登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  「だから今も、参加します」 淳子さん・重則さんのページ



このページは、私たちの会のベテラン、ご夫婦でいつも仲よくいっしょに月例会に参加してこられた淳子さん・重則さんを紹介するページです。お二人の子どもさんは、とうに立派な社会人です。

そう聞くと、今は不登校でないのはもちろん、ひきこもりでもないのにどうして参加されるの? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、そこが私たちの会の魅力の一つのようにも思います。

ベテランは経験者として若い人たちの参考になれます。そしてベテランは、淳子さんが書かれているように若い人から生きる力をもらえるんです。

このページのタイトル「だから今も、参加します」は、最初に紹介する淳子さんの一文「ただただかわいかった」の中の表現です。

昨年10月、淳子さんのお母さんが亡くなり(享年93)、葬儀のとき息子のこうへいさんは弔辞でお祖母ちゃんに「無責任に無条件に愛してくれてありがとう」と述べたそうです。若い人の感性は素晴らしいと思います。

その愛が条件付きでなかっただけでなく、孫が「無責任」とも表現したところに、お祖母ちゃんならではのやさしさがいっぱい詰まっていたのではないでしょうか。

このページはほとんどが淳子さんや重則さんのお話や文章ですが、娘のあやさんの11年前のお話もあります。

あわせてご覧になりますと、私たちの会が子どもたちからいかに多くのことを学んできたか、おわかりいただけるように思います。

不登校のわが子や子どもたちは、いっとき親の私たちを心配させたかもしれませんが、じつはそれ以上に、はるかに大きな益をもたらしてくれました。

私たちが自分を一番大切にするようになり、毎日生き生きと元気に過ごすことができるようになれたのも子どもたちのおかげです。

そのことをこの淳子さん・重則さんのページからもお確かめいただきたいと思います。

前書きにお付き合いくださり、ありがとうございました。

2025/1/21 HP管理人 内沢 達




上から順にお読みいただいて構いませんが、2回目のときなどはどうぞクリックして、その記事にジャンプしてご覧になってください。


ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情 2025年1月 淳子さんの掲示板投稿
還暦のお祝い 2016年6月
不登校の子どもたちのおかげ 2014年7月
母の「子育て」は大事な教訓 2014年6月
自分が一番かわいい 2014年3月 あやさん
その時なったら、考えればいい 2013年5月
家族が私を救ってくれた 2011年5月 22周年の集い・重則さんの体験発表





ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情 - 森田 淳子



 2025/01/08 (Wed) 15:37:50


 昨年10月、母が亡くなりました。私にとって母は子供のころから、少し厄介な存在でした。5歳下の妹は生まれつき身体的な障害があり、両親は妹の将来を心配しました。特に母は、私が小学生のころから、妹の将来の面倒をみることを望みました。妹がかわいかったので、私もそれは当然だと思っていました。親が望んだ職業につくために、中学、高校と懸命に努力しました。しかし、親の希望をかなえることはできませんでした。今では、それでよかったと思っています。妹は、自分の力で自立していきました。


 そんな母でしたから、たった二人の孫が中学で不登校。10年近く、引きこもり。心配しなかったはずはありません。


 駄菓子や雑貨を売る小さな店をしていました。いろいろなうわさ話が入ってきます。私が聞きたくない話も平気でします。私は、何度傷ついたことか。親の会で聞く、お母さんの一言に助けられたというような話が、うらやましくてたまりませんでした。家族には何を言ってもいいというのが母の持論で、私はそのたびに家族だから傷つくんだよと反論しました。しかしながら、今、考えると、孫たちを否定するようなことは一度もなかったのです。


 葬儀の段取りの時、「お孫さんが弔辞を述べますか。別になくてもいいですよ。」と、葬儀会社の人に言われました。息子がしますといったので、びっくりしました。そして、葬儀の日、息子は「子供のころ、ばぁちゃんは山形屋でほしいものは何でも買ってくれるので、子供心に心配した。(学校に行かなくなって)心配したこともあっただろうけれど、今、ちゃんとやっているからね。無責任に、無条件に愛してくれてありがとう。」と述べました。


 息子は今、バスの運転手です。世間では、大変な仕事だといわれていますが、本人は公共交通機関の一翼を担っていると誇りをもって仕事をしています。運転手さんありがとうと、飲み物などを下さる方もいるようです。娘はスーパーでカウンター業務をしています。電話対応から荷物の発送、保険の加入申し込みなど様々です。どの店長からも信頼されてきました。昨年は、パートながら本部からの指名で沖縄の研修会にも参加しました。


 高齢者施設に入所していた母に、そのことを話したことがありました。そのためか、母の記憶の中では、「あやは責任のある立場だから」から亡くなる前には「あやは店長だからね」になっていました。


 こんなこともありました。母がこれを言ったらいけないんだけどねと何度も言うのです。どんなことを言うのか、ひやひやしながら言ってごらんよと催促すると、「こうへいとあやが一番好きなの。」というではないですか。それは言っていいんだよというと、そうなの?と、大きく口を開けて笑いました。


 入所している母に、家族の写真をもっていっていたのですが。重則さん(夫)の写真がないといいます。それまでの母を考えると、夫はさほど重要ではないと思っていました。夫と二人で写っている写真を持っていくと、これで全部そろったと大切そうに写真をなでていました。そして、「淳子の幸せそうな顔を見てごらん。」とそばにいた妹に言うのです。私が幸せだよと言うと、うれしそうな顔で「それはよかった。」と。


