登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2003年1月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.86


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



1.森田さんの場合

2.村方さんの場合

3.小泉さんの場合

4.Sさんの場合

5.金子さんの場合

6.Bさんの場合


7.Hさんの場合

8.Aさんの場合



森田淳子さん:19才の息子です。
息子も不安をいつも持っていて、息子が「ここが痛い、耳が痛い」と言うと、私も「不登校は病気じゃないから、病院に行って体をあちこち検査しなくてもいい」と分かっていたのですけど、顎が痛いと言えば、今若者に多い顎偏位症かなと思って歯科に行ったり、耳に水が入って1週間しても治らないと言えば、耳鼻科に行ったり、視力が下がったと言えば、眼科に行ったり、それは不登校とは全く別のことだと思って行ってました。



 それは息子が「学校に行かなかった自分はだめだ。せめて身体は人並みかそれ以上で、おかしいところがあってはならない」とすごくこだわっているということなんです。
やっぱり息子の中にそういう不安が常にあったんだなというのが、去年ぐらいになってやっと分かったんです。



 息子は去年から冬になって空気が乾燥すると、「目が痛い」と言いだしました。
目を抑えて「痛い、痛い」と言うと、私も病気じゃないかなと思ってしまいました。



 私が病院に連れて行こうと思っていたら、息子の不安を私が助長していることになるんじゃないのと言われて、「お母さんはもう病院に行かせない」と言って止めたんです。



 季節的なこともあるのか春から夏にかけては目は痛くならないのですが、今年、又秋口から痛みを言い出しています。
我が家は暖房はファンヒーターしかなくて、出そうかなと思っている矢先に、息子が目を抑えていて「目が痛い、開かない」と40分ぐらい抑えていました。



 息子は、今外に出れない状態なので、私は目の痛みよりも通院することのほうが大変だと思って「行かなくても大丈夫だよ、抑えていればいい」と言いました。
 息子は「僕が学校に行かない最初の頃、お母さん達があちこち連れ出して辛い思いをさせたから、僕は病院にも行けないんだ。



 病院に行けないようにしたのはお母さん達だから、他の方法を探してきて」と言い、「部屋を乾燥させてしまうから、ファンヒーターも出すな」と言いました。



―――久し振りに責められたんですか?




 それも私だけです(笑い)。
夫は二階にいて下りてこなかったんです。(大笑い)
1時間ぐらいして夫が下りてきたら、息子は何も言わないで二階に上がっていきました。
だから夫がいなかったので言ったんです。



―――淳子さんは息子さんの目がどうかあるのかなあと思われた?




 やっぱり、ずっと目を抑えていて開けなかったので不安でした。
その日は何もなくて、翌日、夫は「寒いから、今日ファンヒーター出すよ」と言いながら、出さないで帰って行ったんです。
寒くなるのが分かっているから出してくれたらいいのに。(笑い)



―――息子さんがそうやって不安を訴えたんですね。
先程の方の話を聞いてすごく共通するでしょう。
 だから「大丈夫なんだよ」、そう言いながら又不安を訴えたなあとなるんです。



森田重則さん
:息子が不安を訴えると、私自身が不安になるんです。
その夜妻から電話で「どうしたらいいだろうか」と言ってきました。



 どうしたらいいか分からなくて、内沢さん宅に尋ねたのが翌日だったんです。
結局、私はなにもしないほうがいいと分かってはいるんですが、それが身についていないので、それを内沢さんから引き寄せてもらったというのがその日でした。



―――自己批判しなくていいんです。(笑い) 
子どもが不安になると親は必ず動揺するんです。
「何かあるんだろうか」と、それを子どもが見ると又不安になり、それで親が又…と悪循環になるんです。



 それを断ち切るには、その不安に対して親が同調しないことです。
重則さんはお仕事を半日休んでいらしたんです。



 その直前に息子さんから電話があったんです。
私は「昔、おばさんは札幌にいたんだよ。
昔は石炭ストーブだったから石炭ストーブの煙で鼻の穴も真っ黒で(笑い)、雪が降ったら雪も黒いし、空気も乾燥し、そういう劣悪な条件の中で生きてきたんだよ。



