登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2003年4月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.89


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら





3月例会報告


桜前線も北上して、街路樹のつつじがもうすぐ満開ですね。
 3月の例会では、3人の当事者のお話を直接聞けとてもよかったです。
子どもたちは自分を責めて辛いなかでも、親に悪いなあと思っている。



親が理解したときに、自分の辛い気持ちや苦しいことをたくさん言えるようになったという話や、J子さんの「精神科へ行って薬を飲んで安心するのは最初だけで、後からは簡単にやめられない、薬は安易に飲まない方がいい」と薬についての貴重な体験など説得力がありました。
親が子どもの『今』を受け止めることが出来ると、子どもが安心するんだなということが実例としてたくさん出てきています。
やっぱり不登校や引きこもりは、親の受け止め方の問題なんですね。




私たちの親の会の子どもさんたちは、おおむね進級・卒業はスムーズに通過しました。
「学校から何も言ってこなかったので、すごく過ごしやすくさせて頂きました」と学校にあいさつされたと上山さん。
でもまだまだ理解されていない事例もホームページで見受けられました。




初参加の方から、「仕事について」の質問があり、ご自分の体験を答えて下さった方々のお話は勉強になりました。
 今月も感動を共有しあった会でした。
福岡からご両親と一緒に参加したkg君(16歳)が翌日さっそく親の会HPに書き込みをしてくれました。




1.戎さんの場合

2.森田さんの場合

3.Uさんの場合

4.Tさんの場合

5.Hさんの場合

6.山口さんの場合

7.Aさんの場合




戎さん:二男が22歳、三男が18歳で家で過ごしています。
長男は種子島で働いています。私はほとんど毎日閉じこもってとても幸せです。(笑い)





 二男は開陽高校を卒業しました。
推薦をもらって大学に行くと言っていましたが、1月に小論文と面接がある前日に、「お母さん明日は試験を受けに行かないよ」と言いました。
私は「うん、いいよ」と言いました。
その後別居中の父親が手を回してもう1回受けることになり、明日、面接日で、二男は行くと言っています。
父親が何度も「大学に連絡をとったか? 書類出したか?」と言ってくるので、二男は「親父の手の平の上で動かされているみたいでいやだ」と言いました。
私が「いやだったら、いやと言っていいんだよ」と言うと、「ま、いいや。大学には行こうと思っているから」と言っていました。





 二男はこの前風邪をひいて、医者から「いつからどんな状態ですか?」と聞かれ、「僕は今日が何日かも曜日も分からないです」と言ったら、医者は「それは困ったことだ」と言いました(笑い)。
二男は好きな時に起きてゲームを何時間もやって、好きな時に寝ているので分からないのが当たり前なんですが、私がそんなことを言ったら相手が混乱すると思って言いませんでした(笑い)。
でも医者が「風邪の時は陽にあたったらいけないよ」と言ったので、私はポロッと「引きこもりだから大丈夫…」と言ってしまって、相手を混乱させるので言わなければよかったと思ったのですが、医者から「風邪はたいしたことは無いですが、なんだったら心療内科を紹介しましょうか」と言われ、二男が「いや大丈夫です。したくてやっていますので」と言って帰ってきました(大笑い)。
その言葉を聞いて「この子すごい。大丈夫だな」と思って安心しました。





 三男は父親から「お前もいつまでもそんなにしていないで、学校に行くか働くかしろ」と言われて、そのせいかどうか分からないんですけど、開陽高校に行くようなことを言いました。
もう3月も半ばですが、手続きも何もしていないしどうするのかなという状態です。私は高みの見物という感じです。





―――補足しますと、以前、父親は子ども達や戎さんに対してずいぶん暴力があったんです。
バットで殴ったり、ゴルフバットを持ち出したりして、地獄みたいな生活だったんですね。
今、父親は家を出て、離婚訴訟が不調に終わり、婚姻費用の分担の調停をし、毎月生活費だけ送ってくるんです。
戎さんには何も言わないけれど、子どもにはいろいろ「あーせ、こーせ」と言うんですね。それは気がかりではないですか?





 子ども達は適当にあしらっているので、まかせていても大丈夫じゃないかなと思っています。
父親が「こんばんは」と訪ねて来る時があるんですが、私は三男が帰ってきたかと思い顔を見てしまうと、今でも「いや、見たくない」と思ってしまいます(笑い)。
話かけてきても声も出したくないので一切返事をしません。
それ以後は私に何も言って来ないし、生活費はきちんと送られてくるので、ほんとに幸せです。(大笑い)







森田重則さん:19歳の息子と17歳の娘が家で過ごしています。

 別に何かあると言う訳じゃないのですが。
先程のSさんのように、子どもが親に言ってくることはすごくいいことだと思います。
息子もどんどん自分の気持ちを出してきて、私も1年以上言われ続けましたから。妻はもっと言われ続けたと思います。





