登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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体験談

2004年1月発行ニュースより。
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)会報NO.97


登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
毎月の例会の様子をニュースとして、毎月一回発行しています。
その中から毎月3/1から4/1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら→



12月例会報告

 あけましておめでとうございます。
 昨年もたくさんの家族愛、夫婦愛、我が子への愛、そして自分を大切にするお話を聞き、その思いを毎月積み重ねてきました。


 12月例会でもたくさんの愛がありました。

「今でもやり直しはきく、昔に戻ってあの子を抱きしめてやりたい」

「不安の固まりは子ども達ではなく、実は私自身だった」

「あの時の我が子の不安に親が振り回されていたら、今こうして穏やかな気持はなかった」・・・。

我が子を信じる親の強さが伝わってきました。


 子ども達はただ抱きしめてもらいたい、愛してもらいたいと願っているんですね。
子ども達に力を貰って、今私は生きている」んですね。


 最初にMさんのお話があります。
 私たちの祖父母の時代からこんな風に素敵に子育てをされた方がいたんだと、感動しました。


 当事者である子ども達の体験が親の会を豊かにしてくれ、勉強になります。
 今年は親の会15周年の年です。
15年の積み重ねは親の会の大切な財産ですよね。今年も一緒に歩いていきましょう。 



 



1.否定してきた私の人生 Mさんの体験

2.試練の時ほど幸せになる絶好のチャンス 山口さん

3.今拒食の苦しみの中にいて、Kさん

4.今でもやり直しはきく。もう一度抱きしめてやりたい。Hさん

5.あの時私も振り回されていたら今の穏やかな気持ちはないです。森田淳子さん


 


否定してきた私の人生 Mさんの体験

 
はじめにMさんご自身の体験を話してもらいましょう。


Mさん:親父の会ではここで聞けない内沢さん、森田さんの大恋愛の話を聞けて、なるほど奥さんに頭が上がらないのはそこら辺に起因してるのかあと思いました(笑い)。
 皆さんが、ご自分のことや家族のことをお話をしてくださって色々参考になりました。



 先月の例会で、「不必要なことはしない方がいい」ということでしたが、ずっと気にして考えていました。
 自分のことやKさんのことも含めて私が得た結論は、やりたければやってもいいやと思ったんです。



 Kさんにしてもお孫さんのことを見たいのなら見たいだけ見たらいい。
 なぜなら私も、Kさんもそんなに長く続かないんじゃないか、自分が健康じゃないとできないし、お金がなかったら続かないし、せいぜいやっても1,2年ではないかと思います。
 Kさんも変わっていかれるだろうし、私自身も変わってきていますし、変わっていくんではないかと思ってます。



 娘が不登校になり、妻が病気になったとき「今のままでいいんだよ」と私に言ったことがありました。
 そして妻の遺品を整理してたときに妻の手帳の中に、こんな作者不詳の詩がありました。
 読んでみます。



ユウよ、君は知るまい 

君がこの世に生を受けた瞬間を 12月の晴れた午後

父と母が息を詰めて待つ時間のなかへ 君はまるで神様からの速達便のように

たった2270gの重さで飛び込んできた 

父と母はそのときお互いの命に代えても君を守り抜こうと誓い合ったのだ  

ユウよ、覚えておいてほしい 君はいつだってありのままの君でいい
父も母も何も望みはしない

君が私たちにとって良い子でも悪い子でも、りっぱな子でも困った子でも、
私たちの愛に変わりない 君は君自身でありさえすればいい

そうだ、いつも君自身を失わないことだけをどうか覚えていて欲しい

ユウよ、思い出しておくれ もしも生きることに怯える瞬間があったら

もしも魂を投げ出してしまいたくなったら
だから人生は生きるには値するものだということを 

もしも天に昇る階段だけがただ1本伸びていたならば

君は退屈な長いそのステップを、正気で上り続けられるだろうか

怖気づいたり恥じ入ったり、スリリングな人生ってやつは、
だからいつだって投げ出すには惜しいものなのだ

ユウよ、思い出しておくれ その人生が父と母が君に送ることが出来た
たったひとつの贈り物だということを




 私の両親は私に対して、「学校へ行きなさい」とか「仕事をしなさい」と全然言いませんでしたし、そのことを感じさせることもありませんでした。
 私は全くそれを感じることなく、それをいいことに何もしないで十数年過ごしました。



―――御両親は二人とも学校の先生だったんですね。



 私は4人兄弟の三男で、長男、二男、四男と小さいときに亡くしたショックで、両親は私には何も言わなかったのだと聞きました。
 でも結果的には、私はそれに甘えてしまい、それが罪悪感として最近まであったのです。
 私は35歳まで何もせず、いつだったか若いときに市役所の納税係りから「あなたは大人として働く義務があるんですよ」と言われたことを覚えています。



 私は中学の頃、中学生の考えですから「競争が人間をだめにするので、自分は競争はしない」と勉強も運動もしないでいようと考えて、運動会などでも一生懸命走らずに父から怒られたこともありました。



