けても大丈夫」と言われたところから選んだ。「将来のことを考えて選べ。何になりたいのか」とか言われた。
 将来したいことが、今の私に分かるわけないのにね。



 私は今何がしたいか、考えると、いっぱい出てきた。
外国旅行に行きたいな。夜までずっと遊びたい。美味しいもの食べに行きたい。もっとぐっすり寝たいよ。受験が終わったら、受験が終わったら・・・。



 そして受験の日をむかえ、希望した高校に受かった。卒業式も終わると、今まで張りつめていた気持ちがゆるんで楽になっていた。
これから変な説教も、変な校則も、疲れる毎日も終わるのか、わーい、わーい! 



 この期待は、高校の説明会で壊された。
まだ入学してもいないのに、厳しく意味不明な校則を、ひとつひとつ眠くなるほど丁寧に説明された。(私は寝た。)
 宿題も、知ってはいたけどもちろん出る。



 その日の帰り道、私はものすごく吐き気がしたので、急いで帰った。
何か期待してたものが大きすぎたのかな。
 「入学したら、きっと慣れるよね、最初だけだよ、きっと」。自分に言い聞かせた。



 入学式でも寝てしまった。
教室に入って、周りの知らない人間にびくびくしていた。
みんな同じように慣れてないんだよ、と思っても、目が怖かった。担任の話も寝た。



 入学式も終わり、私が待ちに待っていたはずの高校生活が始まった。
 私は、授業のとき、休み時間、クラスメイトと話しているときも、ノートに文字を書くときも、いきなり涙が出そうになった。
 出したいわけじゃなくて、泣きたくないのに、それに何も泣くようなことはないのに、前触れもなく、あの嫌な感覚がして、出てきそうになるの。そのたびに涙をこらえて、がまんした。



 そんなふうにがまんしてたら、ある日、頭が割れるように痛くなって、そして、涙がこらえきれなくなっていた。
でも、誰にも涙を見せたくなくて、とりあえず保健室でこらえようと思って、友達と行った。



 ベッドで寝れば大丈夫と思っていた。
 保健室について、何かしゃべろうとしたとたん、今まで一生懸命こらえていた涙が、一気に流れ出した。
 しゃべれないくらい息が苦しくて、頭がパンクしそうに膨らんでいるみたいに痛かった。もう、どうしようかと思った。



 保健室の先生が、「何かあったの?」と聞いてきた。
「何もないです、頭が痛いんです」。
 「本当に? 言っていいよ、言わないから」。やさしく聞かれたが本当に何もなかった。
 ただ私がおかしいだけなんだ。昼休みから授業中もずっと泣き続けた。止まらなかった。
泣きながら、家族の顔が浮かんだ。



 もうそのときに、学校行けない気がしていたんだろうな。
「ごめんなさい」、という言葉が、頭をぐるぐるとまわってた。
 「生まれてこなかったらよかったのかも、なんで生まれてきたんだろう」と思った。泣いたことは、最近まで誰にも言わなかった。その後も学校に行っていた。



 まあ、少し慣れてくると、話せる友達ができた。でも、気を使っている自分がいた。
 私はどう思われてるんだろう。本音を言えば嫌われるかも。嫌われたくない。
 人に合わせるのは疲れるので、それもなんでしなきゃいけないんだと思うようになった。
 あ、でも、合わせてるつもりなのに、「あんたマイペースだね」と言われてた。
 休み時間が怖かった。教室にいるのがいやでひとりでトイレに行くこともあった。
 ご飯の味が分からなかった。
 毎日緊張して、自分が自分じゃないみたいだった。



 ゴールデンウイークのある日、私が毎日ねだっていた、NEWパソコンが家に来た。
久しぶりに親の会のホームページを見た。
 涙が止まらなかった。
 その次の日から、私は学校を休んだり、途中から行くようになった。
 1週間のうち、2日ぐらい、それも体育がある時間だけ、行っていた。それ以外はずっと休んだ。



 休んでいると家族が心配してくるのも分かっていた。
「申し訳ない」、「ごめんなさい」と思った。でも、体が動かないの。
 途中まで行って、泣きながら帰ったことも何回かあった。心臓がドキドキするの。
 朝早くお弁当作ってくれるのも、お母さんとおばあちゃんが私のことで言い合っているのを聞くのも、お母さんが私のこと心配して泣いているのも、申し訳ないと思ってたんだよ。