 今は全国乾燥している時なんだから、ドライアイで目が痛くなるのは当たり前、そんなことは気にすることはない」という話をしました。
その時、娘の玲子が重則さんにいいことを言ったんです。



内沢玲子さん:私が思うには不安はだんだん減っていくんじゃなくて、常にあると思います。
それに親も一緒になって子どもと不安になりたかったら、なってもいいと思います(笑い)。



 私の経験上から言うと、不安は何年経っても忘れることはあっても無くなることはないから、「目が痛い」、「携帯電話が怖い」と子どもが言ったら、「目が痛くなりたかったらそれでいい」、「怖ければ怖いでいいんじゃない」というような感じで返していって、それにいちいち相手していたら親自身が体力が持たないと思う。



 本当は子どもが言っている中味自身が不安なんじゃなくて、私自身もそうだけど、毎日不安だったことや昔の出来事を思い出してそれを自分の中に持ち込むのは大変だから、どうしてもいろんな形で吐き出したくて、お母さんに意味のないこととかを毎日毎日言うのであって、言っている中味をどうにかして欲しいと思って言っているんじゃないんです。



 そういうふうな形で自分の中の不安を少しでも取り除きたいために出しているだけなんです。



 それに対して、親が一緒になって「じゃあ、どうしようか」とオロオロして言ったら、それは子どもを助けていることではなくて、むしろさらに「あっ、やっぱり自分はおかしいんだ」と追い詰めてしまうだけなんです。



 そういうふうに子どもが言ったら、「不安になりたければとことんまでなったらいいじゃない」、「御飯食べれないんだったら、食べなければいいんじゃない」、「目が見えないんだったら、見えなくてもいいんじゃない」、「おかしくなりそうと言ったら、とことんおかしくなっていいんじゃない」、そういうふうな感じでしていたらいいと思います。



 森田さんのおじちゃんには、子どものことに付き合いたかったら付き合ってもいいけど、自分の事を一番大切にして楽しんで下さいということを言いました。



―――我が子がパニックになったり、痛いと言ったりいろんな形で辛さを親に訴えてくることはとてもいいことなんです。



 不安をストレートに親に言うことが出来る程信頼されていることはありません。
その時親が我が子の言っていること、状態をみてウロウロ、オロオロしたら子どもはどうでしょう? 
もっと不安になるでしょう。



「大丈夫だよね。大丈夫だよね」とくり返し親に聞いているんですね。
親がオロオロすることは辛さに手を貸すことです。
でんと構えられないということは、いつまでも我が子を苦しめているということを忘れないで下さいね。


 



先月の例会で村方美智子さんのお話で、夫がより一層優しくなったとありましたが、敏孝さんどうですか?



 最初は妻が家にいて家のことを何でもしてくれると思っていたが、勝己君のいじめ自殺裁判でとても心が苦しくなったとき仕事を休んだり、辞めたりしたことがありましたよね。




判決後も長い間の疲れがどっと出て、仕事を休んでおられた時期がありました。美智子さんが働きに出て、敏孝さんは家で家事をやって、例えば洗濯物などは美智子さんよりさらに上手にたたみ(笑い)、お風呂も綺麗に洗って美智子さんが帰って来たら、「お風呂にする? ご飯にする?」と(笑い)。



以前には焼酎飲んでお刺身食べて寝ていたんですから、考えられなかったですよね。



村方敏孝さん:家にいるものがしないといけないと思ってやっています。
美智子が僕と代わっただけで、今は大黒柱で働いています。
確かに僕は台所に立つのも嫌でした。美智子が言っていましたが、「20年間あなたに手をかけないでいいのは、風呂上りに焼酎の1升ビンとポットをテーブルに持っていくだけ。
これだけはしなくて済んだ」(笑い)。