 息子はこの頃はずいぶん落ち着いてきています。
でも来月で20歳になりますから、たぶん心の中で不安はあると思います。
昨日息子が「暇だなあ。暇なことは悪いことなんだよな」と言いました。
そのことに対して、私は何か言わないといけないなと思って緊張したんですよ(大笑い)。
逆に何も言えなかったんですね。
私としては家でもっとゆっくりして欲しいから、素直にそれを伝えられたらよかったのかなと思ったんですが、自然に言えないのが私のなかにちょっとひっかかっています。





―――娘さんが先月親の会が終わったあと来られて、「問題は、あとお父さんだけなんだけどな」と言っていましたね(笑い)。
息子さんがそう言うと身構えちゃう?





 普段は自然に話すようになったんですが、多分、言わなくてもいいのかな、どっちかなと思いながら反応したんですよね。
適当に受け流すことが出来ればいいのかなと思うんですけどね。





 私は丸7年単身赴任でしたが、4月から家から通勤できるところに転勤になると思うんです。
そしたら息子が「お父さん、うちには新しい流儀は持ち込まないでくれよ」と言いました(大笑い)。
毎日私が帰ってくるだけで、子ども達の生活は変わらないと思うんです。





―――重則さんは5年間徳之島にいらして、後半は家族も省みなくなってほんとに大変になって、息子さんも荒れてお父さんもなかなか向きあうことが出来なかったんですね。
家庭が崩壊する危機までいって重則さんが踏みとどまった。私は本当に感動しました。





 一昨年鹿屋に単身赴任して週に1度は帰るようにされました。
今年は家から通えるようになるのですね。
いろんな大変なことがあったけれど、戎さんは別れて、森田さんはうまくいってどちらも自分の人生をちゃんと歩んでおられて幸せですよね。(笑い)





森田淳子さん:息子にとって3月、4月は落着かない感じなんです。
私も今度から夫が家から通勤するようになるので落ち着かないんです。朝早く起きれるかなと。(笑い)





息子はお父さんが家から通うようになった時には、家を出て行っている予定だったと言いました。
「このままじゃいけない。妹に追い越されないうちに家を出よう」と言い出して、30歳までには絶対家を出ると言っています。
娘はずっと家にいると言っていたと言うと、「30にもなって、家にいてお金も入れない人の気持ちが分からない」と言いました(笑い)。
やっぱり息子は、新聞やテレビなどいろんなものからそういうふうに思ってしまうんだろうなと思いました。





―――息子さんはすごく大事なものをしまう時に、手が震えてしまうということでしたが。




 以前ほどじゃないです。
カードを集めていて、その景品がすごくいいものが当たったんですが、傷がついてしまいそれで触れなくなってしまったんです。
この前2ヶ月ぶりに出してみたらたいしたことじゃなかったと言い、全部整理しなおしていました。
メガネなどは不安になると仕舞うのにすごく時間がかかるようです。





 息子は「お母さん達は、僕がおなかが痛いと言った時大丈夫だよと言うけど、ほんとに痛いんだよ。ストレスというのは治しようがないから辛いことなんだ。お母さんが大丈夫だと思っても、僕が思えないとどうしようもないんだよね」と言いました。
私が大丈夫だと思っているというのは息子は分かっているんですが、息子自身が思えないことが辛いんだと言います。
この親の会でもよく子ども自身がそう思えないことが辛いんだと言われますが、息子も同じなんだなと思いました。





―――子どもさんが辛い時は、大丈夫と思えるような親御さんの対応というのはすごく大事ですね。
息子さんは18になるまでには何とかしたいと言って、じゃあ20歳までにはと言って、今は30歳までにはと言うようになってよかったですね(笑い)。





 大阪豊中市の31歳の方から電話がかかってくるんです。
どういう不安があるのと聞くと、小学校の時にどうしても行きたくなかったんだけれども、無理して学校に行っていて、中学から行けなくなったんです。
19年間親にずっと学校に行けと言われ続けてきたんです。




そして今年の3月、定時制をやっと卒業できるというその時に、教頭が卒業出来るかどうか分からないと言ったことが不安になっているんです。
そして両親から「卒業しろ、お前みたいなのが家の中にいたら困る」と、そんなことを19年間言われ続けている、こんな残酷なことはないなと思いました。
その人は「教頭は父親に対しては卒業できると言うのに、私に対しては卒業出来るかどうかわからないという言い方をしている。これってすごく問題で」と言うので、私は「教頭を問題にするよりもっと大きな問題があるでしょう。それはあなた自身が疲れているということに気が付かないことの方がとっても大変なんです」とお話したんです。





親御さんや家族の方が、ほんとに心から理解するということは第1条件だと思います。
それとやっぱり自分自身がほんとに自分を受け入れる、大変なひどい環境の中でも…たとえ家族が理解できなくても、自分自身が受け入れられるようになっていく、自分自身が納得しないとダメなんですね。最終的には自分が本当に納得してそうだなあと。