 だからと言って学校に行きたくないとか友達と遊びたくないとかはなく、学校認可でない映画を毎日見に行っては怒られたりして、ただ好きにやってきただけです。



 高校を卒業して周りは進学、就職していくんですが、働くということは頭の片隅にもなく、進学のための勉強もしてなくてそれもかなわず、何もしないで生きるのはどういうことかなと思って、座禅でもしようと思い、高野山に行き毎日山の中を見ていました。



 でも見ていても何も変わらず、そこで良い人に巡り合っていたなら私も変わっていたのでしょうけど、それもなくあてもなく、家に帰るわけにもいかず、仕事をするわけにもいかず、こんどはまあ写真関係の学校に行ってみようと行ったんです。



 でもこういうところは毎日行かないとだめで、これはまずいなあと商学系の学部に名前だけ変えてもらい、学校には行かずに、毎日釣りをやっていました。
 4年たったら卒業しないとと思い家に帰って、半年後に卒業証書が送ってきたので卒業したんだなと思いました。
 それからずっと35歳まで家で、魚釣りと読書と旅行をしたりして、自分は何をしたいんだろうかと考えていました。



―――それでご両親は何にもおっしゃらないで?



 はい、何にも。その間は何も言わずに、さすがに35なったら、父に「仕事をしたら」と、知り合いに頼んで仕事を勧められ、行ったんですけど倒産して、これはしめたとまた何もしなかったら、また父に言われて仕事に出たんです。



 営業はしたくない他の仕事をと言ったら、監査、企画、審査の仕事につくことになり、そこは続いたんで、40過ぎになって結婚をせよと言われたんです(笑い)。



 隣にいとこが住んでいて、このいとこは「もう結婚を3回もしたぞ」と言われて(笑い)、自分の息子は仕事はしないは、結婚はしないはという状況が長かったんで、母が相手を探してきて、42歳で結婚しました。(笑い)



―――その奥さんがまた出来た方でね。



 はい。それから最近まで十数年働いていました。
 しかし、またこんなもんではないという思いがもたげてきて(笑い)、いつも人生はこんなもんじゃないという思いを持っていたんです。
 


 「もう、辞めますから」と会社に言ってもいろんな理由でなかなか辞めさせてくれなくて、「これは困った」と思い、妻に「私も賛成してますからもう辞めさせてください」という手紙を書かせると、すんなりと辞めることが出来ました。
 そういうことで妻は病気になったんではないかと思うんですけど。それから癌という重い病に。



―――奥さんが癌を患って、そのときに子どもさんが不登校になったんですね。



 はい。それで自分の二の舞はさせたくないと、子どもには無理やり学校へ行かせようとしました。
 子どもにだけは自分とは違う空白な時間というか、自由な時間を与えたくない、普通に行ってほしいと思い、時には叩いたりもしました。



 入院している妻の変わりに毎日お弁当を作っているのに行かないので、とてもイライラして、弁当を中身ごとを割ったり、昼夜逆転してテレビばかり見てるからと、テレビを3台ブラウン管ごと壊したり、娘が部屋から出てこないのでドアや机も壊したり。(大笑い)



―――後始末はご自分で、ガラスなども掃除されて?
 それでも、学校に娘さん達は行かなかったんですか?




 はい(笑い)。当時は何もわからずにやってしまいました。
 最近まで、自分はダメだ、何もしなかったせいで自分の能力を発揮できなかったと思っていたので、娘たちにはこんな思いはさせたくないと思っていました。



―――過去の自分を否定されていたので、二人ともこんなになるなんてとんでもないと思って(はい)、奥さんは入院中だしね。



 はい。だからフォローが出来なくて、娘を叩くと娘達が泣くんですよね。
仕方なく病院へ行って、妻に帰ってきてと迎えに行ってました。



―――そこで奥さんは何と言われたんですか?



 妻はいつも「もう今のままでいい」と言っていましたけど、その意味が分からなかったんですよ。「そのままでいい」という意味が。
 今紹介した「詩」などを読んでみて初めて妻の言ってることがわかったんです。



 この会の「休んだままでいい」という意味がなかなかわからず、最近まで原則的に行かせるべきだ、今でも何パーセントかはそう思っているのかもしれないけど、早くそれが分からないといけないとは思っています。



 最初この会へ参加した時はびっくりして、2回目くらいでこのくらいは分かると思ったんですが、なかなかそれが分かりませんでした。



―――ご自分が仕事を辞められた後、娘さんたちが不登校になったんですか?(はい)
 
勤め先に奥さんがそういうお手紙を書いてくださって、あなたはそれで救われたわけですね。



 はい。妻は仕事をしなさいと言いませんでしたし、私は前と同じで別に何にも気持の負担はありませんでした。経済的なことも何にも考えずに。(笑い)



―――では、ご自分の妻が「あなたそんなことを言ってどうするの」、「そんなにいつまで寝ているの! なぜ働かないの!」と言われたらどうでしたかね?(どうでしたでしょうかね、私は言われたことがないので)(笑い)



