登校拒否、引きこもりは自分を大切にする生き方です。 初めは不安だった私たち親もわが子の不登校から学んで強くなってきました。 一人ひとりの人生に心から感動します。 1冊千円で多くの方にご購入いただき、ありがとうございました。 2010年6月22日までに完売しました。 記して感謝申し上げます。 ここでは、15周年記念誌の一部を紹介します。
閉じこもりは 自分の力を蓄える大切な時期 木藤厚子(世話人) 私には不登校を体験した23歳と22歳の息子がいます。今は、ふたりとも県外で大学生活を送っています。 この記念誌の原稿を書くにあたって、5年前、10周年の時に書いた原稿を読み返してみました。 そうだった、学校に行かなくなったあの頃、長男はひざを抱え、悲しい目をして、自分はダメだとため息をついていたんだ、とその姿を思い出しました。 長男は中2から不登校になりました。その時、私は親の会に携わっており、たくさんの不登校の経験を聞いていました。学校に行きたくないという子どもさんの気持ちがよく分かり、学校に縛られることはないと思っていました。 けれど、我が子の不登校に直面すると、学校に行きなさいとは言わないけれど、「学校に行かなくていい」とはなかなか言うことが出来ません。このまま息子の心も体も成長が止まってしまうのではないか、これからどうなるんだろうという将来の不安に駆られてしまっていたのです。 それからは毎月の親の会に真剣に参加しました。皆さんのお話から、子どもさんの気持ちが良くわかりました。 それは息子も同じ気持ちなんだと、我が子に重ねながら、いつも我が子の気持ちだけを考えていようと思いました。そしてもし私がこの子と同じ立場だったらと考えると、外に出たくない、昼夜逆転するのも当たり前なことで、息子の状態を受け入れることが出来ていきました。 また全国合宿で、「家の中で私の安心できる場所はトイレの中だけ」という子どもさんの発言を聞き、ショックでした。そんなことはしたくない、家庭を安心して生活できる居場所にしなくてはと思いました。 初めのうちは自己否定をしていた息子ですが、パソコンに興味を持ち、昼夜逆転しながら、説明書と格闘するというような日々を送っていました。親の会や当時同時進行していた「子どもの人権を守る連絡会」のニュース作りを手伝ってくれるようになって、だんだんと自分を受け入れていったように思います。 本屋やパソコン館に行ったり、床屋に行ったり、用事があるときは外に出て、自然に自分のことは自分でやっていました。自分のペースで生活する中で、大検を取り、20歳の時に大学受験をし合格しましたが、その時は息子に行く気持ちがなく、取りやめました。 私はその頃から登山をはじめました。自然の素晴らしさに魅かれ、時間があれば山に出かけるようになりました。朝早く出かけ、時には泊りがけで出かけますので、その間の家のことや、家族の食事はしっかり息子に頼んでいました。 そんなふうに、家に息子が居るのが当たり前で、またいつしか息子を頼りにする生活をしていましたので、息子が去年10月に、「センター試験を受けてみる」と突然言いだした時は、本気なの? と驚いてしまいました。 後から話を聞くと、息子は自分で受験勉強をしていたと言うのです。今年4月、息子は希望する大学に入学しました。 10年間、我が家でゆっくり過ごした息子は心も体も大きく成長しました。私の当初の不安は全く根拠のないもので、まさに目に見えない将来への不安に怯えていたのです。 親の会で、「子どもは自分の中で納得ができたときに動き出す」と言われますが、本当にその通りで、息子も自分の納得で動き出しました。 8月、夏休みになり、息子が久しぶりに帰ってきました。私は、夏休みはずーっと鹿児島で過ごすものと勝手に思い込み、楽しみにしていました。しかし息子は、2週間も居れば十分と、さっさと帰ってしまいました。 すでに我が家は息子の居場所ではなくなっている、本当に巣立っていったんだなあと実感し、寂しくもありました。 10周年記念誌の原稿を書いてからこれまでの5年間は、息子は自分自身を深く見つめ、力を蓄えていた、そんな気がします。そして納得するまでに、それだけの時間が必要だったんだと思います。 次男は、高2の11月に退学しました。教師からの傷つく言葉や、人間関係でいろいろあったようです。私は長男の不登校を体験していましたし、自分の居場所のない学校には行けないだろうと思いましたので、辞めていいよと伝えました。 