そういう意味でも31歳まで「高校を卒業するか、しないか」ということをずっと言い続けられて、しかも自分自身がそれを良しとしない、許せないという、そういうことはほんとに残酷なんだなと思いました。







Uさん(父):うちは子どもが4人います。一人は私なんですが、鹿児島に帰って来たら私も子どもになりきろうと思って(笑い)。




 最近子どもが優しくなったようで、私が変わったからかもしれないのですが。
下の子は中2ですが、学校には行っていません。
好きだったサッカーもしていません。
部活の顧問に最近会って、「身体作りしている?」と聞かれたんですが、「いやもう僕はしないから」と息子は言いました。
今はずいぶん3人とも明るいですね。





長女は横浜で私と一緒に暮らしていて、今度就職するのでどっちかというと気持ちが不安なのかなと思います。
二女は高校を辞めて、今通信制に変わりました。ひたすら英語だけやってるようです。





―――穏やかにお話しているのですが、大変でしたよね。
上の娘さんが事故で片方の目を失明してしまい、いじめで不登校になっていったんですね。
事故にあった相手が由貴代さんの実の妹さんで、調停をし謝罪をしてもらったんですね。




娘さんが「お金じゃない、謝罪がほしい、お母さんは私と叔母ちゃんとどっちを取るの」と言ってね。
それで実家のお父さんはふたりの娘が争うという事態になって、そういうことがあったけど、娘さんをとって頑張ったんでした。
人生というのはいろんなことがあって、避けて通れないときこそ自分が試されるのですね。そういうことはめったにないです。





 昨日息子の中学校の教師にたまたま会ったら「今度進級するに当たって、担任の希望や友達は誰がいいか連絡なかったですか?」と聞かれ、「うちは学校に対して先生がどうの、友達がどうのというのは一切ありませんから、気を使わないでください」と言いました。
子どももそう言いますし、ここで学んだ通り親が何もしないのが一番いいということでしたので、自分も子どもになりきって、同じ立場になっていますから、「学校は何もしてくれなくていいです。親も何もしませんから」、「子どもに任せていますから」と言いました。





―――それに対して教師は何も言いませんでしたか?




 「はい、分かりました」と言って何も言いませんでした。




―――学校も成長しましたね(笑い)。親が強いと踏み込んできませんからね。




Uさん(母):あの親は変わっていると思われているんです。(笑い)




―――子どもたちが行ったり行かなかったりしているときは辛かったですよね。




 上の娘の件で調停する前は、娘の視力は良い方が眼鏡をかけて0,2まで落ちました。
私はもう失明するんじゃないかととても心配しました。
娘はすごく追い込まれていました。「私を取るの! 叔母ちゃん、お祖父ちゃんを取るの!」と言いました。
私はもう親戚、親姉妹の縁を切られてもいいと思う位の気持ちで調停に踏みきりました。





 私は娘の視力が調停後回復してきているとは知らないで、その後運転免許を取るときに眼鏡なしで取得できてそのことを知りました。
通院していたころに眼科医に言われた「精神的なものもある」という意味がそのとき分かりました。





 私があのとき調停に踏み切っていないと、娘の心だけでなく目までも追いつめてしまったのではないだろうかと思ったのでした。
先程のお話ではないですが、本当に子どもが苦しんで親に助けを求めているとき、親を取るか子を取るかとなったら、無条件に我が子を取って欲しいと思います。





 妹も私の両親もうちの娘が元気になって幸せになることを気にかけてくれていると思っていますから、あのときはとても辛かったですが、調停をやって良かったと思います。後悔はしていません。




―――あんまり辛くて泣いてばかりで「もう調停を止めたら」と私が言ったら、「今ごろそんなに言わないで」と怒られましたね。
そのときはUさん(父)があなたのことを支えてくれたんですね。(はい)





Uさん(父):相良さんと同じで、神奈川で生まれ育ってこちらへ引っ越してきました。
「私は向こうが故郷だ、何でお父さんたちは私の気持ちを無視して鹿児島に帰ってきたのか」とずいぶん娘に言われましたが、「それはお父さんとお母さんの人生だから自分たちで決めたことだ。
あなたたちはまだ小さかったから相談しなかったので、それは許してほしい。
もし神奈川が好きなら自分の意思で決めて好きなところに行っていいよ」と言ったら、もう鹿児島には帰らないと言って私のところにきて一緒に暮らしていますけどね。(笑い)







Tさん(父):昨日のうちに福岡から鹿児島に来て、家族3人で参加しました。
最近変わったことと言えば、昨年から家族が1人増えていましたが、悲しいかな先週別れがありまして、何があったか分かりませんが、また従来の3人に戻りました(笑い)。まあ本人は免許を取ると言ってます。





―――16歳の息子さんは彼女と別れちゃったの?(はい、ケンカをして)




じゃ、もうお家に来なくなったんですね(はい)。
振られたの?(いいえ、逆です) 若いね〜(笑い)。
お父さんのお仕事を手伝っているんですか?




