TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2009年10月発行ニュースより
自分のために生きる 2009年9月例会報告(抄) はじめて参加したおふたりに、みんなが「私もこうだったのよ。でもだいじょうぶ」とエールを送りました。いけさんは、「気持ちが楽になったのは、山登りとか自分の好きなことをして楽しむようになってから」とふり返ります。永田さんは、息子さんの誕生日に「あなたのおかげでお父さんとお母さんは人生を楽しむようになった」と書きました。息子さんは「さすが、オレ!」と言ってくれたそう。 しずりんさんは、トマトや種から育てたナス、きゅうりで夫と晩酌を楽しむのが「今一番のワクワク」「親の会に参加するようになって自分を大事にするようになったことが何よりの収穫」と嬉しそう。Kさんは、5年間会わなかった娘さんと会えるようになって、「娘がはじめてお茶をいれてくれた」と話して、感動でした。 はたちのまいちゃんは、当時をふり返って、「どんな大事な友達でも学校からくるのは嫌だった。手紙もプリントも辛かった」と言いました。「生きているのが申し訳ないと思っていた」とも。辛い涙に「まいちゃん、だいじょうぶだよ」とみんなの愛があふれます。 26歳の愛美さんも、同じように思ったと言います。愛美さんは「鹿児島に帰ってくるとメッチャ元気になる。親の会がなければ今の私はなかった。ここが私の原点」と。 Tさんは「学校に行ってほしいという思いも強くあって辛い」と率直に自分の気持ちを述べました。他のみなさんの「大丈夫なんだと思っていても、いざとなると揺れてしまう・・・」という発言も受けて、内沢達が「“ふたりの自分”を大事にしよう」と10円玉の入ったマッチ箱を使った実験をしながら話しました。 親の会が20年以上もこんなに長く続いているのは、みんな一人ひとりの「自分のため」の会だから。「自分自身を一番大切に生きる」ことがまわりの人にとっても大事なことだと発見できたから。一人ひとりの発言に、「人生っていいなあ。自分を大切にしていくとこんなにたくさんの幸せがある」と感動をたくさんもらったあっというまの4時間でした。 目次 1 親の会は私の「原点」 あいみさん 2 「さすがオレ!」と息子 永田さん(母) 3 自分の人生を楽しむようになると・・・ イケさん 4 夫と二人で楽しむ缶ビール しずりんさん 5 どちらの思いも自分のもの Tさん 6 つまらぬ自分 すてきな自分 ―「二人の自分」を大切にしよう― 内沢 達 親の会は私の「原点」 あいみさん ―――愛美さんが福岡から来てくれたのね。お久しぶりですね。 26歳になりました。今福岡で一人暮らしをしています。 私は高1の9月に生徒会の会長に選ばれました。生徒会では朝、校舎のどこかに立って「おはようございます」とあいさつしたり、朝礼のある日は、放送室に行って呼びかけたりしました。 すると半年しないうちにご飯が食べられなくなって、その時はその言葉すら知らなかったけれど「拒食」になりました。全然食べないで学校に行くので朝礼の時に倒れて病院に運ばれたりしました。 1月に倒れた時に病院で、栄養をとってないから点滴を打とうとなったんですが、なんで栄養を入れないといけないのか、治りたくないと思っていたので、それが本当にイヤでした。その時から自分の感情がパァーと出て来て過食に変わったように思います。 拒食の時は何も食べなくていいから勉強も出来ていたんですが、過食に変わってからは、食べて吐くことに時間がかかって勉強も手につかなくなり成績も落ちていきました。学校に行きたくなくなって、すべてがおっくうになっていきました。カトリック系の学校だったのでミサしかない日とかを選んで、あとは親に黙って学校を休んでいました。 ある時それがばれてしまって、「愛美がいない」と探し回って、その時私は家の屋根の上にいたということがありました。 その時にお父さんが「学校に行かないのならお父さんに言いなさい。黙ってどこかに行っていることの方が心配だ」と言ってくれたんです。 それで次の日から学校に行かなくなりました。 そういう時って、気持ちが麻痺していて、辛いとか苦しいとか、なんでイヤとかわからないけど、行きたくないという気持ちだと思うんです。 おばあちゃんがよく言っていたのは「片親だけどしっかり育てる」と。お母さんがいないことに対して悲しい気持ちとか、恋しい気持ちはないのに、おばあちゃんはそれにこだわって育ててきたから、学校は小、中学校と休むことなく行っていたし、心配かけまいといい子でいたんだと思います。 ―――お父さんに言って安心したんでしょうね。 お父さんが受け入れてくれるサインを出してくれたからいいんだと思って。 それで自分の辛い気持ちや学校に行けないこと、食べ物に対する執着をお父さんに言うんだけれど、お父さんもわからないわけです。 お父さんは治さなきゃいけない、病気だから病院へと考えてしまうわけで、大学病院に連れて行かれました。 私は愛情と憎しみは裏表と思っていて、一番愛する人にわかってもらえないということが憎しみに変わるんだと思うんです。それは母親代わりのおばあちゃんだったんです。 過食をするのでお金がかかるとか、いろいろ攻撃されることが辛かったです。 それをお父さんに言っても、今度はお父さんが私の辛さをどんどん溜めていって、ある日お風呂で大声で叫んだんです。