 
でもあなたは、奥さんが子ども達をそのまま受け入れなさいとおっしゃったけどなかなか分からず、O先生に巡り合ってここを紹介されたということですね(はい)。
 
最初のうちはなかなか分からずに(はい、簡単に変わるものではないですね)。
いえ、何も私は「変わりましたね」とまだ言ってませんが(大笑い)。
 
ついこの間「水ぶっ掛け事件」もありましたしね。(笑い) 



 はい、1年前の今頃でしょうか(笑い)。
ごく最近まではそういう状態だったということで、まあなんと物分りの悪い自分だろうということがわかりました。



―――ご自分の越し方・生き方をそれで良いんだよと言ってくださったO先生と、親の会との巡り合いというのは、開眼するような出来事ですね。



 はい、私は自分を否定してきた生き方を肯定するのだから、180度違う自分になりつつあるのではないかと思っています。



 何十年も否定して来ましたので、そう簡単には変われるものではないと思います。
 ただ心の中ではそういう変化があっても、表面的にはお腹や頭が痛いとかいうことも感じなかったです。



―――あなたの御両親はご立派な方ですね。



 はい、今考えるとほんとに良い両親だったなと思います。
 ごく最近父に対してはそう思います。前は、父はつまらん人間だと思っていたもので、やっぱり自分の方が浅かったなあと。
 妻の死と娘の不登校によって分かったということです。



―――大変良いお話で、大事な教訓があります。
 自分を受け入れられない状態が長いこと続いていて、それでお子さんの状態は受け入れられなくて、それは自分を投影することですから受け入れられないというパニックの状態がわかりますよね。



 結局自分の過去を否定している状態なわけですから。
 その状態が長ければ長いなりに、なかなか切り替えられないですよね。
 でも娘さんたちの不登校から大きく転換してご自分の生き方を肯定できるようになってこられた。
 大変すばらしいことですよね。という大切なお話を「親父の会」でされたんですね。



 


試練の時ほど幸せになれる絶好のチャンス 山口さん


山口良治さん:僕は東京で恋愛結婚をしたんですが、愛美が4歳のときに離婚したんです。
 僕は鹿児島人、彼女は関東人で考え方が違って、今思えば窮屈だったんでしょうね。
 愛美が幼稚園に上がる前でしたが、彼女が1,2日帰ってこなかったことがありました。



 あちこち心配して探したんですが…。
 いなくなってわかったんですが、愛美の入園の手続きも、納税もしてなくて、僕は給料は全部渡していましたし、家計のフタを開けたら貯金も使い果たしたうえに彼女の親ぐるみで使って、借金だらけになっていたんです。



 これじゃ生活できないと思い、離婚の決断すると早かったんですが…、そこまでいくのに7キロぐらい痩せました。当時はスリムでかっこよかったんです。(笑い)



 僕は仕事の手続き上すぐ鹿児島へ帰れなくて、愛美と弟を先に私の実家へ帰して、愛美を幼稚園に入れたんです。
 5月に帰るまで祖父母だけで育ててもらい、あのときはほんとに涙が出ました。(
―――大変でしたね) 本当に二人抱えておいおい泣きました。



―――人生の中で離婚という大きな波があり、愛美さんが拒食・過食になったときも波があり、どうしていいか分からなくなったりして…



良治さん:僕はいつも悩んで悩んで行き着いた時に、これでいいんだという結論が出るんですが、そこまで行き着くと、後は自分がどうしたってなるようにしかならないんだからと思えるようになって、気持がすごく楽になるんです。



―――愛美さんがお祖父母ちゃんにお世話になったけど、また愛美さんが拒食過食になって、お祖母ちゃんとも大変な時期があり、離れて暮らすことになりましたよね。



良治さん:その時が離婚した時よりも大変でした。
 お祖母ちゃんに話をしても、理解できないんです。自分がよくなりたいと思わないからそうなるんだと言い張って、話が通じないんですね。



 僕が「違うんだって。自分を自己否定してこうなっているんだから、自分がよくなろうと思ってないんだよ。逆に自分がもっと悪くなって心配させようと思ってるんだよ」と言うのですが、お祖母ちゃんは昔の人なので、自分で克服しようという気持がないからだめなんだと、いくら説明してもわからないようです。



 「俺の給料全部使って食べさせていいから」と言うと、「後の生活はどうするの?」と言うので、とにかく「今の生活はこのままでいいから」と言ったりしました。 



 僕のところは3人兄弟で、13歳離れた妹はおやじの兄弟の子どもなので、血は繋がってないんです。
 こういう話をする時に思い出すんです。
 お袋の人生もそういう実の子ではなかった子を育て上げた後に、また愛美の母親代わりになり、そして愛美との葛藤もあって、そういった意味では波乱に満ちた人生ですね。



@山口愛美さん:親の会に入る前までは気を使って良い子にしていたので、入った後の方が、お祖母ちゃんとの関係は激しかったです。



 家は新しく作った家と母屋があるんですが、私が過食になったので、お祖母ちゃんは母屋の使っていない古いお風呂に冷蔵庫を入れて、鍵をかけて、私もそこから食べ物をとるのに大変でした(笑い)。
 私がそこから必死になって食べ物を取ると、「泥棒みたいな真似をするな」と言われたりしました。



―――その時、山口さんはよく泣いてましたよね。



良治さん:そうでしたね(笑い)。
 やっぱり離婚の時よりも、愛美とお祖母ちゃんの時の方が大変でしたね。
それで思い切って引っ越ししました。



―――お祖母ちゃんから離れてから、気持は楽になりましたか?



