登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談


2002年10月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.88


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



9月例会報告


朝夕冷え込んできました。そんな日は澄み切った秋晴れですね。皆さんいかがかお過ごしですか
 9月の例会も会場いっぱいの59人の参加で、うちお父さんが18人。会を重ねるごとに「お父さんパワー」が感じられますね。



 長崎から親子3人がはるばる参加しました。
たくさんの不安を抱えて、でも大丈夫なんだよという皆さんの暖かい気持ちは通じました。
会を最初に呼びかけた長谷川さんは「不登校への偏見や差別は実は自分の中にある、
そのことに最初は気づかないが、参加する中で気がついていって不安がなくなっていきます」。



子どもを丸ごと受け止めようという話は13年間の重みがありました。
夫や家族に理解してもらえない苦しみやそんな時どうしたらという問題に、いつでも人を変えようと思わない、でも自分が変わることは出来る。



自分が受けた感動を伝えていくことが大事だと話し合われました。
我が子のお陰で「自分の中にある世間」を捨て、自分が変わったことで楽になり、自由になれたという何人かの話は大変貴重でした。



しかし、親が変わっても、我が子が自分の人生に納得するのにはやはり更に時間がかかります。
ひとつずつ納得しながら人生を送る子ども達の生き方はとてもとてもすばらしいですね。
毎月参加している中学校教員が、学校で不登校の子が気を使っている様子を報告しました。
実態は大変生々しく、勉強になりました。



 今月もまた参加者の方々に貴重な意見がたくさん出て、笑いと涙があふれる親の会でした。
終わった後「命をいただきました」と長崎の方から感想をもらいました。


登校拒否を考える親、市民の会(鹿児島)



1.小学校低学年から学校へ行きません
 (Hさん、Kさん、K2さん、長谷川さんの体験談より)


2.他の家族にどうやってわかってもらえるでしょうか
 (Mさん、Aさんの体験談より)


3.保健室登校はしない方がいいですね
 (Sさんの体験談より)


4.私の夫が家族と私を守ってくれました。
 (Tさんの体験談より)


5.過食の娘は僕の先生
(山口良治さんの体験談より)



小学校低学年から学校へ行きません


Hさん(母):長崎から家族3人で、初めて参加しました。
息子は小1です。
息子は入学式直後から登校を渋りました。



何とか学校へ行かせようと、3日間で転校させて私が学校の行き帰りを共にしました。
息子は教室に入れなくて、入れようとすると泣き叫ぶので、校長や担任から「他の子の授業妨害になるので、保健室で静めて落ち着かせるように」と言われました。



私が子どもと一緒に授業を受けたいと言ったんですが、「担任が緊張するし、お宅だけ特別に出来ないから」と校長に断られました。
それでも息子を何とかしたいと思い、保健室登校をして教室に入れるようになったんですが、その後下痢、夜中に恐怖心が出たりするようになってきました。



とても悩み学校へ相談に行ったら、「1年生からの登校渋り、登校拒否は単なる甘えだ」、「親の育て方が悪い」と言われました。
一人っ子ですから私の育て方が悪いとずっと思ってきました。



担任に「対話が必要ですから家庭訪問をして欲しい」とお願いしましたが、「忙しい」と断られました。
夫婦で学校に足を運びお願いしてもだめでしたから、もうそれは止めました。



 夏休みになると、息子は下痢がおさまり明るさを取り戻しました。
しかし登校日にまた私が連れて行くと、最初の不安と恐怖の表情になり教室には入れませんでした。



私は「学校に行って欲しい、行かせなければ」と教育委員会へ相談したら、「1学期の終わりに行けたんですから、そんなに先走って心配しても」と言われました。



 始業式になり登校しても、門から入れなくて母子で引き返して来ました。
それからは家にずっといます。
でも、朝からだらだらと漫画ばかり読んでいる息子を見ていると、「学校に行きなさい」と言ってしまい、私は自己嫌悪に陥ります。