「お父さんだって辛いんだよ」と。私は本当に何と言っていいかわからないくらいの絶望感でいっぱいでした。 その時にお父さんが図書館から借りてきた登校拒否の本の最後のページに鹿児島の親の会の連絡先が載っていて、初めてトモちゃんに電話をしたんです。 いろいろ話したあと、「お父さんに親の会に来てもらってね」と言われて、それから親の会に参加するようになりました。 ―――お父さんが親の会に参加するようになって、愛美さんは楽になってきましたか? お父さんもここで自分の気持ちを出して、だんだん理解していってくれたから楽になっていったし、私も安心して自分の気持ちを吐き出せるようになりました。 でも、原因となるおばあちゃんが一緒に住んでいるものだから、吐き出しても吐き出しても中に入ってくるみたいな感じでしたね。 過食をして家にあるものを全部食べてしまうからと食料庫にカギをかけられたり、冷蔵庫の中の物を全部かくされたりして、それでも私はどうしても食べ物が必要だから、なんとかしてとどろぼうのようなことをするしかなくて、そうすると何で私はこんなことをしなくてはいけないんだろうと、そういう自分がイヤで、そんなくり返えしが1年くらい続きました。 そして引越ししてお父さんと二人暮しをしてすごく幸せだったかな。(笑) 私はいじめられてとかではありませんでしたが、やっぱりすごく自己否定が強かったんです。お父さんは私のためにこんなにしてくれているのに、なんで私はいつまでもこうなんだろう。すべてが申し訳ないと感じていました。 ―――親を悲しませて、自分さえいなければという気持ちになっているのね。どの子もそうですね。 でも、そういうことをお父さんに話せたから良かったんだと思います。 ―――父の日に、世界一のお父さんだとメールを送ったんでしょう。 お父さんは涙ながらにお話ししてくれましたよ。(笑) 私は友達にも「お父さんのことが大好き」と話すんです。 なんで好きなのと聞かれるんですが、やっぱりこの世にひとりしかいない存在だし、私のことを無条件で愛してくれるのは親であるお父さんしかいないと思うんです。 そんな人を愛さずして誰を愛するのかという気持ちも、やっぱり親の会に通って自分を全て受入れてくれるお父さんがいたから、そういう気持ちになれたんだと思います。 ――良治さんは幸せね。 私はそれまで引きこもっていたのが、23歳の8月から福岡に行き、今4年目です。 ある日の夜、お父さんの隣に寝ていた時に、「私、なんでも出来る」と突然思って、次の日にオーディションの申し込みをしたんです。 今、事務所に所属して仕事をしているんですが、それだけでは生活が出来ないのでアルバイトもしています。お父さんに経済的な面では迷惑をかけていますが、自分のしたくないことはどうしてもしたくなくて、バイトに行きたくない時があるんです。そういう時は「撮影なんです」と言って休んでいます。(笑) ―――親が「しない」と子どもはある日突然、動き出すんですね。だけど親がいつ動いてくれるんだろうとウロウロしていると子どもは辛いですね。愛美さんは演劇をしたり、ラーメンの「うまかっちゃん」のテレビCMにも出ているんだよね。 はい。4年続けているとうまくいくことばかりじゃなく、今まで見えなかった部分も見えてきて、自分としてはこれで生活していけるようになりたいけれど、まだまだうまくいってないという部分で、すごく悩んだり、不安になったりします。 でも鹿児島に帰ってくるとメッチャ元気になります。だから帰りたくてしょうがありません。(―――それはよかった) ここに通ってなければ今の自分はないなと思うのでここが原点です。また参加します。 (愛美さんの発言をもとに内沢達がまとめた「とても辛いことだって実は明るい」もご覧ください) 「さすがオレ!」と息子 永田さん(母) ―――(初めて参加されたおふたりの話を受けて)永田さんも初めのうちは息子さんが不登校になったことを受けとめられなかったのね。 はい、高1の9月まではほんとに1日も休まずに行っていたのですが、突然行けなくなって、それから半年間不登校をして、高1が終わる3月に退学しました。家にいるようになってから3回目の誕生日がきて19歳になりました。 中学もほとんど休まないで行ったのに、高校の部活ですごい辛いものを抱えるようになって、私は「自分を殺して先輩の言うとおりに動いて、どうしてこんなことになるの」と言いました。息子は今でもひきずっているのかもしれません。 私はもうびっくりして、学校に戻すことだけが親のつとめだと思って、このままではこの子の人生は終わりだという感じでした。でも、どうしても行けないのです。息子はほんとは行きたくなかったのに、そのときは「来週の火曜日から行く」と言うので、私はほんとは行きたいのに何かがあるから行けないのだから、その何かを取り除かないと、と思いました。 担任は頻繁に訪問してくれ、友達の手紙など届けてくれ、ありがたいことだと思って、「また来てください」と頼み、「来週は友達を連れてきますから」という感じになって・・・ ―――そしたら、ますますありがたがって そうです。(笑) そうすると、すごく揺れて、「明日からは行こう」となって、 (―――誰が揺れるの)息子が、いや私が一番揺れて・・・(笑) 今思えばそれが辛かったんでしょうね。どうやっても行くことが出来ないのですから。 