登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2014年7月例会より


目次


1 不登校の子どもたちのおかげ   淳子さん・重則さん

2 障害のある娘が「一番幸せなのは私」と   河野さん

3 もっと楽しく生きようと思っています     みーやさん






不登校の子どもたちのおかげ   淳子さん・重則さん



淳子さん:
今31歳の息子は中学に入ってすぐから行き渋りがあって、でも親も子も学校は行かないといけないと思っていたので行って、夏休みになったら元気になったんですけど、また秋の体育祭に向けて行ったり行かなかったりで、体育祭までは頑張って、終わったら動けなくなってしまいました。すぐにこの会に来ていればよかったんですけど、その時は友達の紹介で別のところに行ったんです。

そこは「給食のメニューは貼っててください」とか「学校からのチラシも目に見えるところに置いてください」みたいな感じでした。そこに1年ぐらい行っても、学校は休んでいても元気にならないんです。新聞で東京シューレの子ども達の講演会の記事を見てここに来て、それから会に参加するようになりました。

初めて朋子さんに電話をしたときに、「私は息子が学校に行かないのはいいと思っているんです。でも元気がないので」と言ったら、「ほんとに行かないでいいと思っていますか?」と言われたんです(笑)。

自分ではそのとき行かなくていいと思っていたんですけど、学校には行かなくても元気になってほしいとか、家にいないで外で活動してほしいとか、それはやっぱり学校に行ってほしいということと変わらない期待だったんだなと、ずいぶん経ってから思いました。そのとき言われたことは心に残っています。


講演会でシューレの子ども達の話を聞いて、それまでの心配が消え安心した気持ちになり、早く家に帰って息子に会いたいと思いました。でも一方ではシューレの子ども達みたいに元気で、みんなの前で話しするようになってほしいというのもありました(笑)。

いつもパジャマを着てごろごろしていたので、不登校は恥ずかしいことじゃないんだから外で活動してほしいみたいな気持ちがあって、それは口では言わないけど、そういう気持ちが伝わっていたんじゃないか、息子にとってはプレッシャーだったんだと思います。


娘は幼稚園の頃は元気だったのに、小学校に入ってすぐにアトピーやじん麻疹ができて、今考えると学校アレルギーだったのかと思うくらいでした。私は知らなかったんですけど、1,2年の頃はよく保健室に行っていたそうです。でも、先生ともよくしゃべるし、お友達も家に来たりするし、不登校を心配するようなことはなかったですね。だから娘が中学になって学校に行かなくなるだろうとはまったく思っていなかったです。

息子も小学校の時はまったく心配なくて、中学に入ったとたんに、他の小学校から来た子とかサッカーの部活ですごく辛くなったんですね。


―――いじめにあったのね


中学は二つの小学校が一緒になるんですけど、一つは全員来て、もうひとつの息子がいた小学校は半分に別れ少数派だったんです。息子をいじめていた子は同じクラスで、ボスみたいな子で暴れん坊だったんです。1年生のクリスマスのとき、その子のお父さんがお詫びみたいな感じでケーキを持ってきたので、すごく腹が立ってつき返しました。

息子はそれから家で過ごしました。本人が一番辛かったんじゃないですか、家にいることを許せないという気持ちがあって、小学校で辞めていたピアノをまた習い始めたり、自転車であちこちまわったりしていました。だからずっと家にこもっていたということではなかったので、逆に言えば、本当に心を休めなかったんじゃないかなと思います。外に出たら同年代の人と出会うこともあって、それでまた不安になったりしていました。

初めのころは、当時の学校や先生や一緒にいた人たちを攻撃して、そのうち親が悪いと親を攻撃して、それはすごく辛かったんですけど、でも一番辛かったのはその後に今度は自分を責めてすごく自己否定するようになったときで、まだ親に言ってくれたほうがよかったなと思いました。


―――ご夫婦の辛さもピークでした。


先ほど辛い時は夜寝られなくなるという話がありましたが、私は夜コテッと寝るんですよ。夫から「あなたはよく寝ているよ」と言われるほど、昼にいっぱい考えて、考えて、辛いときほどそれにすごく疲れてしまって、夜はコテッと寝ちゃうんです(笑)。