 葬儀の日、息子と息子のお嫁さん、娘の三人が受付をしてくれました。あわただしい中、三人を見ると葬儀の日なのにふと、うれしい気持ちになりました。母も喜んでいたでしょう。子供たちが学校に行かなかった頃、親の会と細い糸でつながりながら、夫と二人、必死で生きてきました。世界中から孤立してでも、この家族を守るといった気持ちでした。


 余裕ができて周りを見回すと、両親や叔父叔母、友人たち、みんなそばにいてくれたんだと思います。


 いろいろなことを経験して、これで何があっても大丈夫といきたいのですが、なかなかそうはいきません。不安になったり、心配したり。それでも親の会に行くと、若い方たちから生きるヒントをもらいます。不安になったら、親の会で学んできたことを発掘するようにして思い出します。だから、今も参加します。


 母のことは今でもよくわからないのですが、母は孫たちが小さい時から、学校に行かない時もずっとかわいかったのでしょう。無責任に無条件に、ただただかわいかったのだと思います。そして、私と妹のことも母なりに愛してくれたのだと今は思います。





Re: ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情
- 内沢朋子

2025/01/08 (Wed) 21:21:46

「ただただかわいかった・・」
最後の一文を読み終えて、熱い涙があふれました。
森田さんとは、本当に長いお付き合いです。
ご夫婦のお話しは、時に、苦しさにあふれ、時に悲しさを、時に喜びを、ご自分のお気持ちを素直にお話ししてくださいました。
親の会の皆さんを信頼すればこそ、そのお気持ちは皆さんの胸を打ちました。
お母様に、愛の真髄を教えてもらい、支えられて、わが子への愛を無条件に開花されていったご夫妻の長い歴史に、一緒に涙し、笑い、感動を共にした私は、本当に幸せ者です。


Re: ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情 - 永田です

2025/01/10 (Fri) 11:57:46

お母さまのご冥福、心よりお祈りいたします。
なんてかわいらしいお母さまなんだろう。
なんてあったかい家族なんだろう。
なんて素敵な子どもたちなんだろう。
淳子さんと重則さんのお話を長い間聞いてきた私は涙涙です。
無責任で無条件な愛情❗私も真似したいです。
淳子さん、ゆっくりゆっくりお母さまを偲んでくださいね。


Re: ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情 - ちな

2025/01/11 (Sat) 01:45:51

『無責任で無条件に愛してくれてありがとう』
という表現が私には新しくて衝撃を受けました。
そして、尊いイメージの『愛』に『無責任』が加わることで、
いろいろな場面で変わることもある感情の躍動感(良い時も悪い時も)を
改めて大切にしていきたいなと思えました。

お母様とのやり取り、微笑ましく読ませていただきました。かわいいです。
お母様が安らかにお眠りになられますようお祈りいたします。


Re: ただただかわいかった ─ 無責任で無条件な愛情 - megurin

2025/01/11 (Sat) 22:51:03

森田さんのあたたかいお話、繰り返し読ませていただいています。
自分の愛情を信じて、すすんでいこう。あらためてそう思えた今日でした。
ありがとうございます。



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還暦のお祝い


淳子さん・重則さん(2016年6月例会)




淳子さん:5月の親の会が終わった後、私の還暦のお祝いを城山観光ホテルで子どもたちがしてくれました。子どもたちふたりが和室の個室をとってくれて。

このネックレスは息子がプレゼントしてくれたんですよ。

息子がまだほんの小さい時に「お母さん、ダイヤモンドがほしい?」「僕が大きくなったら買ってあげるからね」と言ったんです。
(まあ、素敵ねえ!)でも、小学生の時に「お母さん、ダイヤモンドって、とっても高いんだってね。だから買えないかもしれない」とも言ったんです(笑)。

それでその日、「これくらいでいい? 約束だったからね」と言って、小さいダイアモンドと還暦だからとルビーがついているネックレスをプレゼントしてくれたんです。びっくりしました。


娘も楽しいプレゼントを用意してくれて、その日の会計は子どもたちが出し合ってくれたんです。重則さんからは花かごとケーキをもらいました。サービスの赤い帽子とちゃんちゃんこも着て(笑)、写真も撮ってくれて、本当に幸せだなあと感動しました。

息子のダイアモンドもそうだけれど、娘も引きこもっていた時によく「お母さん、いつか一緒に旅行しようね。私が連れて行ってあげる」と楽しそうに言ってたんです。でも、ずっと家にいて、着るものも同じものを着ておしゃれもしないし、私はそういう日が来るんだろうか、と思っていたんですが、今は旅行もチケットもスケジュールも全部調べてくれます。


重則さん:4年前の私の還暦のときよりずっと盛大でした(大笑)。正直、不登校やひきこもりがあったから今があるんだけれど、幸せだなと思いました。以前はこんな日々がくるなんて思えなかったですよね。

淳子さん:4年前は娘はまだ働いていなかったので、息子が全部ホテルと交渉して決めていました。あのときは、お部屋の前に「森田様 還暦のお祝い」と書いてあって、「イヤだ」と言ったよね(大笑)。この間も、還暦のお祝いと書いてありました(笑)。
(―――若いよねえ)


―――
今まで、誕生日のお祝いはどうしてましたか?