行こうとしても、朝は体が硬直して行けなくて、お昼になると体がほぐれて来るので、「行こうかな」と言うので「はい、行くよ」と学校まで送って行って、息子は部活までして帰ってきて。 そし「明日も行く」と言うけど、翌日は起きられなくて、お昼に送っていく、そういうのが1ヶ月続きました。 (―――あなたは仕事はどうされたの)休んでいました。 ―――そのときは息子さんのことばかりで、四六時中息子さんのことを考えてばかりだったのね。 はい、もう辛かったですね。それが親のつとめだと思って。息子を追い込むだけ追い込んで、ひどい言葉のかけ放題だったと思います。(―――もう、そのひどい言葉は忘れてしまったのね)はい。(笑) ―――私がこんなに辛い思いをしているのに、という眼差しで息子さんを見るので、息子さんは親の辛い思いを受けて学校に行こうかなという感じだったんですね。 思えばそうだったんですね。 どうしても行けなくて、あるとき息子は自分のベッドの下にもぐりこんだんです。もう出てこられないくらいの隙間のところにいて、「どうしてそんな所にいるのよ」と手を触ったら、すごく手が冷たくなっていて、このまま死んでしまうんではないかと思ったこともありました。 ―――あなたが不安でたまらないとき、あなたの夫はとてもいいことを言ってくれたのね。 2歳上の娘も大学受験でしたが、そちらは何も見ないで息子のことばかりでいっぱいで「もう、どうなるのよ」と言ったら、夫は辞めたら辞めたで人生は先があると思っていたのでしょうね、「大丈夫、大丈夫。親子3人で仲良く幸せにいつまでも暮らせばいい」と言ったんです。 私はもう・・・、何を言ってるのよ(大笑)、という気持ちでした。 息子も自己否定の限りだったと思います。そのときは辛い顔をして笑うこともなかったんですね。 息子が退学して、5月から親の会に参加するようになって、私が落ち着きました。 ―――その年の夏休みに大学に行った娘さんが帰ってきて、言ってくれたのね。 私が娘に「弟が明るくなったでしょう」と言ったら、「お家の雰囲気も変ったけど、お母さんが一番明るくなったよ」と言いました。 私は今度の息子の誕生日にお手紙を書きました。「お母さんは、あなたが去年よりも一昨年よりもたくましくなっていることが嬉しいです。あなたのおかげでお父さんとお母さんは人生を楽しむことが出来るようになりました」と。まだ、あなたが不登校になってよかった、というような直接的表現は出来ないのですが。 ―――ご夫婦お二人で映画を観にいったり、お食事をしたり、山に登ったり、星を見たりね。楽しんでおられるのね。 はい。「息子に手紙を読んでどう思った」と聞いてみたら、「さすが、オレ!と思った」と。(笑) 自己否定の極地にいた息子の言葉から冗談にしてもそんな言葉が出たことは嬉しいです。何も動いたりはしていないんですよ。 ―――すばらしい言葉をもらいましたね。何も動いてなくても、そのことであなた自身が悩んだり不安になったりしなくなったのね。(はい、なくなりました。お陰さまで) 以前はあなたがお仕事から帰ってきて、息子が長々と寝そべっていると、なんだ、と思ったりして。 はい。腹が立って仕方がなかったのですが、それも思わなくなりました。 ―――無条件にかわいいですか。(はい)(笑) あなたのお顔もずいぶん明るくなっていますね。何より嬉しいです。ただ心配はあなたの夫が、あなたに隠れて「もうそろそろ動いたら」と言われることで。(笑) そうですね。私はこの会で、息子に任せる、ということが骨身に染みていますが、夫は骨身に染みてないから、「もう、そろそろお前の食いぶちくらいは稼いで来いよ」と私の目を盗んでちょこちょこ言うんです。 昨日はTVの「黄金伝説」(自分で自給自足の生活をする番組)を見ていて、「あっ、お前は海で魚を獲って来い、肉は山に行ってイノシシを獲って、野菜があれば自給自足できる」と言ってましたけど。(大笑) ―――息子さんが不登校になって、いろんなことが学べてよかったですね。 お陰さまで、でも「高認を取ったのよ」とか、まいちゃんが高校に行くお話を聞くと「すごくよかったね、いいなあ」とまだ揺れてしまいます。(大笑) 自分の人生を楽しむようになると・・・ イケさん ―――夫を亡くされてもう何年になりますか。 丸12年です。12月で20歳になる娘と二人暮らしです。 高1の秋に行けなくなって、その3月に退学しました。3年半引きこもっていましたが、今年の4月からコンビニでバイトを始めました。 最初はすごく大変そうに見えましたが、今は楽に通っているようで続いています。 ―――はじめのうちはソクトクリームがうまく巻けないから、練習用にお母さんに食べに来てもらって、という話もありましたね。 はい、私は娘の職場は訪問していないんです。仕事場で同じ働く人達との人間関係などいろいろ社会勉強をしているようです。(笑) 収入は私とそう変らないんです。私もパートですから。 ―――あなたも娘さんが行かなくなったときは、とても辛くて何とか行かせようと。 そうですね。後で、娘には「お母さんが理解してくれて良かった」と言ってもらえたのですが、でも私も相当ひどいことをしてきました。 行かない娘を1回だけ叩いたこともあるし、「出て行きなさい」と言ったこともあるし・・・。 だいぶ経ったから言うんでしょうけど、「お母さんには言ってなかったけど、行かないで中央駅でウロウロしていたときもあった」と言われました。 ―――そのときが一番辛かったですか。 私にとっては行くのか行かないのか分からなくて、この会に出会うまでの間がやっぱり辛かったですね。 仕事の日に、昼休み家に帰ったら、朝は行くと言った子が家にいて、「行くと言ったでしょう」と言って、朝作ったお弁当を持たせて行かせました。 バスの中でお弁当は食べたと言いましたが、かわいそうなことをしたなあと思います。そういうこともいろいろして・・・ ―――そういう辛い思い出というのがあるんだよね。私も沢山あります。 (でも、なんか許してくれて) そうですね。子どもって許してくれるよね。かけがえのない家族って大事ですね。 春にバスに乗って娘と吹上浜に行きました。昔よく海岸で蟹を見たり、砂を掘って遊んだりして。懐かしく遊びました。 その帰りに高台の景色がいいところで、いつもは写真を嫌がっていた娘が、「お母さん、写真を撮ろう」と言って、娘のカメラでふたりで撮りました。それがすごく嬉しかったです。 でも、その写真は「風で髪の毛が全部後ろになびいてしまって変だから、お母さんにはあげない」と言われてしまいました。(笑) ―――ひきこもりから動き出したときは突然ですか。(そうです) それにあなたは不安は感じませんでしたか。 はい。娘が引きこもっていたはじめのうちは、動いてほしいという、いつになったら動き出すのかなと不安の眼差しで見ていたと思います。 でもその不安がなくなって、娘の状態をごく自然に受け止めていったとき動き出しました。 ―――HPをよく読んだのね。 はい、私も一生懸命読んで、HPにお勧め図書があったので、それを図書館から借りてきたり、HPでいいなあと思う言葉を不登校になり始めたときからの日記に書いたり、そういうことをよくしていました。 ―――自分の気持ちが楽になったあと思ったのはいつ頃ですか。 やっぱり分かったふりをしていたときがあったなあと思いますが、理屈では分かるけど、気持ちは楽になっていないし、娘はいつ動くんだろうという目で見ていました。 それが、山登りとか、自分の好きなことをして楽しむようになってきたころが、楽になってきたのを実感したときです。 ―――本当に自分の人生を楽しむことですよね。山登りとか、癌患者の交流イベント「つなげよう命のリレー」の実行委員をされているんですね。最近は念願の霧島縦走をされたのね。 はい、3日間筋肉痛でした。もう階段を降りる姿はひとには見せられなかったです。(笑) 夫と二人で楽しむ缶ビール しずりんさん 今19歳の息子は中2の秋に行かなくなりました。担任が訪ねてきて、最初は息子も会ったりしていたのですが、担任から「職場体験があるので、どこにするか考えていてください、今から行きますという電話があったよ」と息子に言ったら、リビングでテレビを見ていた子が2階の自分の部屋に上がって出てこなくて、「先生が来ても、僕は寝たふりして会わない」と言いました。私が「会いたくないと言っています」と言ったら、担任は遠慮されました。 ―――親の会は知っていたけど、最初は参加できなかったのね。 最初は、足取りも重くて。こうしたら学校に行けるようになります、という話が聞けると思って参加したんです。学校に行かせたい一心でここに来たら、そうじゃなくて、学校は行かなくていい、というふうに聞こえたんです(笑) ―――いやあ、あなたの耳は正しかったです。(大笑) それから一度も休まずに参加されたのね。 いえ、一度だけちょうど親の会と学校の文化祭が重なって休みました。そのときの文化祭で息子たちはバンドを組んで、息子はベース担当で毎日我が家にメンバーが集まって練習をしていました。私はいそいそとマックのハンバーガーなどを差し入れて、私もニコニコして、息子も楽しそうに生き生きしていました。メンバーのお母さんが記念写真を撮ってくれて、にっこりしてあれが最後の学生服姿でした。(笑) 中3では卒業アルバムの写真撮りがあって、うちの子だけが撮っていないから何日までに学校に来て撮ってください、と言われていて、それが私も息子も嫌でした。文化祭に参加した帰りに、学校近くの写真館でその写真を撮るように担任に言われて撮ったことも嫌な思い出です。 ―――担任から高校のパンフレットを見えるところに置いていてください、と言われたこともあったのね。 はい。見えるところに、言われたとおりにしました。そのころは高校には行ってほしいと思っていましたので。息子は勉強も何もしてなくて高校に行けるような状態ではありませんでした。高校の話を息子にしないといけないんですが、機嫌がいいときに言おうと思って、いつ言おうかなと、すごく気を遣っていました。 木藤さんに相談したら、「高校に入学しても行かなくなりますよ」と言われ、「どこにも行かないという選択があるよ」と言われました。私は通信制か、私立の専願か二つしかないと思って、行かない選択肢はありえないと思ったんです。内沢さんにも「二つだけの選択肢は酷だ。その中に行かない選択も入れて」と言われて、その話を息子にしました。息子に「行かなくていい選択もあるんだってよ。どうする?」と、(笑)今思うと笑うんですけど、あのころは私も真剣でした。そのときに息子がニコッと笑ったのが嬉しくて。(涙ぐむ) ―――それは嬉しかったですね。恐る恐る言ったら、息子さんのそのときの笑顔は忘れられないでしょう。その笑顔は何よりの財産ですね。 