体験談
2002年12月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.85
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。 その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。
体験談(親の会ニュース)目次はこちら
11月例会報告
今年は、夏の全国合宿を成功させるという大きな仕事をやり遂げた年、鹿児島の親の会の歴史に残る記念すべき年となりました。
11月の例会は、小泉成一さんの原稿「親の会は心の錆落とし」を読みました。
ご夫婦で毎月参加されその積み重ねで親が変わっていく体験談はたくさん学ぶことがあります。
会報の最後に掲載しました。
今回も先月に引き続いて家族のあり方が話題になりました。
特に父親が家族に対して支配的であれば、家族の幸せは得られないこと。
参加されたお父さん達からご自分の貴重な苦い体験を交えて出されました。親の会で自分の生き方、価値観が変わり、「子どもと対等に」というSTさん、「家族があって私がある」と話された森田重則さんの言葉も印象的でした。
我が子に「何かして欲しい」と願う親の気持ちも卒直に出され、「親は何もしないことが実は一番していること」の大切さが話し合われました。
自分達も親に色いろ言われて今の人生を歩んだんじゃなくて、自分の責任で歩んできたんだよね。
親は子どもの辛さに手を貸して背中を押してはいけないんですね。Mさん、長谷川さんの体験からもそのことがよくわかります。
鹿児島のホームページを通して今回も県外から参加されました。
全国各地で鹿児島のホームページはよかったよという感想が寄せられ励みなります。
夏の全国合宿の報告集に先駆けて「この人と話そう 内沢達」をホームページに掲載いたしました。是非お読みください。
皆さん今年もありがとうございました。
1.Mさんの場合
2.長谷川さんの場合
3.STさんの場合
4.Kさんの場合
5.Oさんの場合
6.Hさんの場合
Mさん:現在長女は25歳になりました。
長女は中2で、次女は中1で、下の息子も中2でと次々に3人とも不登校になりました。
祁答院町ののどかな田園地帯で誰も不登校の子どもがおらず、最初は辛く肩身の狭い思いをしました。
長女のときは、子どもが学校で辛い思いをしているのに、不登校のことを親がさっぱりわからず、学校からもまわりからもいろいろ言われるし、なんとかして学校へ戻そうと教育センターや児童相談所へ子どもを2,3度連れて行きました。
私たち夫婦は自分たちの子育てが悪かったと思うばかりで、夫婦で説教し娘は学校へ行くようになりましたが、両親と口をきかなくなりました。
3年生の初めは保健室登校をしていましたが、2学期の運動会後から全く行かなくなり、それから5年間心を閉ざし家族とも口をききませんでした。
私はこのときが1番辛かったです。
次女は喘息があり、小学校から休みがちでした。
中学へ入学して行ったり、行かなかったりするようになり、私は何度も車で送って行きましたが、娘は校門でなかなか降りようとしませんでした。
喘息のかかりつけの医者から「これはちょっと違うんじゃないですか?」「不登校関係のカウンセリングに行ったらどうですか」と紹介され、カウンセリングに何年間か通いましたが、やっぱり学校に戻すという考え方でした。
そのカウンセラーに「親の会」を勧められ別の会に行きました。更にそこで知り合った方からこの親の会を教えて貰いました。一時期は二つ掛け持ちで、(―――忙しかったね)忙しかったです(笑い)。
最初に行った親の会は、不登校はおかしいという考えが根底にあり、私が「うちには猫がたくさんいて、娘はものは言わないけど、猫を介して娘との関係が柔らかくなる」と言ったとき、「ペット療法というのもあります」と言われ、「あっ、これはいかん」と思いました。
長女は口をきかなかったり、反抗的な態度をとったり、家の中で荒れてガラスを割ったりしましたが、私は子どもがおかしいと考えたことは一度もありませんでした。その会は子どもをなんとかしようという会だったのですね。
その後はずっとこの会に参加しています。
最初はなかなか不登校を理解できませんでしたが、奥地圭子さんや内田良子さんの講演会に参加したり、渡辺位さんの本を読んで親の会で勉強しているうちに「大丈夫なんじゃないかな」と思えるようになりました。
―――大丈夫と思えるようになるまで、何年かかりましたか?