息子は3ヶ月間考えて、自分で退学届けを出しました。数週間経ってから、やっぱり辞めてよかった、と言っていたのを覚えています。 1年間は、ゲームとギターづけの生活をして、ゆっくりと自分の時間を過ごす中で、いろんなことを学んでいたと思います。その後、大検を取り、大学に進学しました。今は1年間カナダに留学しています。 本当に子どもはやりたいと思ったら、どんどん行動していくのだなあと思います。 息子達が学校に行きたくないという気持ちを早くに受け入れられたのは、親の会と併せて、私の体験と重ねて考えることが出来たこともあると思います。 私は北海道で生まれ育ちました。結婚で鹿児島に来て驚いたのは、小学校から制服(標準服)を着て、頭のてっぺんからつま先まで、同じもので統一され、更には持ち物まで同じ。中学生の男子は髪型まで丸刈りと校則で決められていることなど、私の自由な学生時代とのギャップに驚き、唖然としました。私自身が学校に対して疑問を感じていました。 また私は義父が亡くなってから、1年の3分の1くらいを義母と同居をするようになりました。息子達が2,3歳の頃からで、全ての世話を私がしてきました。 いつも嫁として求められているような気がして、そうしなければならないし、私が頑張ればいい関係が作れる、わかってもらえると一生懸命でした。 でもそれは自分に無理をしていたわけで、そのことにもどかしさを感じていました。 親の会では、「自分を大切にする」とよく言われます。息子たちは自分の生き方を模索しながら、納得しながら生きてきました。 一方、私は自分を大切にしているだろうか。そのことに気づいていったのです。そういう私の体験から息子達の体験を通して、私自身が成長していったのです。 今、義母はヘルパーさんをお願いして、ひとりで暮らしています。義母のためにも自立した生き方をしてもらおうと、夫婦で話し合って、話をすることが出来ました。 私が全てやっていた20年前に比べたら大きな違いです。 親の会の世話人として15年、毎月の例会に参加し、たくさんの方と出会いました。 初めは、不安いっぱいで涙を流していた方が、回を重ねるごとに、だんだんと明るく、力強く変わっていく姿。親子の信頼を取り戻し、子どもさんが長い時間をかけて少しずつ自分を受け入れて行く姿。その姿を目の当たりにし、たくさんの感動をいただきました。 その感動の中で、私はやはり「自分の人生は自分が決める」、「自分の人生の主人公として生きる」ということを学んだと思います。 たくさんの方の人生に立ち合わさせていただいていることに感謝し、私の人生観を変えてくれた親の会に感謝します。 私は子ども達にとって、家が居場所であり、そこでゆっくりと過ごすことがどんなに大切なことかをあらためて思います。 子どもはいつか巣立っていきます。それまで子どもと一緒に暮らせることに感謝して、楽しんで生活することが大事だと思います。 (世話人・鹿児島市) 親は何もしない、 子どもの生きる力を信じて 長谷川 登喜子 親の会。私の人生の柱になった会です。 15年前、当時9歳(小3)の次男が学校に行き渋り、誕生日を境に行かなくなりました。学校を休んだら、将来はどうなると不安だらけで、親の私は学校に行かせることだけを考えていました。 腹痛が止むのを待って、何時であっても学校に追いやっていました。私は学校に行かせようと必死でしたから、カバンを玄関に投げたり、ドアの外に出してカギをかけたこともありました。夫も帰宅すると、毎日「学校へ行ったか」と聞きました。当時のことを思うと今でも胸が痛みます。 「どうしたら学校に行くかな」と内沢さんに相談しました。「学校を休ませなさい」と思いもよらないことを言われて「えっ、何?」と理解できず、行かせ続けました。 お腹が痛いと言っていたのが、夜泣き、ひとりで風呂に入れない、人が来たら隠れるなど、たくさんの不安を出すのに時間はかかりませんでした。 ある日「学校へ行こう」と言ったとき、息子は青白い能面のようになり、表情が全くなくなりました。 「学校に行かせるということは、こういうことなんだ!」。内沢さんが言われたことが初めて分かりました。「学校よりも息子の命が大事」と100日かかってやっと腹をくくりました。私の苦い体験です。 子どもが不登校になって1年経ち、自分の周りを見たら、不登校の親子が見えず、私は独りぼっちになった感覚に襲われました。 「子どもの人権ってな〜に」という集会で、「親の会を作りましょう」と呼びかけて15年になります。 