体験談
2014年5月例会より
目次
1 今はとても幸せ! しずりんさん
2 3人の不登校の子どもたちにありがとう! ジュンさん
3 「自分を一番大切に」を学んだ親の会 みどりさん
4 「よろい」を取り払って、ありのままの自分になるの かえちゃん
5 不登校の息子、本当に本当にかわいい! みーやさん
「不登校になった息子がかわいくない、この子と一緒に死のうと思った」と言う初参加のお母さんへ、それぞれ自分の体験を話してもらいました。
今はとても幸せ! しずりんさん
息子が中学のときに行かなくなりました。その前から朝になったらおなかが痛い、頭が痛いと言って、毎週小児科に行っていました。中2の体育祭のころから行かなくなって、毎朝8時に学校に電話するのがすごく負担で、この会で電話しなくていいと言われてとても楽になりました。毎日リビングを占領してパソコンを膝に置いて、昼夜逆転していました。今も昼夜逆転しています。この会で言われて、息子に「行かなくていいよ」と言ったら、にっこり笑って・・・(涙ぐむ)
当時は、かわいいなんて全然思えなかったですよ。「この子さえいなければ私は二人の娘たちで子育ても終わってたのに」と思って、「なんでこんなに心配ばかりかけるんだろう、産まなければよかった」と思っていました。
でも、家庭訪問の時には高校に行くと言ったので、すごく安心したんです。でも行けるわけがないんです。パソコンばかりして、今でもソファのその部分がへこんでいるほどそこにばかりいましたから、何も勉強もしませんでしたし。親の会で相談して、「高校は行きたいときに行けばいいんだよ」「家に居てもいいんだよ」と言うとにっこり笑って、それから明るくなりました。そのときは笑顔が出たからこれでいいと思いました。最初に行かなくていいと言ったときと、この時のことを思い出すと今でも涙があふれます。
「高校に行かなくてどうするの? 人生の敗北者だ」などと医者から言われたこともありました。私も息子もとても傷つきました。息子はそれ以来、具合いが悪くなっても決してその病院には行こうとしませんでした。
その息子も今もう24歳で、私は夫の父の葬儀をきっかけに、ここ何ヶ月か先々の不安にとらわれて落ち込みました。それで心療内科にも行ってみたんですが、消費税が上がる前の3月で終わりにしようと思って(笑)。でもこの会で言われるように薬の力を借りてもなんにもならないですよね。この会で、「将来の不安におびえない」と言われていたのに、今でもたまにその不安に捉われてしまいます。でもそれも「たまに」になりました。夫がくも膜下出血で倒れたときは、将来の不安なんか何もなくて、ただその時、その時が必死だったのに。息子が一番私を支えてくれて「落ち着いて」と言って、救急車を呼ぶように指図してくれたんですよ。
私はここ数か月の不安だったとき、家でダラダラしている自分がすごく許せなかったんです。でも、今はダラダラしてても「いいじゃん!」と自分を許せるようになってゆっくりしています。韓流ドラマも楽しんで、お花作りも以前のように楽しめるようになりました。元気でない時は人から何を言われても身体が受けつけなかったです。
息子にはいろいろ言いたいですが、「いつまでこんな生活してるの?」と言っても何も反応しないです。なんで息子はこんなにでんとしてるんだろう、ある意味すごいなあと思っています。夫にも「働けるうちは俺が面倒みるから」「考えてもどうしようもないことは考えるな」と言われています。
―――この会に参加するようになって、盆暮れと行っていた夫の実家に行かなくてよくなったことが最大の成果なのね。自分の人生を大切にすることを教えてくれたんだよね。
そのことが一番よかった、自分を大切にすることを学んだことが一番です。私も最近は笑顔がたくさん出てきました。それを夫が一番喜んでいます。クスリを飲んでいるときは副作用でビールも飲めなかったけれど、今は一緒にビールも飲めてとても幸せです。
―――幸せだと思えるようになって本当によかったですね。
3人の不登校の子どもたちにありがとう! ジュンさん
中1で行かなくなった長男は、担任に「明日から学校に行く」と約束して、これで行くと思ったんですけど、前の晩、夫と私にお兄ちゃんが「僕やっぱり行けない」と話をして、夫が「自分で約束したんだから、行けないんだったら自分で先生に謝れ」と言ったので、家に来た先生の前で息子は土下座して「ごめんなさい」と頭を下げたんです。