息子が中1から不登校になって引きこもっていた時、誕生日祝いはしないでくれと言われて、我が家は昔からそういうイベントは大事にしていたので、私にとっては辛かったです。息子が動き出したあとももうしていないです。でもプレゼントだけはしています。娘はずっとしています。


―――
娘さんと淳子さんの妹さんと3人で旅行にも行かれたのね。


横浜と鎌倉に行きました。
ちょうど鎌倉はあじさいも咲いていてとてもきれいでした。横浜もおしゃれな街と昔の歴史にも触れて、昔チャップリンも乗ったという有名な氷川丸も見学しました。また行きたいと思いました。


重則さん:私は留守番でした。でも今着ているシャツはお土産で、それに父の日と誕生日にも子どもたちからプレゼントをもらいました。(笑)


―――
家で長い期間ひきこもっていると「社会性が問題」と言う人がいますが、あれほんとにうそですよね。


淳子さん:そうですよね。妹は横浜でアクセサリーを買ったんです。翌日娘はそこのお店の人に偶然出会って、「あれ! 昨日お店に来てくれた方ですよね。笑顔が素敵だな~と思って印象に残っていたんですよ」と言われました。娘はすごくうれしかったと言います。

今勤めている生協でもそうです。誰とでも自然に話してます。
10年以上も引きこもっていたかどうかなんて関係ないですよね。


動き出したとき、初めての仕事がお店のレジで、私は最初よくできるなと感心しました。
息子も10年以上家にいたけれど、すぐ接客の仕事でした。当の子どもたちにまったく不安はなかったようです。

不登校だから、ひきこもりだからと「訓練」しようとすると、あなたは特別なんだからとレッテルを貼るようなもので、逆におかしいですよね。当人が動き出したいと思ったら、自然に社会でやっていけるんだなと思います。




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不登校の子どもたちのおかげ


淳子さん・重則さん(2014年7月例会)




淳子さん:
今31歳の息子は中学に入ってすぐから行き渋りがあって、でも親も子も学校は行かないといけないと思っていたので行って、夏休みになったら元気になったんですけど、また秋の体育祭に向けて行ったり行かなかったりで、体育祭までは頑張って、終わったら動けなくなってしまいました。すぐにこの会に来ていればよかったんですけど、その時は友達の紹介で別のところに行ったんです。


そこは「給食のメニューは貼っててください」とか「学校からのチラシも目に見えるところに置いてください」みたいな感じでした。そこに1年ぐらい行っても、学校は休んでいても元気にならないんです。新聞で東京シューレの子ども達の講演会の記事を見てここに来て、それから会に参加するようになりました。


初めて朋子さんに電話をしたときに、「私は息子が学校に行かないのはいいと思っているんです。でも元気がないので」と言ったら、「ほんとに行かないでいいと思っていますか?」と言われたんです(笑)。


自分ではそのとき行かなくていいと思っていたんですけど、学校には行かなくても元気になってほしいとか、家にいないで外で活動してほしいとか、それはやっぱり学校に行ってほしいということと変わらない期待だったんだなと、ずいぶん経ってから思いました。そのとき言われたことは心に残っています。


講演会でシューレの子ども達の話を聞いて、それまでの心配が消え安心した気持ちになり、早く家に帰って息子に会いたいと思いました。でも一方ではシューレの子ども達みたいに元気で、みんなの前で話しするようになってほしいというのもありました(笑)。


いつもパジャマを着てごろごろしていたので、不登校は恥ずかしいことじゃないんだから外で活動してほしいみたいな気持ちがあって、それは口では言わないけど、そういう気持ちが伝わっていたんじゃないか、息子にとってはプレッシャーだったんだと思います。


娘は幼稚園の頃は元気だったのに、小学校に入ってすぐにアトピーやじん麻疹ができて、今考えると学校アレルギーだったのかと思うくらいでした。私は知らなかったんですけど、1,2年の頃はよく保健室に行っていたそうです。でも、先生ともよくしゃべるし、お友達も家に来たりするし、不登校を心配するようなことはなかったですね。だから娘が中学になって学校に行かなくなるだろうとはまったく思っていなかったです。


息子も小学校の時はまったく心配なくて、中学に入ったとたんに、他の小学校から来た子とかサッカーの部活ですごく辛くなったんですね。


―――
いじめにあったのね。


中学は二つの小学校が一緒になるんですけど、一つは全員来て、もうひとつの息子がいた小学校は半分に別れ少数派だったんです。息子をいじめていた子は同じクラスで、ボスみたいな子で暴れん坊だったんです。1年生のクリスマスのとき、その子のお父さんがお詫びみたいな感じでケーキを持ってきたので、すごく腹が立ってつき返しました。


息子はそれから家で過ごしました。本人が一番辛かったんじゃないですか、家にいることを許せないという気持ちがあって、小学校で辞めていたピアノをまた習い始めたり、自転車であちこちまわったりしていました。だからずっと家にこもっていたということではなかったので、逆に言えば、本当に心を休めなかったんじゃないかなと思います。外に出たら同年代の人と出会うこともあって、それでまた不安になったりしていました。


初めのころは、当時の学校や先生や一緒にいた人たちを攻撃して、そのうち親が悪いと親を攻撃して、それはすごく辛かったんですけど、でも一番辛かったのはその後に今度は自分を責めてすごく自己否定するようになったときで、まだ親に言ってくれたほうがよかったなと思いました。


―――
ご夫婦の辛さもピークでした。


先ほど辛い時は夜寝られなくなるという話がありましたが、私は夜コテッと寝るんですよ。夫から「あなたはよく寝ているよ」と言われるほど、昼にいっぱい考えて、考えて、辛いときほどそれにすごく疲れてしまって、夜はコテッと寝ちゃうんです(笑)。


息子が夜中12時とか1時に自分の不安を訴えて、私が眠たいと言うと、「お母さんが今寝たら、明日、朝起きたときは俺は生きちゃいないからな」と言われたり、昼間も自分の不安が高じて話し始めると1~2時間続いて、でもそれを聞くのが私にできる精一杯のことだと思って聞いていたら、達さんから「それは止めなさい」と言われました。「子どもにつきあって子どもの辛さを助長してはいけない」「自分に無理してつきあうことは親も子もどっちにもよくない」と言われました。親のありようが問われ、大変でした。