月一回開かれる親の会は、よほど用事がない限り休みませんでした。親の会に参加して勇気と元気を貰って、自分の生き方に自信を持ちました。 今までやっていたPTAの役員も全て辞め、私も学校との関わりを一切断ちました。 担任にも子どもが休んでもなんの問題もないことを話すと、安心したのか何も言わなくなりました。 私は学校の盾となって子どもを守りました。おかげで中学になった時は、クラスも担任も知らされず、それがとても楽で、幸せに生活することができました。 親がゆっくり生活していると、だんだん子どもが楽しいことを言ってくるんです。「わー、こんなことを感じるんだ」、「こんな言葉の使い方があるんだ」と、新しい発見がたくさんありました。 しかし、一番大切なことは、親の中にある登校拒否に対する偏見や差別をなくすことでした。 その後、不登校の9歳の息子が時間をどう過ごしていいか分からず、畳の上をのた打ち回りました。どんなに苦しんでも、私はこれは息子が自分で決めることだと思い、「あーしたら、こーしたら」と言わないで、どんなに辛くても見守りました。 それは、私が腹をくくらずに息子を学校にまだ行かせ続けていた時、「あーせ、こーせと言わないで!」と息子が叫んだことがありました。「ああ、私は学校と同じことをやってるんだ」と胸をつかれる思いで、どんなに苦しんでも手を貸すことはやめました。これが私の基本でした。 子どもが不安な時は黙って手を握る、黙って抱き締める、私は息子の布団の横で一緒に寝てやりました。よけいな言葉は要りません。 15年の親の会の歴史の中で、私は多くのことを学びましたが、一番感じていることは、「親は子どもの不安から出る言葉に振り回されない」ということです。 一生懸命応えようとすることは、我が子をいっそう辛くさせます。どんなに泣きながら不安を訴えても、子どもの言葉で右往左往しないでほしい。親が先に答えを出してはいけない。子どもが出す答えを親はじっと待つことが大事だと思います。それが本当に我が子の生きる力になるのです。 今、息子は24歳になりました。6年間一度も学校へ行かず、ゆっくり休み、疲れを癒していった息子が、「通信へ行く」と自ら選んだ通信制高校を4年で卒業して、今はフリーターをしています。 仕事場に近いところに友人とアパートを借り通っていましたが、この春から長女が我が家の近くに引っ越してきたと同時に、そこへ居候をしています。家に居る時は家事を手伝っていたのに、娘のところでは、「何もしないなら追い出すよ!と言っても帰ってくる」と娘は笑って言います。姉弟の仲がいいです。 「ロボットになりたくない」と高1で中退した長女は今29歳。結婚するまでずっとアルバイトを続けていました。私はよく頑張るな、でも自分で結論出すだろうと見ていました。娘は「お母さん、10年間私はずっと頑張っていた。結婚してやっと息抜きしているの。今はひきこもり」と言っています。 娘は、今毎日のように家にきています。親の会の会報を読んで、「達ちゃんがお母さんのことを書いてるよ」、「親はなにもしない、本当にお母さんは何もしなかったよね」、「私達がいたからよかったんだよね」って、フフフフ、親の気持ちも知らないで・・・。 2000年1月に私は職場のストレスと過労で倒れました。毎日、毎日看病をしてくれた娘と息子。夫は休暇をとって付き添ってくれました。 職場はリストラで人数が減らされ、そのため仕事量は増えて追い詰められる状態でしたが、無理して行っていました。「辞めたいな」と思った時はかなり体調も悪くなっていたんです。 それでも無理して行っているうちに、「行かねばならぬ」という思いになってしまい、朝起きれなかったり、血尿が出ても、ただ疲れているからだろうなと思うだけで、大量の痛み止めの薬を飲んで自分をだまして、とうとう職場で意識がなくなり、倒れてしまいました。 溶血性貧血でした。自分を失っていました。学校と同じだなと思いました。「行かねばならない」と思っている時は何も見えなくなります。 私が倒れてもう命も危ないと言われた時に、「私は登校拒否の子どもと同じことをやったなあ。これだけ分かっているつもりが、自分を追い詰めていた。親が行かせることは、大事な命にかかわることなんだ」と自分の身を持って体験しました。 命の危険にさらされた2ヵ月半。助かってよかった。 助からないと思いこんでいた私は、ある日病院から外を見ました。桜が公園にいっぱい咲いていました。 