TOPページ→ 体験談目次 → 体験談 2011年7月発行ニュースより
親の会22年間の集大成 2011年6月例会報告(抄) 5月15日の22周年の集いでの内沢達の講演記録を出来上がりました。 講演内容を重点的に膨らませて、書下ろしに近い形でまとめています。 親の会22年間の集大成とも言える力作です。是非、お読みになってください。 子どものことで「親が何もしない」ことがどれほど大切なことか、よく聞く教育や子育てについての考え方を根本からひっくりかえします。いいこと「なのに」ではなく、いいこと「だから」押しつけてはいけないこと、大事なことは予想を立ててのぞむこと、また予想を変えることも主体的であることなど、誰もが「自分が自分の主人公」として生きていく課題について、わかりやくまとめています。 6月例会も感動でした。永田さんは息子さんが不登校になったとき、高校のクラス全員からの手紙の中に、一人だけ「自分がしたいようにすればいい」というのがあったこと、その一人について息子さんは「あいつはいいやつだ」と言っていたことを紹介しました。 3人の子どもが家で過ごすTさん、以前は「子どもが幸せになることが自分の幸せと思っていた」が、今は自分を大切にするようになり、ワクワクが増えてきたと嬉しそう。 森田さんはあらためて親の会とかかわって年月を振り返り、「会報は力」と話されました。 しずりんさんご夫婦の愛情もとても感動でした。 長谷川登喜子さんは、22年前の息子さんが小3で不登校になり、6年あまり家で過ごした時、「親は何もしない」「子どもは自分で解決する」と振り返りました。「学校に行かないと社会性が育たない」というのは間違い、と若い会員さんたち話ました。 目次 1 「あいつはイイ奴だ」 永田俊子さん 2 会報は力 森田重則さん 淳子さん 3 今、夫婦で支えあって しずりんさん 「あいつはイイ奴だ」 永田俊子さん ―――22周年の永田さんと森田さんの体験発表は大変素晴らしかったですね。交流会や懇親会の皆さんのお話、感想文や掲示板の書き込みもとても感動的で元気をいっぱいもらいました。 発表の時はもう舞い上がっていました(笑)。 でも親の会と出会って4年間の自分を振り返るいい機会をいただいたと思いました。 4年間の会報が計41部ありました。それを読み返して、自分の歴史がつみ重なっていて、本当にありがたかったです。そして自分の気持ちがどんどん楽になっていくのがわかりました。 あの時はまだわかっていなかったんだろうなと思う部分もあり、このへんで少し理解できたかなと思う部分もありました。 22周年の集いで体験発表を引き受けたと夫に報告したら、「登校拒否をして引きこもっていたけど、こんな風に外に出て元気になりました。今立派に生きています、というのだったらいいけど、息子の場合はそうじゃないんだから、それはおかしい」と言いました(笑)。 木藤さんにその話をしたら、「息子さんのことじゃないの。あなたがだんだん元気になっていった過程が大事」と言われて、ありのままにお話しました。 85歳の母にも読んで聞かせました。そしたら母が「あんたがどんなふうに元気になっていったか、よくわかった」「本当によかったねえ」と言ってくれました。 86歳の姑は、息子が不登校になった最初の頃から「私は何も言わない。生きていてくれさえすればいいのだから」とそのひとことでした。最初の頃の私はすごい形相をしていたんだと思いますし(笑)、姑の言葉を受け止めきれませんでした。「そんな、そんな」と思って。今でも姑は何も言いません。 福岡に住む夫のおいがこの親の会を教えてくれたのですが、「○○君のおかげだった」と言えば、姑は「あなたがそんなに悩んでいたとは思わなかった」「人生の経験が多いほど、人はそれがあってよかったと思えるんだよ」と教えてくれました。母も姑もそれぞれ近くでひとり暮らしをしています。 ―――ご実家がそれぞれ近くて面倒を看てあげて親孝行ですね。お姑さんにも読んであげたらいいですね。喜ばれますよ。息子さんは? 息子は「俺はいらない」と言って、会報もたつちゃんの本も読みません。読んで納得してくれたらなぁと願っているけど、読みません(笑)。 ―――それで全然問題ありませんよ。何より大事なことは、息子さんのことをきっかけにして、永田さんが元気になったこと、そしてそういうお母さんを息子さんがとてもうれしいと思っていることですね。 