 そんなときインターネットでこちらの親の会のホームページに出会い、すごく救われた気持ちになりました。
今までは学校関係の人ばかりと関係を持とうとして、はじかれけなされてきました。



HPの書き込みなどを読んで、親の私が考えを改めなければならないんじゃないかと思いました。
明日からは息子の気持ちを大事にして、今日は皆さんのお話を聞いて勉強したいと思います。



Kさん(母):我が家は小3の一人っ子、男の子です。
3歳のときは福岡にいてその後鹿児島に来たんですが、福岡の幼稚園のときから行き渋りがあり、行かない日が続きました。



その頃は「一人っ子だから甘やかしている、育て方が悪い。首に紐をつけてひっぱって来い」とさんざん言われました。
母子して精神的に滅入ってしまい、毎日二人で泣いている時期がありました。



 入学しても行き渋りが出て、私のところも1年間送り迎えをしました。
息子は毎朝下痢、吐き気があり、学校側は「遅刻でもいいから来なさい」と言って、休ませてもらえませんでした。
私にとって幼稚園の2年間と1年生のときが1番しんどいときで、子どものことを常にどうしたらいいかと思い悩んでいました。
いろんな本を読みあさっていました。



2年生になりこちらへ転勤になりました。
そして親の会を知り本当に楽になりました。
担任も風変わりな人で、私が「子どもに任せたい」と言うと、「そうですね」と言ってくれました。
子どもに言ったら、次の日から1日も行かなくなりました。



行かなくなって、朝11時まで寝ているときがあったり、夜中2時に寝たり、2食だったりで生活がとてもバラバラなんですが、下痢もなくなり気持ちが悪いこともなくなり元気になりました。
ですからSさん、早く学校を辞めた方が子どもさんのためにはいいと思います。(笑い)



 息子は1日中ゲームをしたり、テレビを見たりしています。
夫が帰宅する夜9時ごろから粘土遊びを始めたりします。
福岡にいたら、「早く寝なさい。宿題しなさい」「早く早く」と言っていたと思いますが、時間に関係なくニコニコ遊んでいる子どもの顔を見たとき、良かったなとすごく思えるんです。



Sさんは私たちの福岡時代と同じではないかと思います。
行かなくても大丈夫ですよ。
息子さんと二人でゆっくりしてください。(笑い)



Kさん(父):福岡にいる頃は、私も低学年ですから、学校に行かないとだめだと思って、「今日は学校に行ったか?」と毎日聞いていました。



Kさん(母):毎日お昼に夫から電話があって、「学校に行ったか?」「また休んでる?」と聞いてきて、それがとてもプレッシャーになってしまい、電話は学校関係か夫で電話を取るのが嫌でした。
幼稚園のころは他の父母からも「来ないと迷惑です」という電話があったりしましたので、びくびくになっていました。



―――お父さんは今はもうお電話はされていないんですね。



Kさん(父):はい、今思えば反省しています。(笑い)



―――お父さんはどうして吹っ切れたんですか?




Kさん(父):こちらの親の会へ参加するようになってからです。
そして全国合宿でも学校に行っていなくても立派に育っている子ども達を見て、別に行かなくてもいいんじゃないかと思えました。



ただ将来に対する心配はありますが、現実に病気がちの子がここに来てからは元気になったのを見て安心しました。
Kさん母:鹿児島に来てから病院にかかったことはありません)



―――おまけにご夫婦の仲も良くなって良かったですね。(笑い)




子どもさん:今日は僕の誕生日のケーキをこれから食べるんだよ。
(おめでとう!!・・拍手)犬のダスの誕生日は3月18日だよ。
(山口さん:僕と一緒だ)。(笑い)



K2さん(父)小5の長男と小1の次男が行っていません。
今年の4月、3日目から長男が先に行かなくなりました。
おとなしい性格で人がいいというか、いろんないじめにあってそれが原因かなと思っています。