4,5年かかりました。
その子なりにいつかは何かを見つけるのではないかと、気長に様子を見ようと思えるようになりました。
その後、長女は声優になる勉強をしたいと、東京の専門学校へ行き卒業しましたが、今は劇団に入りたいと演技の勉強をしています。
―――娘さんはいつ頃から口をきくようになったんですか? (そーですね)
Mさんは忘れておられますね。(笑い) 声優の勉強に行って休暇で帰ってきたときに、娘さんが「お母さん」と言ってくれ感動したとお話されました。
娘さんが口をきかなくてもこのままずっと家にいていい、私の老後を看てくれるかもしれない、と思いはじめたら、突然娘さんは「声優の専門学校に行きたい」と話されたということだったんです。
皆さんは、娘さんが声優の専門学校に行くと言ったところを参考にするのではなく、我が子がこのままで全然心配ないんだとお母さんが思われたとき、娘さんが「お母さん」と話してくれたというところが大事ですね。
我が子の今を心から受け入れた親の思いが娘さんに伝わったのですね。
振り返ってみてもいろいろありましたね。
このうちは悪霊がとりついているからと、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが神様をよんでお祓いをしたり。
そのときお嫁さんとして、みんなに説教されて…。(笑い)
はい、説教ではないんですが、「私は親の会にも入っているし、こういう本もある。他のことは神様かもしれないけど不登校だけは神様ではないです」と言ったんです。(笑い)
今はもう子どもたちのことは何も心配はないです。今の心配は不況のため経済的に大変なことですね。(笑い)
長谷川登喜子さん:次男は22歳になりました。
小3の12月の誕生日から、学校に行く時間になるとひどい腹痛でころげまわり、何かおかしいと思いながらもずっと学校に行かせ続けました。
内沢さんに相談したら「学校を休ませなさい」と言われたのですが、受け入れることが出来ず学校へやり続けました。
息子は夜泣きをし、一人でお風呂に入れない、人が来たら隠れるという状態になり、終いには息子の顔が青白い能面のようになるまで追いつめてしまいました。
そのとき、私はやっと学校よりも命が大事だ、学校に行かなくていいと腹をくくり、内沢さんが言われたことが初めてわかりました。
今の方と同じで、うちの夫も仕事から帰ってくると毎日必ず、「今日は学校に行ったか?」と聞いていました。
息子も「お父さんが帰ってくる、僕はどこへ逃げようか」とウロウロしていました。
私はこれではいけないと思い、家族会議を提案しました。
我が家は5人家族で子どもが3人、次男はTと言います。
私は「今、Tの状態が見えるよね。学校に行けないから、休ませようと思っている」と話し、夫には「学校に行ったか?と言わないで欲しい」、姉、兄には「学校に行きたい子は行く、休みたい子は休む」と言いました。
最初、夫は分かってくれませんでしたが、不安がいっぱいで一人ではお風呂に入れない次男と一緒に入浴する中で次男の不安が消えていき、そんなところからそれなりに分かっていきました。
次男に「学校に行かなくていいよ」と言ったとき、腹痛はなくなりました。
その後は自分のやりたいことをさせました。時間を持て余し何をしてよいかわからず、「お母さん、何したらいいの、何したらいいの」と、畳の上をのた打ち回ったときもありました。
私がここで声をかけたら「私も子どもも楽だ」と思いましたが、親として、子どもが自分の力で選択し、考えていくことを望みましたから、一切声をかけませんでした。
絵の具遊びをしたときもありましたが、それは最初だけで長い間ほとんどゲームだけで過ごしました。
私はここでも、子どもが自分のことは自分で決定していく力を持っているんだ、親は先にあれこれ指図してはいけないことを学びました。
中学校は教科書を持って1度教師が来ただけで、その後一切何の連絡もなく、何組かも分からないまま、「進級しますか?」、「はい、お願いします」という感じで、1日も学校に行かないで卒業しました。
小中学校を通して、私は学校と一線を引きました。