今は料理も作り、洗濯もします。
以前とすると夫婦仲もよくなりました。
妻が「ああ、助かる」という言葉に出さずとも雰囲気を感じたら、もっともっとやります。



 でもこれは亡くなった勝己がもたらしてくれたんです。
自分自身が体の故障が半年以上かかり、そんななかで感じて変わってきたことです。ふたりで一人という感じです。



―――最初お会いしたときからとても謙虚な方でしたが、やはり“鹿児島のとうちゃん”ですから、私から見たら威張っていましたよね(笑い)。



 でも敏孝さんの美智子さんに対する細かい思いやりとか、すごく変わりましたよね。
勝己君が教えてくれたということもあるけど、皆さんも聞いていてお分かりですが、そうすることで自分の気持ちが明るくなる、自分を開放することになるんです。



 自分は男だ、偉いんだと、自分は支配者だと思っていたりする、それを変えていき、自分の気持ちを開放して心が軽くなっていくんですね。
価値観の革命ですよ。
それを不登校や閉じこもりをやった子どもたちから教えて貰うということなんですね。


 



小泉成一さん:今のお話は我が家の2年前と同じような状況です。
同じように中1でしたから、僕はお宅のお父さんみたいに立派じゃないので、やっぱり学校に行かないといかんと思いました。
いかに早く学校に行かせるかと、そればかり思って今の方と同じですね。



 1週間と言っておられたので、こういう状態だと1週間がものすごく長く感じられますね。
1週間も親としてはゆっくりさせてやったという気持ちで。
子どもにとってはものすごく短い時間です。



 うちの経験からではゆっくり出来てないんじゃないかなと思います。
子どもは学校を休んでいるからゆっくり出来ているかというと決してそうじゃなくて、休んでいても苦しいという状態がずっと続いていくんだろうなと思います。



 森田さんのお話にもあったように、子どもの不安と親の不安はいつも裏表です。
最初は僕の方が立派だったんですけど、今じゃカミサンの方が立派になって先日の「親父の会」でもそんな話をしましたが、私も最近進歩がありません。



 どうしても子どもの先に手を打っちゃうことが多いんです。
あっ不安サインが出てきている、調子がおかしくなったら救ってやろうとか、何が子どもを不安にしているのかと一生懸命考えて助けてやろうとついついやりそうになる。最近はカミサンの方がそれをじっくり待っているようになっています。



 さっき玲子さんが言っていたように子どもの不安を出した方がいい、出てくるまで待っていようと思います。
ここ2ヶ月前にも不安が出て窓ガラスが割れました。



 見ているとああこんなことがあったのかと子どもの気持ちが分かるようになりました。
今自分たちがしないといけないことは、不安を抑えるんじゃなくて、見ていようというふうに変わってきました。
今まで不安にならないように先に手を差し伸べようとしてきました。



子どもが不安になるとこちらも不安になって「何でこんなに不安になるんだろうか」とついつい考えてしまいます。
子どもが言ってくるまで待とうと思っています。



 今の方へ、親は子どもが冬休みに元気になると、学校へ行かせたいという気持ちに絶対になり、その気持ちを子どもは間違いなく感じ取ってそれがプレッシャーとなります。
学校へ行くよねと親は言いたいんですよね。
3学期からは行くよねとものすごく言いたいと思います。



 聞いてみると子どもは必ず「行く」と言います。ところが体が動かないんですね。
そうすると親は何をするかと言うと「2年生になったら行くよね」と言います。
「まあ3学期は休もう、じゃ2年生になったら行くよね」と言って、子どもをどんどん追い込んでいきました。


 



Sさん(母):今15歳の子どもです。
中2の修学旅行が終わってから行かなくなり、もう2年になります。
最初は2,3日かな思ったらずっと休みが続き私はパニックになりました。



 私の母や姉にも相談して本人を説得してどうにか連れて行ってもらおうなどとしましたが、ベッドにしがみついて行きませんでした。
学校の先生が迎えに来たときは会うんですが、「早い」と言って行かないし、担任が「先生と一緒だと行き辛いだろうから学校で待ってるね」と行ってしまうと、そのまま行きませんでした。



 それがずっと続いて担任が「もう登校刺激をしても状況が変わらないから、そっとしとこう」ということになり、だけど親にしたら行かなくなってもう1ヶ月近くになり、「このままじゃ、この子の人生はだめになる」と思っていました。