Tさん(父):はい、今まで来たり来なかったりがありましたが、最近はポツポツと来ています。




―――無理しているわけではないの? どんなお仕事ですか?




kg君:いいえ、無理ではないです。お金が貰えるから行ってます。
名刺作りの仕事をしてます。パソコンをちょっと打つだけだから、簡単です。




―――今特にご心配のことはないですか?




Tさん(父):根本は学校に行っていなくても本人がなんとかするさと、親がいろいろ心配しなくてもと思ってますけど、まあ子どもの姿を毎日見ていて、仕事を手伝っているのが多いときは結構安心するんですが、遊び中心のときはこれでいいのかなと思ったりはします。




―――まだ16歳の息子さんは遊び中心になりますよね。もっと遊んでもいいんじゃないですか。
 君はもっと遊んでいいよ。どんなことをしているときが楽しいですか?





kg君:カラオケとか。夜遅くなったら、自分の家とか友達の家で朝まで起きていたりです。




―――すると次の日は仕事は休みよね(はい)。
お父さんは何か言いますか? (最近あまり言わない) 
お父さんは変わった?(うん、変わったかな)    お母さんは?





 母さんは優しいと言えば優しいけど、もともと毒舌で結構強いタイプです。(笑い)




―――中学のとき大変な時期がありましたよね。(はい)
 そのときはとても辛かったと思うんだけど、今は高校に行かなくちゃとか思ったりしなくなったの?





 行こうとは特に思わないけど、同学年の友達は高校2年生になるし、自分は行ってないなと思ったらちょっと距離を感じたりするんで、そろそろ自分なりに何か目指すものを決めようかなと思います。




―――子どもたちは皆そう言って自分に厳しいんだよね。今の状態ではだめなの?




 ん・・・だめじゃないけど、何かプータローだから。




―――私もプータローで、目指すものもないよ(笑い)。
中学のとき何か目指さないととか、お友達はこうだからと自分はこうじゃだめだからとそう自分のことを思っちゃう?(少し)苦しくなることはない?





 日によってちがうけど、自分がだめだと思う日もあるし、遊んでいるときは忘れて騒いでいるけど。




―――お父さんとお母さんは今の状態ではだめだとは言われないのですか?(それは言わないです) 
いいご両親ですね。自分が一番思ってることを人に言われると辛いよね。(はい)

 お父さんとお母さんは仲がいいの?




 はい、最近なんかムチャクチャいいです(笑い)。僕が学校に行ってたころはケンカばかりで。




―――僕のせいでと思った?




 思ったときもなくはなかった。
仕事を一緒にしているからと思ったし、ケンカが多かったけど、最近は何か二人で食事に行ったりもするし、(―――置いていかれるの?)そう。(笑い)





―――すごくいいことだよね。
二人で仲良く青春してもらいたいと思うよね。(はい) いいお話を聞かせて頂いてありがとうございました。





(編集部注):kg君の書き込みをご了解をいただきましたので紹介します。
子どもの辛さがどれほど深いものか、またそれをしっかり受け止められるのは親しかないことが分かります。



2003年03月17日 01:58
送信者:kg
表題:初カキコです!


今日、親の会に出席させてもらいました、福岡の3人家族の息子です!
ここではkgと名乗ります。




自分は中学の頃精神的ストレスで吐き気、腹痛、頭痛で不登校になりました。
自分自身も体がこんなになるまでわからくなくて、とにかく学校に行くのが嫌で嫌でたまらなかったのを覚えています。
何が一番辛かったかと言うと親を心配させたことでした。




最初は学校に行けって言ってた親を腹立たしく思えた時もあったのですが、行きたくても体が言うこときかなくて自分にはどうしようもなくて苦しくてたまんなかった・・・。
なんで学校に行くのが辛いのだろうか自分で考えると、先生数名の自分へ対する罵声や態度や、その影響を受けてか周りの友達の自分へ対する態度が一変して、自分の居場所がなくなっていたので学校に行きたくないんだと気づいたんです。
それまで自分は生徒会長や行事の実行委員長、部活動の部長も自分なりに一生懸命やってて勉強だって塾にほぼ毎日通いながらそれなりのいい成績を残してきていました。




しかし、先生達が言うことは「生徒会の面汚しだの、形だけ生徒会長だの、おまえがいると部活が暗くなるだの、おまえは部員じゃない練習の邪魔だから部外者は帰れだの」他にも色々、言われない日はないぐらいみんなの前でけなされ続けました。
気にしてないつもりだったんですが、自分でも気づいてないうちに無理してたんです。
それが症状となって体に出た時はわけわかんなくて「なんで一生懸命に頑張ってるのにこんなになるんだ!」と歯痒くてたまりませんでした。