次男は行ってくれると思っていたのですが、「どうして僕だけ行くの?」「えー、行くのー?」と言うのを、「行こうか!」と言って、私はずっと連れて行っていました。



6月の半ばに、もうちょっと行けないかも知れないという感じになりました。
そのときちょうど担任から「チック症状が出ていたり、テーブルの下に寝そべって全然授業を受けられる状態ではない」と言われ、「ああ、やっぱり」と思ったら、次男が自分から「もう行きたくない」と言いました。
「じゃあ、やめようか」ということになりました。



 行かなくなって心配したことは、今数字は少し読めても、何も字が書けなくていいのかな、お勉強しなくていいのかなということで、ホームページにそのことを書き込みしました。
元小学校教師のこの会のなおぶーさんが「うちの子は小4だけどまだ文字は書けないですよ。



字を覚えることより好きなことをして、そのうち必要になったとき、字(勉強)を吸収するものですよ」とアドバイスを受けました。
ですから勉強も全然させていません。
先輩方が「家でさせなくてもちっともかまわないよ」と皆さんおっしゃるので。(笑い)



Hさん(母):息子は漫画本を読んでいるとき、手、洋服の端をしゃぶっていてすごく気になるんですが、それがチック症というのでしょうか?



―――そのときお母さんは何か言いますか?



Hさん(母):言います、「だめ!」って。
K2さん(母):私は何も言いませんでしたよ。言わない方がいいです。自然にさせておけばしなくなります。



―――まだまだお若いお母さんだからエネルギーがあって、息子さんに目がいってしまいますね。
「いい加減は良い加減です」から(親の会の格言)、アバウトに、そういうことをいちいち言わない。



「学校に行かないのだったら、何かしなさい」とか、「朝早く起きなさい」とか、お母さんの目が“学校”の目になってしまいますね。
お母さん自身が不安でいっぱいだったのですね。



お子さんの行動全てを不安のまなざしで見ていると、子どもさんの不安は消えないのですね。
子どもさんが学校を休みお母さんが安心するようになると、自然に消えていきます。



 お父さんは如何ですか?



Hさん(父):私自身は学歴はどうでもいいと正直に思っています。
将来買い物をしたときにお釣りさえ間違えなければいいと。



 しかし、郡部に住んでいると不登校の子も少ないし、鹿児島はこんなに人数もいて団結しているような感じで(笑い)、おまけに偏見が強い。
妻が子どもとスーパーで買い物しても、「何年生、学校は?」と聞かれたりすると傷つきます。
世間から責められ、疎外感を感じてしまいます。



だから仲間がほしいですね。
この会でよーし!と思っても、帰ると日々の生活の中でしぼんでしまいます。
私はここの会で生の声で勉強したことをバネにして今後闘いたいと思いました。



長谷川登喜子さん:長崎の方は親の会がないというお話でしたが、私の子どもが不登校になった13年前はこちらもありませんでした。
一人でいるととても不安になり、一緒に支えあっていきませんか、親の会を作ろうと呼びかけたんです。



今はインターネットでホームページを見られるといういい時代ですね。
現在、登校拒否は多くなっても減ってはいません。



 近所やスーパーどこに出かけても人の目が必ずありますね。
親が我が子は自分の責任で育てるという気持ちが大事で、私は「うちの子は休んでるだけだから、遊びに来てね」と近所に言っていました。



行ったり行かなかったりしているときは母子ともすごく追いつめられますから、自分だけ一人孤立しないようにインターネットを見たりするといいですよね。



人から言われたときに毅然と親がしておれるかどうかということだと思います。
親が試されているときです。
まず親の中に差別や偏見がないのか、ということなんですね。



学校に行かないと大変なことになるという思いがあるということは、自分の中、親の中に差別や偏見があるということだと、やっていくなかでわかりますし、子どもを丸ごと受け止められるようになると、なんと言われても気にせず外でもニコニコできます。