それから、もう今19歳になって、友達もそれぞれの道に分かれて。今年の夏休みに専門学校に行ってる子がガールフレンドを連れて遊びに来て、うちの子は家にばかりいて彼女もいないなあ、えっ、もうそういう年頃なんだ、と気づかされました。働き出した子ども達も仕事に慣れて、最初ほどは来なくなりました。それも仕方がないことです。 ―――あなたは息子さんが家にいることはなんともないと思えるようになってきたの? なんともないと思っているんですけど。先日スーパーで幼稚園で一緒だった娘さんとお母さんに会ったんです。「こんにちは」と挨拶したら、うちの息子と同級ですと言われ、「あっ、話しかけなければ良かった」と思って。 ここでは「息子のお陰で、すごく幸せです」と言って受け入れたつもりになっていたけど、いざ知ってる人に会ったら本当のことが言えなかったんです。そのことを夫に話したら、夫の仕事関係の知り合いでしたから、「まだまだだね、お母さん」と言われ(大笑)、「その人に会ったときに俺もうそを言わんといかんがね」と言われて、私もまだまだと思いました。 ―――でも、息子さんのお誕生日に、「あなたのお陰で親の会に出会えてありがとう」って手紙を書いたのよね。 ここでは、不登校になってくれてありがとう、と書こうかなと言ったんですが、いざ書くとなったら書けなかったんです。息子が「自分は不登校じゃない」と言ったのがよぎって、まだそういうふうに書けない自分がいて、ありがとうにしたんです。 ―――あなたの一番の収穫は、盆暮れに夫の実家に行かなくてよくなったことですね。夫の実家でお手伝いさんみたいに働いていたのよね。 はい、もうそれが一番嬉しいですね。(大笑) 木藤さんに「今年のお盆はどうしたの」と言われて、「もちろん、行かなかった」と言ったら、「“もちろん”が出たね」と言われて(笑) 今は、桃太郎トマトで成功したので、またきゅうりやナスも種から植えて、遅く蒔いたので秋ナスがいっぱい実っていて、おいしく、お酒のつまみになります。(笑) ―――ぜひ、HPの掲示板にアップして。 それが自在にできなくて。私も娘に「何度も同じことを聞かないで」と言われて、「誰が頼むか」と意地になっているんです。(大笑) 今、パソコン教室に行ってるんです。息子が不登校になったお陰でHPを見たり、文字入力も出来るようになって、息子には「お母さん、早くなってるね」と褒められて、それが嬉しくて。(―――掲示板にも書き込みしてね) それが文才がなくて、みんなのようには書けないし、一日がかりかも。 ―――文章は心の表れですから、どんな文章も素敵です。写真はお姉ちゃんに頭を下げてぜひ載せてくださいね。 今のささやかな楽しみは、350ccのビール1缶を夫と飲みながら、1日の出来事を話すことなんです。毎晩ふたりで飲んで、夫はその後焼酎を飲んでいます。夫も「ひとりで飲むより、ふたりのほうが楽しい、楽しい」と言って。 おつまみのナスを出して、「これはお母さんが作ったんだよ」と言うと、娘も夫も「お母さん、すごいね」と言って、私は鼻高々なんです。今は冬野菜にブロッコリーを種から蒔いて、かいわれが出てきています。借りた畑で大根を植え、毎日水やりで、足が痛くなってしまいました。幸せがいっぱいです。 ―――幸せですね。 まだ「あっ、ちょっとその話には触れてほしくない」と思ってしまうんです。それがなくなりたいと思ってるんですけど。(――それでいいんです。そういう自分を責めないで、幸せだと言う自分と言えないふたりの自分を素直に認めたらいいんです) どちらの思いも自分のもの Tさん ―――Tさんは、まだまだ学校に行ってもらいたいというお気持ちがいっぱいあるのね。 長男は中1から行ってません。最初は「死ね」とか、ひどいこともいろいろ言ったんですけど、最近は妹や弟たちの心配をしたりして、すごくお兄ちゃんになって成長したなあと思います。カメラを買って、桜島にひとりで行ったり、動物園に写真を撮りに行っています。 下の娘は、不登校を受入れる私立高校のドリームコースに4月から行っています。28人入学して、そのうちふたりはやめました。 1学期は週に2日位行ってました。25人の中でも10人位はうちの子みたいに来れなくなっている、日数や単位を考えると2学期は頑張らないといけないと言われました。教育相談が夏休みにあって、親子で出席しました。先生は「学校だから来てもらわないことには何ともしてあげられない。でも、最後に決めるのは君達だから、先生はここまでしか言えない」というようなお話でした。 ―――ということは、不登校を受入れるコースというのは無理だということですね。(頑張って行っている子もいるんですけどね) 学校というところは頑張っていくところじゃないですね。楽しんで行くということが一番大事なんだけれど、「行かねばならない」と自分に無理をしていくと、必ず後で出てくるんですね。2学期になってからどれくらい行ってるんですか。 2学期になってからは、9月は祭日が多いので週に1回休む程度です。友達もできたりして、朝から行くんじゃなくて、時間割を見てこの時間から行こうとか、行けば1日分の出席日数として扱われるから、普通の学校よりは行きやすいようです。遅く行っても、みんな仲間だから「おはよう」と言って受入れてくれるし、不登校の子たちばかりだから、楽みたいです。 一番下の次男は中1で行かなくなりました。