色んな病院に行って薬を飲んでも全く治らない、吐きそうになりながら胃カメラ飲み、肛門から腸カメラまで体に入れて調べても治らない。
そうこうしているうちにも欠席日数は増えつづけ悩む一方でした。




そんな頃に自分の胸の内を全部母さんにぶちまけました「そんなに辛かったんやね、ごめんね気づいてやれんで学校なんか行かんでいいよ、母さんももう行けとは言わんけん」と涙ぐむ母さんの姿を見て、自分も今までとぎすまされていたものがプツッと切れて涙があふれ出ました。
「父さん、母さんだって辛かったんだろうなぁって心配かけてごめんね」そんな気持ちが胸いっぱいになりました。
でもそれから学校に行かなくていいとなるとみるみる体調は回復していき精神状態もだんだん落ち着いてきたんです。




それでも毎日何もしない自分に「俺ってだめなやつやなぁ」とどこかで思っていて。
それから、家の仕事の手伝いをしたりフリースクールに通ったりしました。
フリースクールではとても理解のあるいい先生や同じ気持ちの友達に出会って今でも時々連絡をとったりしています。
そうやって今の状態までこれたのは父さん母さんのおかげです。
自分はほんとに父さん、母さんの子で良かったぁと思っています。
父さんも母さんもマジで大好きだし、これからも遊んでばっかりいるから迷惑かけるだろうけど自分は自分なりにちゃんと道を見つけて行くから、心配しないで見守っていてほしい。




誰でも、一人では生きていけないんだと思います。
自分の場合は親に助けてもらったんですがえびいちさんみたいに友達に助けられたり、色んな人と出会ったりすることで少しずつでも心のしこりは和らぐんだと思います。
それに助けてもらうことは全然恥ずかしいことじゃないし、当たり前のことだと思います。




また、当事者どうしだったら自分のこと相談したり、相手の体験を聞いたりして、そういう考え方もあるなぁとか自分だけじゃないんだぁとか思うことで気持ちの重さが全然変わるんですよね。
いつかチャットにも顔出せたら出したいと思います。








Hさん:今日は22歳の三女について話したいと思います。
昨年の夏合宿の頃にすごく荒れました。それまでは、私の方もおろおろして変な気遣いばかりして、思い切って言えない自分がいました。
三女がせきを切ったように一晩泣いて私のそばに寄ってきた時、私は「ああ、やっと娘が自分のところへ帰ってきた」ととても嬉しかったです。





 それからは、変な気遣いや遠慮がなくなったと思います。
娘は以前から「疲れた、疲れた」と連発していましたが、以前でしたら「何か言ってあげなくちゃ、ちゃんとアドバイスしなくちゃ」と身構えてしまって何も言えなかった私でしたが、今はそういうこともなく、「ああ、疲れたの」と普通に言えるようになり、ことさら踏み込んで言わなくなりました。





 本やテレビに私が夢中になっていると「お母さん、聞いてるの?」と言われたりしますが、少しずつ構えていたものが私の中からなくなっていきました。
娘も以前は「お母さんはそれしか言えないの?」と私にくってかかっていたのが今は苛立ちがなくなりつつあります。





 3月の今の時期はやっぱり世間への焦りがあるらしく、私が「焦ることも、無理することもないんじゃないの?」と言うと、娘は「お母さん、私はもう何年こうしていると思っているの?」となりますが、それ以上話が進展することは今はありません。
以前は娘が妙に自分をコントロールしているみたいに思えましたが、今は「したくないことはしていないし、好きなことだけしてる」と私にもわかります。
「欲しい物や欲しくない物」についても「あれが欲しい」と少しは言えるようになってきたと思います。
私も自分が少し鈍感になってきたなのかなあとも思いますが、ゆったりして余り気にしなくなりました。





 家の掃除も1週間に1回ぐらいで家の中はゴミゴミしているけど、余り気にせず、庭の手入れも「まあ、いいか」と思ってしまいます(笑い)。
時々、長女とバトルをしますけどね。まあ、それもいいかと私は思っています。(笑い)





―――Hさんは親の会が最初出来た頃、いらしていたけど、途中何年間かお休みし、又、気持ちを切り替えて再入会し、10年ぐらい経ちますよね。
お気持ちが楽になりましたか?





 はい、そうですね。
今は3人の娘達に「こうして欲しい」とか「ああして欲しい」とか、余り期待をしなくなりましたね。
とにかく、元気で笑い顔があったらいい、その反対でもいいのですが、自分の思うように、ゆったりと振るまえ、各自がそうなれたらいいかなあと思っています。




―――娘さんの目からみて、お母さんはだいぶ落ち着いてきましたか?




