TOPページ→ その他 → 「ダメな自分」も認められるようになると元気になる
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 2006年7月発行ニュース(会報第124号)に加筆 2006年6月例会(18日)での内沢達の発言 「ダメな自分」も認められるようになると元気になる ─ 「イコールは等しくもあり、等しくもなし」 ─ 内沢 達 最後に少し話させてください。 トモちゃんが僕の身体のことを気づかって、4月から週1回、大教室での授業については毎週つきあってくれています。授業が終わってからは、学生が書いてくれた感想文に目を通すのが楽しみなようで、笑ったり感心したりしながら読んでいます。 今週の授業は、板倉聖宣さんが作ったことわざ・格言のひとつ、「イコールは等しくもあり、等しくもなし」がテーマでした。 たとえばA=Bについて。 これはイコールで結ばれているから、AとBは等しいのです。 でも、AとBはどう見ても違うものです。「違うものが、ある点から見ると等しい」というのがイコールです。 だから、A=Bに意味があるんですね。A=Aでは意味がありません。 でも、やっぱりAとBは字も違うし、絶対、別のものです。そこで、「イコールは等しくもあり、等しくもなし」ということになります。 4年前(2002年)の霧島での全国合宿の折に、「学校=牛乳」の話や「人間って、一人ひとり、姿、形、かっこうはもちろんのこと、みんな性格も違うけれど、じつはみんな同じ。 誰だって、辛いときは辛いし、うれしいときにはうれしい」といった話をしました。 まだの方は、報告集もありますし、別刷りのプリントもありますので、是非お読みになってください。 この話は大学の授業でも好評です。 今日は夫婦のありようについての話が多かったですね。 特に夫のありようについて愚痴もいっぱいでました(笑)。 つい「うちの夫は?」「うちの主人は?」と言ってしまいがちです。口にまで出さなくても、そう思いがちです。よそのダンナが立派というわけでもないでしょうが……。 Sさん、お久しぶりです。 Sさんも以前「うちの主人は?」とよくおっしゃっていましたね。でも、夫であれ、祖父母であれ、兄弟(姉妹)であれ、親戚であれ、うまくいかない原因を他に求めている限り、それこそうまくいきません。 先月、先々月(4〜5月)の例会のテーマは、「解決の道は自分のなかにある」ということでした。 だいたいにおいて、どこのダンナもそう違わないのです。 さきほど指宿のKさんが「主人はたとえ自分(俺)が間違っていても、“はい”と答えてくれと言うような人だ」とおっしゃいましたが、これはKさんの夫に限りません。聞いていて笑いがこみあげてきました。何を隠そう、僕自身もそうでしたから。 なにしろトモちゃんが強いものですから、同じようなことを言った覚えがあります。 今は言わないですよ(笑)。 男って、威張っていたいんです(笑)。 「人間って、みんな同じで、みんな一人ひとり違う」。 これも、「イコールは等しくもあり、等しくもなし」の一例です。 たとえば、個人の性格について、ある人は「すごく大ざっぱ」だと言われ、別の人は「細かい。神経質」だと言われたりします。 これは、人間一人ひとりの違いを強調した捉えかたです。 でも、すべてにおいて「大ざっぱ」な人とか、逆にすべての点で「細かい」人とか、この世にいるでしょうか? いないんです。 なんでもかでも「大ざっぱ」では、また逆にどんなことにも「細かい」では、この世のなか生きてゆけません。 人間は、どんなに細かそうに見える人にも「大ざっぱ」なところが必ずあり、反対に大ざっぱに見える人にも「細かい」ところがあります。 また、人間誰しも多かれ少なかれ悩みをもっています。 ところが、自分の悩み(だけ)は特別に深いものと勝手に思ってしまいがちなんですね。 大人であれ、子どもであれ、「自分のように特別に大変な悩みを抱えたものは他にいない」と思い込んでしまって辛くなっていきます。 不登校はもちろんのこと、引きこもりだって悩むようなことではありません。 少なくとも否定的にのみ評価されるようなことではありません。 でも、そのような考え方ができなくて、そうしているわが子を認められなくて、親は悩んじゃいます。子どもや若者は自分自身を認められなくて悩んじゃいます。 