―――それを見たあなたの夫は、それ以来何も言わなくなったんですね。
そうですね。最初の子だったので、初めの頃は「学校に行け、行け」と言って、無理やり行かせようとしました。その時は、まだしぶしぶ行っていましたが、学校のことにちょっとでも触れると、親への暴力は無かったんですが扇風機を蹴ったり物に当たっていました。それを見た夫が「何しているんだ」と怒って、トイレの中に閉じこもった息子に「10秒数えて出てこないとドアを蹴破るぞ」と言って、ほんとに蹴破ったんです。相当怖かったと思います。そのうち、息子は「頭が痛い」「お腹が痛い」と言い出し行かなくなり、トイレのこととか、土下座事件のこととかあって、私たちも諦めたんです。
―――あなたも毎日学校へ電話をしていましたね。
学校からも電話があって、クラスメートも毎朝のように来て「行くよー」って優しく声をかけてくれたんですけど、息子は部屋から出てこなかったですね。学校からの電話も、その土下座したときから、私たちも「もう、いいです」と断って、来なくなりました。
―――そのお兄ちゃんが、その後家で過ごして、22歳の去年の11月からアルバイトなどして動き出して、今年の4月からは通信制高校に行く手続きを自分でしたのね。
自分で探した食肉加工場で働き出したんですが、すごく過酷な現場で相当きつかったみたいです。それでも責任感からか一所懸命頑張ったんですけど、結局開陽高校の通信制に行くというのも自分で決めて、入学式も行きました。仕事と両立出来ないので仕事は辞めて学校を頑張りたいと言ったので、私も「自分で決めたことだから、いいんじゃないの」と言いました。
仕事は今月で辞めて6月から家でゆっくりすると息子は言っているんですが、でも求人雑誌を持ってきてコンビニで働こうかなとも言って(笑)、でも「(コンビニ経営の)うちでは働きたくない」と言っているんです。
―――先月のお話で、あなたの人生の価値観だった「努力、根性、忍耐」が180度変わって、気持ちが楽になったというお話をされたけど、一番辛かったのは三番目の息子さんが行かなくなったときでした。
私はいくつもの大きな山とチョコチョコとあったちっちゃな地獄を乗り越えてきたんですけど、子どもたち三人のことが今までの中で大変だった気がします。お兄ちゃんが大量の薬を飲んだのも、二番目の娘が拒食で入院したり、リストカットも大変でした。三番目の息子は「出来がいい」ので、ちょっと安心感があって、私も「希望の星」だと期待があったんです。でも中学入学早々から行かなくなって、あの時はバーンと突き落とされましたね。
いろいろあり過ぎて、ジェットコースターみたいに上がったり下がったりして、今日まで来たと思います。よく、まあ耐えたなぁって。精神的にも不安定になって自分をよく責めて(涙ぐむ)、自分さえ頑張れば、なんとか家庭がうまく行くような気がして、仕事もいくつか掛け持ちしていました。母親って家族の中心だから、家族のために頑張らないといけないとか、でも仕事も忙しくて、仕事のせいで子どもたちがこんなになったのかなとか、いろんな理由を思いつめて、とにかく家族がうまくいかないのは自分のせいだと思ってしまいました。
―――今思えば自分をそう責めなくてよかったのにね。今はほんとうに幸せですね。
そうですね。もう、吹っ切れて気持ちが楽になりましたね。(―――子どもはちゃんと生きて行くだろうと)そうですね、自分の道を自分で行けばいいと思えるようになりました。
お兄ちゃんもちゃんと自分で決めたし。ぶっきらぼうで口が悪いし嫌なことも言って、私もそれに対して言い返して、これが普通で、お互い言いたいことも言っているし、娘もあれだけ心配させたけど、仕事も自分で見つけてやっていて、彼氏も出来て今が一番幸せですし、三番目も、上ふたりを見て、結局学校に適当に行って「卒業したら、バイトするよ」と楽観的なことを言っています。だから、今となっては、あんなに不安になって、なんだったんだろうという感じですね。
―――「将来が不安」という気持はなくなりましたか。