良治さん:お祖母ちゃんから離れて、僕たちも、お祖母ちゃんも楽になったと思います。



愛美さん:お祖母ちゃんはあんなに鍵かけたりしてたのに、今では愛美が食べないかなと食べ物をいろいろ持ってきて、あの時はなんだったんだろうという感じです(笑い)。
 今はその時に比べて、食べ物に対して執着心がなくなってきたように思います。
 以前はどうやって食べ物を手に入れようかと頭からずっと食べ物のことが離れませんでした。



 今、お祖母ちゃんの話を聞いていて、やっぱりお祖母ちゃんも自分が無理してきたから、私のこともわからなかったんじゃないかなと思いました。
 お祖母ちゃんは女学校の先生にほんとはなりたかったようですが、人のためにずっと自分を犠牲にしてきたようです。



 田んぼがあるので、いつまでにあれをしないとという感じでせかせか忙しいのに、そのお祖母ちゃんの目の前で私が寝てたりすると、「私はこんなに外で働いているのに愛美はなにしてるんだ」となったんです。
 今は目の前にいないから、かわいい孫という感じなんじゃないかと。



―――なんで私が畑仕事でへとへとでこんなにしてるのに愛美は、と親の会でおっしゃっていましたね。
 愛美さんはあの時は生きてるのか死んでるのか分からないような感じだったもんね
(はい)。
 
すごく痩せ細っていました。(でもその時まだ私は足とか太いなと思うんです)それでも許せなかったんですね。



愛美さん:あのときの写真を見ると、こんなに細かったかなと思うけど、今もあのときも鏡を見ると痩せてるとは感じられないんです。



 写真では痩せ過ぎかな思う。(
―――今は食べ物のことは四六時中は思わなくなった?) 買い物に行かなきゃと思うけど、そんなに思わなくなった。(―――食べ物のことを考えてばかりで疲れるということはない?)それよりもどうしたらおいしいものが食べられるかなと(―――それは皆が考えることね、どうしたらおいしいものが食べられるかなと)(笑い)。うん、そう。




今拒食の苦しみの中にいて Kさん


Kさん:9月の親の会に参加したときには、拒食の状態でお店の試食もほんの少ししかできないという話をしたんですが、2,3日後から過食に変わってしまい今日まで来ています。



 この3ヶ月が3年ぐらいに感じるくらい長くて、過食しても吐くことができず体重が15キロ以上増えてしまい、毎日毎日自分を責めてその葛藤で疲れてしまいます。



 最近は食べることに疲れてきているんですが、でも止められないというか、それが日常になってしまって止めることができません。
 朝起きると今日もまた食べるのかなと考えるとそれだけで疲れてきます。



―――食べることに関してお父さんとお母さんは何か言われますか?



 家族は弟も含め全然気にしていなくて、食べることは悪いことじゃないと言うんですが、自分で自分が許せないんです。



 食べ始めた最初の頃は味もわかってこれはおいしいと思ったんですが、だんだん疲れてくると何を食べても同じ味になって、半ば挑戦的になってどこまで食べられるんだろうと限界に挑戦したり、やけくそになってくるんです。



 冷静になって食欲が止まるとなんてことをしたんだろう、取り返しのつかないことをしたとまた自分を責めるんです。でも食べているときは気づかないんですよね。



―――食べてるときは気づかないし、考えると自分を責めているし、その繰り返しなんだよね。
 愛美さんもそうだったのね。だけど自分を受け入れたとき、気がつけばあんまり食べ物のことが頭にないなという時期が必ず来るんですね。



 今、Kさんは漆黒の闇の中にいてすごく辛いんだけれど、明けない夜はないんです。
 何よりお父さんとお母さんが認められていて、ご自身もここでご自分のことをお話してくださる、そのことがとてもたいしたものだと思いますよ。




 今、見た目は前と全然違うけれど、心がついてこないんですよね。
 これはうそなんじゃないかと思って…。
 やせているときの期間が長かったものだから、太ってしまっても心はやせているときのままなんです。



 体格が普通になってきたら周りの人からは普通の目で見られますよね。
 やせていると病弱で特別な感じで見てもらえるけれど、太ってしまったらそこら辺に転がしていても生きていけるみたいに思われているみたいな、なんて表現したら言いかわからないんですが、それがすごく辛いんです。



―――そういう辛い思いをしながら、こうして親の会に来てみたいなと思われたのはどうしてなんですか?