悩みたいときには存分に悩んだら、また横からとやかく言わないで悩ましてあげたらいいと思います。 「こんな自分じゃ全然ダメだ!」であれば、それでいっこうにかまいません。 でも、私たちの会とどこかでつながっていると、やがて「そんな自分も、これでなかなかイイかも!」と自己肯定する、もう一人の自分を発見するようになると思います。 今日は遠く兵庫県からも参加がありました。 Mさん、いかがですか? だいたい見当がついたのではないでしょうか。 息子さんだけが精神科クリニックなどで「統合失調症」を疑われたり、診断されたりしているわけではありません。 この鹿児島の会の子どもたちも、何人も同じような扱いを受けています。 「なにか得体の知れない病気がひそんでいるのではないか?」と心配される必要は全くありません。息子さんも鹿児島の子どもたちも、どこもおかしくなく健全そのものです。 人間って、一人ひとり違うようで、それほど違いません。みんな同じです。 僕自身のことですが、昨年秋の大病のとき、手術後、おかしいといえば、確かにおかしくなりました。一時期なのですが、明らかに精神的におかしくなりました。 でも、それは逆に僕が正常だったことの証明です。 医者は心臓のバイパス手術を前に、トモちゃんに、いろんな心配をこれでもか、これでもかというほどに並べたそうです。 このまま麻酔から眼がさめないかもしれません。 出血が止まらないかもしれません。呼吸器がはずせないかもしれません。 脳梗塞の心配もあります。 などなど。そのうちのひとつでも当たっていたら、いま僕はここにいません。 当たらなかったからこそ、こうしておられます。ありがたいことです。 ところがほとんど当たらなかったのですが、ひとつだけ当たりました。 「せん妄」があらわれたことです。 医者は術後、トモちゃんに「せん妄が相当にひどいです」と言ったそうです。妄想からか、僕はひどくわめき散らし、暴れまくったようです。 僕は手術前から、足掛け3日意識はなかったのですが、おかしな夢を見た覚えははっきりとあります。 熊本のほうから心臓手術の名医を教授に迎えて、鹿大病院は以来その方面でも実績をあげるようになったのですが、夢の中で僕は、その教授に対してなんと、「人殺しー!」「(治療行為を)やめろー!」などと叫んでいるんです。 教授が執刀したわけではありませんが、僕の命を救ってくれた若いドクターを指導した教授に対してです。 もちろん実際に言葉になっていたわけではないでしょうが、集中治療室(ICU)に入ることが許されたトモちゃんが、「なに?! この動物のような奇声は!?」と思ったところ、甲高い声の主は僕だったということです(笑)。 はっきりと意識がもどってからも、幻覚がしょっちゅうありました。集中治療室で、僕は全身を手先まで拘束されていましたが、ベッドから見える天井や壁すべてがスクリーンで白黒の紋様が形を変えては迫ってきました。 また、僕のベッドや集中治療室全体が舞台装置でもあるかのように動き、新しく仕切りが作られたりするのです。 術後5日目に一般病棟の回復室(TCU)に移りましたが、そこでも天井のしみなどが絵や文字に見えるのです。 僕が「ここは鹿大付属病院で、医学部は昔、学生運動が活発だったから、天井にはその檄文が残っているんだ!」などと真顔で言い、読み始めたものですから、さすがのトモちゃんもちょっと心配になったそうです。 でも、トモちゃんには確信がありました。 医者がはっきりと「正常です。正常な証拠です」と言ったそうです。それだけ、大変なストレスがかかる手術だったわけです。 まさか僕自身がこのような体験までして、鹿児島の親の会が言ってきたことの正しさを実感するとは思ってもいませんでした。 おかしいから、おかしくなるわけじゃないんですね。 反対に、正常だからそうなる。おかしくなったかのようになるわけです。 大変なときに大変な状態になるというのは、きわめて当たり前のことです。 そういう見方があると普通否定的にしか見られないことも、私たちの場合は違ってきます。 不登校や昼夜逆転の生活はもちろんのこと、拒食・過食や引きこもりも十分に肯定できます。 家庭内暴力や暴言、深夜徘徊などの非行は、それがよいことだと肯定こそしませんが、どうしようもなく困ったことで嘆かなければいけないことだとは全然思いません。 親が親らしくなっていき、子どもも変わっていく絶好のチャンスだという捉え方を僕らはします。 