そうですね。何とかなるんじゃないかなと思えるようになりました。今は別居している夫のこともこのままでいけたらいいかな、仕事が一緒なので、仕事の話も子どもの話もそこで出来るので、今はこのままでいいかなと思います。
「自分を一番大切に」を学んだ親の会 みどりさん
私は国分の山形屋で働いています。大人のブランド店で、その店の商品を着て「歩くマネキン」として宣伝します(笑)。長男が県外の大学に行っていてその仕送りがあるので頑張っているんですが、結局自分の物を買ってしまいますね。(大笑)
私が親の会に参加したのは35歳の頃でした。長男が小2から、次男は幼稚園から行ったり行かなかったりでした。次男は小5の時にスポーツ少年団のバレーボールを何度も見学に行ってやりたいと言い出しました。担任は若い男の先生で、何でもOKと言ってくれてよかったんですが、バレーの監督は学校に行っていないとダメという監督だったので、週に2、3回ホームルームにだけ行っていました。(笑)
長男は今25歳で大学3年です。私が子どものことを心配しなくなり、自分自身の幸せをここで学んでいくにつれ、「この子の人生だからホームレスになることも覚悟しよう」と思ったら、突然動き出しました(笑)。今はあまりにも自分を大切にし過ぎているかもしれません。(大笑)
―――息子さんが大学に行くと言った時におつれあいさんが、「うちはお母さんがお金を使い過ぎているから金はないぞ」と言われたのね(笑)。いい話ですね。
はい。夫がそう言ったのでビックリしました。
息子は「俺、“高認”取るから」と言って、でもあまり勉強しているふうではなくて、2階からはパソコンの動画を観たり、ゲームをしてゲラゲラ笑う声が聞こえていました。参考書も2冊しか買わず、独学で高認を取りました。
私は自分のことに一生懸命で忘れていたんですが、先日娘が「高認を取る時メチャメチャ勉強していたよね」と言って、そう言えば息子も「大学受験より学科が多いので、高認を受ける時の方が勉強したよ」と言って、そうだったなあと思い出しました(笑)。
―――以前息子さんがギターの専門学校に行きたいと言った時に断ったことがありましたね。
はい、そうでした。でも当時息子は引きこもって外へは一切出ない状態で、ギターの弦も買いに行けず、私が頼まれて買いに行っていたんです。弾くことは難しいけれど、作る方だったら息子は手先が器用だし技術が身についていいのかな、この子がやりたいことを見つけたんだから物にならなくてもやらせてあげるのが親じゃないか、と私もだんだん気持ちが傾いていきました。
木藤さんに相談すると、「一切外に行けない子がどうして学校に行けるの? 無理しているんじゃないの」と言われて、「ああ、そうなんだ。息子は今の状態を受け入れていないんだ」と分かって、息子に「お金はだせないよ」と伝えました。
すると息子は「お母さんはなんで反対するんだ。今じゃないとダメなんだ、皆が卒業するんだ。僕も同じ線上に立ちたいんだ」と胸の内を爆発させました。長男は少し私にかみつきましたが、本人もわかっていたんだと思います。
そんな長男が外に出るようになったきっかけは、夫が1回目のタイ赴任から帰国した時でした。「柳川にウナギのせいろ蒸しを食べに行きたいね」となった時に、私は長男は絶対に食べに行かないと思っていたんですが、夫が息子を誘ったら、本当に「一緒に食べに行きたい」という気持ちが伝わったのか、「仕様がないなあ、一緒に行ってやるか」となったんです。それがきっかけで息子は美容室に髪を切りに行ったり、自転車で外に出るようになりました。次男と娘は全然気にせず外に出ていましたし、友達とも遊んでいました。
長男の時は親も初心者なので、思いも強くて、私は家事をしながらボロボロ泣いていました。それは「お母さんはこんなに悲しいのに、なんで学校に行かないの」と言っているようなものだと、あとで親の会に参加して分かりました。自分でもどうしていいのかその頃は全くわかりませんでした。自分の不安の方がすごく大きいものだから、たった7歳の小さな息子に親の私が「一生の中で学校に行かないことはそんなたいしたことじゃないよ」とどうして言えなかったのか、と思いました。なんで、なんで、という世間体や自分のプライドがその時出ていたんだなあと思います。
―――新しく参加された方にお伝えしたいことは?