J子さん:だいぶ落ち着いてきました。
母の対応は一見したところ、余り変わらないかもしれませんが、私と妹は正反対のタイプです。
私は思っていることをバッと出さないと爆発するのですが、妹は余り外へ出さないタイプですね。
妹とはもう何年も口を聞いていません。妹は踏み込んでこられるとイヤみたいで守りに入るみたいです。 





 私はもっと自分の思っていることを出した方が楽になるんじゃないかと思って…、自分自身がそうだったから…。最初、そう思ったから、妹にそのことを切り出した瞬間からもう話ができなくなってしまったので、今はもう話せないのです。




 それまでの間、私はとにかくお母さんが必要だったし、妹が母を必要としているのはわかっていたけど、お母さんに「妹のところへ行っていいよ」とは言えませんでした。(涙)




その時点で、今度は母を妹に返して、よく言えませんがそんなふうに思っています。




 母について (J子さんより会が終わった時メモをいただきました。)

 
母は前より変わったと思う。それは母だけでなく、私自身も二人してともに変わったと。
見ていて、母から教わることもあります。
私と妹は、今、口を聞きませんが、その分今になって少しずつ、わかってきたことなどあります。
それは言葉では上手に言えませんが、その中で母と妹を見ていると言葉ではむづかしいけれど、良い関係になったと思うのです。



 これから先のことはわかりません。
私と妹のこともわかりません。けれど、皆が少しでも、気持ちよく過ごせる時間が増えたらいいなと思いながら、仏さんにお線香をあげ、手を合わせて、私自身の反省もお祖父ちゃん、お祖母ちゃんに話しています。
それだけでも少し気持ち的に落ちつくこともあり、一日一日を大切にしたいし、大切に過ごせたらいいと。それだけでありがたいと思います。






―――J子さんは、15年前の高1の時、ひどいいじめにあったのよね。




 いじめというか、私自身はわかりませんでした。
まわりが何か言ってるのはわかっていたけど、聞いても明確にこうだよと教えてくれる人はいませんでした。
だんだん、まわりの部活の友人達ともうまくいかなくなりました。
自分の好きではない苦手な「簿記」部だったのですが、友人に強く誘われてしかたなく入部したので、自分ではどうでもよかったのでしたが、私を誘った友人の態度が私といる時と部活の時とでは明らかに違っていました。





 その高校時代は同じ目線で会話してくれる友人も私にはいませんでした。
そんな状態でしたので友人達との付き合いも自分から断りました。
今、付き合っているのは札幌にいる妹とか、妹を通じて知り合った札幌の知人のみで手紙を書いたりしています。





―――高校はいつ辞めたの?




 高1の3学期に辞めました。




―――中退した後、家中を真っ暗にしたり、お母さんに辛さをぶつけたりとずいぶん苦しい時期を何年間も過ごしましたね。




 はい、ありました。
夏場でも部屋や窓を開けないし、電燈も付けず、真っ暗な中で編物ばっかりしたり、音楽だけを聴いていました。
だから、その期間がどのぐらい続いたかわからないのですが、ある日母が「30分だけでも窓を開けてみない?」と言って窓を開けました。
その日は本当にいいお天気でした。





「ああ、こんなに明るいんだ」と思って、一瞬目を覆いたくなる感じでしたが、それからやっと窓を開けて、外を見られるようになりました。
それでも、今でも不安になった時や苛立ちがあった時に、自分の気持ちをぶつけられない時など外を見られません。
特に、お父さんがいる時がそうです。お父さんは愛情ある人なんですけど、全身で怒るタイプなので、怖いですし、できるだけお父さんの前では、声をあげないようにし、おとなしくしています。





―――お母さんには声をあらげたりできるの?




 お母さんにはできます(笑い)。お父さんは本当に怖いので、「J子」と言われただけでヒーッとしてしまいます。
 父が土日、休みの時は、私は父に対して緊張して非常に疲れます。(笑い)




Hさん:以前娘が2回ぐらい、父親に突進していったことがありました。
その後で、夫と、「J子がお父さんに向かってきてよかったね」と話しました。それまでは、父親には逆らえない、言われたら「ハイ」と素直に従う娘と思っていたので、ウワーと全身で向かってきた時はうれしかったですね。
でも、今もって父親が咳払い一つしても、娘はへとへとに疲れるみたいなので、休日、夫がゴルフに出かけたり、外出したりするのは大歓迎ですね。(笑い)





―――J子さんは、ガラスを割ったり、障子を破ったりしなかった?




J子さん:コタツの足を投げたら、足が突き抜けて別の部屋へ入ったり、テーブルを全部ひっくり返して、メチャメチャにしたりしました。
CDのケースも壊しました。自分の部屋の物を壊します。他の部屋は壊さなかったよねえ。(笑い)





 多分していないと思うけど…ああ、あるとすれば、皆とコーヒーを飲もうとしていた時、全身カァーッと血が上りすぎた時には、コーヒーをテーブルの上にこぼしたり、お菓子の袋を中身ごと踏みつけたり、お茶をずっとこぼし続けたりといろいろありました。




―――お母さんには?