生きている自分に気がつき、涙が次から次に溢れ出ました。生きてる、家族がある、友達がいる、それを励みに、入院中ずっと親の会の仲間の写真を抱いていました。 息子の不登校から15年、私が倒れてから5年。私は身をもって「自分を大切にする」ことを学びました。命の尊さを身に沁みて感じました。子どもの命がけの叫びを親たちは受け止めて欲しいと思います。 夫は7月に胃の手術をしました。家族皆で看病しました。医者は言いました。「早く分かってよかったね。ラッキーですよ」と。 これからも夫婦仲良く、毎日を楽しく生きていきます。 (鹿児島市) 息子を抱きしめ、心から「愛しい」と Bさん 今18歳になる息子が、学校に行くのを渋りだしたのは、小学6年のときからです。 「頭が痛い」、「お腹が痛い」、「熱がある」等の典型的な症状を訴えて、50日以上学校を休みました。 この頃は、仮病でも使って学校をサボっているんじゃないかなどと安易に考え、学校との連絡などはすべて妻に任せていましたが、私立中学校に入学して5月の連休明けには、またそういう症状がでてきました。 このときには私も、朝、自分の部屋から起きて出てこない息子を起こし、無理に着替えさせ、車で学校まで送ったりしていました。 6月のある日、車のところまで行った息子は、車には乗らず、突然走って逃げました。 そして、私たちの方に向かって石を投げてきました。 それが息子の「学校には行きたくない」という意思表示でした。その時のことは、今でもはっきりと覚えています。 その頃は「登校拒否」とか、「不登校」などという言葉は、私たちにはまったく無縁のものだと思っていましたので、本当に驚き、愕然としました。 <まさか自分の息子が・・、何が悪かったのか・・、これからどうなるのか・・、どうしたら学校に行けるようになるんだろうか・・>。 私たちは何とかして息子が学校に行けるようにしてあげたいと思って、いろいろな機関や施設を訪ね歩くことになりましたが、この頃はどちらかといえば私は及び腰の状態で、あまり積極的には関わっていませんでした。 それでも夫婦でいろいろやっていた頃はまだよかったのですが、何をやってもうまく行きません。 息子が元気に学校に行けるような状況にはなかなかなりません。 それどころか非行の芽が垣間見えたりと、状況は悪くなるばかりです。 そして、学校に行けなくなったのはお父さんのせいだと、息子は私を責めてきます。 私はそういう状況に苛立ち、妻を責め、夫婦仲まで悪くなってしまい、ついには離婚話まで持ちあがってしまいました。 そのときは二人でよく話し合って、ということで落ち着きましたが、このことが息子の登校拒否に二人でじっくりと取り組もうというきっかけになりました。「雨降って地固まる」です。 息子は中学3年で、私立中から公立中へ転校しました。 当初は楽しそうにしていましたが、そのうち悪い仲間と付き合うようになり、お金を脅し取られたり、暴力を受けたりと、いろいろなことが続きました。 「学校に行かなければ悪い仲間と付き合うこともないんだ」と、6月になってようやく学校に見切りをつける決心がつきました。 そこで息子に、「学校にはもう行かなくていいんだよ」と初めて言うことができました。 「学校信仰」を捨てるまでにずいぶんと時間がかかりました。 私たちが親の会を訪れたのは、その年の12月の例会からです。 そして今までのことが息子をどれだけ苦しめていたのかを理解できたのは、親の会に入って数ヶ月経ってからのことでした。 中学を卒業すると、息子は糸が切れた凧のように、まったく制止がきかなくなり、茶髪、タバコ、深夜徘徊、外泊と、非行の道を本格的に辿り始めました。 そして家庭内暴力。2歳年上の娘は大学受験が間近でしたが、大変辛い思いをさせました。 妻が息子に突き倒されて骨折し、1ヶ月ほど入院したのもこの頃でした。 今思い返してみますと、私はこの頃の1,2年が一番辛い時期だったような気がします。 当時、私は鹿児島市の自宅から開聞町の職場まで車で通勤していました。 帰りには睡眠不足で居眠り運転をしそうになったり、でも、このままあのダンプと正面衝突したら楽かもねとか、このまま車ごと海に転落したらすべてが終わるだろうなとか、海岸沿いの国道を走りながら思ったりもしたものでした。 できればこの現実から逃げ出したいという気持ちでいっぱいでした。 中学を卒業して1年後、暴走族との関係を断つために、東京に3ヶ月ほど行っていた息子が帰ってきたとき、私たちは息子に、「学校に行かせようとして、いろいろあなたを追い詰め、苦しめた。