 それでも毎日イライラして、怒鳴ってわめいて、物をけりとばした。
 「私のこと何で生んだんだ、クソババア」とかも言った。
「養育費も少なくてすむし、うるさいあたしなんかいても何もならないよね」。寂しくて涙が出た。朝がくるのが嫌だった。



 学校に行っていないと、クラスメイトから「今日は来る?」、「起きてる?」というメールが来る。「今からでもおいでよー」という電話も来る。それで行くと「お母さん何も言わないの?」、「いつも家で何してるの?」と聞かれる。
同じ会話。電話に出るのも、メールが来るのも怖かった。
ありがたい嬉しいという気持ちは、最初はあったが、今は正直申し訳ないし、うんざりだった。
うんざり、と思う自分も嫌いだった。



 ある日、運動会の応援団をくじで決めることになった日に、ちょうど行った。
私は応援団になってしまった。応援団は夏休み中も練習しないといけないらしい。
学校にも全然来てないのに、応援団だなんて、私を再起不能にする気だ・・・周りが全て敵だと思った。



 学校を休んでいるのに、私の心は休めていなくて、むしろ疲れていった。
誰にも会いたくなくなった。誰と話していても、怖いのだ。もう、全ての疲れることをやめたいと思った。
やめたい、と分かってても、行かなきゃならないのに・・・、この先どうしよう。という不安が頭から離れない。



「今でさえだめな人間なのに、もっとだめな人間って言われるのかな」、「友達いなくなるかもな」、「大学に入れないよな」、「お金稼げないかも」、「追い出されたらどうしよう」・・・。
こんなふうな私の考える、学校を辞めたあとの物語が、夢に出てくることがあった。



 それでも学校にはもう行きたくなかった。
「やめたい」というと、また家族は心配して、私のことでもめていた。
私のことでもめる時間があるなら、自分の好きなことすればいいのに。相当暇なんだろうか。私が決めることなのに。



 私は、留年か、編入か、やめるか、で迷っていた。
留年して、2年生になったら行けるかもしれない。編入して、新しい学校に行けば、行けるかもしれない。やめたら・・・この先どうしようか・・・家族に迷惑がかかる。せっかく受かったのに。
家庭教師にも、担任にも、友達にも申し訳ない・・・3つの選択で、毎日頭の中で悩む。迷う。あたしはどうすればいいんだろう。



 友達からのモーニングコールにメール、全て無視するようになった。
家族の不安も、無視。自分のことだけ考えて、自分はどうしたいのかを、悩むようにした。
私は、やめたかった。
 


 毎日「やめたい〜。やめたい、でも迷う・・・編入のほうがいいのかなあ」。
お母さんは「そうなのね、迷えば」と流したり、「編入もあるかもね」と言ったり、「もうやめたら」と言ったりした。



担任が通知表を渡しに家庭訪問に来たときに、いきなり「やめたいです」と私が言った。
担任は、理由を聞いたので、「いろいろあって、疲れたし、やめたいから」と言った。
若い担任で、編入の仕方も教えてくれたが、私がやめると言ったら、すぐに手続きができるようにしてくれた。



 やめる手続きをしに行く前の日に、母親が最後に私に不安をぶつけた。
「本当にそれでいいの、迷いはないの」と言われて、「正直迷いはあるけど」と言うと、「迷いがあるなら、もっと迷ってもいいのよ」と言われた。
またそういう話かと思って、いつものように「うるさい」と無視してたけど、「ちゃんと話をしようよ!」。長々と不安を話された。



 「自分でちゃんと責任取るのよ」、「お父さんにも自分で話しなさいよ」、「後悔してもしらないからね」。全部グサグサと私に突き刺さる。
言い合いになると、「もうお父さんのとこへ行きなさい!」、と言われた。
お母さんも不安だって分かってる。でも、いらないのか。学校やめた私はいらないの。
学校やめた私のことは誰も好きになってくれないの。
やわらいでいたはずの不安がこみ上げてくる。



 内沢さんに電話した。「どうすればいい、やめないほうがいいの、私」。内沢さんは不安でいっぱいの私の気持ちをやわらげてくれて、そのあとお母さんの不安も聞いてくれた。
ありがたかった。
お母さんに、心の底から「私、やめるね」と言った。お母さんも、「そうだね」と言ってくれた。