 また当の子どもの方が人の目を親より感じるようになって、家から出れなくなりますので、子どもが自分から外に出られるようになるまで、家を居場所にして好きなようにさせて下さい。
 うちの子も小3で行かなくなり、最初の頃は「お母さん、今2時間目だから字の練習をしようかな、教科書を見ようかな」と言って休んでいても学校にとらわれていましたが、そういうことも自然になくなり、学校行事も学期の始めも気にならなくなりました。



親が学校を本当に吹っ切れたとき、子どもも吹っ切れるのがあとから追いかけてきますので、とにかく親が優しく見守って下さい。
 学校から「家庭訪問がない、何も話してくれない」とかじゃなくて、それはとても幸せなことです。



困ったことがあったら、インターネットもあるし、こちらの会へ連絡くだされば13年間の経験の積み重ねがありますので、大丈夫です。





他の家族にどうやってわかってもらえるでしょうか


 Mさん(母):21歳の娘と15歳の息子が家にいます。
親の会に夫が車で送ってくれたので、一緒に参加しようと勧めたのですが、「押し付けるな」と言ったものですから、私もそれ以上言えませんでした。
夏合宿に参加した後はしばらくよかったんですが…。



7月の中ごろ夫の姉から電話があり子ども達のことを聞かれました。
姉から「子どもが弱いからだ。私の所によこしなさい、私が叩きなおしてやる」と言われました。
私が親の会に行って勉強をしていると言ったら、姉は「傷のなめあいをしているようなそういう弱い所に行ったら強くならないから、もっとしっかりした人の話を聞きなさい」と言いました(大笑い)。



姉は離婚して息子をしっかり育てたという自負があるものですから、夫婦揃ってそんな状態でどうするなどと言いました。
私はひっぱたいてやりたい気持ちで、落ち込んでしまいました。



夫は7人姉弟の一番下なので何も言えないのです。
夫から「妻も頑張っているんだ」と言って盾になって欲しかったのに、夫は「そうなんです、困ったもんです」というふうに言っていました。
夫は会報も読みません。



―――いつも合宿しないとダメですね(笑い)。
親の会に参加するのとしないのとでは全然違うんです。



それがお母さん自身の負担になって一人では支えきれなくなるんですね。
でも今日も娘さんがいらして下さったので、お母さんの力になれると思います。




Aさん:夫じゃないですが、不登校の子どもの母親つまり私の娘を変えるのに苦労しています。私は祖母です。
 今とても深刻な状態なんです。
この会に来るために昨日退院いたしました。



先月は1時間の外出ということで参加しました。
私が入院している時娘に「あなたが親の会に行かなければ、私はもう死ぬよ」と言いました。
もう娘と縁を切るという位の覚悟だったんです。



娘の手紙には「不登校の親の会へは、私の仕事が一段楽したら行くつもりです。
弟のソフトや学校の行事がある時は、まだその方を優先します。私が今あるのは弟がいるからです」不登校している上の子のことは関係ないという手紙です。



非常に残念な思いで、どうしたらここに来るように親の気持ちを動かすことができるか、それを教えていただきたいと思っているんです。(涙)



―――大平光代さんが講演の中で、大平さんが割腹自殺未遂をされた時にお父さんとお母さんはとにかく世間体が悪いから、自殺未遂をした娘にさえも学校に行け行けと言ったんです。



そして自殺未遂をするような子は頭がおかしいんだと言って精神科に行かせるんですね。
そこで大量の薬をもらったんですが、その時にお祖母ちゃんが「そんな薬は飲まなくていい、飲んだふりをして捨てなさい」と言ってかばってくれたんです。



お父さんとお母さんは本の中にも書いてありましたが、世間体を気にして味方になってくれなかったとあります。
だから、不登校のそのお孫さんにとって「僕のことを真剣に考え、味方になってくれているお祖母ちゃんがいる」という思いは、命の救いだと思います。



お母さんというのは、子どもを殺すような母親じゃない限りは絶対愛情を持っています。
今はソフトをやったり何かしてくれる弟さんが私を困らせない存在で、でもお兄ちゃんは私を困らせている、そういう関係なんですね。



この親の会でもそうなんですが、この子は私を困らせてわずらわしいなとそういうふうになるんです。
これは初めのうちは全然不思議じゃないです。
だから、娘さんが息子さんに愛情が薄くなっていくというのは何も不思議ではないのですね。




 変わるでしょうか?