今日の資料を読みながら、とても感動し涙が出ました。 息子が高校時代に不登校していた時、担任に言われてクラスメート全員から手紙が届きました。 みんな「早く出てきてね。最初の1歩だよ」「さびしいから早く来て」と書いてある中で、ひとりだけ「俺は自分がしたいようにすればいいと思う」と書いてありました。 その時私はへんなことを書いて、来るように誘ってくれたらいいのに、と思ったんですけど(大笑)。先生にも「持って来てくださってありがとうございます」とぺこぺこしていました(笑)。 息子に「どんな子?」と聞いたら、「あいつはいい奴だ」と言っていました。今、その子と交流があるわけではないけど、いろんなことがあって今日があります。 息子も落ち着いていますし、引きこもりなんでしょうけど、ごく自然に元気に生きています。 ―――「あいつはいい奴だ」、いい言葉ですね。 息子さんは一番大事なこと、「自分自身の人生の主人公になる」ことを指摘してくれたんですね。あなたの掲示板の書き込みもとっても良かったですね。 (No.1303 5月17日の永田俊子さんの書き込みを以下、紹介します)) 先日の22周年の集い、ありがとうございました。 つたない話をしどろもどろに語らせていただき、今思い出して、穴があったら入りたいような気持ちです。 話す時は、頭の中が真っ白になり、私って何言ってるんだろうーと思っていました(汗) 訳がわからないながらも貴重な経験をさせていただきました。 今回話をしてねとお願いされてから、戸惑いながらも四年間の会報を読み返してみたんです。 42冊ありました。すごいなー!(しかも素敵なイラスト入り) その一冊一冊を作るのに、世話役の方が、録音し記録し、テープ起こしをし、毎月毎月の会報になっていく、それでささえられていたんだなぁ〜と思いました。 一番最初、ポストに会報が入っていた時はうれしかったなー 世間から置き去りにされたような気持ちになっていたところに、あー私って一人ぼっちじゃないんだと思えたこと、しみじみと思い出しました。 順番に読んでいくと、まだ最初のころは不安だらけでまだムリしてるというのが見えてきて、森田さんが言われたように、私の心の歴史、我が家の歴史そのものだなと思いました。 会に参加して半年ぐらいした時、私が「ひきこもりの息子が、映画の行き歯医者に行き、床屋に行けました。よかった」と話したら、朋子さんに「そんなのを、ひとつひとつかぞえているようじゃ、まだまだダメね」と言われました。(きびしいことも言われながら今日があります(笑) 「子どもに出てもらいたいと考えているうちはダメなんです。それは子どもが決めることであって、周りが決めることではないんです。息子が可愛いと思っていっしょに暮らすだけでいいんです。」 「床屋に行くことが喜びじゃないんですよ。 大切な自分を取り戻してゆっくり休養を与えることを自分に許している、そういう息子を、家族全員が、自然なこととして、受け止めることができるようになってきたということが大切です」 たくさんの朋子さんの言葉・・・ありがたいです。 すぐには理解できなくても、回を重ねるたびに少しずつわかるようになってきた、、その積み重ねで今日があるんだな・・幸せです。 22周年の集いの準備で世話役の方々は、御苦労されただろうなと思います。 でもおかげさまで楽しいひと時を過ごさせていただきました。 ありがとうございました。 振り返ると本当にそうなんです。 最初は「まぁいいが、1歩出たんだから」と思っていましたものね。(笑) ―――引きこもっている状態の自分を大好きになるということは大変なことだと思います。 私も膝を痛めて、毎日じっとしています。ともすれば先の事を考えて落ち込んでしまうんです。そういう日々の中にも「どっちに転んでもシメタ」で、私も今ケガをしている事を楽しむ、毎日を大切にしていくことの大切さを親の会から学び励まされているんだと感じています。 会報は力 森田重則さん 淳子さん 重則さん:集いでお話したように会に参加して10年経つんですが、何があったか、ほとんど覚えていないです。会報を読み直してみないとわからなくて、自分の所だけでしたけど10年分読みました。 まず会報をずっと並べて、自分が何を言ったのか書き出してみました。朝早く起きて読みながら「ああ、こんなこともあったなぁ」と当時を思い出して涙が出てきたところもありました。 ああいう経験があったからこそ、今、妻とふたりで楽しい生活ができるんだなぁと思って。