―――
いろんな場面で親が鍛えられたよね(はい)。辛そうにしている淳子さんを見て、重則さんが「僕は淳子の港になりたい」と言われたのね。

息子さん・娘さんの不登校のおかげで、たくさんの幸せと豊かな人生を学びました。今はふたりとも仕事を得て働いているのね。毎年父の日や誕生日にプレゼントされたポロシャツやブラウスを着てこられて幸せいっぱいですね。



重則さん:
今日は私の誕生日です。(ウワーッ! 盛大な拍手)62歳です。


―――
おめでとうございます。今とても幸せね。


今日着てきたポロシャツも息子からのプレゼントです。(―――
不登校になってよかったと思っておられるのね)そうですね、子ども達が不登校になってくれて、そのおかげなのかしれませんけれども、「自分を一番大事に」と、自分自身の生き方が変わりましたね。


来週、夫婦で山に行く予定です。本当はこの時期仕事が忙しくて、休んだら悪いなと思いながらも「ま、いいや、どうにかなる」と思って休みもとることにしました。2泊3日の旅に行って来ます。


―――
それはよかった。なによりのリフレッシュですね。



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母の「子育て」は大事な教訓


淳子さん(2014年6月例会)




―――
淳子さんのお母さんは病気になりお店を閉じておられるのね。先月お母さんと距離を置くと言われていました。どんな関係だったの?


両親は30年以上子どもたち相手のお菓子を売る店をしていました。父が亡くなった後も母は店が大好きで、心臓が悪くなって手足がむくんでも店に連れて行けと言う母です。もう82歳です。退院したらすぐ店を再開すると思っていたら今はきついんでしょうね、再開すると言いません。母も店をできないストレスを私にぶつけます。


店は、平日はおばさんたちのサロンになっていて、子どもたちはあまり来ません。私も遠足のときは手伝うんですよ。子どもたちとのやり取りは好きなんです。昔は遠足の前日は店の前は子どもたちの自転車が並んでいたけれど、今は親が車で連れてくるので、車が並びます(笑)。時代は変わるんだなあと思います。


5歳離れている妹は、小さいころから先天性の身長が伸びない病気と言われて、両親は、将来は私に面倒をみてほしいと思っていて、私には妹の面倒をみるために、将来は自分で生活できる職業についてほしいと願いがあったんです。結婚は「妹を可愛がってくれる人と結婚しなさい」と小学生のときから言われていました。そのときに子ども心に、自分を好きになってくれる人に巡り合うかどうかもわからないのに、そんな条件は無理だと思っていました。


でもそうするのが当たり前と思って勉強したんですが、親が望む大学には入れなくて、私も大学時代にリュウマチの病気をしてしまって、5年かかって卒業したんです。その頃から私への期待はなくなっていきました。


親は私にはそう言いながら、当時、生活が大変だったのに、妹には先々のことを心配して先手を打って、妹が自活できるようにと、小学生のころから、フラワーデザインの資格をとるための勉強にたくさんのお金をかけて、服も妹は山形屋のあつらえを着て、私には勉強、勉強と言って、外に遊びに来ていく服もないくらい辛抱しました。


妹は京都の短大に入学することになっていたんですが、行きたくないと言いだして、社会福祉専門の大学に入りました。妹は母と離れてよかった、山形屋の服も、特別扱いされたことも、母が世間体を気にしているのがいやだったと言います。出来ない、出来ないと言われて育ったけれど、お友達から何が出来ないの?と言われて、自分はちゃんと出来るんだとわかったと言っています。今S県の公務員として社会福祉関係の仕事をしています。身長が低いだけで何も問題がないんです。


夫と知り合った学生の時に、「私は妹の面倒をみなければいけないので結婚できないんです」と言ったんです。すると夫は「それって、妹さんに失礼なんじゃないの」と言われ、そういう考え方があるんだ、妹に失礼なことなんだと思ってびっくりしました。


妹も、自分がいるから姉の私が結婚しないと親から言われていたようで、でも誤解だとわかってから妹とも仲良くなりました。最近親の会で皆さんの話を聞いて、皆さん元気だなあ、それに比べて私は・・・と思っていたけど、妹が休みと聞いて、すぐ妹に会いに行って、妹が仕事の時は琵琶湖をひとりで歩いたり、頭の中にあった疲れも飛んで、自分で自分を縛っていたんだなと思い元気がでてきました。


母が病院で胃カメラの検査のとき、リスクの紙を見て、「私は明日死ぬんだね、妹のことを重則さんに頼まないと」と言うんです(笑)。なにかあると「妹が心配、姉妹仲良く」しか言わないんですよ。小さい時からすぐ妹のことしか言わない母の対応がよみがえって、嫌な思い出がよみがえるんです。


特別扱いしたり、異常視することはこんなふうに心を傷つけていくんだなと大事な教訓があるんだなと思います。でも母は子どもたちの不登校は何も言わなかったし、可愛がりましたね。それより、妹のことでいっぱいで余裕がなかったのかもしれません。


―――
重則さんは2回目の就職のあと、今ふたりでなかなか旅行に行けないですね。でも、現職のころは、屋久島や北海道の礼文島や尾瀬にも行って楽しまれました。


重則さん:一年に一度は行きたいと宣言したんですけど、なかなか行けなくて。夏場が忙しいんですよ。でも、今年は伊吹山に行きたいと思っています。この間は知覧の母が岳登山を楽しみました。


今日僕が着ているのは、娘からのプレゼントです。(淳子さん:私のブラウスも娘の神戸のおみやげです。おしゃれしてほしいんでしょうね)息子も毎年プレゼントしてくれます。(―――
お幸せねぇ)何年も前辛くて内沢さんの家に毎週のように通っていたのはウソのようですね。



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自分が一番かわいい!