―――必ず変わります。
この親の会の会報82号の後ろに「神様の望まれたこと」を書いた浜田亜矢子さんのお母さんは、「私はこの子に愛情がないのかもしれない」と愛情がないゆえに娘を追いつめているんだと言って苦しんだんです。



 娘さん自身も悩んでいないはずはないと思います。
だから前の方とも関連しますが、「あなたも親の会に来なさい」という言い方をしたら、ますます反発されてしまいます。



ご自身が「私は親の会でこんなふうな感想を持った。こんなふうに思ってとてもよかった」などとご自身の言葉で親の会のことをお話しなさればいいと思います。
それが大事だと思います。
自分の言葉で話す。
これは対子どもに限らず、対夫、対家族との関係でも大切ですね。



私は孫を学校に行かせるために40日間指宿の国立療養所に入院させ、私は孫の見張り役としてホテルから毎日通ったんです。
それは孫と母親との葛藤がすごくて、母親を見ると孫は部屋に閉じこもりおどおどするようになったからです。



娘は孫の部屋に行って首をしめようかという心境になると言うんです。
これじゃいけない、私は二人を離さないといけないと入院させたんです。
その病院でも孫は「連れて帰ってくれ」と言いました。



でも連れて帰っても母親とふたりで生活するわけにもいかない、一緒に死ぬ勇気もない、どうしていいかわからなかったんです。
孫はその病院を何度も脱走しました。



最後に脱走した時「お祖母ちゃん、僕の人生は僕が決めるから僕が嫌だと言っているのに入院させておくのはいじめだ。
いじめてお祖母ちゃんは喜んでいるんでしょう」と言ったんです。
私はもう何も言えず(涙)、それで連れて帰ってきたんです。



帰ってきて内沢さんの報道を見て、ひょっとしたらこれで救われるかもしれないと思ったんです。
だから私は外出許可も出ないというのに、無理を頼んで前回来たんです。
ここに来て救われると思いました。
ここで学んだことをどういうふうな言葉で娘に伝えたらいいのかなと思っているところです。



―――自分の感想を率直にお話することです。
ご自分の感じたことを自分の言葉でお話しすること、押し付けではなくてですね。



 この会に来ていてほとんどの方は、お祖父母ちゃんとの関係で大変だったというのが多くて、あなたのような方は13年間の中で初めてです。
とても素晴らしいですよ。
そのためにはあなたご自身を一番大事にして幸せにならないと(笑い)、まわりは変えられませんね。




そうですね。
これから私が幸せになるようにしていきたいと思います。
これからよろしくお願いします。




保健室登校はしない方がいいですね



 Sさん(父):中1の息子です。
小5の時の担任が変わり教室の雰囲気が変わったことで行かなくなりました。
私たち親も皆さんと同じように学校に未練がましくやってきました。



 小6の頃から、それまでは親の立場だったんですが、子どもが体で表現することを子どもの立場できちっと見ることができるようになった時に、やはり学校は一つ線を引いたほうがいいんだと納得して、中学になってから1日も行っていません。
学校からは1回連絡があっただけです。




 今日は小学校から行っていないというお子さんもいらしていますが、親はどうしても勉強のことやその他のことでも世間並みについていけるかという不安はあります。



 今日は世間の話が出ていますが、それは「自分の中の世間」なんですね。
嫌なものがあったらパスしていいし、地域の中でいろいろ言う人があれば、内沢さんが言われるように「逃げるが勝ち」でいいんですね。