 その頃、私が息子にいつものように「このままじゃだめでしょう」と責めていたときに、ちょうど夫が帰宅したことがありました。
息子が初めて私に手をあげました。



 テーブル越しだったのでその手は届きませんでしたが、夫が後ろから息子を止めると、今度は足でまた蹴ろうしました。
そのときちょっと息子の顔を見たら涙を一杯溜めていて、夫が手を離すと洗面所で顔を洗っていました。
その姿を見て、「ああ、なんでここまでしたんだろう」と思い、すぐ内沢達さんに相談に行きました。



 そのとき達さんに、「冬休みが終わったら行くようなことを言ってるんですが」と言うと、「いやもう行かないから。それがプレッシャーになって冬休みを楽しく過ごせないから、新学期から行かなくていいからゆっくりしなさいと言ってあげなさい」と言われました。



 お正月前に「行かなくていいからゆっくりしなさい」と言うと、しばらくして何もしない子だったのに、私が洗い物を残していたら、朝になったら綺麗になっているんです。
手紙があって「暇だったからお茶碗を洗ってた」とか、「暇だったから部屋を片付けた」と言うのが2,3日続いて、「ワーすごい」と思ってしまいました。



「行かなくていい」と言ってしばらくすると手伝いもなくなって、普通に今2年過ぎました。
息子に「あの頃はしてたよねー」と言うと、「気を使っていたのよ」(笑い)、「あの時は行かなくていいと言ってくれて嬉しかったから、何かしてあげないとと思った」と言ってました。



 今は起きている間は、インターネットをずっとしてにこにこ笑って幸せそうです。
高校に入るときに少し揺れたくらいで、後は普通にしてます。



―――そのときの涙は忘れられないですね



 あのときはもう親に涙を見られたくないのか、夫が手を離したらすぐ洗面所へ行き、あの泣き顔は忘れられないです。
家にいることはもう何にも違和感はありません。



 お父さんが仕事に行くときも、帰ってきたときも「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」と笑っています。
髪を染めたいねーと言うと「染めろ、染めろ」と言って、私が3人ともカットと染めをしてやります。



 最近下の子が「疲れたから休みたい」と言います。
上の子には「休みなさい」と言ったのに下の子(中1)には言えなくて(笑い)、部活が好きでおまけに土日に目一杯遊ぶので疲れが溜まり、1ヶ月1日必ず休みます。



 毎月風邪だ風邪だと言ったらこの子は毎月風邪を引くのかと思われるから、学校には自分で電話をしてと言います。
そんなに言うのだから休ませるときは休ませろと夫が言います。夫の方が変わったと思います。




金子さん(父):17歳の娘は心身ともに疲れているだろうなと思っています。
娘は中学校のときからの不登校で、中途半端な休み方をしていましたからね。



 息子は転校した小6から不登校になりました。本人は元気にしていたのですが、修学旅行後、学校や校長からメチャクチャ言われてしまって…、そのまま学校へ行かなくなりました。



 私は休むことは認めていました。中学へ入学したらもしかしたら変わるかも知れないと思って、私は息子宛てに手紙を書きました。
しかし、私の手紙を読んだ息子は泣いたと妻から聞き「しまったなあ」と思いました。



金子まつ子さん(母):手紙は「入学式だけは行き、その後は1日たりとも行かなくてもいい」という内容でした。
1日だけは父親として行ってほしいという内容でした。



(父):それはなぜかと言うと、制服姿の写真が1枚ほしいという親の希望でした(笑い)。
しかし、息子が泣いたと聞いて、入学式当日、私は奄美大島(単身赴任先)から飛行機で飛んで帰ってきました。



 息子が空港に妻と迎えに来ていましたので、「行かなくていいから、もう行くな」と言いました。私は以前から「休め」と言っていました。
妻の方が「行け」と言っていましたが・・・。



――お母さんがとても不安な状態になったときがあったでしょう(はい)。
校長から「お宅の息子さんは金属バット事件の少年と一緒だ」なんて、とんでもないことを言われ、学校からの干渉がものすごく多くて、本当に心が揺れて揺れてたいへんでしたものねえ。