息子が夜中12時とか1時に自分の不安を訴えて、私が眠たいと言うと、「お母さんが今寝たら、明日、朝起きたときは俺は生きちゃいないからな」と言われたり、昼間も自分の不安が高じて話し始めると1〜2時間続いて、でもそれを聞くのが私にできる精一杯のことだと思って聞いていたら、達さんから「それは止めなさい」と言われました。「子どもにつきあって子どもの辛さを助長してはいけない」「自分に無理してつきあうことは親も子もどっちにもよくない」と言われました。親のありようが問われ、大変でした。


―――いろんな場面で親が鍛えられたよね(はい)。辛そうにしている淳子さんを見て、重則さんが「僕は淳子の港になりたい」と言われたのね。

息子さん・娘さんの不登校のおかげで、たくさんの幸せと豊かな人生を学びました。今はふたりとも仕事を得て働いているのね。毎年父の日や誕生日にプレゼントされたポロシャツやブラウスを着てこられて幸せいっぱいですね。



重則さん:
今日は私の誕生日です。(ウワーッ! 盛大な拍手)62歳です。

―――おめでとうございます。今とても幸せね。

今日着てきたポロシャツも息子からのプレゼントです。(―――不登校になってよかったと思っておられるのね)そうですね、子ども達が不登校になってくれて、そのおかげなのかしれませんけれども、「自分を一番大事に」と、自分自身の生き方が変わりましたね。

来週、夫婦で山に行く予定です。本当はこの時期仕事が忙しくて、休んだら悪いなと思いながらも「ま、いいや、どうにかなる」と思って休みもとることにしました。2泊3日の旅に行って来ます。


―――それはよかった。なによりのリフレッシュですね。






障害のある娘が「一番幸せなのは私」と   河野さん



夏休みに入ったので少しホッとしています。でも勤務は通常通りです。
有給休暇を取る方もいますが、私は今のところそういう計画もなく、みなさんのように家族でどこかへ行けたらいいですね(笑)。

小4の娘は障害(脳性小児麻痺)があり養護学校に通っています。
2ヶ月くらい前に感動したことがありました。

夕食時、お酒も入ってホロ酔い気分の時に、僕が「うちで一番幸せそうに生きているのは誰だろう?」と聞いたら、同時に3人が答えたんですが、妻と息子は予想通り「お父さん!」と言ったんです。でも、娘は「私!」と言ったんです。

私たちはこれから娘が自分の障害をどう受け入れていくのか、一番気になるところですが、娘のその言葉を聞いて、いいなあと感動しました。

よく聞く言葉に「障害は不便だけれど、不幸じゃない」とあります。
まさにその通りで、「不幸じゃなくて幸せだ」と娘は思っているんだとわかって、うれしかったです。

結構できないことが多くて「どうしてできないの? もっとこうしなさい」と言われる生活だと思うんですが、私以上に「自分は幸せに生きている」と言ったのがびっくりで感動しました。

娘がそう思えるのも養護学校がとてもいいところで、娘をちゃんと守って育ててくれていて、4年前の小学校入学の時に、地元の小学校か、養護学校かで悩んだんですが、養護学校でよかったねぇと妻と話しました。


―――それはもちろん養護学校もそうでしょうが、なんと言っても河野さんのご家族がすばらしいから、娘さんもそう思えるのよね。

親が「娘はかわいそうだ。障害を持っているから何とかしてあげなくちゃ」と思っていたら、娘さんはそうは思いませんよね(そうですね)。

不登校の子の場合も同じね。かわいそうだと親が否定的に見ていたら、子どもは自分のことを幸せだとは思えませんね。

素晴らしいですね。わが子に大感謝ですね。



中学校に勤めていて週に1回学級通信を出すんですが、私はそのことを書きました。

「幸せかどうかは世間の価値観で決まるんじゃない。その人がどう思うか、いろんな考え方や価値観がある。今きつい思いをしている人も考え直してごらん。私の娘でも今幸せと思っているんだよ」と書きました。


(HP管理人注:河野さんのお話については、2011年3月例会時の
「みんなで支えあう自慢の家族」もご覧ください)