 私たちの世代は「常識で育つ子がいい」と育ってきたんですが、一方では、国家というものを青春の頃考えていた時期があったんです。
それを不登校した子どもを通してもう一度考えさせてくれた様に思います。



 今私の頭の中で、青春時代が戻ってきたところがあるんです。
例えば原爆のこととか、沖縄のこととか、アフガニスタンのこととか自分の頭の中でそういう問題がクローズアップしてきて、若いころのことを取り戻してくるのがわかるんです。
若い頃のフォークソング---逃げなさい、逃げなさい戦争に行かなくていいんだよ--ーという歌とかね。



 自分の周りの身近な所で、自分の中の価値観、世間体というものを今じっくり見詰めることができています。
これも子どものおかげかなと思っています。



 先ほどお祖母ちゃんの話が出ましたが、息子は最近、何故かお祖母ちゃんのところに遊びに行っているんです。
お祖母ちゃんの時代の話を聞くのが楽しみみたいで、よく夜いないなと思うと1〜2時間行ってしゃべっているみたいです。
そうやって息子は今落ち着いています。



―――子どもが落ち着いているというより、Sさんがすごく落ち着いてきましたね。(そうですね)(笑い)
親が不安を抱えながらも穏やかに落ち着いてきたら、我が子はこんな感じなんだっていう大事なことをお話されていると思いました。



Sさんが最初に親の会にいらして、一時来なくなった時があったでしょう。
その時は子どもさんが保健室登校をしていたんですよね(笑い)。(そうです) そしたら安心しておいでにならなかったんですね。
そして保健室登校をやめたら又親の会にいらした(笑い)。
すごくわかりやすいですね。



保健室登校をした時のSさんの考え方と、今とは自分で振り返ってみて違いますか?




違います。
今思えば、保健室になんでやったのかなあと反省しますね。



妻も養護教諭をやっていたんで、養護教諭と割と親しくしていたし、信頼関係もあったんです。
ですから息子がその方とうまくいっていたので保健室登校でもいいやと、息子は教室には入れないが、遊んだり体育をしたりするのが好きだったのもあって、いいんじゃないかと行っていたんです。
そしたら親としてはいつかは教室に入れるようになるんじゃないかという気持ちを持つようになるんですね。



―――そのためにはあの親の会には近寄るといけないと思って。



いえ、いえ、それは思っていません。
内沢さんは怖いなと思ったことはありましたが。(笑い)



そういう形でやったんですが、息子はすごくしんどくなってきました。
養護教諭はすごくよくやってくれて、息子にとっては個人的にいいつながりがあったと思うんです。
ビートルズの曲を聞かせてくれたり、教室に無理強いして行かせることもありませんでした。
ただ息子が教室に入れないということを深く考えれば、どんなにその養護教諭とうまくやっても前提には学校があるわけです。



 学校の枠の中なんですね。
そういう状態は息子にとってしんどいんだなということをわかるのに、私の場合は2年近くかかりました。



 それからこの親の会でいろんな子どもたちの話を聞いていくうちに、グタグタ言わないで学校というものを一回切り取った方が、子どもが又それから先、選択肢として学校を選ぶことがあったらそれはそれとしてよし、辛かったらそれでよしとしようと思いました。



 半年ぐらい前までは家の子は、学校に行かないとホームレスになってしまうと心配しました。
でも最近は私の心の中で、ホームレスになってもいいんじゃない、彼らもいろんな人生を歩んでいるし、いろんな浮き沈みがあるし、逆におもしろいんじゃないという話もします。
ですから、いろんな意味の話が本音のところで子どもとしゃべれる関係が出来ていることは幸せなんだと思います。




私の夫が家族と私を守ってくれました。


 Tさん(父):中2の修学旅行の後息子は不登校になり、その後一切学校へは行かず今年の春中学を卒業しました。
「高校はどうする?」と聞いたら、一時的に本人が揺れて「行きたい」と言ったので手続きしようとしたら、この会で止めたほうがいいとアドバイスされ手続きはしませんでした。



 そのおかげで今は落ち着いて生活しています。
 私の両親との関係はいろいろありました。
両親が妻を責めたので、「もうそれならば行き来はしない」と言って関係を断ちました。
その後私の弟の手術などで会う機会があり、今はやり取りもあります。



―――もうお祖父ちゃんは息子さんには何もおっしゃいませんか?