 やっぱり少しでも話したら気が楽になるというか、家でもひとりでいると悪いことばかり考えて自分を追い詰めてしまうんですけれど、親と話したり弟と遊んでいたりするとケラケラ笑っていて辛さを忘れ、楽しいんですね。
 話すということで自分の気持ちを安定させたいというか。



―――あなたのご両親は特にお母さんは、やっぱりここまでくるまでは右往左往して本当に大変だったと思うんです。
 だけどこの会に4年いらしてお母さんどっしりしてきたじゃないですか。
 お母さんは大丈夫だなあということをあなたの目から見ても感じるようになってきていますよね。



 そして姉弟の仲もすごくよくなってきているでしょう。
 だからあなたの中で大丈夫なんだなという気持ちが確実に芽生えてきていると思うんです。
 


 大丈夫なときにこそ人は自分の辛さをいろんな形で現すんです。
 それはあなたが安心している証拠なんです。私は心配していません。
 決して明けない夜はないし文絵さんが本当に安心してこれでいいんだなあと思えるようになってくると思います。
 愛美さんはおばあちゃんとの葛藤からお父さんと2人で暮らそうと引越しをして何年になりますか?




山口愛美さん:2年になります。
 お父さんとふたりで紫原に引っ越したときは、お父さんに対して悪いなという気持ちがすごくありました。だけどだんだん薄れていってこれでいいんだなと思ったんです。
 だけどこれでいいんだと自分に思わせようとすることがすごく大きくて、しゃくし定規だったんです。



 今は波があってもいいんだなと思うときもあるし、ああいやだというときもあるの。
 食べるのが止まらないときはイライラしてお父さんに当たりもするし、そうでないときもあるし。
 凝り固まったみたいのがなくなってきて、柔らかくなってきたみたい。
 こうじゃなきゃみたいな考えがないんだ、というのがすごく大きくて、こうであってもいいんだみたいな、ずっといいときなんかないし。



 さっきKちゃんが言っていたけど、やせてなきゃと思うより、やせているほうが弱々しくてそれが心の楯になるのね。
 やせてるほうが攻撃されないというか、普通に見えることがあっちゃいけないわけ。
 普通に見えないほうが心が楽なの。



 普通に見えるとああしなくちゃ、こうしなくちゃと余計なことを言われるんだよね。
 もっとやせなきゃと思ったのはもっとわかって欲しいという心の現われだったというのもあるし、周りから攻撃されないためのバリヤーみたいなものだったんだなと思います。



―――気持ちはやせているときと同じ気持ちなんだということなんですね。
 Kさんにはここに来て苦しさを現して欲しい、ここで話してそのことによって気持ちを楽にして帰ってもらいたい。



 愛美ちゃんがお話してくれたけれど、もっと自分を痛めつけたい、もっと痛めつけないと生きてはいけないんだという、それは自己否定の現れなんですね。
 そうやって自分を否定するんだけれど、でも本当は自分を大切にしたいという気持ちはKさんには必ずあるんですよね。



 本当に家族があなたを受け入れてくれて、あなた自身が大丈夫なんだ、過食しているのが今の私なんだ、と素直に受け入れていく、四六時中食べ物のことを考えている、それが私でいいんだ、というふうに今日はそれを思って帰っていって欲しいですね。



(母):先月の親の会には参加しようと思っていたんですが、前日の夜、どしゃぶりの雨の中を、娘は自転車で食べ物を買いに出かけ、片手で運転していたので転んで大怪我をして帰ってきたんです。



 すぐに救急夜間センターに連れて行き大変でした。
 今毎日ガーゼ交換で通院しています。
 肉まんひとつを買いに行きたいと食べ物のことしか考えられなくて、あせる気持ちが自分の命と食べ物を交換するようなもので、この子本当に大丈夫なのかなと一瞬思いましたね。



 体重もどんどん増えてきています。娘は弟に聞こえないところに私を呼んでいろいろ言うんです。
 「お母さん、私は体重が増えているけれどどうしてこんなになるの。いままでカロリーを計算出来ていたのに何で出来なくなってしまったんだろう。ぐうたらになったんだ」と自分を責めるんです。



 「体重が48キロになったとき私はもう食べることを止めたい」と言うので、私は「止めないで、止めたらもっと辛くなるから。本当にきついかもしれないけれど標準体重を超して60キロになるかもしれないけれど、そこまでは流すようにいって、そうしたとき本当に食べなくなるよ」、
「ずっと一生60キロを維持しようと思ったらずっと食べ続けなければいけない、そういうことはできないよ」と言ったんです。



 食べるだけ食べたらどこかで食べなくなるからといつも言っているんですけれど、それでいいのかなと思って…。
 娘にしたら毎日1キロずつ太って、今日も行きたくない、こういう体を人にさらすのは恥ずかしいと言うんです。