ほんとに悪いことをしたと思っている」と今までのことを謝りました。 その頃から息子に対し、「ゆっくりすればいいよ」とも言えるようになりました。 その頃の息子は自己否定が強く、私に対しても時々暴力を振るっていましたが、私はまったく手を出さないようにしました。 息子が暴力を振るうときの目は、いつも涙でいっぱいでした。 以前、私が息子のことを理解できなかった頃は、その時、よく息子を叱りつけ、叩いたこともあったのです。 その時の私の手の痛みは、心の痛みとなって、今も忘れることは出来ません。 4月のある日、私は暴れている息子に飛びかかり、抱きしめました。 心から息子を愛しいと思いました。 「お父さんは、親の会で変わったんだ!」、 「今までのお父さんではない!」と伝えることも出来ました。 その頃には息子に頭ごなしにあれこれ言うことも少なくなり、息子も自分の思いを私に直接言えるようになってきました。 息子も、「どうも今までの親とはちょっと違ってきたぞ」と感じはじめていたような気がします。 しかし、それからも息子の非行は続き、私は警察に何度か息子を迎えに行きました。 ここにいたってはもう覚悟を決め、ここからは親父の出番と心に決めていました。 警察からの呼び出しがいつあるかもわからない状況でしたので、晩酌もやめました。 心が休まるときがありませんでした。 その年の7月に「登校拒否を考える夏の全国合宿」が霧島で開催され、その時の懇親会でのビールがおいしかったこと。 8月から裁判所や保護司との付き合いが始まりましたが、その頃には私の気持ちも、「息子を信じよう。息子にどんなことがあっても、それをしっかりと受け止めよう」という気持ちになっていましたので、息子も落ち着いてきていましたし、自分がやったことをしっかりと受け止めようという気持ちになってきていたのだと思います。 この年の7月からは、私が警察に出向くことはなくなりました。 息子の登校拒否が始まって、8年目を迎えています。 最近はだいぶ落ち着いてきましたし、笑顔で冗談も言えるようになりましたが、まだまだ自己否定や不安、焦り、甘えが強く、大検、塾、東京の学校など「願望」がいっぱいでてきて、私たちを悩ませます。 子どもの無理に手を貸してはいけないと、繰り返し親の会で学びますが、いざ自分のこととなると、実践するのは大変むずかしいことです。私は大いに揺れてしまいます。 親の会に参加させていただくようになってまだ4年足らずです。 これからも親の会でしっかり学ばせていただき、揺れてもいいから、「揺れがいのある親」になりたいと思っているところです。 (鹿児島市) 辛い時もあったけど今は幸せ Kさん 「ママのために明日から幼稚園に行く」この言葉は私にとって忘れられない言葉です。 息子は行ったり休んだりしていました。 原因があったとしても、幼い子どもが言葉に言い表すことは難しいことだったと思います。 休むことが大切と今なら思い、そう言えるけど、当時はなかなか心からは言えませんでした。 周りの圧力もすごかったです。電話もかかってきて、母親の育て方を責めているような言葉が多く、夫からも昼間「今日は行ったか?」と確認の電話が毎日のようにあって、夫からも責められているようで辛かったです。 電話の音でドキッとするようになるくらい追いつめられていきました。 周りの言葉に傷つき、自分を責めて夜中にひとりで何度涙を流したかわかりません。 そんな日々の中、小さな息子の「明日からママのために幼稚園に行く」という言葉でした。 息子は感受性豊かなやさしい子で、私が周りに色々言われ、元気がないのは自分のせいだと思ったのでしょう。 息子が一番辛いのに、母親の私のことを心配してくれている。小さな息子を抱きしめながら二人で泣きました。この子は私が守ると思いました。 私は奥地圭子さんや東京シューレの本を注文して読みあさりました。 当時は不登校の知り合いも誰もいなく、本を読んでいる時だけが安心できる時でした。 振り返ってみると、私ひとりで周り大多数と対決していた感じでした。 1年生になって、熱心な担任から「1日でも休ませると不登校になってしまう、とにかく連れてきて下さい」と言われました。 息子を学校へ連れて行く日々で、親子とも疲労の極限でした。 出口のないトンネルとは、こういうことなのかなと思いました。 しかし、ちゃんと出口はありました。 1年生が終わる頃、鹿児島に転勤することになりました。 