すぐには大丈夫と思えないと思いますが、今笑っている皆さんも最初はボロボロだったと思います。私自身も死ぬことを考えました。
親の会で内沢さんから「小さいうちから不登校でよかったねえ、おめでとう」と言われたんですが、その当時は中高生の家庭内暴力の話がたくさんあって、こんなことが将来待ちうけているのかと思いました。小さかったから抱きしめられて良かったけれど、この先が長い、しかも3人いると思いました。
今、18歳の娘も幼稚園から不登校でしたが、とてもしっかりしています。
今お寿司屋さんでバイトをしていますが、ネタを切ったり、寿司飯やうどんのだしを作ったり、天ぷらを揚げたり、セクションリーダーとして休みの配分をしたり、と一番大変なところで頑張っています。学校へ行っていたら絶対に経験出来ない体験をして、娘も「こんなことが出来るなんて自分でも思っていなかった」「両親のいいところを受け継いだみたいね」と言いました。(笑)
21歳の次男は居酒屋でバイトをしています。夕方6時から夜中の3時くらいまで働いています。我が家はそれぞれのタイムスケジュールで生活しているので顔を合わさない日もあります
私は子どもたちは大丈夫と思っています。私の安心がそう思わせてくれています。
不登校になってくれたことが本当に良かったと思っています。もしそうなってなかったらと思うと自分自身が怖いです。あれがいいよ、これがいいよと私の考えを押しつけて、傲慢な振る舞いや言葉を発していていたかもしれません。
「よろい」を取り払って、ありのままの自分になるの
かえちゃん
薩摩川内市に住んでいます。息子は今21歳です。中高一貫の私立の学校に行っていましたが、中3の頃から行かなくなりました。違う高校なら行けるかもしれないと思い、私が全ての手続きをして鹿児島市の私立高校を受験して入学したんですが行かなくなりました。私は毎日車で息子を駅まで送って行きました。とぼとぼと歩く息子の後ろ姿に胸が痛みましたが、その時はどうしていいかわからず、そうすることしかできませんでした。
私はこれまで、辛そうにしている息子を見るにつけて、あんなことをしてしまった、こんなことも言ってしまった、と自分を責めることばかりを思い出していたんです。息子が2、3歳の頃も感情的に怒ってしまい、寝ている息子に「ごめんね」と涙を流したこともありました。そんなずっと昔のことまで思い出して自分を責めていたんです。
でも、最近自分が好きなことをして自分自身の毎日を楽しむようになって、わくわくもいっぱい増えてきました。以前では考えられないことです。
すると、ふと気が付くと、そういえば私は息子に絵本をたくさん読んであげていたな、息子をヒーローにして怪獣をやっつける物語を作って毎晩お話していたなあ、折り紙で丸めたパンをいっぱい作って二人でパン屋さんごっこをして遊んだなあと、そんな風に楽しかったこともたくさん思い出すようになり、私の心はいっぱいになってきました。
―――自分を責めている時には、嫌な思い出ばかりを思い出したけれど、自分を責めなくなったら楽しい思い出がいっぱい出てきたということですね。素晴らしいですね。
初めて親の会に参加したその夜に、あなたは息子さんに「学校に行かなくていいよ」とお話したのね。すると息子さんがすごくホッとした顔をしてくれたのね。
はい。そのときは半信半疑でしたがとりあえずそう言いました。私もその言葉を待っていたと思うんです。
今息子はゆっくりと家にいて、私はそのことに何も不安はありません。いつ起きてきているのかわかりませんが、お腹がすいたら自分でご飯を作って食べています。私は一切何も準備をせずに家を出ます。
私は、以前は家にいてちゃんとしないといけないと思っていたんですが、今は自分の好きなことを優先してやっているので、日曜日も朝から夕方までいなかったりします。
でもその方が家族がうまくいくんですよね。私がわくわくしていると、娘も「ママ、楽しんできてね〜」と言ってくれて、夫も「じゃあ今日は僕が夕食を作るね」と言って、朝早くからスーパーに出かけ食材を買ってきて、ハンバーグなど一生懸命作ってくれます。夫も楽しいみたいです。私が勝手に自分がちゃんとしないと、と思っていただけなんですね。でも全然そんな事はないんですね。
―――小さい頃からお母さんからいい子として育てられて、お嫁さんになっても一生懸命頑張って、子どもにもちゃんとした教育を、とそういう感じだったんでしょう。人から言われないようにしないといけないと。それから今解放されたのね。
私は身体中をいっぱい鎧で覆っていたんだなと思います。今ちょっとずつ鎧を取って行って、最後はその鎧を全部取り払って、ありのままの自分でいいんだと解放したいと思っています。
そんな風になりたいです。別に何をしてもしなくても、ありのままでいていいんだな、その方がまわりの家族も幸せになれる、笑顔がでてくるんだと気がつきました。全部そのままを出しても愛されるんだなと思います。
先日高校生になった娘の家庭訪問があったんですが、家の中を片付けるのが面倒くさかったんです。そうしたら娘が「ありのままで〜」と歌って、「いいんじゃない、これで」と言いました(笑)。以前はきれいに片付けて、いらないものは全部夫の部屋に押し込んでいたんです(笑)。先生が帰ったらまた戻したりして。でも今回は「これでいっか」という気持ちになりました。(笑)
―――お母さんはお元気になられましたか?