「行きなさい」とお姉ちゃんが言っても、私が給食も止めちゃったので「行ってもごはんないよ」と言ったら、「お昼からでも行くよ」とお姉ちゃんが言って、弟だからなのか逆らえない感じで、ぶつぶつ言いながらでも一緒に行きますね。 ―――あなたのお気持ちはどうですか。 私は、次男にはすごく期待していたんですけど(笑)、結局「もう、いいかな」という感じですね。もう、給食もやめたし・・・。 上のふたりがあんなだから、弟は「何で自分だけ」というのもあるだろうし、すごく明るい子なので、私は「教室に入れなければ図書館とか職員室に入れば」と言うんですけど、本人は「いや、全然関係ない」って、じゃあ何で行きたくないのか分からないんですけど。 やっぱり学校にぶら下がっているのは私なのかなと思うんですけどもね。だけど、気持ちには嘘はつけないから、やっぱりここにきていて(―――ここに来たら、内沢さんに怒られるからと思うんでしょう)(笑) そうですね。 子ども達に対して「行かなくてもいいよ」という言葉が出ないですね。 ―――お姉ちゃんが弟さんを引っ張って連れて行ってくれるとホッとする面がありますか。 週に2回でも学校に行けば、それまで私も夫のこととか、母のこととか、いっぺんに来て打ちのめされて落ち込んだ時期があったので、それを子どもは見ているもんだから、余計に頑張ってくれていると思うんです。 私もそこで自分を持ち直していきたいんだけど、娘が学校にちょっとでも頑張って行ってくれると、気持ちが落ち着いてくるというか、ほんとはいけないんだけど・・・ ―――どうしていけないと言えるの? 子ども達に辛い思いをさせているというのがあるんだけど、(―――それは頭では分かるのね) 長引くとも思うんです。だけど、私の気持ちが・・・ ―――娘さんが行けばホッとするし、次男さんを連れて行ってくれるとホッとするし、長男さんも学校だけは出たほうがいいよと言われれば、そこで揺れるし・・・ う〜ん、そういうことになりますよね。学校を卒業しても、今度は仕事のこととか永遠に終わらない心配は続くんですけど、学校にいる間は学校に行ってもらいたいというのが、やっぱりどうしてもあるんですよね。 長男はもう18で、学校を卒業している年だから、私はそこまでは思わないのかなあと思ったりするけど。(笑) ―――上の息子さんにも「あなたが18歳になった仕事を」というオーラを出し続けて、そういうこともあって、息子さんが自分でアルバイトの面接を受けたりして、結局それもだめになって、多量に薬を飲んだということもあったでしょう。 ありましたよね。でも、長男も時々「やっぱり高校を出ていたら良かったかな」と言うんですね。「でも自分で決めたことだよね、仕方がないね」と言っています。自分が行っていないから、下の子にはなおさら行ってもらいたいのかもしれないし、「お母さん、学校に行かせないと駄目だよ」と言うんです。 ―――長男さんは自分が高校に行ってないことを否定しているのね。行かないと世間で一人前じゃないみたいにね。ほんとうは、そうではないんですけどね。 バイトの面接に行ったときに、履歴書に中卒までしか書いていないものだから、それが落ちる原因なのかなと本人は思っているみたいで、せめて高校を出ておけば受かるのかなとか、そうじゃないとは思うんですけど、夫もそう言うんです。 私は「たとえ、高校を卒業していても、この子はちょっとと思ったら採らないし、中卒でもしっかりしている人は受かるだろうし、見る人が見たら分かるから」「自分達のコンビニ店で働かせたらいいよ」と言うんですけど、夫は駄目だと言うんです。 ―――夫との関係はどうなったのですか。パチンコの借金で、あなたのお母さんからお金を借りたりしてひどくご心配だったでしょう。7月の例会では離婚するかしないかですごく悩んでいたお話でしたね。 今、私が店の経理やお金も預かってやっているので、お金は一切出さないようにしています。朝5時に行って、お金を管理しているので、夫はお金も引き出すことは出来なくなりました。夫は夜遅くまで仕事をしているみたいです。 夫のカードも全部私が取り上げたし、ブラックリストで今はカードも作れません。だから、朝は12時ぐらいまで寝ていて、夜不眠になってしまって眠れないと言っていました。持病もあるのできついのかなあと思っていますが、お金だけは私が管理しないといけないなと思っています。 ―――7月がお母さんのご病気のことや夫のことで心配でしたね。今、一番ご心配なことはどんなことですか。 やっぱり次男のことですね。 ―――どうしてもらいたいのですか。 楽しんで学校に行ってもらいたい。(笑) だから私もこっちの考えを聞いたり、自分の思いでその狭間に挟まれていて、矛盾しているんですけど。 ―――でも、あなたはこうやって参加してくれるからね。そういう自分の矛盾した気持をふたつとも受入れるところから出発しましょうね。 内沢さんに怒られても、落ち込んでも来るというあなたのお気持ちはたいしたもんだと思いますよ。(笑) 「それでもどうして来るの」と木藤さんが聞いたら、「ここに来れば仲間がいて皆さんに癒されるから」と言ったのね。まずそこから始めましょう、ということなんですね。 つまらぬ自分 すてきな自分 ― 「二人の自分」を大切にしよう ― 内沢 達 大学でやっているとても面白い実験問題をひとつ紹介します。 ここにマッチ箱があります。マッチ箱ですから中にマッチ棒が入っていると思いきやそうじゃありません。