(父):私は息子の6年の担任と家庭訪問で会ったのですが、「ああこいつはたいしたことはないなあ」と思ったんですが、案の定の担任でしたね(笑い)。



 担任で対応できる件を「校長に挨拶に行け」なんて言われたりもしました。
 息子は転校後、すぐ修学旅行になり、学校代表で保護者に挨拶をしたりして、旅行後体調を崩し、風邪で1週間休んだのです。



 出て行ったらプールがあり、また風邪を引き休んだら、学校側が「不登校だ」と決めつけて…、次は担任や子どもたちが家まで迎えに来るわで、息子はトイレから出られなくなり、登校したらしたで校長室に謝りに行けと言われて、息子はすっかり学校不信になっていきました。



 私は妻には「大丈夫、心配ない」と言いました。
妻は学校信仰の塊のような人でしたから。(笑い)



(母):夫は単身赴任中で家族と離れて生活していましたから、不安なときは夫を責めていました。
こうだからこうだと原因探しに追われていた頃は苦しかったけど、夫は夫なりに子ども達のことを心配していてくれると分かったら、だんだん私も自分の辛さだけでなく、夫の辛さも分かるようになりました。



(父):逆に見えない人の方が見えている人より不安が大きいと思うんです。
直に現象が見える人はまだいいけど、遠く離れて子どもの現象がわからない人はいろんなことを想像してもっと不安になるのです。



(母):夫婦仲が悪くなって離婚も考えました。
夫を空港まで送っていく車の中で、そんな話も出たりして…。
夫は離婚したければすればという涼しい顔をしていましたね。(笑い)



(父):うちはいつも離婚、離婚でしたからね(笑い)。
好きにすればでしたからね(笑い)、まあ自分の引いたクジですから責任をもたなくちゃね。(笑い)



(母):子どもが不登校になってから夫婦で真剣に話し合うようになりましたね。
送っていく途中の車の中で夫はいつも「心配ない、心配ない」と言うものですから、「心配ないんだな」と私が思えるようになりました。



 子どものことで真剣に向き合うのは生まれて始めてだなという毎日です。
子ども達のおかげで、生きることを真剣に考え出したと思います。



(父):家族というのは縦社会ではなく、個の集合体であると思ってるんです。
子どもは夫婦の神からの授かりものと私は思っています。子どものことを自分の従属物とは決して思っていません。



 ですから子どもへ威張ったことはありません。妻には威張ったことはありますけどね。(笑い)
妻とも以前からよく話していたし、子どもたちとはそれ以上に話しています。




Bさん(父):16才の息子は今落ち着いて表情も明るくなりました。
先日の親父の会の前日の新聞の運勢に「悩み事は峠を越えた。あとは時が解決する」というのがありましたので、親父の会で紹介したら、「甘い、甘い」と言われました(笑い)。



 息子は11月20日頃から求人誌をみて自分からバイトを始めました。
自分で朝5時40分に起きて6時半には出かけています。昼過ぎには終わるバイトなので様子を見ているところです。
途中2,3日休みましたが、黙っていたら又行き出しました。



―――一番辛かったのは、いつ頃でしたか?



ちょうど1年前の今頃です。
息子は荒れるし金を持っていくわの繰り返しでした。



―――どうやって息子さんは落ち着いていかれましたか?




 その頃は私もむきになって「荒れたらだめ。金は持っていくな」と言うばかりでしたが、1月から3月まで息子が東京へ行き、4月に鹿児島へ帰ってきた頃からですね。



―――お父さんが荒れる息子さんをしっかり抱きしめて「お父さんは親の会で変わったんだ」とおっしゃったことがあったでしょう?