 しましたよ。取っ組み合いのケンカもします。つい昨日もありました。(笑い)




Hさん:うんと回数は減りましたけど。
以前はケンカすると半日は反省したままだったけど、最近はすぐ修復されますね。
3人の娘がみんな不登校でしたので、一人一人の表し方、荒れ方は違いました。
ひとりの子はカッターで畳を切ったり、鏡を割ったり、フスマが壊れたりといろいろにぎやかでした。(笑い)





―――お母さんにわかってほしいという気持ちなのですね。




J子さん:最初の頃はそうでした。
自分の中にあるものが小さい時から高校を辞めるまでにいろんなことが思い出されて…だんだん、どんどん思い出されてくるのです。
本当に不思議なんですけど、私は小学5,6年生までは、周りからどんなことを言われても平気だったのですが、中学へ入学してからは、徐々に「これは許せない」と思うようになり、徐々にですが自分の意見を言おうとするようになったのです。
それまでは、「まあ、これくらい、いいじゃない」と思ってきたのですが、許せなくなり、自分の意見をしっかり言おうとしました。





 結局、私は口下手で口喧嘩は苦手なんですけど、でも言いたいことは言いたいので、はっきり言うのだけど、周りは茶化していました。
そんなことが沢山ありました。自分の中でとても辛くなってきてそれもだいぶ時間を経てから、お母さんにはぶつけてきました。





―――J子さんは、以前「私はこんなに苦しんでいるのに、私をいじめた人達は高校を出てのうのうと生活している。
どうして、私だけ苦しまないといけないの?」とお話してくださいましたね。その時は、苦しくて薬を飲んでいらしたでしょう。





 はい、今も飲んでいます。
始めは、てんかんの病気で17歳まで飲み続け、その後やめて、3年間は脳波の検査で大学病院へ通院しました。
私の中では立て続けに薬を飲んでいたので、「いつになったら、薬から解放されて、やめられるんだろうか?」と思っていました。





 最近思うのは、精神病院へ行って薬を飲んで「ああ、これで大丈夫だなあ」と安心するのは、最初だけなんです。




 結局、薬は人によってもですが、本当に簡単には離れられないですよね。
だから妹にも、家でいろいろあった後でも、できるだけ処方を出すような医者にはみせたくないです。
1,2年で簡単には薬はやめられないからです。てんかんの薬もそうでした。
薬は安易に飲まない方がいいし、精神科へも安易には行かない方がいいなと最近思うようになりました。
薬は、やめる時が一番苦しいからです。





―――今、お家にいるのですが、過去を振り返ってみて、不安はあるにしても今一番落ち着いたような状態ですか?




 私が高校を辞めた時、「辞めたんだって、噂で聞いたよ」と言われましたし、「○○はクサイ」というレッテルを高校時代付けられて、それがあるからもうどこへ行っても落ち着かず、私はどこへも行きません。
家の中にずっといるけど、本当は皆に会いたいと思うけど、私へ連絡をくれる人はひとりもいないし、すごくさびしいけど、これが現実かなと思う。(涙ぐむ)





 あの時、はっきり言えなかった時のことを思い出すと、今でも苛立ちがはっきりとあるし、どんなに昔のことであっても、思い出すと夜になると考え込み眠れなくなります。疲れきって眠りに入るという感じです。




―――本当に心の傷を癒すというのは、大変なことなんですね。
でもあなたは、今まで辛い思いをいっぱい抱えてきたけど、お母さんに胸の内を話せるし、親の会へ参加して、自分の気持ちを話せるということは良かったですよね。(はい)
もう10年以上、あなたとお付き合いしていますが、ひとつひとつを大切にして生きてきたと思っています。





 本当に辛い思い出だったけど、お話して下さってありがとうございました。






山口良治さん:今日は息子も一緒に3人で参加しました。
何年か前までは大変な日々でしたが、今は幸せです。今は夜中に息が止まって無呼吸症候群じゃないかと自分が一番心配です。(笑い)





―――山口さんは大口でおばあちゃん、おじいちゃんと一緒に暮しておられたんですが、娘さんの過食をおばあちゃんからいろいろ言われるので、思い切って娘さんと二人鹿児島市内に引っ越したんですね。
だから今は毎日仕事で大口を往復しているんですね。





愛美さん:良ちゃんはこの頃そういうのが気になって、お酒を止めてご飯を食べるようになったんですね。
仕事から帰ってきたとき私がまだ寝ていて、良ちゃんは自分でご飯を作って食べ、寝ている私にご飯はないからねと言って寝たらしいんですが、でも私はご飯があると思って起きたんです。
私が過食でたくさん食べるということをわかっているのにご飯を炊きもしないで寝てしまって、頭にきてしまいました。