私は夫に「不登校という生き方があることを認めたい」と初めて言いました。 それは自分自身に言い聞かせる言葉でした。 そして鹿児島で2年生。 はじめの少しの間、私はまだ息子と一緒に行ったり、休ませたりしていました。 知らない土地という心配もあったのは確かですが、私はまだまだ無知そのものでした。 そして約1ヶ月後、5月3日に愛犬を我が家に迎える事になりました。 名前はダス。家族が増えました。 ダスが来て数日後、私達は担任と話をしました。 私は「全ての子どもが学校という枠にあうとは限らない。あわない子がいて当たり前。行こうとしても熱が出たり、お腹が痛くなったりするのも、甘えではなく、その子にとって自分を守るためのサインです。今まで私も悩みましたが、連れて行くことは辞めます」と話しました。 時間がかかりましたが、自分の中ではっきり答えが出て、全面的に行かないことを受け止められたように思います。 息子にも「休んでいいよ、ママは連れて行かないから、行くか行かないかは自分で決めていいよ」と私の思いを伝えました。 息子は次の日から行きませんでした。 今までと、今の「休んでいいよ」とでは、私の心に違いがあります。 子どもって親の心をちゃんと感じているのですね。 そして私は、今までのことを心から息子に謝りました。 やさしい息子は許してくれました。その時の我が子の気持ちを思うと今でも心が痛みます。 そして私と息子とダスの三人の昼間の生活が始まりました。 振り返ればいつも息子とダスがいる。 私はやっと子どもの側に寄り添って立てました。夫も何も言いませんでした。 朝、お腹が痛いとか、微熱がでることもなくなり、いつも息子の笑い声があります。 親子ともとても楽になれましたが、時々小さな不安や疑問が出てきたりします。 その時、1冊の本の中に内沢さんの名前を見つけました。 ドキドキしながら初めて電話をしました。 内沢さんは会ったことのない私の話を「そうね・・・辛かったね・・・」と聞いてくれました。 電話の後、熱ーいなんとも言えないポカポカした気持ちで、心が幸せでいっぱいでした。 親の会は私にとって、とても大きな学びの場となりました。 はじめは「我が子のために」でしたが、少し経つと「自分の生き方のため」と変わってきました。 親の会では不登校の話はもちろん、夫婦の話も、家族関係の話も、何でもみんなが隠さずに堂々と話されます。 大きな家族のような感じでホッとします。 みんなの暖かさ、やさしさ、強さが伝わってきます。 時には涙して、時には笑い、時には大笑いもあったりして。 私は親の会で、自分と重なる部分や、自分の今までの生き方を振り返ってみることもできるようになりました。 私は子どもの頃に非行に走ったことがありました。 親の会でも、子どもがいろんな形で辛さを表してくれているという話がでてきます。 私もそうだったんだと気がついていきました。会は自分自身を見つめなおすよい機会でもあります。 非行に走った時は、大切なものは何もない、何をしてもあまり続かないし、とりえもない自分はダメだ・・。もう、どうなってもいい、となげやりでした。 反発や非行を繰り返し、居場所を求めて転々とする自分がホントに大嫌いでした。 自己否定があるので高校時代希望していた動物の仕事も、「どうせ私にはムリやし」といった感じで、どんどん悪いほうに進むのです。悪循環です。 そんな時期、私にとって唯一大切だったのは一緒に育った犬でした。 なかでも大型犬と私は、特別強い心の絆で結ばれていました。 無条件でそんな私を受け入れてくれたのです。 しかし、自己否定はそう簡単に消えるものではありません。 もとの自分に戻れても、心の奥底に眠っています。何かの時にひょいっと出てくる時があります。周りからは「根性がない」とよく言われました。 ダメなことは自分がよく知っています。 そこに輪をかけて、言われるのですから、ますます自分を責めてしまいます。 私は焦りや不安から、ますます自分を追いつめ、休むことも知らず、バイトしたり、遊んだり、ゆっくりすることなく、とにかくよく動いていました。 ところが親の会では、例えば「不登校になりました」と言えば、「それは良かったですね」と、子どもの荒れは、「そういう形で辛さを表してくれてるのね」と子どもの側の立場なのです。 私の時もそうでしたが、悪いことをしたという表面だけを見てしまい、心の叫びを聞いてくれませんでした。 