あやさん(2014年3月例会)




―――
今日は、もうひとり若者が参加しています。あやちゃん、ほんとに大人になって、きれいになって。2002年から12年ぶりですね。いくつなの。(28歳です)お付き合いしている人いるの。(いません)(笑)

15年前あやちゃんが10周年記念誌に書いてくれたものをちょっと紹介しますね。13歳のときです「学校に行かない。私が決めたから」という題です。(読む。読み終わると皆さんから大きな拍手)素敵な登校拒否だったね。


その後閉じこもりました。


―――
何歳のときに動き出したんだっけ?


27に近い26歳で就職しました。その前までがいちばん荒れました。
母にも突っかかってお皿も割ったりして、親に反抗しないと「外に出れない」と思って(笑)とりあえず割ってみました。そのとき「これは掃除が大変だ」と思って、2度としないと思いました。(大笑)


―――
お母さんが片付けたの?(父が自主的に片付けました)(大笑)その時にお父さんは、あやちゃんのことを「抱きしめたいぐらい可愛かった」と言っていましたよ。

親の会の会報を読んでくれているんですってね。



最近ですね。やっぱり引きこもっているときは辛くて見たくなかったです。誰が出て行っただのと書いてあったりするとよけい辛くて・・。年齢も気にしなくなったのも最近です。最近年齢を聞かれると、「もうすぐ、30です」とサバよんでいます。(笑)


―――
お兄ちゃんといっしょに引きこもっていたのね。


でも、タイプが違っていました(笑)、しゃべらないときもあったし、両親が赴任先の鹿屋に行っているときは、家事を頑張りすぎて、何でこいつは何もしないんだと喧嘩して、「結婚するなら絶対気のあった人でないとダメだ」とその時つくづく思いました。(大笑)


―――
お父さんとお母さんがすごく辛そうにしている時があったでしょう。


父が最初に鹿屋に単身赴任しているときに、休日に帰ってきて、よく父が母を連れだして家の前に車を止めてふたりきりでずっと話したりしていましたので、母に最近、「あの時、絶対離婚しようと思ったことあるでしょう」と聞いたんですよね。私は母が絶対離婚しようと思ったと思ったんですよ。


そしたら、「ない」と言ったんですよね。私は「チラッと思ったことは絶対あったと思うけど」と母に言ったら、「そう思うでしょう、でも、お父さんのほうが別れようと思ったんだって、ひどいよね」と(笑)、「そうだよね、捨てるのはお母さんの方だよね、お母さんが捨てられるのはおかしいよね」と話しました。(笑)


――――
あやちゃんやお兄ちゃんのお陰で、お父さんとお母さんは生き延びてこられた、ほんとに助けられたと思いますよ。(私たちがいなかったらダメでしたね。)(大笑)


私は働きたいと思ったらいても立ってもいられなくなって、近所のコープに面接に行って就職が決まったんですよ、決まった後に、一度鹿屋に遊びに行ってたんですよ。そしたら「何でその前に来ないんだ」と強い勢いで言われ、未だに言われますよ(笑)。


(翌4月例会での淳子さんのお話:娘がアルバイトを決めてしまって夫が機嫌が悪くなったという個所を少し補足すると、夫は娘が赴任先の鹿屋にきたら、何をご馳走しようかと楽しみにしていたんです。夫にとってはアルバイトの面接よりも鹿屋でウナギを食べさせることの方が大切だったんですね(笑)。娘が「今面接に行かないといけないのよ」と断って、ケンカしていたのを覚えています。)


お父さんは「家にいる私」をつくづく愛してくれたんだなと思いました。家にいることを「認める」んじゃなくて、もう当たり前だったんだなあと思いました。それはありがたかったです。


祖母もそうでしたね。「エッ、働くの? 働かなくてもいいんじゃないの」と(笑)、普通は動き出したら喜ぶものですよね、喜んでいいんじゃないかと思うんですけど、皆複雑そうな顔をして…(笑)。おかしいですね。


今度、母とふたりでふたつ旅行に行く予定です。父は誘いません。
それより父と母とふたりで旅行に行った方がいいと思うので、お父さんは誘わないです。夫婦で行きなさいと言っています。(笑)


働いてて思うんですけど、社会性って自分で身につけるものであって、社会に出て学校に行ったからって絶対に身に付くようなものじゃないですよね。アルバイト先のレジで見ていて、「ほんとにこの人感じ悪い」という人が何人かいますけど(笑)、そういう人たちはみんな学校行ってなかった人たちだとは思えないんですよ。


―――
私はずっと家にいて引きこもっていたけど全然心配いらないよ、ということよね。


う~ん、私は可愛いとか愛想がいいねって何回も言われます(笑)。笑っているとやっぱり表情で違いますよね。ビックリするぐらい笑顔のない人は、「あっ、この人余裕がないんだ」と思います。ニコニコ笑っている人は素敵ですね。


でも忘れたくはないですね、やっぱり引きこもっている間に当たり前にできることができないことがあって、それで辛い思いもしました。でも自分ができないのも当たり前なんじゃないかなと思うようになって、寛容に受け止められるようになってきたんです。それでも、時々母に愚痴って、「もう、聞きたくない」と怒られますけど。(笑) 