私が学校を辞めたのです。行ったり行かなかったりの五月雨登校をしなかったので、息子には人間不信がありません。
中学校を卒業すると、息子は通信制高校に自分から希望して行きました。
小学校から友達はいない状態でしたが、たくさんの友達が出来、青春を謳歌していました。
―――長谷川さんはT君を100日間追いつめたのですね。
最初の子どもさんが死産だったのですが、そのときのお顔と同じようになり、初めて自分が追いつめていたことが分かったんですね。
Mさんがずっとお腹に自信がないと言われましたが、お腹に自信がなくなるような追いつめられた生活をずっとしてきたということなんですね。
結果としてお腹に自信がなくなる。
小学校からずっと緊張状態を強制されてきた、それを何年間も積み重ねてきた。人間というのは体が告白していくんです。
そのとき親御さんが「大丈夫だよ」と言っても、あんまり長いこと追いつめられた子はそれでいいと承知しなくなってきます。
低年齢のときは安心するのも早いのですが、大きい子は承知せずに親のせいにするときもあります。
「お母さんがそう言ったから、お父さんがそう言ったから」と。
それは僕は自信がないんだよということと、もう一つは、「本当に学校を辞めてもいいの? お母さんが言っていることは本当なの?」と繰り返し繰り返し確かめたくてそう言うんですね。
それだけその子にとっては自己否定が強いということなんですね。
皆さんにお聞きしますけど、周りから「引っ張ってでも連れて行った方がいい」とか「あなたの子育てが問題じゃないの」とか、そこまでいかなくても「ちゃんとやった方がいいんじゃないの」と言われた方は挙手してみて下さい。(殆どの方が挙手) 大体言われていますね。
言われないという方は陰で言われていますね(笑い)。
世間は100%不登校に理解がないと言っても過言ではありません。
親はその子の苦しさ、辛さを一番に受け止める立場にいます。
友人の夫の助言「引っ張ってでも連れて行け」という言葉を聞くのではなく、体全体で現している息子さんの体の言葉を聞くべきなんですね。
それは親にしか聞くことができない、受け止めることが出来ないんです。
夫が受け止められないのだったら、妻のあなたが先ず受け止めて、いつまでも受け止めない夫は改造してもらわないといけません(笑い)。
この親の会へ参加される中で変わっていかれますよ。
最初は「そうかな?」と思っても、「そうは言っても出来るかな」という感じに、次は「そうだよなあ」と納得して変わっていきます。
全国合宿で森田重則さんがそう発言して南日本新聞に紹介されましたが、非常に胸を打つ言葉でした。
STさん:Sさんのお話を聞いていて、父親の威厳が先に出ているんじゃないかなと思いました。
「俺が稼いで家族の面倒を見ているんだ」と。
私は威厳はほとんどなかったです。
それでもやっぱり自分が変わらないと、子どもの立場はわからないと思いました。
子どももひとりの人間、親もひとりの人間として、上下なく見れたら原因とか分かってくるんじゃないかと思います。
―――昔、あなたが二人の子どもたちに「学校に行きなさい。学校に行くんだったら、大きなオモチャを買ってあげるから」と「おろかな父親」を演じた時がありましたね。今は賢いんだけれど。(笑い)
そして、あなたが家へ帰ってくると、妻も子ども達もお部屋からいなくなっているということもありましたよね(笑い)。あなたは独りぼっちになった時がありました。
はい、何年もありました(笑い)。
私がアパートの階段を上がって来る音がすると、狭い部屋ですけど、皆サッとどこかに隠れて静かになるんです(大笑い)。
大きな買い物をして、子ども達に対して優越感をもとうとして、まるきり逆のことをしていました。
―――寂しかったねえ。(笑い)
その時は寂しいという余裕はもうなくて、「何だお前らは!」という感じでしたね。
Sさんも子どもと対等になれたらいいと思います。
Kさん(父):16才の息子が家にいます。
親が頭ごなしに言っている時期は、やっぱり子どもは離れていくんでしょうね。
子どもと同じ目線で話さないといけないなと思います。
―――最初はあなたも親の威厳があったんですか?