昔の精神分裂病、いまの統合失調症、そのように診断される人が特別なのではありません。 誰だって、大変な状況が重なったりすると、ときに幻覚、幻聴、妄想などが現れても不思議じゃないでしょう。 僕の場合は、まず短期間の「せん妄」でしたが、その後、入院中も退院してからも回復が順調そのものと思っていたら、次は「不安神経症」の診断を受けました。 2月の例会で、「不安を否定せずに、不安とともに生きる」という話を詳しくしています。 「内沢さんは、大変な病気や手術をしたから特別だ」と考えたら、これはダメなんです。僕のような病気は、僕くらいの年齢になるとけっして稀ではありません。 人間って、一方で一人ひとりがこの世で唯一無二の存在で、個性的ですが、他方ではみんな、うれしいときはうれしいし、悲しいときは悲しいというように、そんなに違いありません。 多かれ少なかれ不安は誰にだってあります。 不安がない人なんておりません。ここに「私は人間じゃない」という人はおりませんね(笑)。 みんな同じです。 これを忘れるといいことありません。 先ほどの「うちの夫は…」「うちの主人は…」といった後ろ向きの暗い話になってしまいます。 事実、無理解で困った夫だとしても、愚痴を言って嘆いても何も始まりません。 明らかに夫に非があったとしてもこれを嘆くのではなく、いつも威張っていたい夫を上回る「わがまま」を妻が発揮したらいいのです(笑)。 妻が「わがまま」にならないで、夫のことを嘆いても一歩もすすみません。 「わがままになる」チャンスやきっかけを与えてくれたのは、他ならぬ不登校や引きこもりのわが子です。わが子に感謝しないといけません。 ところで、「わがままになる」とは聞こえは良くありませんが、言い換えるともっと「自分を大切にする」ということです。 「わがまま」でない人は、自分勝手でなく、周りを気づかって行動しているという点でほめられるのかもしれませんが、概して自分を大切にしていません。 「わがまま」って、とっても大事なことです。 「わがまま」にならないで、自分を抑えているのはよくありません。 「私はこんなにも我慢しているのに、あの人は…」となってしまい、本当のところ相手も尊重できなくなります。 誰かに頼まれて、自分を抑え我慢しているわけではないのですから、これからは遠慮はいりません。 自分の気持ちひとつで変わっていけます。 僕たちは、もっともっと「わがまま」になったらよいと思います。 この「わがまま」の話は、人それぞれの性格や長所・短所の話につながります。 長所と短所(欠点)は、別々に考えるのではなく、いっしょに、ワンセットで考えたらいいと思います。「わがまま」と言ったら普通は短所、欠点ですが、いま紹介したように「自分を大切にしている」と言ったら、これは間違いなく長所です。 こうしたことは、他にも例をたくさんあげることができます。 「でしゃばりが過ぎる」といえば良くありませんが、「何ごとにも積極的」となると響きが全然違って良くなります。 「生意気で聞き分けがない」は、「自己主張があって良い」にもなりませんか。 「神経質、繊細すぎる」と思えば、「緻密で、他の人が見落としがちな小さなこともよく気がつき、感情や心づかいが細やか」とも言えませんか。 「他人を押さえつけても平気な人」は、なんと「リーダーシップがある人」になり、「お節介な人」も「親切で世話好きな人」になります。 このように、普通あまり良くないとされていることも、「ものは言いよう」で、とても良くなります。 いずれも、その逆も成り立ちますから、喜んでばかりはおれません(笑)。 でも、逆も同時に成り立つからこそ、長所と短所(欠点)は、背中合わせであり、紙一重です。 長所と短所は、普通正反対のことですし、もちろんまったく同じものではありません。 しかし、ある人のある同じ行動様式などが評価の視点の違いで、その人の長所になったり反対に短所になったりするのです。 つまり、「長所=短所」が、そのような了解のもとでは成り立つのです。この例からも「イコールは等しくもあり、等しくもなし」ということが言えるのではないでしょうか。 子どもや若者だけでなく、われわれ大人も落ち込んだり、へこんだりすることが少なくありません。自分のダメなところ、さえないところばかりが目について、元気がなくなってしまうことが間々あります。そういうときはどうしたらいいのでしょうか。 ダメなところだけでなく、イイところにも目を向けていったらよいのでしょうか。 