そうなると誰も信じられなくなるし、どんどん自己否定し、非行も繰り返します。このままではいけないと思いながらも、非行や反発を繰り返しました。 特に母親に対する反発はすごかったです。 心では母に悪いなあ、母がかわいそう、これも全て自分のせいだと思うのですが、素直に母に「ごめんね」と言うこともできませんでした。 悪いことをしながら、どこかで母を試していたんですね。 きっと無意識のうちに、誰かに辛さをわかってもらいたいというのがあるのだと思います。 ただ一人でいいからわかってくれる大人がいたなら、大丈夫です。 今では過去のそういう自分を素直に受け入れることができ、とても気持が楽になりました。 親の会に行き始めて特に思うこと。 それは休むことの大切さと、自分を大切にすることの大切さ。そしてこの休むことと自分を大切にするということは、つながりあっていると思います。 息子が学校を休み始めてすぐの頃、一日に何度か「しんどい」、「疲れた」と言う時がありました。 好きなゲームをしても、すぐに「疲れた」と言ってやめていました。 私はその頃、なぜ休んでいるのにしんどいのだろう? ゲームは好きなのになぜ? とよくわかりませんでした。 それからだいぶ月日が経って、ある日私がそんな感じに一度なりました。用事をしてもすぐに疲れてしまう、何もしなくてもしんどい・・朝起きた時、すでに疲れていてしんどいのです。 うまく言えませんが、心が疲れているというか、心と体がとても疲れている自分にはじめて出会いました。 その時に昔、息子が言っていた「疲れた」の意味がわかりました。 親の会でよく問われることですが、「子どもに休むことは大切と言いながら、はたして自分(大人)はどうだろうか?」と。そうです。 それまでは疲れていても、自分が頑張らないといけないと、休むことなく、自分のことはついつい後回しになりがちです。 私は子どもの頃に、母に、世間に、大人に、全てに反発していたにもかかわらず、自分が大人になり子育てしていると、子どもの頃には自分の中にはなかったのに、知らず知らずの内に染みついた世間の価値観や世間の目を気にする部分があったのです。 それがわかったのは、息子の不登校がきっかけです。 我が子の不登校を通して、私は自分に染み付いた価値観や世間の目を気にしていた部分など、多くのことを捨てました。そして全く違う生き方を、我が子から、そして親の会から学んでいます。今では私と母もお互いよくわかりあえるようになりました。 親の会の人たちに出会えたことは、私にとって宝となりました。 昔よく泣いていた私は、今はよく笑います。 自分の好きなことも出来るようになりました。 自分で言うのもおかしいけれど、私もかなり強くなりました。そして我が子の成長が楽しみです。 私と息子で小さな家庭菜園もしています。 二人で育てた野菜を、夕方二人で料理するのは楽しいです。 普段は無口な夫が、「これ家のキュウリ? トマト?」と聞いてきます。 子どもって自分で知りたい、学びたいと思った時に普段の生活の中から自分で学び吸収していく力がとてもあります。 畑でも何の野菜の葉っぱなのかすぐに覚えます。 計算をしていたり、難しい漢字を読んでいたりして、いつの間に覚えたのだろうと思う時も多々あります。 好きなゲームや本の遊びの中で自然に覚えていったのですね。 二人で始めた将棋も、ぐんぐん腕を上げ、私に勝ち目は全くありません。 教科書の上での勉強ではないけど、生活の中や遊びの中で、知りたいやってみたいという気持ちがどんどん出てきて、自分で学んで自分の力にしていくのですね。 私も今はとても安心しています。 昔、膝の上で「ママのために幼稚園に行く」と言っていた我が子。 今は小5で元気に不登校しています。 家族みんながダスと話し、笑います。 昼間、ダスと息子が家にいるのは、今の我が家ではとても自然で当たり前。 そしてその当たり前が今の私の幸せです。私も今、自分を大切にゆっくりと休んでいます。 夜はよく息子と夫の将棋大会が開かれます。 見てるととても楽しいです。私は毎日、息子とダスに囲まれ両手に花! とても幸せです。 息子にありがとう。 ダスにママの子になってくれてありがとう。 夫にありがとう。 親の会のみなさんありがとう。 みんなに感謝です。 (松元町)
|
最終更新: 2010.6.22
Copyright (C) 2002-2010 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)