Tさん(母):1回家にお義父さんは来られたのです。
その時、長男はパソコンに熱中していたのですが、その姿を見て「ここまで出来るのだったら、パソコンの専門学校へ行ったら」とおっしゃって(笑い)、どうしてもこのままでいいとは言えないみたいですね。
あの年代の人はそうなんだなと思って…。



 義父が直接息子ではなく電話で私へ言いますので、私も「そうですね」と受け流すようにしています。
どこかに行って欲しい、何かをして欲しいと思うのは仕方のないことだし、息子へ伝わらなければ、もういいかなと思っています。
以前のお義父さんから考えるとそれでも精一杯変わってくれた状態なんだろうと思います。



―――あなたは夫からかばってもらったんですね?



 そうですね。
夫が義父の味方についたら、一緒には生活できませんでしたね(笑い)。
あれでいそいそ夫が実家へ帰るようでしたら、おしまいでしたね(笑い)。
すごいけんかで、初めてでしたから。



 それまではとてもいい関係だったのです。
それでもやっぱり、あんな性格のお義父さんが折れてくださったのには感謝しています。
学歴や職歴で人を判断する性格で、それを又言葉に出す方でした。
でもだいぶ変わってくれたと思います。



 息子は以前はゲームセンターに行ったり床屋にも出かけていたのに、今はもう外出もしない、朝起きたらパソコンをしています。
髪も私が切っています。
息子は「必要があれば出るし、今必要がないから外出しないだけだよ」と言い、全然気にしていません。



―――いざとなったら家族を守ってくれたお父さんは素敵ですね。(拍手)




過食の娘は僕の先生


 山口良治さん:19歳の娘です。
不登校してから拒食・過食になり、今朝も5時、6時ぐらいまで過食してという昼夜逆転の生活をしています。



 先程、初めて参加された長崎の方が世間が気になるという話をされていましたが、世間から見ると私はバツイチで、娘は高校中退で拒食・過食で非常に不幸な家庭と映ると思うんですが、私は職場で同僚に「家はこうですよ」と自分のことも子どものことも隠さず話しているんです。
 そうすると皆さんびっくりされますが、家はこうですと自信を持って話すことができるようになってくればいいんじゃないかと思います。



 私は娘に教えられることがいっぱいあって、そのたびに感動させてもらっています。
この間も夏休みに帰っていた高専に行っている弟を送って寮まで行ったんですが、前時代的な寮で、収容所に近い感じなんですね。



 僕は男子寮はこういうものだと思っているんですが、娘はあんな所に入れていたらかわいそうだから早く辞めさせなさいと言うんです。
(笑い) 娘の感性から我々が当たり前と思っていることを、全然違う観点から教えられています。



―――愛美ちゃんは過食の前は拒食だったんですね。
どんどん痩せていき、死んでしまうのではないかとものすごく心配されたんですよね




 そうです。
娘は絶対病院には行かないと言っていたんですが、僕は鹿大の心療内科に連れて行き、ベッドが空いたら入院の予約をしました。
心療内科では薬がでて、一週間後にまた来なさいと言われました。



 薬を飲んでいるものとばかり思っていたんですが、結局一つも飲んでいなかったんですね。
学校に行かないのはしょうがない、だけど過食・拒食は治さないといけないと思ってましたから、ショックでした。