それがよくある普通のアドバイスですが、それではほとんど希望がもてません。 なぜなら、自分のダメさ加減に落ち込んで、そこに神経が集中しているのです。 そこからちょっとでも離れることは容易ではありません。 まして、そのことを忘れるなんて絶対に無理です。そこから目をそむけようとすればするほど、いっそう囚われてしまいます。 では、どうしたらいいのでしょうか。 鹿児島の親の会は、大人であれ子どもであれ、われわれ人間のあるがまま(「わがまま」の語源は「われ、あるがまま」か?!)を大事にしてきました。 不安だったら不安のままでいい。 なにもできないのだったら、なにもしなくていい。 そのなにもしない・できない自分が許せなくて責めたいのであれば責めればいい。 しようもないことに囚われるのであれば、囚われるにまかせたらいい。 落ち込むときは落ち込むにまかせて、とことん落ち込む・・・ 長いこと親の会をやってきて、われわれ大人がそして子どもたちが元気になっていく過程は法則的だと言えます。 現在進行形も含めてですが、必ず自分のことが好きになって元気になってきます。 自分のことが嫌いでは元気になりようがありません。 さて、その自分のこととは、自分の長所だけでなく、短所や欠点も全部ひっくるめてです。 とくに、いままで「自分のこうゆうところがイヤだった」というのが、「そういうところがある自分もそのままでいいかもしれない」と認められるようになって、元気になってきます。 ところで、僕は、よく聞く「短所を改めて長所を伸ばす」ということを一般論としては否定しません。 しかし、その発想ではたぶん間違いなく元気になれないように思います。 さほど無理なく改められるものならば改めればよいだろうし、伸ばせられるものならば伸ばしたらいいと思います。 でも、元気がなく落ち込んでいるときは「改める」も「伸ばす」もあったものじゃないでしょう。 たとえその気になったとしても容易なことではありませんので、うまくゆかずますます落ち込むだけです。 また、僕には「伸ばす」についてはともかく、「改める」という発想がそもそも疑問です。 この世に欠点のない人なんておりませんし、他に害をおよぼさない限り、各人のありようはその人の短所、欠点も含めて、そのすべてに価値があるのではないでしょうか。 さして改めたり伸ばしたりせずとも、その人の「あるがまま」「そのまま」で十分に素晴らしいのではないでしょうか。 何かができようができまいが、その人の存在自体に、まずなにものにも代えがたい一番の価値があるのではないでしょうか。 すでに述べましたが、長所と短所(欠点)は、背中合わせであり、紙一重です。 その点について、作家の五木寛之さんは、さらに突っ込んでうまいことを言っています。 「人間的な長所とは、反対側の欠点によって支えられている」 「努力しても直らない欠点は、たぶんその人の最良の部分に根ざしている」 (『生きるヒント2』初版1994年)。 これは、「欠点の素晴らしさ」に気づかせてくれる文章でもあります。 普通、欠点ではなく、長所を評価することならば、誰にとっても難しくないように思えます。 でも、そうでもないですね。 「あの人は本当に素晴らしいね」などと、他人の長所はすぐにでも評価できますが、自分のことになると長所であってもなかなか評価できないものです。 まして元気がなく落ち込んでいるときは、短所や欠点にばかり目が行ってしまい自分の長所が見えなくなっています。 いや、元気なときだって、そのときは「見えない」わけではありませんが、元気だからこそ自分の長所を「見ていない」ことも少なくないように思います。 また、自分の「最良の部分」などは、どんなときにも意識していないかもしれません。 その「長所が欠点によって支えられ、欠点が“最良の部分”に根ざしている」なんて、とても力づけられる、素敵な見方だと思いませんか。 だから、「自分のことが好きになる」とは、やはり長所だけではなく、短所や欠点など全部をひっくるめてなのです。 長所については言うまでもなく、自分の短所や欠点を簡単に否定してはいけません。 これを否定し、無理をしてまで改めようとすることは、同時に自分のイイところ、長所も失くしてしまいかねませんので、まったくお勧めできないことです。 そこで、元気になるためには、自分の短所、欠点をそのまま肯定して、これを素直に受け入れることが肝心なのです。