―――
あやちゃん自分のこと大好きですか。(自分がいちばん可愛いです、う、ふふ)素晴らしいね(拍手)。

重則さん、涙、涙ですね(笑) しあわせね。こんな素敵な我が子に恵まれて。お父さんとお母さんは仲が良くて何よりですね。


父は母がいないと駄目な人生だったと思うし、多分母も「若い頃よくお父さんの言葉に救われた」と言っているので、仲がいいんでしょうね。


―――
お兄ちゃんが不登校になって、親の会に来て14年、こんなふうに素晴らしい人生だって振り返ることが出来るようになって、これがなによりの大きな財産ですね。ほんとにありがとうございました。(大きな拍手)




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その時になったら、考えればいい


重則さん・淳子さん(2013年5月例会)




重則さん:この春定年退職して、再雇用で民間で働いています。生産物の割り当てのほかに選挙の割り当てもあって。(笑)


淳子さん:今の話で週3日ぐらいだったらいいんですけど、昨日土曜日も仕事だったので、前よりも忙しくて、収入は減って、拘束時間はすごく長くなりました。


重則さん:もうちょっとゆっくりしたいな、畑仕事が出来ないというのがちょっと残念なんです。5月の連休は2日間は休みだったので、畑仕事をずっとやっていて、そのあとはずっと仕事でした。先週の土日は、亡くなった姉のことで長崎に車で行って、翌日からまた仕事でしたので疲れます。


―――
息子さんが中1で不登校になって、下の娘さんが中2で不登校になって、今息子さんは30歳、娘さんはもうすぐ28歳なのね。


息子は11年ぐらい家で過ごして、24歳ぐらいから動き出して、働いています。娘も今生協でアルバイトをして1年経ちました。


―――
先ほどのしずりんさんや皆さんのお話と同じなのね。親が、やっぱり自分のことが辛くなるのね。親の会でその辛さを何度も出してきましたね。


淳子さん:今日も不安のお話だったんですけど、4月に息子が引っ越したときに、家を出てくれてよかったあと思って送り出したんですけど、そのあと「ちょっと体調が悪い、病気かもしれない」と電話がかかってきたら、私は、以前心配していた病気とかいろんなものが、ワーッと押し寄せてきてすごいパニックになってしまいました。


親の会で言われた「どっちに転んでもしめた」なんてそんな事はありえないと、ものすごく心配して(大笑)、自分が今また、こんなに不安が出てくるなんて思っていなかったので、パニックになったんです。


でも、その時夫がすごく冷静で(笑)、息子は「疲れ」からくる体調不良だったらしく、夫は「その時になったら、考えればいい」と言ったんです。私が「すごいね!」と言ったら「何年親の会に通っていると思っているんだ」と言ったんです(笑)。


娘が「お父さんは、お母さんに引っ張られないで、今度は偉いね」と言っていました。(笑)


後で娘に「お母さんはいろいろ心配していたけど、お兄ちゃんや私が本当にそうなったことはないでしょう」と怒られました。娘が今働いていることも、「お母さんは、私が働くとは思っていなかったでしょう」と言われました。


心配し過ぎないようにと思っているんですけど、息子の身体のことが心配で、息子はものすごい努力するんです。休みの日も配達ルートを回ったりしているんです。息子に「80%ぐらいにしなさいよ」と言ったら、「俺の仕事に口出しするな」と言われました(笑)。


ほんとだなと思って、動揺しない自分になりたいと思ったんですけど、なかなか・・・


―――(内沢達):不確実な未来のために現在を犠牲にしない。先のことはわからない。わからない先のことをいくら考えても、不安が増すばかりでいいことは何ひとつない。将来のことは重則さんが言ったように、その時になったら考えればいい。


大事なのは今のこと、今一所懸命になれることがあれば、一所懸命になればいい。「一生」懸命じゃありません。一生じゃ疲れちゃう。今、なれるのであれば、「一所」つまりひとつのところ、ひとつのことに懸命になれれば十分です。

淳子さんが言った「不安が不安を呼ぶ」ということもがある。それは考えようもない「不確実な未来」のことをあれこれ考えるからそうなるんだけど、でも、それも根本的にはそうなっている「今」を認める。「不安が不安を呼んでいる」今を一所懸命認めてあげたらいいんです。


不安になったり、動揺したりするのが人間です。人の気持ちや心は揺れ動くものです。だれかが言っていたけど「心」という漢字は字体からして乱れているものね。


不安を否定しない。不安があれば、不安とともに今を懸命に生きたらいいのだと思います。



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家族が私を救ってくれた



森田 重則 (2011年5月15日、22周年の集い・体験発表)




皆さんこんにちは。
親の会に参加し始めて、この4月で11年目になりました。


内沢さんから体験発表をとの話があったとき、10年前からの会報を自分に関する部分だけ読み返してみました。私の話は、私がいつまでも踏ん切りがつかずに揺れ動いた体験の話です。


私は58歳です。妻と28歳の長男、25歳の長女の4人家族です。
長男は中1で、長女は中2で不登校になりました。
長男は4年ほど前から働き始め、長女は自宅でゆっくりとしております。


自宅は指宿にありますが、転勤で昨年4月から大隅半島にある鹿屋に妻と二人で暮らしております。指宿には子ども達が二人で住んでおり、金曜日の夜に指宿に戻り、日曜日の夜に鹿屋に行く生活をしております。


私の話の中では、徳之島と鹿屋(今も鹿屋に住んでいる)という地名が出て参りますが、それぞれに2回ずつ転勤しており、徳之島には1回目は昭和59年から平成元年までの6年間(この時は家族で)、2回目は平成8年から12年までの5年間、2回目は単身赴任でした。鹿屋は平成13年からの2年、徳之島に引き続いて単身赴任し、今は2回目の鹿屋で夫婦だけの生活を楽しんでおります。 