もっと楽しく生きようと思っています  みーやさん



長男が不登校になったのは中1の時です。
長男は5歳の頃から「僕はいない方がいいんでしょう、僕のこと嫌いなんでしょう」と言っていました。弟が4つ下です。

台所から包丁を持ってきて自分の指を切るまねをしたり、明らかに表情が暗くなっていったので鹿児島大学のカウンセリングに通いました。

でもそこは何をするということでもなく3ヶ月もしないで終ったんですが、中学で不登校になって学校のカウンセリングを受けたら、なんとその鹿大の先生だったんです。その先生が覚えていてくれて、気になっていましたと言われました。


―――学校のカウンセラーはどんなことを言われたの?


う〜ん、もう忘れました(笑)。
心に残るものはないですね。その時は一生懸命だったんですが・・・。

実は何ヶ所か行っていて、サンエールや南さつま市にも何回か行きました。
姶良に有名なカウンセーラーがいると聞いて、息子が不登校になってすぐのクリスマスに無理やり連れて行ったことを覚えています。そこは1回8000円くらいしました。でも何を話したか、何を言われたか、覚えていません。(笑)

息子が学校に行かない選択をしたときに、私は、ああ、やっぱりと思いました。

それまでの伏線がいろいろありましたので。小学校の頃もずっと「死にたい」「生きていたくない」は常時言っていて、どうしてなんだろう、愛情が足りないんだろうか、と土、日は連れだして、でも「出かけるときは弟と一緒だったので、満たされなかった」と言うんです。じゃあ、二人で出掛けたら満たされるかと言ったら、ああじゃない、こうじゃない、といろいろ言われて、どうしていいかわからず、へとへとの状態でした。

夜寝るときは、自立したいと言って5,6年の時は一人で自分の部屋で寝るんですが、「寝付くまで背中をさすって」と言うんですね。弟は違うところで寝ていて、「お兄ちゃんが呼ぶからごめんね」と言って、ずっとお兄ちゃんのところにいて、やっと寝て弟のところに戻ってくると、弟は疲れて寝てしまっているんです。

そうすると私は心の中で弟に悪かったなあ、ごめんね、という気持ちになりました。そうなると手こずらせるお兄ちゃんが憎いんですね。あんたのせいで・・・と。私を困らせるために、私に試練を与えるためにこの子は生まれてきたんじゃないか、とさえ思いました。それが伝わっていたのかもしれませんね。

それまでは普通に学校に行っていたんです。
部活に行って、塾に行って。その前日の日曜日まで、私と一緒に出かけていたんです。月曜に「陸上部の部活で走りこみをして疲れた」と言って、火曜日の朝はきつそうだったけれど、学校に行きなさいと送り出して、その日帰ってきたら、「もう殺してくれ、死にたい」「自分はダメだ」「自分は今までと明らかに違う」と言って。私は何が何だか分からず、昨日まで学校には普通に行っていたのにと思って。気がつかなかったんですね。

私の心の中で、この子はこうなったらもうたぶん駄目だろうと思って、学校に行けとは一度も言いませんでした。ただ私は、「死にたい」と言って元気がなくなっていくことが気になって、どうにかしないと、と思ってカウンセリングに通ったりしたんです。今思えば一番きつい時に動かしてしまいました。

本人もまたなんとかしなくちゃと思うんですね。
学校に行かなくなってすぐに冬休みになったんですが、3学期は行かなきゃという思いがあったんだと思います。寒い夜に「陸上競技場まで走りに行く」と言うんです。

それに私も夫も弟まで付き合ってついて行ったんです。陸上部でもっと頑張らないといけないと思ったのかもしれないし、やる気を出すためにそうしたのかもしれないし、今となっては無駄なエネルギーを使うことをしてしまったなと思っています。

結局3学期も行かなくて、卒業まで見事に1日も行かなかったので、「こんな素晴らしい不登校は中学校始まって以来です」と言われました(笑)。今17歳になって楽しく生活しています。


―――あなたは5月例会でこう話されています。


今息子は中学を卒業して家にいます。今月が誕生日で17歳になります。私が忙しく毎日を過ごして・・・今は帰宅が9時、10時で、夕食は10時から11時くらいになります。息子が「お母さん大丈夫? これじゃ倒れる」「こんなんじゃ家庭崩壊だ」と言います。・・・