 その頃からですね。息子が落ち着いてきたのは。私も心から息子が可愛い、いとおしいと思えましたからね。


 
(母):家庭内暴力や夜中の徘徊がある頃が一番辛かったです。
いつ警察に呼び出されるか不安でしたね。息子は今16才ですが、小6の時に、50日以上休んでいたので、不登校だったわけなんですね。



私立中学へ入学後、6月頃から行き渋り、7月には「行かない」と宣言したのです。



それでも私達は学校へ行って欲しいと思っていたので、あらゆる相談機関へ行きました。
本人が一番学校へ行けないのがおかしいと思っていましたので「行こう」と誘うと、「行けるようになるかもしれない」と思って一緒に行っていました。



 それでだんだん私達は「本当に行けないんだ」というのが分かってきました。
しかし、本人はそれでも「行かないといけない」と思っていたようでした。
2年には「もう行かなくていいよ」と家にいたのですが、中3になると、高校へ行かないといけない「じゃ、塾へ行く」ということで、私立中から公立中へ転校しました。



 しかし悪い友人に誘われてタバコをすったり、髪の毛も染めたりもしていました。
あるがままを認めないといけないと親の会で言われて「そうなのかなあ」と思ったりもしました。



 私の不安が増した時も、夫が「大丈夫だよ、子どもを信じなさい」と言ってくれます。
今でも息子は時々帰りが遅い時もありますが、その時も夫が「大丈夫、大丈夫」と言ってくれるので、今はもう安心しています。



 昨日息子が「僕は学校へ行かなかったことを後悔している」と言ったのです。
私は「今はもう人生80年なのだから、いつでもやりたい時にやりたいことをやればいいし後悔する必要はないし、行けなかったのだからね」と言ったのです。
 しかし息子はやはりこの時期になると、学校へ行かないといけないと思うらしいのです。



 今また、付き合いたくない悪い友人から誘いがかかるので断れないから、また東京へ行きたいと言うのです。
私が「断ったらいいのに」と言うと、相手が強いので断ると暴力を受けると言うのです。



 自分でインターネットで調べて八潮高校という定時制高校があるのでそこへ行きたい。品川駅に近いところにマンションを借りたいというのです。
本当に勉強したくて言っているのではなく、変わりたいということで言っているので、今夫とどうしたものかと思っています。



―――息子さんにまだまだ焦りがありますね。
お分かりでしょうけど息子さんの言いなりになってしまうことは、又元に戻ってしまうことになりますので十分考えた方がいいですよ。
ご夫婦仲が悪かった時期はありましたか?



(母):はい、「こうなったのはあんたが甘やかしたからだ、学校へ行かなくなったのはあんたが悪いからだ」と夫に責められました。



 息子は小さい時から勉強しなくても割と出来がよくて、私たち夫婦も男の子だということで期待も大きかったので、ショックも大きいでした。
上のお姉ちゃんは学校へ行っている、弟は不登校で、私としては同じように二人の子どもを育ててきたのに、夫に責められて本当に辛いでした。



「私のせいにするんだったらいいわよ、離婚して二人の子どもは私が育てるから」と思いました。
実家の親からも「あなただけを責めるのだったら、もう帰ってきなさい」と言われていました。



 夫の両親を呼んで離婚話も出ましたが、「これではいけないのだ」と二人とも思い直して、もう一回考えてみようとなり、夫もそれからは、私のせいだけではないと分かってくれるようになり、一生懸命にしてくれるようになりました。



(父):そうでした。本当に!(大笑い)



(母):吉田の教育センターにも行きましたら、昼夜逆転しているのはよくないから、バスでセンターへ通わせなさいと言われました。
本人は卓球が出来るし、身体も動かせるから行きたいと言って、私の職場にも近かったので、私が車で連れて行きました。



 息子は卓球も頭で考えて攻略して、相手を負かしたいと考えてするのですが、センターでは攻撃的と息子をみなしましたので、私は「ああ、このセンターはだめだなあ、理解していない」と思い、息子もだんだん行かなくなりましたのでやめました。



 H先生のやっている心のケアセンターにも家族4人で参加しました。
30分で2万円かかるのを見て、息子が「全然分かっていない、金取りだ」と言い、私のバッグを狂暴に引っ張るのを見て、先生が「分裂になる可能性があるから(笑い)、伊敷病院の精神科へ行きなさい」と言いましたので、私達は「エエッー!?」という感じでした。実は私も医療関係者なんですが、「分裂になったらどうしよう」という感じでした。(笑い)



 伊敷病院まで行ってみました。
そこでは「何も心配いらないよ」ということでしたが、中1の頃は食欲がなかったので薬を処方してもらいました。



 息子は病気ではないと言って全然飲みませんでしたが、2、3回通院しました。
あと鹿大の心療内科や指宿の竹元病院で1週間入院する内観療法にも、親も本人もどうにかしたいという思いで参加しましたが、1,2日で息子は逃げ出してきました。(笑い)



―――いろいろ渡り歩いていた頃はご夫婦の仲は悪かったの?