はい。私も母との葛藤があり母を拒否していたんです。母が病気になって、病状がちょっと安定してきて母に会いに行けるようになっても、行かないでいる自分自身を責めていたんですね。でも最近は別に無理に行かなくてもいいんだと思えるようになりました。
―――それはよかった。自分を責めてはいけませんね。自分の本当の気持ちに正直になるということが一番ですね。自分を一番大切にしないと周りも大切にできない。素晴らしいですね。
不登校の息子、本当に本当にかわいい!
みーやさん
お久しぶりです。私は職場の異動はなく、これまで以上に仕事で忙しく過ごしています。夫は職場を異動になり、今までは「体調が悪く時間外はできません」と申請が通っていたんですが、さすがにむずかしくなりました。毎日ではありませんが時間外の仕事をするようになって、それも私は心配です。精神科の薬も飲み続けていて、その副作用でお腹がすき夜中に食べるので太ってしまうんです。
―――息子さんは中1から不登校で、その前小さい時から「自分はこの世にいなくてもいい存在なんだ」「死にたい」と言っていたのね。そう言う息子さんにあなたはずっとつきあっていたんだけれど、ある日、「死ぬ」と言う息子さんを、「お母さんは買い物に行くから」と振り切って出かけました。その時息子さんは「お母さんが帰って来た時に僕はこの世にいないから」と言ったんですね。そういうことが2回ほどあったけれど、以来、息子さんは「死ぬ、死ぬ」と口にすることはなくなったのね。
2回目の時は夜で、息子は家を飛び出し、うちはマンションの6階ですから、私はすごく心配しましたが、やがて何もなくもどってきました。今息子は中学を卒業して家にいます。今月が誕生日で17歳になります。私が忙しく毎日を過ごしているので、逆に息子が私に気を使って言いたいことも言えなくなっているんじゃないかと心配しています。
今は帰宅が9時、10時で、夕食は10時から11時くらいになります。息子が「お母さん大丈夫?これじゃ倒れる」「こんなんじゃ家庭崩壊だ」と言います。
弟は今年中学生になりました。私は本当にバカだったなと思うんですが、私は今まで長男は小さい時からずっと私をてこずらせてばかりの悪い子で、逆に下の弟はいい子と思っていたんです。だけど今は全然違って、お兄ちゃんが優しくて私を心配してくれるんです。自分の好きなことが出来たらいいと思っているのは、実はマイペースな弟だったと最近わかるようになりました。(笑)
長男は「僕は愛されていない、生きていてもしょうがない、死にたい」といつも言っていた子ですが、この頃、大人になったなぁという発言や行動があります
母の日に子ども達と一緒にジャングルパークに行きました。その時に100円ショップで、兄弟で「お母さんが欲しいものを二つ買ってあげる」と言うので、私は「メガネケースと印鑑」と言いました。それだけだと思っていたら、その日の夕食時に、靴下も2足買っていてプレゼントしてくれました。私はそれがすごくうれしくて、それを考えたのはお兄ちゃんだったんです。お母さんには黙っておこうね、と弟に言って。(―――さすがお兄ちゃん、ね)
そういう優しいところが長男にはあったのに、不登校になるまでの十数年間それを見抜けなかったというか、この子は私を困らせるために産れてきた子なんだろうか、神様が私に試練を与えるために与えた子なんだろうかとまで思っていました。今不登校になって3年半ですが、不登校にならなければこの子の良さがわからないままでいたかもしれません。
―――お兄ちゃんは、ずっとお母さんのことが大好きだよ、とメッセージを送り続けていましたものね。
口で言ってはいないけれど、そうだったんでしょうね。困らせた時も本当は私を好きだったからそうしたんでしょうね。