次の日、内沢さんの家に行ってから、学校に行った。
久しぶりで、最後の学校だった。
教頭と担任に、理由を全て自分で言って、自分でやめると言った。
「疲れたから休みたい。今は編入も考えていない。休んで休んで、学校に行きたいと思ったら、そのときはまたそのときに考えればいい。自分のやりたいことは、自分で見つけられると思う」。迷いなく、言えた。



 こんなふうに言えるようになったのは、前の日に私がお母さんの不安を分かって、お母さんも私の不安を分かってくれたからなんだろうな、と思う。
教頭に、「さわやかだね、すっきりしているね」と言われた。
校門で見送る担任にも振り返らないで、足早に二人で歩いて帰ったときの、あのすがすがしい気持ちは忘れられないなあ。
嬉しくて、ドキドキして、生きている気がした。



 学校を辞めてからも、何も生活の内容は変わってない。
好きなときに寝て、好きなときに遊ぶ。
 でも、すごく楽しい。パワーがたまる。気持ちが違う。



 だけどおばあちゃんが、「元気になったらこの先どうするか考えないとね」と言ってくる。
 「嫌だ、ばあちゃんが考えとけば」と言う私。ずいぶん遠慮しなくなった。
 「私、旅行行きたい」と言うと、「私も行きたいけど、飛行機怖い」というお母さん。
「バドミントンしたい」と言うと、「暑いからやだ」という兄ちゃん。
 誰にでも吠えたくる、かわいい、かわいい愛犬サラ。家族が、生きてるだけでこんなに嬉しい。



 お父さんには、学校を辞めてしばらくしてから、「学校やめたんだよ」と言った。
何か言われるか、怒られるかなと思ったけど、「ああ、そうね、また勝手に決めたのね」とだけ言われた。そうだよ。



 ぐだぐだと悩み、口が悪く、すぐ調子に乗る自分が大嫌いになる。
でも、そんな自分もいいなと思えるようになった。
きっとこの先、不安だ、不安だとまたわめくんだろうけど、今はそんなこと考える暇もないほど楽しい。
 


 あんなに迷って、泣いて、怒鳴って、迷惑かけて、そして学校やめてよかったなあと思う。
生きてるだけでいいなあ〜と思う。
親の会に会ってなかったら、こんな素敵な生き方があること知らなかっただろうな。
心の底からよかったって思うことできなかった。
本当によかった〜!
            (鹿児島市)



 生き方、考え方を変えた 私の人生に感謝      内沢 玲子


今私は25歳。就職もしてないし、結婚のあてはまったくないし、毎日何をしてるの? と聞かれたら「ボーッとしてます」。
そんな私のこれまでの人生をここに振り返りたい。



それは高校生活がうまくいかなくなったのが始まりだ。
人間関係がどうしてもうまく出来ず、気づいたら常に人が自分をどう思ってるかばかり気にしていた。



毎日、毎日、学校に行くのがしんどかった。
そんな自分を無理矢理奮い立たせ、自分さえ、自分さえきちんとしてたら、歯車はうまく回るのだと、何度も自分に言い聞かせていた。いつも自分がいけない、自分はなんてだめな人間なんだと思っていた。



 無理をし続け、自分をだまし続けたそんな3年間は、私にとって自分を否定する習慣の基盤を作ったようなものだったと、今思い返してみると思う。
もちろん当時はそんなことをしていただなんて、余裕がないもんだから、気づきもしなかったけど。



無理矢理高校を卒業した後、解放された私は自分の大好きなことをした。
語学学校に通い、たまにアルバイトをし、そして大好きなタイに住むことになった。



だけど、そんな自分の好きなことをしてるのに、いつもいつも、私の中には息切れ感があった。
どうしてこんなにも自分は疲れやすいんだろうと、その頃はそれぐらいにしか思ってなかった。
だましだましやってきて、いよいよその「だまし」が自分にきかなくなったのは、タイでの生活が半年程経った頃だったと思う。



自分でもその瞬間というのは感じた。私の全てがいっせいに悲鳴をあげる瞬間だ。 
それから私は、前にも増してさらに一歩外に出るのも非常に苦しくなり、顔が緊張でこわばって、笑顔が作れなくなった。