ここにはマッチではなく代わりに10円玉が入っています。箱によって10円玉の枚数が違います。そういうマッチ箱がひとつずつ3つあり、もうひとつ3段重ねのマッチ箱が一組あります。この3段重ねは他の3つと条件が違うのでもちろん重さが違います。ばらのほうの3つは入っている10円玉の枚数が違うので、これはこれでそれぞれ重さが違います。 さて、この4種類のマッチ箱を片手で(親指と中指あたりで)持ってみて、重さの違いがわかるでしょうか。どなたかに重く(軽く)感じた順番に並べていただきます。 (初め男性二人、Kさんと森田さんが挑戦 「3段重ねが軽いかな〜?」「(あとは)どれも同じくらい。違いがよくわからない?」など) 朝だとわずかな重さの違いもだいたいの人がわかるのですが、今は午後しかも夕方ですから一日の疲れがたまってきて重さの感覚がにぶくなります。無理はありません。 (続いてTNさんが挑戦) ありがとうございます。少し迷われたりもしましたが、順番に並べてくれました。 ではTNさんの重さの感覚を確かめてみたいと思います。 まず一番重たいと感じた箱に10円玉が何枚入っているか、数えます。1枚、2枚、3枚・・・・・・10枚、11枚、12枚です。 2つ目の箱は何枚でしょうか? 1枚、2枚・・・・・10枚、11枚です。前のより1枚少ない(すごい!という声)。 たいしたもんですね。10円玉1枚の重さはわすが4グラム。その違いがわかる!んですね。3つ目の次の箱はどうでしょう? 1枚、2枚・・・9枚、10枚です。今度は2枚少ない(拍手!)。お見事ですね。 TNさんは朝ではなく午後・夕方になっても、この重さの違いがわかる! 感心です。 さて、TNさんが一番軽く感じたこの最後の3段重ねのマッチ箱には何枚入っているでしょうか? 一番軽いんですから、12枚、11枚、10枚と少なくなってきて、さらに少なくなければいけませんね。結果はどうでしょうか? では数えます。1枚、2枚、3枚、4枚、5枚、6枚、7枚、8枚、9枚でおしまい〜・・・ではありません。 まだ、あります。10枚、11枚、12枚!でした(???)。 いったいどうなっているんでしょう? TNさんはこの3段重ねが一番軽いと感じたんですけど。12枚ということは一番重く感じたマッチ箱と同じ枚数です。しかも、これは下の2段が空箱とはいえひとつが3グラム、ふたつのマッチ箱計6グラムぶん、最初の箱より重いんです。 なんと一番重いものが一番軽く感ずる! おかしくないですか? でも、これはTNさんだけでなく、朝方など疲れていないときにすれば、誰でもこの順番になります。不思議ですね。 みなさんのところに3段重ねのマッチ箱を配ります。 一番上の箱にだけ10円玉が入っています。下の2段は空箱です。 では、比べてみてください。片手で(親指と中指あたりで)一番上の1箱だけ持ったときと3箱全部をいっぺんに持ったときとどちらが重く感ずるか? (「1箱だけのほうがオモーイ!」の声)そうですよね。みなさん、そう感じられます。 「いや、3箱全部持ったほうが重い!」という方はおられませんね。みなさんがなんと「部分のほうが全体より重い」と言います。部分と全体を比べて、そんなのはおかしいですよね。 でも、みなさん確かに「部分のほうが重たい」と言うんです。例外ありません。持ち方を変えてやってみましょう。指で持ち上げるのではなく、今度は手のひらの上にのせます。部分だけ1個置くのとその1個を一番上にして3段に重ねて置くのと比べるとどうでしょう。やっぱり1個だけ、部分のほうが重く感じますね。 これはいったい何を意味しているでしょうか。 ひとつは「人間の感覚の頼りなさ」です。一番重たいものを一番軽く感じ、部分のほうが全体より重いと感じているんですから、人間の感覚はあてにならない、信用おけないということです。 でも、これはことの一面しか言っていません。どうして、こうした錯覚が生ずるのか? 詳しくは板倉聖宣『科学的とはどういうことか』(仮説社 1680円 ネットをされる方はamazonで注文すると3日くらいで届きます)をご覧いただきたいと思いますが、 板倉さんはそれはもう一面で「人間の感覚のすばらしさ」のあらわれでもあるというのです。 人間はものを手にした瞬間、そのものの重さだけでなく、密度や質、いったいそのものが何なのか何でできているのかまで、触覚だけでもおよそわかってしまう。そういう人間の感覚のすばらしさゆえに、いっぺんにいろんなことを感じとるすばらしい能力をもっているがゆえに、重さの感覚としては間違ってしまう、つまり錯覚が生ずるということです。 ものごとは一面だけを見ていてはいけません。否定的にしか思われないことでも、それは一面にすぎないというのがほとんどです。必ずといってもよいほど、そこには背中合わせのように大いに肯定してよい、自信を持ってよいことがあります。 さて、今月もここに板書がある「人の話はわが話。わが話はみんなの話」についてです。 僕らの会がどうしてこういう標語のようなことを自信を持って言えるようになってきたのか。それは、人間って、そのありようが一人ひとりの個性の違いを超えて法則的に考えられる。長い会の経験を通してそういうことが確信になってきたからです。 人間は言うまでもなく各人がそれぞれ個性的でこの世で唯一無二の存在です。つまり一人ひとり違うんです。でも、これは人間の一面です。