(母):いろいろどうにかしたいと思ってやっていた頃はよかったのですが、やったことが全てうまくいかなかったものですから、最終的には「お前が悪い」になってしまったのです。



 最初から仲が悪かったのではなく(笑い)、お互いを責めるようになってからですね(笑い)。
初め不登校した頃は1週間ぐらいしたら行くかなあと親も期待するし、子どもも「月曜日から行くよ」、「3学期になったら行くよ」、「2年になったら行くよ」と言うものですから、私立中でしたので高い学費だけは払い続けていました。
最初からもう分かっていたらそんな無駄なお金も使わなくてすんだのですけどね。



 中1の頃、この親の会の事は知っていたけど、親がやはり学校へ行かせたいと思っていたので、「ちょっと違うのではないかしら」と思い遠のいていました。



 諦めた時点で(笑い)、「もう学校へは行かなくていいんだよ」と心から息子に言えた時に、「ああ、最初から親の会へ行っていたらよかったね」と思いました。木藤さんがわざわざ訪ねて下さったのに。



―――だいぶ金と時間を使いましたね。(笑い)



(父):だいぶ遠回りしましたね。お金も、時間も。(笑い)



―――でもそういうことがあって、遠回りはしたけど、お互いがよく理解しあえるようになりましたね。
赤裸々な体験でしたね(笑い)。ありがとうございました。


 



Hさん:29歳、26歳、21歳の3人の娘が不登校を経験しました。
 以前から3女は私の隣にくると毎回「お母さん、疲れた」と言っていたんです。



 私はそれに何か言わなくちゃと硬く身構えてしまい、口が重くなっていたんですが、この頃の私は疲れたと言ってきても「ああそうね、疲れたね」とそのぐらいの対応です。



 娘に「この頃は疲れがたまって爆発することがないね」と話したら、娘自身も「前は膨れた風船に針をプシュと刺すみたいにイライラが溜まって爆発していたけれど、今はそんなことがなくなった」と言いました。



 娘はイライラしてくると過食したり、ちょっとした動作が荒くなったりしました。
冷蔵庫にはいつも好きな物を入れてありますが、別に食べ過ぎとも、食べなさ過ぎとも思いません。



 何より私自身が娘から疲れたと言われても、「ちょっと待ってね、今テレビのいいところだから。ちゃんと聞こえているからね」と対応でき、娘もそれに対して過敏な反応をしなくなりました。
これまでは私自身がいつも身構えていて、何かしてあげなくちゃと自分の方が反応し過ぎていたんじゃないかと思います。



 お姉ちゃん二人が大変な時に3女には何もしてあげられず悪かったという思いと、拒否されているんじゃないかいう思いで、2重に自分の気持ちを縛っていたと思うんですが、私自身が楽になったら、娘も楽になってきたのかなと思う今日この頃です。



―――3人の娘さんが不登校でそれぞれの生き方をしてくれて、お母さんはすごく学ぶことが多かったんですよね。
感謝しなくてはいけませんね。



 



Aさん:15歳と13歳の娘がいます。
今は子どものことよりも、自分がとらわれていたことに対してとらわれなくなって、自分の気持ちを大事に出来ることがうれしいです。



 私の姉もいろいろと支配的でした。
私に対してだけであれば私が我慢していればよかったんですが、それが夫や子どもたちにまで及びました。



 私は「そんなふうに否定されると自分が生きている価値まで否定されているように思えるので、そういうことは止めて欲しい」と手紙を書きました。
しかしすごい決心で覚悟を決めて書いた手紙にも関わらず、「あの手紙は何?」と軽くあしらわれてしまいました。