私は本当にバカだったなと思うんですが、私は今まで長男は小さい時からずっと私をてこずらせてばかりの悪い子で、逆に下の弟はいい子と思っていたんです。だけど今は全然違って、お兄ちゃんが優しくて私を心配してくれるんです。

・・・そういう優しいところが長男にはあったのに、不登校になるまでの十数年間それを見抜けなかったと言うか、この子は私を困らせるために産れてきた子なんだろうか、神様が私に試練を与えるために与えた子なんだろうかとまで思っていました。

今不登校になって3年半ですが、不登校にならなければこの子の良さがわからないままでいたかもしれません。・・・

今は助けてくれてありがとうという気持ちです。本当に、本当にかわいいです。



息子さんが「僕は死ぬからね」と言っても、この会で私たちはそういう話に付きあってはいけないと話してきました。実際、息子さんがそう言った時にあなたは勇気を出して「お母さんは買い物に行ってくるからね」と言って出掛けました。その時、息子さんは「お母さんが帰って来た時には僕はこの世にいないからね」と言いました。あなたが帰ってきたときには、救急車とパトカーが来て騒然となっているだろうと思ったら、そうではなかった。もう1回そういうことがあったけれど、以来息子さんの態度も変わったのね。


そこに至るまでに1年かかりました。

4月から私は仕事が大変で、「お母さん、マッサージをしてあげようか」と気を使ってくれます。夫は仕事の異動で大変、弟は4月から中学校入学で大変な中、この間は「俺は死にたい、死にたいと言っているけれど、家族で一番長生きするのは俺だろうな」と言いました(笑)。

私は「あなたはストレスもなく毎日過ごして幸せだよね」と言ったら、「いや、幸せではない」と言いました。心の中では本人も葛藤しているんですね。家族がそれぞれ一生懸命生活している中で、自分は楽に生活していて申し訳ないと思っているんでしょうね。


―――でも、あなたはとっても大事なことを言いました。お兄ちゃんのことを心から可愛いと思えるようになってきたと。するとお母さんの本当の気持ちって、言わなくても伝わるんだよね。お互いの愛情が伝わって響きあうようになって、どれだけ幸せでしょうね。


昨日、弟が泣いたんですよ。今夏休みで兄弟二人でカードを買いに行って、どっちがと張り合うんですね。結果的にお兄ちゃんが選んだカードの方がちょっと高くなったんです。弟が「僕はずっと今まで我慢していたんだ」と言って泣いたんです。

「お兄ちゃんが水槽を買ったり、月何万と使う時に、僕もほしかったけれど、お母さんを悲しませたくないから我慢したんだ」と車の中でバスタオルを抱えて泣くんです。「お母さんはわかっている」と言ってなぐさめて、でも買ってはあげずにやっぱり我慢させたんですけれど。弟も我慢していたんだなあと思って。


―――ほんとうに子どもたちって可愛いねぇ。


お兄ちゃんは「俺は社会でやっていける気がしない」と言ったんです。「なんで?」と聞いたら、「お母さんを見てるとやっていける気がしない。社会に出るって、こんなに大変なの」と言いました。

私は親が一生懸命頑張っている姿を見せたら、子どもの勇気になるんじゃないかと今まで頑張ってきたのに違うんですね。なのでもっと楽しく生きようと最近思っています。(―――以前は悲壮感が漂っていたのかもね)そうですね。


―――以前お昼のランチを楽しむことがワクワクと言われていましたね。(今は行けないことが多いですね)忙しい仕事で、お母さんの介護もされているし、自分をもっと楽しんで生活していくことが一番大事だとお兄ちゃんは指摘しているんですね。おつれあいさんはお元気ですか?(夫は元気とは言えませんがなんとか職場に行っています)

いろいろあるけれども、子どもたちや夫との生活が一番の幸せだと思えるようになってきました。あなたが親の会に来た最初の頃は、「学校に行かないのはいい、死にたいというのをなんとかしたいんです」と言われていた時に比べたら、それは雲泥の差ですね。






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最終更新: 2014.11.3
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