もう一面、人間は一人ひとりの違いを超えて、じつはみんな同じなんだということです。 みんな辛いときは辛いし、うれしいときはうれしい。だいたいそういうものです。その辛さ、うれしさの表しかたがそれぞれの個性でやや違ったりもしますが、そもそも私だけが辛い、僕だけがうれしいということはじつはほとんどありません。 人間は他人(ひと)のことはわからなくても自分のことだったらわかりそうなものです。 なにしろ自分のことなんですから。でも案外そうでもないんです。 「自分のこと“なのに”わからない」ではなく、「自分のこと“だから”わからない」ということが少なくありません。この親の会でもそうです。ひと(他人)の話を聞いていると「あの人はこうすればよい・・・」ということがよくわかります。 ところが自分のことになると、なかなか気づかないんです。人間ってそういうものだと思います。だから、自分のことで困っていることがあったら、自分のことばっかり一生懸命に考えたってだめなんです。 自分のことはあまり考えない。例会に来たときはとくにそうです。ひと(他人)の話をいっぱい聞く。いい話だな〜と思って感心することも多いでしょうし、その人が困っているような場合だと「私だったらどうするかな」と考えながら聞く。そうしてちょっと自分のことに移してみる。そうすると「な〜んだ。自分もほとんど同じじゃないか」ということになります。だから、「人の話はわが話。わが話はみんなの話」なんですね。 大変になってくるとつい「自分のところは、うちは特別だ」と考えがちです。これも法則的です。でも、けっして特別じゃないんです。 「大変だ」と思ってしまう思い込み方も、そこから脱して元気になっていく行き方も共通しています。先ほどのマッチ箱はそういうことにも気づいてほしいと思って紹介しました。みなさんが一人の例外もなく「部分のほうが全体より重たい」と感じたんです。人間は、みんな人間、同じなんです。特別な人なんていません。 でも、「他の人はよく理解されているのに、私はなかなか理解していけない」などと思ってしまいませんか? 7月例会ではKMさんのところでお話しましたが、どうか「わかる」自分だけでなく、なかなか「わからない」もう一人の自分も認めてあげてください。人間誰しも矛盾しているようなところがあります。 こう思う自分もいれば、こう思わない自分もいます。それが人間です。そういう言わば「ふたりの自分」を両方とも認めてあげて、それぞれと大事につきあっていってほしいと思います。 確固としていて揺らぎがまったくないような人なんているんでしょうか。僕はいないと思います。板倉さんの発想法のプリントにあるように、「つまらぬ自分 すてきな自分」「ちっぽけな人間 すばらしき人間」といった両方の面があるのが、僕ら人間です。 Tさんも自分のなかの正反対の「ふたりの自分」と大事につきあってほしいと思います。一方には「娘にはやっぱり学校に行ってもらいたい」と思う自分がいます。でも、そこにこだわっていてはいけないと考えているもう一人の自分もいます。 どっちも自分に違いないんだから、自分を大事にしましょう。 無理してどっちかにしてはだめなんです。 Tさんはトモちゃんから「学校にこだわってばかりではオカシイでしょ」と言われるのがわかっていても例会に来られるんです(笑)。ということは学校にはこだわっていないもう一人の自分がいることも間違いないんです。急いで、どっちかにしてはいけません。もう一人の自分ともゆっくりとつきあっていきましょうということです。 Tさんの場合、娘さんのことが一番心配で大変なようですけれども、じつはそうじゃありませんね。一番大変なのはコンビニ経営とかご自身のことだと思います。「家計などが大変な中、私はこんなにも頑張っているのに、子ども達は・・・?」といった面があるんじゃないでしょうか。 僕らが「あー大変!」と思ったり口にしたりするとき、じつは自分をとりまく環境自体がそうなのではなく、まわりのことを大変な困難と思っている自分自身をあつかいかねて大変になっている場合がほとんどではないでしょうか。人間誰しも大変なときはやっぱり自分自身が一番大変なんですね。 だから、僕らの会では、親の会に初めはみなさん子どもさんのことで参加されるわけですが、だんだん自分自身を一番大切にすることが子どもたちへの最大の応援にもなることがわかってきて、毎月有意義な交流を重ねて来られたと思っています。 問題解決の道は、いつも自分のなかにあります。まわりの状況を悲観してはいけないだけでなく、「自分のなかに」だからと言って「自分を責める」ようなこともしてはいけません。ほとんどが見方・考え方の問題です。 うちの子はあんなにしっかりしていた「のに」ではなく、しっかりしていた「から」不登校になったんです。おなじように、われわれ親もしっかりしていた「のに」ではなく、しっかりしていた「から」、わが子は不登校になったんです。見方次第で、変わってきますよね。 不登校や引きこもりはまったく心配無用です。もちろん、しっかりした親じゃなくてもかまいません。イイカゲンな親でかまいません。なにしろ、「いい加減はよい加減!」ですから。 以上、参考にしていただけますと幸いです。 |
Last updated: 2009.11.30
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