まとめるのは大変でしたけど、いい機会を与えてくださってありがとうございました。 会報は読まないといけないというのをつくづく感じましたので、今月号もしっかり読んできました。(笑) ―――重則さんのお話の中で、息子さんが淳子さんに「お父さんは、僕のことを悩んで元気をなくすのではなくて、もっと自信をもってほしい。僕が安心してぶつかっていけるように」と言った箇所を会報で見つけたとお話していました。大事な指摘でした。 僕は全然覚えてないんです。ああこういうことがあったんだなぁと思って。息子はちゃんと私のことを見ていてくれたんでしょうね。 ―――本当に子どもは、親を試しているんだというのがよくわかりますね。 永田さんも重則さんも、自分が辛かったと、一人称で話されていたのがよかったですね。 最初から、「自分のことを書く」という視点しかなかったので、原稿も妻には見せず、妻は22周年の集いで初めて聞いて、この会報で見たと思います。 原稿にも書きましたが、平成13年に東京で開かれた登校拒否を考える夏の全国合宿に内沢さんと木藤さんと3人で参加しました。自分ではどうしていいかわからず、何かキッカケをつかめるんじゃないかと、わらをもすがる思いで参加しました。あの時、子ども達がみんな明るかったんです。あの明るい顔がずっと私の中にあり、それが一番の転機でしたね。 「翌年は鹿児島で」という話があったとき、「是非受けて下さい」と内沢さんにお願いしたのは、そこがあったからです。私だけでなく皆さんにもその体験をしてもらいたいと思って。台風が来て大変でしたけど、いい経験で楽しかったです。 ―――淳子さんはいろんなことを思い出すのが、イヤだったんですって。 淳子さん:最初、内沢さんから夫へ電話があったとき「ああ、やっぱりきたんだ」と思いました。その数日前、「誰がお話をするんだろうね? うちにこなくてよかったね」と話していたんです(笑)。私はそっとしておいてほしかったから。いろいろ読むと思い出して、夫がまた落ち込むんじゃないかと心配して、それは私としてはイヤでしたから。 自分が落ち込むのは、自分で何とかできますけど、相手が落ち込むのが私はイヤなんです。 以前夫が徳之島から鹿屋に転勤になった時、この親の会へも私が夫を引っ張ってきて、でも途中で座り込んで、行かないと言ったこともありました。(笑) ―――そんなに落ち込んだことがあったの? 淳子さんの方が落ち込んでいると思ったけど。 私が落ち込んだのはそのあとでした。夫は徳之島に単身赴任しているときは、「なんとかしたいけど、親の会へ行くのはイヤだ」と言っていました(笑)。体育館の入り口に座り込んで動かないこともありました。 全国合宿への参加も6月か7月頃、もう締め切りも過ぎていたんですが、急きょ自分で手配して行きました。東京からの帰り、内沢さんを自宅まで送ってから帰ると電話があり、もうびっくりしました。空港から内沢さんと2人で車の中にいることに一番びっくりでした。(笑) ―――あのこわいおばちゃんと2人でいることにびっくりされたのね。(大笑) そこまで信用するようになったんだなぁと思って。(笑) 集いで発表した内容は、夫はいろいろ作業したんでしょうが、私と2人でいる時は平常とかわらず、夕方も一緒に散歩していました。本当に書いているのかしら、大丈夫かしらと私が思うほど、何の変化もありませんでした。 集いで夫の体験発表を聴いた時は、「親の会には世話になっているから、断るわけにはいかない」と言っていましたが、親の会や私や息子のためではなく、ああ、自分のために書いたんだな、ということがよくわかりました。 15周年記念誌の原稿は、2人とも中途半端な状況で書き、心残りでしたので、内沢さんからの電話で「終わっていない宿題を出しなさい」ということだなあと思って、会場で夫の体験談を聴きながら、本当にこういう機会を与えてもらって「良かったなぁ」とそう思いました。 徳之島時代に、夫は私との離婚も考えていたと聞いて、直接夫に「本当に別れるつもりだったの?」と聞いたら、「そうだ」と言われて…(笑)。 私達は結婚する時、周りから大反対されたんですが、2人で力を合わせてクリアしてきたので、私は夫のことをとっても信頼していました。私の妹とのことでも「妹のことをあなたが心配しすぎるのは、彼女にとって失礼なことだよ。彼女は自分でやっていくんだから。