あったんじゃないでしょうかね。
自分では分からないのですが、やっぱりSさんと同じで、稼いでいるのは自分だという思いがどこかにあったんでしょう。(笑い)
―――自分のほうが力があるんだと息子さんを叩いたこともありましたよね。
その時のことはやっぱりご自分の深い心の傷になっていますね。
ええ、手にそういう感触が残っています。もう忘れたいほど嫌な想い出です。
やっぱり、Sさんもこの会に毎月参加されて、自然に自分で納得していくのがいいですね。
―――あなたは、ほとんど参加されていますね。
この会に入って2年足らずです。
最初はやっぱり、大変な会だと思って(笑い)、サボったりしましたが、この半年ぐらいは毎回参加しています。
―――この会に入って子どもさんは変わりましたか?
(変わったと思います)いろんなところに行かれたけれども、一番変わったのはこの会ですか?
(最終的にたどり着いたところはこの会でした)
皆さん、答えを示し合わせているわけでは決してありませんからね。(大笑い)
―――やっぱり親の会はたいしたものだと思いますね。
家族の関係で言えば、夫は威厳を持ってはいけないんですね。夫、父親はこうあらねばならないという威厳や肩書きを捨てた時にうまくいくと思います。
父親というのはお母さんよりも威張りたい人種なんですね。
それを戒めるのも親の会ですね。
私たちが肩書きを捨てた時に、ひとりの人間として「トモちゃん、タッちゃん」、「重ちゃん、淳ちゃん」、「セイちゃん、ヒデちゃん」になった時に、子どもから受け入れられるんだなとつくづく思いますね。
子どもは親の下ではないんですね。
「子ども」を社会では「子供」と書きます。ここに新しい発見があるんですが、私はこれを「子ども」と書きます。
「子供」の「供」は従者の意味なんですね。「お供」の意味なんです。
長い歴史の中で大人の下に子どもがいる、子どもは未熟なものという歴史的な思想的背景があるんですね。
そうじゃなく、子どもと大人は対等平等の関係なんですね。
一緒に生きていく関係なんですね。
そのことを私たちは親の会で子ども達から教えてもらっているのではないかと思います。
ついでに、私は口が裂けても「主人」とは言いません。
「主人」の下に「妻」はいないのです。
「妻」と「夫」は対等平等なんです。
これはすごく大事なことですね。
少しでも夫が「主人ヅラ」をしたときに、その家庭は上下の関係になって人権が失われていくんです。
家族の誰かが、というより歴史的にも社会的にもその家族の父親が、家族の他の人の上に立ったり、または誰かが、ここでは、妻や子ども達が誰かの(父親の)下にいるという関係の中には、決して幸せはありえないのです。
難しくいえば、他の人の人権を否定することはその人の人権をも否定していくんですね。
お互いの人格を尊重し、対等平等の立場で気持ちよく自由にモノが言えるような家族関係で、はじめてその家族の一人ひとりの幸せが大切にされるんだと思います。
だから、もし夫のことを主人と言う奥さんがいたら、夫はたしなめてくださいね。
「僕は主人じゃないよ、あなたの夫だよ」と。
夫は働いているから偉いんじゃないんですよ、それはあたりまえなんです(大笑い)。
家族は横並びなんです。家族は縦並びと、もし考える方がいたら、そこから家族の幸せがなくなるんです。
あんなこと言ってと最初は思うかもしれないけれども、ほんとにそうだなと思うようになります。では休憩にしましょう。(笑い)
―――中学2年の娘さんは中1のとき、激しいいじめに遭い転校したけれど、やっぱり学校に行けなくなりました。
学校の対応がものすごくひどくて文科省までかけあっていろんなことがありましたが、その後娘さんは学校に行くようになったとお聞きしましたが…。
Oさん はい。私は学校に行かせたくなかったんですが、子どもが行きたいと言うので、8月の終わりに法務局と学校と3者で話し合いを持ちました。