以前十万円で買った熱帯魚の水槽ですが、最近は何の世話もしなくて苔だらけになっているんです。「僕は本当は欲しくはなかった」と言うんですよ(笑)。あの当時内沢さんが言われた通りだったんです。苦しいから何かを買いたかった、結局水槽じゃなくてもなんでも良かったんです。でも当時は「水槽を買わないんなら首をつる、死ぬ」と言っていましたので、それで私は預金も解約して(笑)。何だったんだろうと思いました。今は私がえさをやって私の癒しになっています(笑)。影が近づくとさーっと寄ってきてかわいいです。
私は今なかなか自分の時間が持てませんが、朝ドラの「花子とアン」が楽しみで、それを観てから7時45分に家を出ます。帰って来てからも23時の再放送の「花子とアン」を観て一日が終わります。(―――おつれあいさんとはどうですか?)ケンカする時間もないという感じです。母の介護もあるので、土曜日の半日は母のところに行きます。
これからの1年間、病院の移転という大事業があるので、腹をくくって仕事をしなくてはいけません。今度役職が上がってその立場で仕事をしなければなりません。そうすると逃れられないし、自分が実働出来た時の楽しみがないわけです。人にさせる立場なんですが、その難しさを実感しています。
―――忙しくなって大変な毎日だけれど、それで得た最大の財産は、あなたが息子さんの優しさを大発見できたということでしょう。
息子が気を使っているのが本当にわかって、大丈夫かな、息子が私に安心してぶつけられる存在で今いるのかなと心配になります。
―――大丈夫です。あなたも息子さんに「お母さんは役職も上がって、仕事も大変で・・」と言えばいいんです。(それは言っているんです)遠慮しないで自分の気持ちをぶつけられる息子がいる、なんて幸せなんだろうということですね。
私は愚痴ばっかり言っているので、それでも息子がきつくなった時にぶつけてくれたらいいんですが、遠慮されたら困るなと思っています。
―――それは全然あり得ません。息子さんの優しさでしょう。我が息子はこんなに優しかったのかと。息子さんはかえって嬉しいですよ。お母さんが僕に愚痴を言ってくれる、お母さんから信頼されているということでしょう。それって素晴らしい関係ですよね。前は僕のことを要らないんだよね、弟の方がかわいいんだよね、とずっとそう言われて、あなたがそうじゃないと言っても承知しなかったでしょう。今言わないでしょう。
多分私の気持ちが変わってきたんだと思います。当時は「そんなことないよ、好きだよ」と言ったんですが、本当は嫌いだったんです(笑)。本当にその頃はかわいくなかったから。でも今は助けてくれてありがとうという気持ちで、本当に、本当にかわいいので。
―――素晴らしいね。「本当に、本当にかわいい」と。自分が辛かったときは嫌いだと勘違いするんだよね。でも、「本当に、本当にかわいい」というまでの気持ちになるのに何年もかかるのね。(16年かかったんですね)自分を大切にしてきた何よりの証しですね。無条件の愛情は必ず伝わりあっていくんですね。本当に胸の熱くなるお話でした。
私は精神的には強い方だと思っていたんですが、4月から自分がおかしくなりました。夫はいつもこの気持ちで職場に行っているんだよね、と思うと夫の気持ちも少しわかりました。
―――夫に対するお気持ちもやわらかくなってよかったですね。お兄ちゃんは、もう死にたいとは言わないでしょう。
いや言います(笑)。「死にたい」と言うのではなく、「20歳で終わりにする」と言います。「どうせ僕の人生は20歳で終わりだから、今好きなことをしているんだ」と言って、ピアノと将棋をしています。私は「それは残念だね、お母さんはもっといてほしいけど」と言って受け流しています。
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