 弟との葛藤もあって、夜中の12時から後は息子の時間、その前までは娘の時間で、入浴や洗面所を使いそれまでに寝ると約束したらしいんです。
 息子は最近お風呂に8時間くらいかかるんです。それで夫には前の日に髭を剃っておいてくれと言うんです。(笑)もう本当に大変なんです。



 娘は「12時前に全部済ませて寝ている、ちゃんと守っている、なのに何で弟はずれてくるんだ」と怒るんです。息子はこれでも一生懸命しているんだと言うんです。
 息子が徹夜をしたりすると時間がまたずれてくるわけですよね。



 それで私は「不登校というのはそういうものだ、皆自由に家で過ごしてそれでいいじゃない」と言ったんですが、だけど娘にしたら「私は一生懸命しているのにあの子はしていない」というわけなんですね。



 私もカチンと来て、「私は息子と出て行くからあなたはお父さんとこの家で2人で暮らしなさい」と言ったこともあって、内沢さんに電話で相談したことがありました。
 そのときに家族はどんなことがあっても一緒にいたほうがいいと言われて、ああそうだなと思い安心しました。



 10月の親の会で私は彼岸花の話をしましたよね。
 そのことが会報に載っていたので夫にこれを読んで欲しいと言って渡したんです。
 そしたら読んでくれたんですが、読んだ後すぐにいなくなったんです。



 帰ってきたとき、「私が親の会で言った話を読んで怒った?」と聞いたら、夫は怒ったと言ったんですが、でもそれだけだったんです。
 あっ、この程度だったら夫は私のことを認めてくれているんだなと思ったので私は安心したんですね。



 内沢さんが最後のコメントで夫との関係ですねと書いてあったのを見たときに、なんでこう分かり合えないんだろうと思って、この間食事の時間に結婚した頃の話を夫にしたんです。



 私も知人の紹介で結婚したんですが、新婚旅行でひとり残されて寂しい思いをしたり、兄姉に気を使い辛い思いをしたこと、娘が生まれるときも私を気遣ってくれることなく不安で仕方なかったことなど私の想いを話しました。



 そしたら娘が「弟が生まれたときはどうだった」と聞いたんです。
 そのときは6年後だったし、「あなたがいたからお母さんは楽しかった」と言いました。
 そして「大きくなったあなたたちから力を貰って、あなたたちから生かされていると思う」と言いました。



 本当にふたりの子どもたちを産んでよかったと今思うんですね。
 私を育てるために子どもたちが犠牲になってくれているんじゃないかと思うほどです。
 


―――そこに夫はでてこないの?



 そうですね。あまり出てこないんですね。
 この前、息子と二人で食事をしていたとき、娘が荒れて2階でバッタンバッタンやっていたんです。
 


 息子が「疲れるね、毎日楽しく生活したいね」と言い、お姉ちゃんまたやっているねと話していたら、娘はしばらくしてから降りてきたんです。



 そして「お母さんわかっていた?」と言うんです。「うん、わかっていたよ」と答えると、「前のお母さんだったらすぐに飛んできていたよね、お母さん強くなったね」と言われたんです。



―――すごいじゃないですか。で今はKちゃんがそういう苦しさを抱えていても、家族4人で暮らしていこうと思われているんでしょう。
 (すごく揺れるときがありますが、でもやっぱり子どもはいいなと思います)



 
あなたはKさんが拒食であっても、過食であってもそのままを受け入れようと思われているんでしょう。(はい、本人はきついだろうけれど、自然のままに流れるようにという感じで)



 
それはKさんにとってもお母さんにとっても非常にいいことですよね。気になるのは60キロという制限ですね。そんな制限はしないほうがいいですね。(はい)



 
若いときは中年と違って新陳代謝があるわけですから、やせたい、太りたいと思ったときに自由にできます。だからそんなことを気にする必要は全くありません。
太った、やせたということで人格は評価されないんです。



 大丈夫、60キロなんて太ったうちに入らないんですよ。
 あなたには必ず気持ちが楽になるときがきます。
 そのときに太ろうがやせようがあなたが選べばいいことですね。でも気持ちが楽になることが一番大事ですね。



 先ほど愛美ちゃんが言いましたが、やせていると辛そうに見えていいと、太っているとあの人はどこが悪いのみたいに見られやしないかと思って、また自分を責めてしまう、自分だけが承知できないんですね。



 だけどあなたの苦しさを知っているから、家族が受け入れてくれる、親の会も受け入れてくれる。あなたの心の苦しさをこうして開けていけば、必ず明けない夜はないんですね。



 先ほどお話してくださった方も、のどにふたがされたようになってしまって食べれなくなるときが今でもあると言われました。
 映画監督の羽仁進さんの娘さんの羽仁未央さんという方も不登校を体験しており、若い頃脅迫行動にかられて1日に何度も洗濯したり、お風呂に入ったりしていた時期がある。
 