でもあなたが心配や不安な時は、ひとりで悩むのではなく2人で考えていこう」と言ってくれたんです。 子ども達が小学生のころは、他人から嫉妬されるくらい仲が良かったんです。なのに、なんでそう思ったんだろうと思って・・・。 単身赴任先の徳之島で息子の不登校を思って荒れて、月10万円くらい毎晩飲み歩いていたという話をこの例会で聞くたびに腹が立っていたんです。生活に困るほどではなかったけど、「生活費をもっと増やして」と言ってもそうしてくれなくて、子どもたち2人が不登校だから、お金もくれないのかなと思って、そんなことをふっと思い出して、掲示板に感想を書こうとしたのですが、様々な思いが巡って文字に現しきれなくて書けませんでした。 でも集いの話の時には、腹は立ちませんでした。今は夫婦ふたりで暮らしていろんなこともわかってきて、きっと今度は大丈夫だと思っています(笑)。最初の徳之島の生活があって、今の生活の毎日毎日の積み重ねがあって、将来何かあってもきっと大丈夫なんだろうなと思えました。 ―――僕が「淳子の港になりたい」と重則さんがおっしゃったことがありました。その時は淳子さんがとっても不安な状態だったのよね(はい)。その前はあなたが重則さんの港になって支えていたものね。 お互いが港になってお互いを支えてきて、夫婦の間に大波、小波はあったけれど、あっても当たり前の日々があったからこそ、今のおふたりの信頼と愛情が揺るぎないものだということですね。 はい。結婚する時のこととか、昔のことを思い出しました。私は結婚するつもりはなかったんですけど、夫がさっき話したようなことを私に言ってくれたので、「ああ、こんな考え方があるんだ」とわかって結婚したんです。 もしそれがなかったら、自分が狭い考え方にとらわれて、両親や妹のことを考えすぎて自分の人生を生きようとはしなかったと思います。妹のために生きないといけないとずっと思っていたんです。それに対して、夫は妹に対して失礼だと言ったんです。妹はその頃大学生だったんですが、今はもう世界中を旅行してまわっていて自分のために生きています。私は本当に妹に失礼なことだったんだとわかりました。 ―――そうね。誰かのために生きるのでなく、自分が幸せになることが大切ね。 そうですね。夫は20代の頃から、そういう考え方のできる人だったのに、いざ我が子となると、わからなくなるんだなあと思いました。私は結婚したことは全然後悔していないし、良かったと思っています。(笑) ―――よかったねぇ。重則さんだってそう思っていますよ。今、淳子さんに捨てられたら重則さんは生きていけませんよ。(笑) 重則さん:そうです。これからの人生が長いですからね。(笑) 淳子さん:本当に親の会がなかったら、どうなっていたのかしらと思って。私は子どもと3人で幸せに暮らして、夫はひとりさびしく・・・(笑) 夫は病気したりもしたので…(笑) 今、夫婦で支えあって しずりんさん ―――HP掲示板に書きこんだあなたの感想に、「親の会のお陰で暗く落ち込んだ日々から元気になれました。感謝しています」とありました。本当によかったですね。画像貼りつけ掲示板には「つりがね草」の写真を載せて下さって、とてもきれいでした。 はい(笑)。初め掲示板に写真を送ったらうまくいかなくて、削除しようと思っても削除の番号が分からなくて、困ってました。いろいろしていたら、達さんから「ミスをいっぱしよう、何度でも挑戦しよう」というコメントが書かれていて、勇気をもらいました。3度目に送ったとき、大きくなったけどうまくいきました(笑)。 ―――つりがね草も作れるようになったのね。 それが嬉しくて。 ―――あなたの夫が11月にくも膜下出血で倒れて、それからは親の会の考えも何もかもふっとんで、食事も出来なくなって大変でした。後遺症の目の手術はどうでしたか。 はい、目の手術が済んで、やっとメガネの許可が出て作りました。左目はまだ残っていますが、右目はきれいに見えるようになりました。 仕事を4ヶ月休んでいたので、すごく力が要る仕事なので手が強張ってしまい、周りが気をつかってくれています。 それでも仕事を頑張ってくれて、働ける幸せを感じています。 ―――電気工事関係の自営業なので、率先して現場に出ていかなければいけないのね。息子さんは1度、3日間だけ働いたけど、とても辛くなって、あなたももう働かなくていいからと言って。家で以前のように幸せに暮らしているのね。 はい。