 それを境に距離をおくことを決め、去年の5月から会っていなかったのですが、いきなり自分の還暦のお祝をするから皆で食事をしようという招待を母を通じてもらいました。
私は即答で親の会もあるし、行きたくないと言いました。長女も「私のそばに近づけないで」の一言でした。



 直接電話がきたのだったら私もすぐに断われたんですが、母を経由してだったので母に断わると伝えました。
その前後に母からなるべく行けるようにしなさいと言われていました。
母からは私と姉の仲が悪いというのが兄嫁に知れたら恥ずかしいと言う言葉しか返ってきません。



 私はこの親の会に参加するようになってから、自分の気持ちを大事にしたいと思うようになっていたので、何回も何回も自分の気持ちに「本当にそれでいいの?」と問いかけました。



 もう少し姉妹仲良くした方がいいんじゃないのという社会的な価値観に縛られそうになるときもあったんですが、私は自分を大事にするようになってきていました。



 しかしまた今度は姉がダンボールいっぱいに娘たちの洋服を送ってきました。
いつもそうやって甘い蜂蜜があって、支配的なことがあるという感じなんです。
例えば子どもが髪の毛を切らないとみっともないとか、着ている洋服がそれじゃぁおかしいとか、ずっと言われ続けて来たんです。



 子どもは髪を伸ばしたいんだからその気持ちを大事にしてやりたいんだと言っても、「あなたたちは子どもにやさしすぎる、そんなことをしていたらいじめに遭うよ」と批判されました。
 そして夫と私の留守を見計らって家にきて、子どもたちに食事をご馳走するから美容院に行こうと言うんです。子ども達も拒否してきたんですが、そういうことが何度もありました。



 ダンボールの洋服もすごく嫌で、最後までどうしようか迷いました。
そのまま返そうか、洋服は一応もらって、これからはこんなことをしないで下さいと手紙を書き洋服分のお金を添えて送ろうかと迷いました。



 内沢さんに“困った時こそ絶好のチャンスじゃない”と言われました。
悩んだけれどやっぱりこのチャンスを逃す手はないとだんだん思うようになり、自分の気持ちを大事にするんだったら返したいと思いました。
しかし夫に話すと「そういうことをしたら、お姉さんが泣いてしまうよ」と言ったので私は気持ちがとても揺れました。



 3日くらいその荷物をそのままにして悩みましたが、最終的には自分の気持ちを大事にしたいと思って、「送って下さってありがとうございます。でも自分の気持ちを大事に考えれば貰いたくないです。送り返させてもらいます」と手紙を書いて送りました。



 その時はものすごく気持ちがすっきりとしたんですが、あと少しの気持ちの中に姉はどんな気持ちで受け取ったかなあというのがあります。



 でも子ども達には嫌なものは嫌と育って欲しいと思ってるのに、自分がそれができていないというのは良くないので、回を重ねながら自分の意思をきちんと伝えられるようになっていけたらと思います。



―――不登校の子どもたちは自分の意思をしっかり持っているんですね。
嫌なものは嫌、自分はこうしたいんだというものをしっかり持っていますね。



 それは社会的な価値観とはあい入れないことが多いですね。
社会的価値観から見たら、学校にも行かないで、いつまでも家にいて親に迷惑かけて…と、わがままだ、自分勝手だと評価されます。



しかし私達に他人の評価の影に脅えないで自分を大事にしてと迫っているわけです。
そういう問題提起している時に我々親が本当に自分を大事にしているか、自分の気持を押しこめてあなたの不登校はいいよ、あなたの閉じこもりはいいよと言ったって、決して伝わらないということなんですね。



それは二者択一のときに試されますね。
とても周りに気を使いながらお嫁さんをしたり、妹さんをしてきたりするととても苦しみ、でも苦しみながらもそのことをわが子から教えてもらう。
とても大切な教訓だと思うんです。



 まず自分を大事にする。
子どもが不安を持っている時に親はオロオロしない、むしろ不安を持っていることに感謝する。



 その時親はどうするか、先ほどうちの娘が言いましたが、不安は放っておく、それは子どもが解決していくことなんですね。
そういう点ではとてもいいお話でした。




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Last updated: 2003.8.22
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