見て見ぬふり

長男は私が2度目の徳之島に転勤となった時に不登校となりました。


徳之島からは月に一度戻る程度で、中学校から戻ってきた長男が玄関で動けない状態にあるのを、クラブ活動で疲れているのだろうと勘違いし、早くご飯を食べて風呂に入って寝るように言うような始末で、全く息子や妻の状況が見えていない、本当は見ないようにしていた状態でした。本当は学校でいろいろなことがあり、精神的にも肉体的にも疲れ切って帰ってきていたのでしょうが。


徳之島の5年間は妻に任せっきり、息子が荒れる、妻を責める、そういう状態を見て見ぬふり、背を向ける状態で、当然の結果として家に帰っても私の居場所がないし、妻にも心を閉ざし、夫婦間はギクシャク。子どもたちとも向き合おうともしないし、挙げ句の果てには自分自身も見失い、酒におぼれる生活を送り、毎月10万円ぐらいは飲み歩いていました。その頃は長女も不登校となっておりました。


徳之島の5年間では数回親の会に参加したことがありましたが、確か初めて参加した時だったと思います。内沢さんからの質問に、「私はよくNHKラジオで子ども相談の番組を聴いていたので、不登校のことは理解している」と話した覚えがあります。今思えば、あんなことをよく言えたものだと恥ずかしくなりますが。息子が通信制高校をやめた時にも、学歴は必要だ、社会は甘くないと説教したり。


親の会では子どもを変えるのではなく、親自身が変わることを目指しますが、当時の私は「自分が変わらないといけないのは嫌だ」と妻に言い、妻を苦しめていました。そのころは私の中では離婚も選択肢としてありました。


そのような状態で、鹿屋に単身赴任で転勤になるわけですが、妻からは「後はお願いね。今度は任せたからね」と言われるし(妻は今度は一緒に向き合ってねと言いたかった)。


毎週金曜日の夜に指宿に戻り、月曜日の朝早くに鹿屋に行く生活で、息子が荒れて、妻を責める、それも私に聞こえるように責める。もう見て見ぬふりはできず、関わらざるを得ない訳ですが、本当にどうしていいか判らない。


親の会には、①言いなりにならない、②腫れ物扱いしない、③異常視しないの三原則がありますが、三原則の反対のことをし続けていました。


仕事をしている最中も、また何か起こっているのではないかと、ありもしないことを想像し不安を募らせていく、そんな毎日でした。眠れなくなるし、落ち込むはで、睡眠導入剤(ハルシオン)と精神安定剤を服用する状態で、ハルシオンを百粒以上貯めて、何かあれば何時でも自殺できるようにとしていたり、車で走りながらこのまま海に突っ込めば楽だろうなと考えたり。そういう状態でしたので、金曜日の夜は内沢さんのお宅に伺い、話をして元気をもらいながら、指宿に戻る生活を続けました。


長男は今までは妻だけを責めていたのが、段々と私にも言うようになり、俺をこんなにしたのは親のせいだと責められる。落ち込み、おどおどする私。どうしていいか判らない、何か答えないといけないと緊張し、挙げ句の果てに自分は駄目だと自己否定しはじめる始末でした。



家族と一緒に住もう


私は決心して、鹿屋は2年で転勤希望を出しました。
職種が変わることで給料がダウンすることも承知の上でした。


私の職種は通常5年サイクルの異動で、毎週末に自宅に戻る生活が、一緒に住む生活より逃げ道があって楽なので良いのですが、仕事を変えてでも家族と一緒に住む生活を選択しました。


何故なのかと以前聞かれたことがあります。
最初の徳之島は長男が1歳になる前に妻と三人で転勤しました。


長女が生まれて4人で生活。職場の隣に家があったので、夕方はいつも近くの小学校に長男と長女を連れて遊びに行きました。長男は三輪車の後ろにおもちゃのダンプカーをひもで引っ張って、私は娘の手を引いてその三輪車を引っ張る、ウサギに餌をやったり、滑り台で遊んだり、息子はいつも砂場の砂をダンプカーに乗せて、家に持って帰る。妻と四人で近くの海岸でバーベキューをしたり・・・。そういう一日一日の楽しい生活の思い出が私の家族の原風景としてDNAにインプットされていて、家族と住む生活を選択させた、家族が私を救ってくれたのです。


このようなことで、自宅から通勤できる生活をし始めましたが、慣れない仕事で通勤も車で片道一時間はかかる。朝早く出て、夜も遅く帰る生活。息子は不安をいろいろ形を変えて訴えてくるし、妻から相談を受けても都合が悪くなると、二階へ逃げる。妻の後ろに隠れ、妻や息子の顔色をうかがっている。でんと構えておれない。当然ですが、なかなか思い通りにはいかない。息子が不安を訴えるとそれを解消するために、常に小手先の改善策に先走っていました。息子は不安がなくならない限り、いろいろな形で不安を表してくるのが当たり前なのに、それがなかなか判りませんでした。


一緒に住むようになると、私に対しても不安を現してくるのが増えました。今になって思うと、お父さんはまだまだおどおどしているけれど、少しは大丈夫になったかなと思ったのかも知れませんが、そういうことに対しても自分の不安が強く、どうすればいいか判らない連続でありました。息子の顔を常に見て(気を遣っている)、相変わらず腫れ物扱いしていました。同じ不登校している娘にはほとんど気を遣っていないのに・・・(不安を現していないから)。