40代になった今でも疲れると自分で休息の時間を作っている。
 そういう自分なんだとうまく折り合いをつけているというお話を聞いたことがあるんですね。



 だから今のKさんはこれが私なんだと受け入れて、その私を好きになろうと考えていかれることが大切だと思いますね。



 


今でもやり直しはきく。もう一度抱きしめてやりたい。Hさん


(母):息子は11月で20歳になりました。
 いつも外でなにかするんじゃないかと不安がありました。



 あの子を信じなさいと言われても、実際あの子と向き合った時の恐ろしさや不安は誰にも分からないと思いました。
 その時の自分の精神状態も不安定でしたし、口だけじゃなくて実際にしでかしてきたので、いつも不安でした。



 このままこの子さえいなくなってくれればいいのにと頭をかすめたりすることもありました。
今冷静になってその時の状況を見たときに、あの時もっとあの子に寄り添って信じて、気持ちよく外に送りだしてあげれなかったかなと思います。
今はその時の償いじゃないんですけど、あの子と同じ目線で感動したりしようと思っています。



 昔は同じ目線で感動することはなくて、お兄ちゃんといつも比較したりしていました。
 私は小さい時の息子の写真をたくさん部屋に飾っているんです。
 その時の顔を見て、もう一度私は昔に戻ってこの子を抱きしめたいなといつも思ってるんです。



 なにかあの子から言われた時には、写真を見て、もう一度抱きしめてやり直したいと思うんです。
 そして今でもやり直しはきくのでキックボクシングに今夢中になっている息子にすごいね、才能あるねと言ったりしてます。



 また自分の気持ちも自然にそういうふうに言えるようになってきました。
 本当に辛い時には同じ目線で言うこともなかったんです。
昔はいつも、困った、困ったという感じでした。



 今も時計を投げて壊したりとかありますけど、小さいときの心のままでいるのがこの子の中にまだたくさんあるんだと思って、接しようとしています。



―――以前、ずっと家に帰ってこない時期があって、この子は本当にどうなるんだろうかと心配してらしたよね。



 そうでした。
 でも「何か悪いことをする時には本当にお母さんのことを愛していたら、お母さんの顔がぱっと浮かぶから」と内沢さんに言われたので、そういうふうに思われるだけの愛情をもたないといけないんだなと思いました。
 そのようにしようと心の中でずっと思っていました。



 以前は不安の中で、夜中、暗闇の中へあの子を送りだしてました。
 今とその時と比べると、今は夢見たいな生活をしています。
 でもそれで命を落としたらそれはその子の人生だって思いなさいって内沢さんに言われました。(笑い)
 


―――その子の命はそこまでだと思って腹をくくりなさいって言ったんだよね。



 そうですね。それで腹くくって生きてきました。



―――過食でも家庭内暴力でもそれで死ぬんだったら、親が信じてない時に命を絶つんだよね。我が子を信じれば必ず、そこから救われますよね。



 子どもはただ愛して抱きしめてほしいと願っているんですよね。だからあの手この手と困ったことをして親を求めていくんじゃないかなと思います。
 私たちだってそうですよね。人は愛してもらいたいと根本的に思ってますよね。




―――
(内沢達):手をかけた子のほうがかわいいっていう面もありますね。家にも二人子どもがいますけど、娘の方はちっちゃい時から困らせてね。(―――今、あなたが一番困らせてるよね。)(笑い)だけどね、困らせてくれるとかわいくなってくるんです。



―――あなたも息子さんが一番困らせるけれど、一番かわいい、かわいいってオーラがでてたもんね。(笑い)3人お子さんいるんですよね。
 下の妹さんは、今ちゃんと不登校してるんですか?


 両親と同居しているので甘やかし過ぎだと言われて、こないだ大喧嘩したんです。
(―――それは偉いですね。)
 
したんですけど、やっぱりぐらつくというか。本当は行かなくてもいいかなと思うんですけど、両親の目もあるので、やっぱり行けたらなと思ったりするんです。(笑い)



 その子の人生はその人のものだよね。たとえおじいちゃんとおばあちゃんに言われても。
娘さんの人生を強制したらだめだよね。



 だから今、娘を守るのに大変という感じですね。



―――娘さんを守ってるの?本当に?(笑い)冬休み近くなったり、夏休み近くになったら娘さんの味方になるけど、新学期近くなるとおじいちゃん、おばあちゃんの味方になるんじゃないの?(笑い)


 
 味方にまではならないんですけど、揺れる自分がいます。
 娘がフリースクールに行きたいと言ったので、見学に行こうかなと思ったんだけど、お母さんはお金がないからもう行かないと娘が言って、そのままにしています。



 休んだ日はじーっと家の中にいて、土、日になると遊びに行ったりしてます。
 やっぱり、両親の目があるのがきついです。



―――娘さんが学校に行きたくないと信号を出したのはかなり早い時期ですよね。
両親の目とか、他人の目、夫の目というのは本当は「自分の心の目」なんですよね。
 周りの人の目にしてると無意識のうちに自分が楽なんです。