先ほどゲーム大会の話がでましたが、息子もどこで情報を得たのかその大会に出て、宮崎からも参加していたようです。息子は1回戦で負けてしまったけど、参加費は東北の義援金に回ると言っていました。 ―――息子さんはよくゲームをしていますよね。 はい。ゲームばっかりです。友達とPCでやったり、家に来たりして楽しくやっていて、大きな笑い声が聞こえてきます。私はもう構わないで寝るんです。いつまでも同じことをして飽きないのかしらと思っています(笑)。 ゲームは集中力がないとできないんですってね。学校ではゲームはダメというけど、例会ではいくらでもしていいんです、と言われて最初の頃びっくりしました。 ―――Kさん、反対しないでとことんゲームはさせたらいいですよ。私は今は毎日のように整骨院に行っているんです。そこに中3の女の子が足首の靭帯をけがして治療に来ているんですね。私はその子にいろいろ聞くんです。まあ、学校ってところは、規則が多くて遅刻や髪の毛の長さ、忘れ物などなど少しでも違反すると反省文、反省文ばっかりだねって(笑)。子ども達は制約ばかり受けて自分で考えられなくなって大変だなと思います。そしていつも進路、進学におびえているんですね。でも、息子さんは全くそんなことはしなくていい、何にも反省文を書かなくていい。(笑) そんなにはまってゲームばっかりしているのに、大会では1回戦で負けてしまい、上には上がいるんですね(笑)。対戦相手はサラリーマンのおじさんだったらしいのですが、そんな人でもゲームをするんですね。夫はパソコンでマージャンをしています。 ―――私たち夫婦も娘が入れてくれていたパソコンのトランプゲームにはまってワクワクしています。あなたがお野菜やお花を作っているのと同じでワクワクするでしょう。 今、私はパソコンの無料映画で韓国ドラマにはまっています。朝早く起きて家事を手早く済ませて、パソコンの前に座って4つくらい見て楽しんでいます。2つは終わってしまいましたが。 テレビだと時間に制約されるけどパソコンだといつでも続きを自分の都合で見れるし、もうそれが楽しみで。夫が帰ってくると止めるけど、その続きを見たくて見たくて、今まで見ていたと夫には言いますけどね(笑)。 そこのサイトはアニメでもいろんな動画や歌でも何でも好きな物を選べるんです。韓流ドラマは展開が面白いです。 今は畑は何もしてなくて、夫も力がないし、雨だし、家の近くに種から育てたキュウリを作っているだけです。家の傍だと肥料やりも虫とりも簡単ですから。 ―――あなたの夫は手がご不自由なんですか(はい)。それでイライラすることは? それはないです。病院には行ってるんですけどシップ程度です。朝は貼って出勤しますけど、人の目に付く会社では取っているようです。体力がぐんと落ちて今までのようにはいかないです。自分でも歯がゆいようですが、私が言ってもしかたがないので。 ―――そういう時こそ夫婦の愛情が育っていくよね。 22周年の集いの日、帰りの車の中でたっちゃんの「コンセントの話」をしたら、夫はちゃんとわかっていました。 カレーを作っておいたのに、私を迎えに来るために飲まないでカレーも食べないで来てくれたので、帰ってから夫婦ふたりで飲みなおしました(笑)。 ―――ビールを飲んでもいいんですか。 ちょっとはいいんです。それで「疲れたので明日はもう弁当は作らなくていい?」と言うと、「いいよ」と言ってくれて。 ―――やさしいね。そういうひとつひとつに幸せを感じるでしょう。 はい、今までできなかったことができるようになって。(―――幸せってそういうところにあるんですね、良かったね)そうですね。 木藤厚子(世話人):あなたの夫が「お母さん、僕のことを捨てないで」と言われたことがあったとお聞きしました。 目が少ししか見えなくて、私がいないと何もできなかったときでした。 夫が「捨てないで」と言ったんです。 私はびっくりして「誰が捨てるのよ!」と言ったんです。 ―――そう言ったの、いいね。うれしかったでしょうね。 私は何もできなくて。(涙) ―――何もできなくても、あなたの存在がどれだけあなたの夫の支えになったことでしょう。思いがけない病気に襲われた時、お互いに生きる支えになって、いっそう愛情が深まって、かけがえのない存在になるんですね。何よりいいお話をありがとうございます。 |
最終更新: 2011.7.24
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