たしかに「ダメさいっぱい」なのかもしれません。 また事実「まったくさえない」のかもしれません。でも、だからどうだと言うんでしょう。 そうした自分も「かけがえのない自分なんだ」と、自身に愛着を持てるかどうかがカギです。 そんなことを言われても、「ダメな自分はダメ以外の何ものでもない」としか、最初は思えないかもしれません。 でも、いままで話してきた「イコールは等しくもあり、等しくもなし」「長所=短所」といった発想を知れば、あるいは、「ダメ=ダメ」ではなく、「ダメ=ダメじゃない」かもしれないということにもなってきませんか。 ほとんどの場合、借金の返済を別にすれば期限はないので(笑)、急ぐ必要はありません。 「いまはそう思えない」のであれば、それでいっこうにかまいません。 自分がイヤで、嫌いだったら嫌いでもかまわないのです。そういう自分を認めてあげてください。 すべてはいま現在の自分を認めるところから始まります。 ところで一方、「これじゃダメだ」と思う自分だけでなく、まだまだ小さいし、いても隅っこかもしれないけれど、「いまのままでもいいかもしれない」という「もう一人の自分」もいませんか。 たとえどんなにちっぽけであっても、その「もう一人の自分」を認めてあげることも、「いまの自分を認める」ということの大事な中身です。 このように、いま現在の「自分のあるがまま」を認め受け入れること、それが未来に向かっても、もっとも確かな歩みです。 そうではない、いまを否定した「そんなことで将来どうする?!」といった説教文句に代表される考え方は、将来のことを考えているようでじつは全くそうではありません。 未来は、誰にとっても不確実です。 不確実な未来を思い煩わずに、いまを大事にすることは、この先出会うどんな「いま」にも対処することができる力を培っています。 ということで、「ダメな自分!」、そういう自分も認められるようになると元気になってきます。 Hさんはいま19歳。すでに大検(高卒認定)に通っていて、普通の基準だと「一浪」相当です。 「浪人のわりには学力がついていない」「勉強が続かない」などと少し焦っているようです。 そういうときどうしたらよいのでしょう? いままでの話の応用問題です。 僕のアドバイスは、「受験勉強をもっと頑張ってする」ではなく、「続かない、頑張ることができない自分を素直に認めてはいかが」ということになります。 ある意味では「頑張る」ことのほうが簡単です。 これまでの延長線上ですから。受験生ならば誰もが多かれ少なかれやっていることで、それにならえば良いことなのですから。 でも、いくら頑張ってもこれで十分ということがありませんので、そこから心底元気にはなれません。 Hさん本人はそうは思っていないでしょうが、いま、うまい具合いに勉強が続かなく、頑張れなくなっているようです。これはチャンスです。 いままでとは違った自己評価をしていくチャンスです。 Hさんはすでに大検に通っていることからもわかるように、学力はそれなりのもがあります。 そのHさんが続かなくなっている「受験勉強」は、そもそもテキトーにすればいいことで、頑張って歯を食いしばってでもやらなきゃいけないようなことではないんです。 「いや、それは内沢さんの考えで私は違う! 私は頑張りたい!」と言われるかもしれません。 だったら、頑張ればよいのです。 でも、頑張りが続きませんね。 頑張れなくなっている自分を素直に認めてあげてはいかがですか。 さらに、「受験勉強」のようなことではそもそもあまり頑張らない、そういうふうになるとずいぶん違ってきます。受験勉強や大学入試が主人公なのではなく、もちろん「私」が自分の人生の主人公なのです。 今後「受験学力」が多少伸びようが伸びまいが、「私は私」と開き直ることができるかどうかがHさんの課題です。 まずは「頑張れない自分」を大事にして、やがては「頑張らない自分」を自然に認められるようになると、不思議とみなさん、逆に、無理なく、いろんなことに積極的に取り組んでいくようになります。 少しの話がかなり長くなってしまいました(笑)。 これが会報やプリントになるともっと長くなります(大笑)。 いつものことですので、どうかお許しください。 |
Last updated: 2006.8.19
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