 その時は楽なんだけど、本当は自分の心の目が、学校に行かなくて大丈夫かなって不安になっている目なんですよね。大丈夫だと確信を持ってくると、ご両親の目は気にならなくなる思いますよ。




 どうなるのとか両親が言ってくると、黙っててと言ってすごい喧嘩になります。 
最初はすごく言ってたんですけど、自分で決めるからと、わからないんだったら、そんなに心配だったら不登校の親の会に行きなさいと言ってます。



―――そうね。必ずそういうので自分の気持ちが影響されたりするよね。(そうですね。)
 でも本当は自分の目なんだよね。



 さっきも学習したんだけど、kaito君という子の場合にも言えるのよね。
 お父さんとお母さんがすごく強制して私はすごく辛いと言う子の相談があるんですけど、私は本当にこのkaito君の言うとおりだと思うんですね。



 親がなんと言おうと、自分の目なんだよね。
 自分がどういうふうにして、自分を守るかということに自分が気づくかということなんだよね。
 親が理解しないでkaito君や初めのうちのリュウセイ君のように引きこもるのはすごく大変なことなんだけど、最終的にはその子自身の人生なんですね。



 だけどそれをお母さんが少しでも理解してることは、娘さんにとってはとても気持ちが楽ですね。



 「学校に行くのは死ぬことの次に辛い」なんて言うから、そんなに辛いんだなと思いました。



―――死ぬことの次に学校に行くのが辛いなんて言うほどだから、本当に休ませてあげないといけないよね。


 


あの時私も振り回されていたら、今の穏やかな気持ちはないです。
森田淳子さん



森田さん、息子さんが不安だった時に先ほどのSさんのお話聞いてどうですか?



森田淳子さん:娘と私が二人で福岡に行く予定があった時、息子は「一人でいるのが不安だから、福岡に行かないでくれ」と言った時があったんです。
 その時、息子はすごく荒れてたんですけど、娘が福岡に行くのを楽しみにしてたので、「お母さんは行くよ」と言ったんです。息子は「帰ってきたらどうなってるか知らないからな」と言いました。
 


 私は、帰ってきたら家はどうなってるだろうか、あの子はどうなってるだろうかって不安で不安でたまりませんでした。
 でも福岡まで行ったらもう私も気持ちが吹っ切れてなにもなく、家に帰っても何もなかったんです。  



だけどあの時の行く前までの不安は今でも忘れられないですね。
 でもこれでよかったんだなという気持ちはあります。
 また同じことがあったらどうするか、できるかわからないですけど、できたら同じようなことはないほうがいいですけど。(笑い)



 でも行くのを止めていたら、結局結果はいい方にはいかなかったと思います。自分でもそれでああ大丈夫なんだとわかりました。



 私を夜起こしに来て、「起きないと明日の朝は死んでるからな」とか言われた時とか、私が友達と出かける時に電話線を切って暴れたりとか、でも帰ってきたらちょっと壁に穴があいてたぐらいでした。
 あの時の息子の不安だった気持ちに、そのまま私も振り回されていたら、今こうして穏やかな気持ちになれなかったと思います。



 年末に本人は学校に関するものを全部振り分けて、大事なもの以外は全部捨てて、窓もきれいにしたら元気がたまってきたと言ってます(笑い)。来年は働くのが目標とか言ってます。(笑い)



 今は妹のほうが不安で、「大丈夫、大丈夫?」と一日に何回も聞きます。娘は「それでお母さん疲れない?そういう時はNHKの引きこもりキャンペーンのHPにかかれた通りにしたらいいんだよ」と言うのです。



 その内容は不安を言う回数も一日に何回までとするとか、いろいろ不自然に規制しているんです。「お母さんは疲れるけど言われるのはぜんぜんいやじゃないし、それを無理に止めようとすること自体不自然だから、疲れたら正直に何度も言っていいんだよ」と言ってます。



 この前私一人で、JASのマイレージが溜まっていたので松山まで旅行に行ってきたんです。ひとりの旅行が行く前までは不安だったんですけど、行ったらすっごく楽しかったんです。(笑い)
こんな日が来るなんてと思いました。



―――それはよかったですね。そんな旅行できるような日がきてね。重則さんは今は自然に生活してらっしゃるの?(笑い) 自然に家に帰れるようになったのね。



森田重則さん:そうですね(笑い)。
 前は「家族のために」というふうに仕事をしていたんですけど、今は「家族がいるから」仕事ができるんだなというふうにだんだん気持ちが変わってきたんです。



 今の職場のほうが給料下がりましたけど、自分の気持ちを出せるという感じでいいですね。息子とも一時期に比べたら自分の気持ちが全然違いますね。自然に接するようになりました。



淳子さん:息子は20代はバイトで、30代になったら定職につくんだとやっぱりなにか目標を掲げているみたいです。



―――そしたらMさんの話してあげたら?



淳子さん:ああ、もうしました。そしたら変な人だねと(笑い)、



Mさん:正常だよと。(笑い)




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Last updated: 2004.1.19
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