内沢さんからは夫婦の生活を大事にして、映画を観に行ったり、旅行をしたりしなさいと言われるのですが、それがなかなかできない。映画を観に行っても、何かあるのではないか、携帯に電話がかかってくるのではないかと、どきどきしながら観ている。気持ちは子ども達に向いているわけですから、半分うわの空で内容はあまり覚えていない状態です。内沢さんが子どもを信頼して家を空けることが大事。親の不安が消えた時、子どもは楽になる。そう言われることがなかなか理解できませんでした。



少しずつ気持ちが楽に


でも親の会に通い続けることで少しは変わってきたのか、少しずつ気持ちが楽になってきたのも事実です。


徳之島から鹿屋に転勤した平成13年8月に東京で親の会の全国合宿があり、私は藁をもつかむ思いで内沢さん、木藤さんと参加しました。その時に不登校の子ども達の元気な姿を見て感動しました。


子ども達はおかしくないのだと強く感じ、その後の私が、子ども達と向き合う(半分後ろ向きになりながらではあったが)源になったように感じています。


その後も平成14年に鹿児島であった登校拒否を考える全国合宿のリレートークで長男のことを話しました。しかし、「許可なしに勝手に僕のことを話すな」と責められ動揺する、そういう自分がいやで自己否定する。面と向かって初めて言ってくれたのでうれしかったのですが、子どもの不安に振り回されている、そのことすら気づかない状態でした。


15周年記念誌の原稿のことでは、妻が書いた原稿のことで妻と息子が言い合いになっているのを見て、自分も原稿を書いていながら、息子とトラブルにならないように息子のことに触れないようにして書き直したり。このことでは妻も私にものすごく不満を感じたようでしたし、大波・小波にもまれる連続でした。


今回、会報を読んでみると、息子が妻に「お父さんは僕のことを悩んで元気をなくすのではなくて、もっと自信をもってほしい。僕が安心してぶつかっていけるように」と話しているんですね。


親の会で妻がそのことを話しているはずなんですが、隣に座っていながら全然覚えていない。その当時はほとんど会報を読んでいない状態でしたので、読んでいれば少しでも早く自分が変われたのかな、家族に負担をかけずにすんだのにな、と反省して、会報を読むことの大切さを知らされました。


その後も親の会には通い続けました。楽になりつつはあるが、行きつ戻りつの繰り返しでした。新しく親の会にこられた方々がどんどん変わって行かれるのも見て、どうして我が家だけは長引くのだろうと考えておりました。当然、あせりも・・・。


当時の親の会で「妻の後ろに隠れるのではなく、せめて妻の隣にいたい、妻の港になりたい」と話したことがあるのですが、港になるどころか、横にもいない状態でした。その頃、妻の父親の具合が悪くなったりして、妻も不安が大きくなっていきました。妻が不安になると当然私も不安になり、港どころではありません。親の会に来ておきながら、この部屋に入れなくて引き返したこともありました。


そういう時に、内沢さんから「なぜ森田さんが長引くのか。子どもが自己否定する不安に親も不安を重ね、不安・元気の繰り返し。何故なのか。親が腹をくくれていない。会報をくりかえし読み込みなさい。“人の話は我が話、我が話はみんなの話”です。人の話の中からたくさんの力を得られる」とお叱りを受けました。


正直言ってもう見捨てられたかなとの思いもよぎりましたが、そういう不安を妻が世話人の渡辺さんに話した時に、渡辺さんが「いつでもそばにいるよ」と言って下さった(後で妻に聞いた)。


世話人の方々は決して私たちを見捨てるのではなく、支えて見守ってくれるのだと判り、その後も親の会につながって行くことができました。感謝する次第です。


その時から数ヶ月間の会報では多くのページ数が私たち夫婦のために割いてあり、今が腹のくくり所と伝えてくれておりました。



夫婦ふたりの「今」を大切に


私は子どもを信頼しないで心配していたんですね。
山口さんからは、息子を信頼しなさいよ、との助言もいただきました。


そんなことを経ながら段々と私たちも落ち着き出し、ふたりで霧島に泊まりで山登りに行くなど、夫婦で楽しい時間を過ごせるようになりました。


親の会で話すこともいつのまにか子ども達のことではなく、自分達のことを話すように変わってきていて、すると、いつの間にか長男が動き出していました。


親には黙って車の免許を取りに行ったり、ハローワークで仕事を見つけて働き出しました。達さんが言われる「しないとするようになる」のとおりでした。


息子は今でも不登校していた自分を認め切れてはいませんが、子どもの人生は子どものものです。親が子どもの人生を生きられるわけではないので、それでいいと思っています。娘も自宅におりますので、自分がぶれないようにこれからも親の会に通い続けようと思っています。家族4人で暮らせることがとても幸せです。


夫婦の間には私の姉妹のことなどで波風が立つことがありますが、二人で仲良くこれからも生きていきたい。このゴールデンウイークも内沢ご夫妻のようには遠くの山とはいきませんが、手近な近くの山に登ったり、日課になっている夕方の散歩ではわらびやタケノコを採ってきたりと、夫婦の時間を大切に少しずつワクワクを楽しんでおります。以前は朝早くから夜遅くまで仕事、仕事でしたので夢のようです。


内沢さんが親の会で「人の話は我が話」と言われます。世話人の皆さんは苦労して例会のテープ起こしをされて、会報を発行されます。会報を読み込んで自分の血肉にする。その大切さを今回の体験発表のお話をいただいた中で思い知らされました。今後も親の会には通い続けます。世話人の皆様の後ろには多くの親がおります。今後ともどうかお元気で、私たちを見守ってください。


これで私の体験発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。





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初出:2025.1.21 最終更新: 2025.1.21
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)ホームページ