 むかむかして、そこらへんを蹴ったりしてたら気がついて起きてきて、お父さんはご飯はないと言ったというんですが、ないと言ったってご飯は炊きあがらないんだ、お父さんが悪くないというのはわかっているんだけれど、今起きて食べようとしている時にないとなると腹が立ってしまいました。(笑い)




―――愛美さんはお父さんに言いたいことを言えるようになりましたね。
以前はお父さんに悪いからとずいぶん自分のことを我慢していたよね。




 はい、そうでした。
昨日春休みで弟が帰ってきたんですが、やっぱり帰ってくるといつもの生活とは違ってくるわけで心配していたんですが、でも一緒に夕食作りを手伝ってくれて、やっぱり帰ってきてくれてよかったと思います。
でも、その時良ちゃんは横になってテレビを見ているだけで働きません。(笑い)





―――それはいけないよね。毎日せっせと食べているの?




 せっせと食べて、せっせと吐いて、たまに絵を描いたりしています。
弟が帰ってくるというのがあったのかもしれませんが、寝つけなくてずっと食べていたので体重が1日で2キロ太ってしまいちょっとショックでしたが、でもまあいいかと思って…。





―――先ほどkg君が今のままではだめだと思うと言っていましたが、愛美さんはどうですか?




私は今のままでいいと思っているんですが、けどやっぱり普通にあこがれたりするのはいいかなと思います。
鹿児島に来た頃は学校に戻ろうかということよりもおばあちゃんとのことのほうが大きくなってしまっていて、おばあちゃんと離れられたということで気持が落ち着きました。
でも学校に行っているときのいやでたまらなかった時のことが夢に出てきて不安になったり、憂鬱になったりしたので、心の奥底でまだ忘れていないんだなと思いました。





―――愛美さんは落ち着いてきましたね。
自分で自分のことを叩いたり、不安でたまらず泣いてお父さんに電話をして、職場から帰ってきてもらったこともありましたよね。
引っ越してきた最初のうちはお父さんと二人暮しなんだから、お父さんが出勤する時には自分も起きてご飯を作ってきちんと送り出さないとと無理もしましたね。





 ああ、そうでしたね。もう今は忘れていました。
弟が帰ってくるというのも自分の中でがんばっちゃうというのがわかるので、でも頑張りたくないから嫌だなと思うんだと思います。





―――お姉ちゃんなんだからちゃんとしなくちゃと思ってしまうんだよね。
でも良ちゃんについてはそうは思わなくなったんでしょう。
(そうです。)(良治さん:かわいそう)(笑い)




 やっぱり自分を殺して人につくそうと思っても続かないんですね。
だから弟が帰ってくるからといって、お姉さんぶらなくてはと思わなくていいんですね。







Aさん:はじめて参加しました。
中2の娘です。12月から学校に行っていませんが、それ以前も休みがちでした。
中学入学後、低血圧で朝起きれず、お腹が痛い、頭が痛いと言います。(涙) 夫がこの会のホームページを見つけて、今日参加させてもらいました。
ホームページや本を読んでから私たち夫婦も落ち着いてきたので、娘に登校を促すことは言わなくなってきました。





 今日皆さんに聞いてみたいのは仕事についてです。
私は2月から休んでいるんですが、同じ年のお母さんが集まってしている仕事なので自分だけ休んでいることに苦しんでいます。





Nさん:私はたまたま時期がそうなってしまったんですが、不登校になってから始めました。(笑い)




Mさん:私はずっと働いてきましたが、仕事をやっていたからこういうふうになれたんじゃないかなと思います。
周りからもっと子どもをかまってやったらとか言われましたが、原因はそれではないと思いましたし、仕事をしていると自分はそのことに一生懸命になれ、その時間自分が生き生きできるわけです。

 子どもとずっと一緒だったらそのことばかり心配してしまうので、かえって仕事をしていたからよかったと思います。




Tさん:私もずっと仕事をしているので、子どもが不登校になったときも仕事を辞めようとは思いませんでした。
ただ最初の時期は置いて出るのが心配でした。自分には自分の生き方があるし、仕事をすることによって世間とつながっているというのがあってやってきましたね。





―――先ほどkg君が「お父さん、お母さんに生き生きしていてもらいたい」と言っていましたが、それはすごく大事なことで、自分の不登校のためにお母さんが仕事を辞めたとなると子どもにとってはどうでしょうね。
それとは関係なくその仕事が嫌だから辞めるんだったらお辞めになればいいし、続けるんだったらそうすればいい。




子どもさんを理由に仕事を続けるか、辞めるかを考えるのはやめたほうがいいですね。
それは子どもさんにとってはただでさえ学校に行かないことでお母さんに心配をかけているのに、仕事まで辞めたとなると負担になりますね。
これはよく出る質問です。



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Last updated: 2003.8.22
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