子どもが行きたいときに行ける受け入れ体制を整えて欲しいと条件をだしたのですが、私たちの思うとおりにはかなえられませんでした。
人権擁護局や法務局の方がこれだけのことを学校は考えて来たんだから、お母さん、お父さんが行かせたくないというのは、逆に子どもさんの行きたいという気持ちを捻じ曲げているんではないかと言われ、子どもとよく話し合った結果、2学期から行くと言いました。
自宅から学校までは遠く、最初の2ヶ月は車で送り迎えをしました。
朝は自分で目覚ましをかけ、飛び起きるようにしていたので無理をしなければいいと思っていました。
疲れた様子が見えたときは私の方から、「今日は休む?」と声をかけていましたが、娘は出かけていきました。
11月になって娘は「学校に行きたくない」と一言いいました。
私はやった―と思って「行かなくていいんだよ」と言いましたが、娘は1日休んだらまた行くと言うんです。
「お母さんはもう送っていかない」と言うと、じゃあ、学校のすぐ近くにあるおばあちゃんの家から通うと言って、今はそこから通っています。
私は心配でおばあちゃんの家で娘の帰りを待っています。
帰ってきた娘に「今日はどうだった?」と聞くと、「いろんなことがあったけど、普通だったよ」と言います。
根掘り葉掘り聞くとひどいいじめがあるとわかりました。
私は夫がなんと言っても、絶対行かせることができないと思い、先週の木、金曜日は私が学校に行かせないといって娘を引き止めました。
夫は全面的には不登校を認められず、やっぱり学校に行った方がいいんじゃないかと思っています。
この間娘はカタログに乗っていたペンライトを見て、部活の帰りが遅くなったときに便利だからこれが欲しいと言いました。
私がこんなに学校に行かせないように辛い思いをしているのに、平気でそんなことを言うので何を考えているのかと思いました。
―――(内沢達):娘さんは学校に行かねばならないと考えているんでしょう。
どの子も学校は行かねばならないと思っているのと同じように。
お母さんがいくら言葉で行かなくてもいいんだよと言っても納得はしません。
―――なぜかと言うとお父さん、お母さんが県教委や法務局、文部省まで行って、こんなに一生懸命やっているのに、私も頑張らなくちゃと思っているんでしょうね。(そうなんですか) 行政は不登校への理解がありませんね。
何とかして行かせよう、そういう解決のし方をしようと考えているんです。
知らず知らず親子とも行かせることが解決だと思ってしまいますね。
先ほど愛美ちゃんが話してくれましたが、「本当に私は学校に行きたいのにどうして私は拒食になるの」、学校を辞めても「私は次の学校にどうしても行きたいの」と思っているんですね。
(山口愛美さん):学校を辞めても夢で見ていて、行かなくちゃと思うことがずっと続きました。
―――お子さん自身がそれに気がつかないんですね。
その呪縛を解くにはご両親のあり方が大切ですし,長い時間かかるんです。
夏合宿のときに娘さんが車の中から出てこられなくて車の中に娘さんを置いたまま講演をお聞きになったと聞いたものですから、すごく娘さんは辛いんだなとわかったんですね。
いじめがあっても平気というふうに娘さんが言って学校に行くのは、お母さん、お父さんが頑張っているんだから私も頑張らなくちゃという気持ちからきているんですが、それに気がつかないだけなんですね。
いじめが平気な子は誰ひとりいません。
まして、小学校の時から自分を否定され続けた辛い経験を持っています。
自分で自分を追いつめているんですね。自分で気がつかないという深刻さを親はわかってもらいたいのです。
―――(内沢達):何でも子どものことは子ども自身が決めるんです。
親が学校に行かなくていいと思っていても、子どもが行くっていうのは仕方がないですね。