それから半年程たって、ようやく私はパタとすべてのことを一切がっさいやめた。
やめたというより、できなかったと言ったほうがいいかもしれない。
無理をしていた高校時代から7年の月日が経っていた。
ようやく休める、これで休めるというホッとした感情があったのを覚えている。



それまでの私は、他の大多数の人たちが感じるように、がんばることこそ人生の中で最重要課題、みんながんばっている中で自分だけ甘えて休むなんてもってのほかであって、そんな勇気のいることは絶対できないと思っていた。
だからこそ私にとっての休み初めは、パワーを全て使い終わり、本当になにもできなくなっていたその時だったのかもしれない。



休み始めて特に最初の半年間程は、人間パワーを全部使い切って、自分を痛めつけてるとこんなふうになるんだ、というのをひしひしと感じた期間だった。
電話に出るのも怖い、外に出るなんてもってのほか。
親の会に行くのも夕方になってようやく自転車で行ってみて、誰もいなかったのを確認して妙にほっとしてた自分がいた。
人と会うのがとにかく怖い。それしかなかったのだ。



だけど少しずつ、本当に少しずつだけど、休みが重なっていくと、だんだんとそれまで自分の頭で整理がつかなかったことを考え、悩める余裕がでてきた。
なんであんなに自分を責めてきたのか、そしてその自分を責めているという行為すら、なぜ気づかなかったのか。



答えはとっても簡単だった。
全て自分の長年にわたる「無理」からきている「疲れ」だったのだ。
こんな簡単なことも考えられないほど私は疲れていて、無理の上に無理をかさねてきてたんだなと思った。
その時から初めて、私は自分自身を大切にする、無理をしない、とにかく自分をいたわって大切にすることを、親を見て、そして親の会から学んでいったと思う。



疲れはててずっと無理していた間、私の両親は、私のことをどうしてたかというと、「ほったらかし」だった。私が何を訴えても、また何を訴えなくても、うんともすんとも言わなかった。



その時は、どうしてこんなに辛いのにわかってくれないんだって思ってたけど、もし私の親が、私の一挙手一投足にびくびくしてたり、要求にほいほい応えていたら、私は今でもきっと無理し続けていたと思う。
私が両親に感謝していることは、全て自分で考えて、自分で責任を負って、自分で行動させてもらってきたことだ。




たっぷりと自分で休み、悩み苦しむ時間があったからこそ、それを頭の中でひとつひとつ整理してこれたと思う。
だから親は子どもが悩もうが、どうしようが、自分の人生を楽しみ、自分自身を一番大切にすることがとても大切だと思う。それが、子どもにとっても本当の救いだと私は思う。



それは、私がどんなに疲れてても、どんなに自分を追い詰めても、私の一番身近な親が、自分を大切にしている人生を送っている限り、必ずどんなに時間はかかっても、結局自分で判断して、自分を大切にしないといけないな、と痛感するからだ。



ゆっくり休み始めて2年半が過ぎた今。まだまだ大波、小波が押し寄せるけれども、疲れ果てていたあの時感じなかったパワーがたまっていってるというのを、最近少しずつ実感してくるようになった。
あんなに、もう、パワーはたまることはないだろう、一生家で過ごすんだと、悲観にくれたりもしてたのに。



だけど引き続きのんびりしよう。
焦らないで、自分自身を大切にしていくことを忘れないようにしたい。



最後に、いつも条件付けずに愛してくれ、あるがままの私を常に受け入れてくれた私の両親、そして多くの方々の貴重な体験談を聞く機会を与えてくれている親の会に、心から感謝する。
この親の考え、そして親の会との出会いをもたらしてくれ、それまでの生き方、考え方が180度変わった今の私のこの人生にも、心から感謝をしたい。(鹿児島市) 

目次
閉じこもりは自分の力を蓄える大切な時期  木藤厚子(世話人)
親は何もしない、子どもの生きる力を信じて  長谷川登喜子さん
息子を抱きしめ、心から「愛しい」と Bさんへ
辛い時もあったけど今は幸せ   Kさん
生きてるだけでこんなに嬉しい  Jさん

生き方、考え方を変えた 私の人生に感謝      HP管理人(内沢玲子)
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南日本新聞「南風録」にて取り上げられました。記事内容はこちら→
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最終更新: 2010.6.22
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