 NHKラジオの教育相談をよく聞いていたのに、わが身にふりかかるとは思ってもみませんでした。
学校に行かないのはしょうがないと受け入れても、ただ拒食でしたので、見る見る痩せていってそれは耐えられなかったです。



 世話人の木藤さんが「28キロになった人もいるけど大丈夫だから心配ないよ」と言ってくれたことを娘に話したら、あとで娘が、「私はまだまだ痩せないといけないと思った」と言いました。



 結局治りたいと思っていないんです。
自分を追いつめてまだまだ痩せないといけない、痩せないと心配してくれない。
治ってしまったら学校に戻らないといけない、何かしなければいけないというふうになるから。
28キロと聞いたら逆にまだまだと思ったと言うんです。



 こっちは気休めになると思って大丈夫だよと言ったのが逆になってしまって。
子どもをそのまま受けとめるということが重要だなと思いました。



―――このままで大丈夫だと思って楽になっていったのはいつ頃からですか?



 最初は仕事も手につきませんでしたが、親の会に参加して安心したせいか割と早かったですよ。
性格もあると思うんですが、考え込む時は考え込むんですが、まあ考えてもしょうがない、なるようにしかならないと思って…。



 今も過食してバケツいっぱい吐いているし、生理も止まって心配は心配なんですが、今は実際のところはそんなに思っていません。



 今、娘は鹿児島のホームページのチャットにはまって、その中でもこの人はちょっと違うんじゃないかと言います。
本当に心を開いて話しているのか、うわべだけなのか、その嗅ぎ分ける嗅覚というのはすごいなと思いますね。



―――愛美ちゃんはおばあちゃんとの葛藤をよく話しますが、山口さんにとっては実のお母さんだし、その時はどういう気持ちで聞いていたんですか?



 家を出なさいと内沢さんから言われましたが、僕の選択肢の中に家を出るという選択肢は全くなかったんです。
しかしそういう問題意識を持って何とかしなければならないと思って、両親に話して大口を離れて鹿児島に出てくることができたんです。



結果的にそれはよかったですね。
僕と娘の生活はすごく穏やかに過ぎていっています。



 僕は離婚しましたので、実家で子どもの面倒を見てもらうために一緒に生活していたわけです。
おばあちゃんとしては孫をしっかり育て、おいしいものも食べさせて、不憫な思いをさせたくないという気持ちがあり、一生懸命してくれました。
それなのに何で私の気持ちがわからないのと、特におばあちゃんにはそういう気持ちが強くていろいろありました。



 愛美自身が出口のないトンネルの中にいる、学校に行こうと思っても行けない状況なのに、おばあちゃんは自分で考えて乗り越えないとだめだと言うんです。
だけどそれができないんだからといくら言ってもわかってくれなくて、自分の母親と娘の間に立ってほんと辛かったですね。



 娘はどうしようもなくて、キリをもって弟を追いかけまわしたり、包丁を投げたりしたこともありましたね。
 今は弟も大好きだし、おばあちゃんも本当は大好きなんだけれど、今は会えないというそういう状況ですね。



―――山口さんは最初親の会にいらした時はずっと泣いてましたよね。
あの時の愛美ちゃんは生きているか、死んでいるかわからない状態でしたよね。
おばあちゃんと離れてから愛美ちゃんも親の会に参加するようになり、明るくなってきましたよね。




 そうですね。
食べ物が確保されている安心感というのがあると思います。
米だけではなくおいしいものをまんべんなく食べたいわけです。お菓子も食べたいし…、食べた先から吐き出してるんですけどね。(笑い) それは気にはならなくなりましたね。



―――愛美ちゃんに「将来はどうなって欲しい?」と聞かれ、お父さんは「夢を持って…」と答えたら、愛美ちゃんにブーと言われてしまったんですよね。(はい)
 「そのままの愛美でいいんだよ」と答えなかったと。
お父さんは通信簿をつけられたりして毎日とても勉強ですね。

 




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