大事なことは親が手助けしないということです。
娘さんはおばあちゃんのところから通うと言ったのでしょう。(はい)そこがよくないんですね。
おばあちゃんは一般的に孫に学校に行って欲しいと思っているから、援助するでしょう。
それが困るのです。
お母さんは行かなくてもいいと思っていても、おばあちゃんの家に行かせたのでは、頑張って行きなさいということと変わりなくなってしまいます。
いじめがなくならない学校にほんとうに行ってほしくないとお思いでしたら、
いっさい手助けしないことです。
北朝鮮拉致問題のことで、蓮池透さん、薫さん兄弟のやりとりが報じられました。
一時帰国間もないころ、北朝鮮に帰ると言う弟の薫さんに兄の透さんが「そんなに帰りたいのなら自分で歩いてでも海を泳いででも帰れ」と言ったのと同じです。
兄として北朝鮮には絶対に帰って欲しくないという気持ちを伝えているんですね。
おばあちゃんの家からとなると、お母さんがなんと言おうと、学校に通って欲しいと思っているんだとしかとりようがありません。
それで娘さんは無理をしてしまうのですね。
これは共通するのですが、13歳であれ、18、19歳であれ、子どもが自分でやるということはやらせたらいいんです。
失敗しようがしまいがその責任を自分でとらせるんですね。
親がすぐに手伝っちゃうからいけないのです。先ほど出ましたが、ちょっと遅刻してもいいからとか、もう少し働いたらとか、親がそういう配慮をすると、子どもはうまくいかないことを他人のせいにするようになります。
さっき出ていた自立というものがむずかしくなってくるんです。
誰かにさせられたら自立しないんです。自分でやって自分で選択していったら自立するのです。
だから、子どものことは子ども本人が決めること、それに賛成できなかったら親は手助けしないことが重要です。
失敗も成功も本人が引き受けるということです。
困ったことがあればいつでもお父さん、お母さんは聞き役になるよといった程度で、親はでんと構えていることが大切だと思います。
Hさん 今17歳の娘です。小5の1学期から行かなくなりました。
私は2学期の最初の日に手を引っ張って連れていきました。
最初の日は校門まで、次ぎの日は校舎の前まで、保健室まで、教室までというように、毎朝手をつないで行きました。
そうしたら行くようになったので、ああよかったと思っていました。
しかし6年生になって3日目にパタッと行かなくなりました。
その時に私はあせって、あちこち駆けずりまわり最後には心療内科に行きました。
そこでは「親の育て方が悪いから自分の意見が言えない。だから訓練しないといけない。
全く知らない人たちの前で、どうして自分は学校に行けなくなったのかを説明する練習をしましょう」と言われました。
でも親の私でさえ全く知らない人の前で、どうして学校に行けなくなったかなんて話せるんだろうか、大人の私でさえ出来ないことを10歳くらいの子どもにさせていいんだろうかと悩みました。(―――そんなこと常識で考えたってわかりますよね。)
そんな時この親の会の8周年記念の講演会があると知り、わらをもつかむ気持ちで参加したのが、この会に参加するきっかけでした。
内沢さんから「そこに行くのは止めなさい」と言われ、とても救われました。
兄は19歳で妹は17歳になりました。
私の中では家族4人で楽しく暮し、よかったなと思って不登校自体は終わったと思っていたんです。
息子は19歳になってすごくあせって、「僕はこのままではいけない。バイトをしなくちゃいけない。免許も取らなきゃいけない」と言います。
ここ2、3年ずっと言い続けているんですが、でも口で言ってもそれは出来ないんです。
私は働くこともないし、ずっと何もしなくていいよと言い続けてきました。
息子は4月にどうしてもやりたいと言ってサックスを習い始めました。
以前通信制高校に通学するのを親が送って行ったことがあり、親が手を貸すことはいけないと指摘されていたので、今度は絶対に送らないと決めていました。
息子はバスに乗って行くんですが、やはりご飯を食べて出かけることが出来ません。
朝食を摂らずに出かけ、1日練習してフラフラになって帰ってきます。週に3、4日頑張って行っているんですが、私はいつか倒れるんじゃないか、いつか行けなくなるんじゃないかと心配です。
でも行くと言うのを止めるわけにもいかず、放っておいたんです。
そうしたら今度は先週から娘がおかしくなってきました。私は娘にお兄ちゃんのことが心配だと相談してきていたんです。
娘はおばあちゃんや父親に対して「うざい」と言い、態度がおかしいんです。
先週娘が一緒に出かけようと私を誘ったとき、私は具合が悪くて断わったんです。
そうしたら「お母さんはまだ私のことを認めていない。お兄ちゃんがサックスに行くのを喜んでいるじゃない、私はバスにも乗れない、一人では買い物にもいけない。
私のことを認めていないから私には居場所がない」と泣き叫びました。
私はものすごくショックで、この5年間何を勉強してきたんだろうととても落ちこんでしまいました。
私の中ではそんなに喜んでいるつもりはないのに、口では心配だと言うけれど動き始めた息子を喜んで見ている、と娘には写ったのかなと思いました。
―――それはお母さんが喜んでいるように見えるんではなく、娘さん自身の不安を、一番わかって欲しいお母さんにぶつけてきたんだと思います。
娘さん自身がまだ自分を否定しているから、お兄ちゃんはそんなに苦しいのに外に出て行ってるじゃない、自分はまだまだ不安なのよ、外見的には明るくニコニコ暮しているけれど、そうじゃないよ、まだわかって欲しいのよ、と言ってくれているんだと思います。
まだ親がのんびりするのは早いよと言っているということで、私はすごくよかったんじゃないかと思いますね。
―――(内沢達):ちょっとであれ、娘さんのことをおかしいというのはどうしてですか?
お父さんやおばあちゃんに対する態度は、そのくらいのこと、どこもおかしくありませんよ。
先月の例会でもお話しましたが、僕の家にはそんなことは山ほどあります(笑い)。
人間はやっぱりイライラしているとき、辛いときは信頼する人にガーッと言うじゃないですか。なにもおかしくありません。
また親として、お兄ちゃんがサックスに行って動き出したら嬉しいじゃないですか。(少しは嬉しかったです)少しじゃなくいっぱい嬉しいんです。(笑い)
僕の場合は、うちの娘が一人でアメリカに行ったとき、心配はありましたが意欲的だと嬉しかったですよ。
それと娘さんには、「お母さんはいいよ、いいよと言ってくれる」けれど、自分自身は「何もしていない」というあせりがある。
だとしたら、そういう気持ちになるのは誰だって当たり前じゃないでしょうか。
僕は28,29歳のとき、妻の扶養家族でした。
本当に仕事がないとあせるんですね。これでいいはずがないと。
だから、そういうときに不安が、甘えられる人にバーッと出るのはおかしいことではありません。
お母さんがお兄ちゃんのことを嬉しく思うのも自然なことです。
同時にお母さんには心配もあるのだから無理しなくてもいいと言う。
お話されたことは、ほとんどそれでイイのじゃないでしょうか。
息子さん自身のことについては、時間をかけて息子さんが答えを出していくでしょう。
だから食べようが食べまいが、自分が行くという分には行かせればいいということですよね。
―――息子さんが答えをだしていけばいいことです。だけどそんなことには親は興味も関心もありませんよということが大事ですね。
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