登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2010年1月発行ニュースより



体験談

2010年1月発行ニュース
登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)
会報NO.162より

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)では、
例会の様子をニュース(会報)として、毎月1回発行しています。
その中から4〜5分の1程度をHPに載せています。


体験談(親の会ニュース)目次はこちら



自分が真っ先に幸せになる!


2009年12月例会報告(抄)



2010年、今年もひとりぼっちにならずに、親の会で支えあっていきましょう。
喜びや感動は2倍に、悲しみや不安は半分にしていきましょう。

昨年最後の12月例会も感動をたくさんもらいました。
Kさんは一昨年7月から例会に参加しています。5年間会わなかった娘さんと少しですが話もできるようになってきました。転勤先の離島からこの春もどってきますが、娘さんとの同居を考えているかお尋ねしました。「僕は家に帰ってみたいんです。そうしたら娘の本音が聞けるんではないかと思うんです。ちゃんと僕も当事者になれるかなと思うんです」。Kさんのこの話に心から感動しました

Tさんは、3人の子どもさんが不登校です。昨年はとてもショックで、「落ち込んでいたときは泣いてばかりで家のなかが冷えきっていた。今は私が笑うと子どもたちも笑います。こういうのが幸せなのかなと思います。親の会に出会わなかったらいつまでも寒かったかもしれません」と。

Hさんは3回目の参加です。「HPを隅々まで読んだんです。まずは自分が楽になることなんだと発見しました」「すごく楽になって泣かなくなりました」。KMさんは辛い気持ちを訴えて、森田さんやSさんから暖かいエールもありました。

内沢達は、フランスの哲学者・アランの『幸福論』のなかから、「われわれが自分を(が)愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである」という言葉を紹介しました。自分を一番大切にする、まず自分が真っ先に幸せになる。それがわが子への一番の応援でもあるのではないでしょうか。

みなさんの話はひとつひとつが宝石箱のように教訓と感動がいっぱいちりばめられていました。支えあえる仲間がいる。とても大きな財産を毎月もらっているのですね。





目次



辛かったときもわが子の可愛さを発見できて   Sさん
最愛の人にわかってほしいから、子どもは止めないんです    内沢 達
私が笑うとみんなが笑い、私がちょっかいを出すとみんながじゃれあって  Tさん
無条件に愛し、全肯定する愛犬・・・    永田さん
今までも、今もずっと幸せです    重則さん 淳子さん
まずは自分が楽になることなんだな!   Hさん





辛かったときもわが子の可愛さを発見できて
   S さん



―――(強迫行動のわが子に毎日振り回されて・・・と訴えるM子さんに)
先月の例会で、Sさんは息子さんがすごく暴力で荒れていたときに、「辛くて苦しいときほど、子どもが小さかったときの写真を持ち歩いて、こんな可愛い子だったんだと思うようにしていました」と、とてもいいことを言われましたね。強迫か家庭内暴力かの違いだけで、Sさんのところでも辛さをあらわしていたのは皆さんと同じなのね。


(母):その時は可愛くないというより怖かったという気持ちでしたね。
小さいときに比べたら別人になったみたいな感じで、「あんな可愛かった子が、こんなふうに変わってしまうのかなあ」という感じで、怖いという感じでした。


―――
M子さんは、「Sさんはそんな時子どものことを可愛くないなんて思わないのかしら、可愛くないと思う私は特別なのかしら」と言われましたね。(笑)


その時に小さいときの子どもの作文を見たり写真を見たりしました。
小学1年生の文集に開聞岳に親子4人で登ったときのことが書いてありました。私は歩くのが遅く、夫や子ども達はさっさと登っていった時に、小さい息子が引き返してきて「お母さん大丈夫」と言って私の手を引っ張ってくれたことを作文に書いていたんです。
「ああ、こんなことをしてくれたなあ、こういう子だったなあ」といつも頭にほんとは優しい子なんだと思っていました。


―――
そういうSさんだって「うちはもう駄目なんです。うちは家庭崩壊です。絶対うまくいかないんです、みなさんと違うんです」と言われたこともありましたね。


どうしようもないと何度も思いました。
私の人生はこういうはずじゃなかった、もう順調に行くものと思っていました。
でもそういう中でも、私たちの出勤前に息子が私と夫の免許証を取り上げたことがあって、時間もなく今出かけなかったら必ず遅刻するなあと思ったとき、時間ぎりぎりに免許証が戻ってましたから、そういうところは「可愛いなあ。やっぱり子どもだな」と思ったり、本人は辛いんだなと思ったりしましたし、怖い時期でもちょこちょこ可愛いところを見せていました。

私たち夫婦が息子が怖くて家に帰れないときも、ケイタイに息子から「ホカ弁のあれとこれ買ってきて」と電話が掛かってくるんです。そういう時は逆にホッとしていました。ずっと荒れていたんじゃなくて、ホッとしてまた荒れて、を繰り返していました。

こういうことがずっと続くんだろうなと思っていた時期もあったんですけど、この親の会でもいつも言われていたように、子どもを変えようと思わないで自分が幸せに楽になるように、子どもから離れて自分のことをすることが解決なんだなと思いました。
親が手助けしたって、それは解決につながらないわけですから、子どもの解決する力を信じることだな、子どもはちゃんと自分のことを考えているわけで、子どものなかに解決する力はあるんだなと今になって思います。
子どもはやっぱりたくましいんだなと思いました。


―――
お父さんも怖いと思ったでしょう。


(父):はい、ほとんど怖さですね。
(―――
怖いと言いなりになってしまう) そうですね。常にビクビクでしたから。職場にもよく電話が掛かってきていましたから、仕事もできないということが何回もありましたね。 
(―――
出口が見えなくなったことも何度もあって)その時は、先は何も見えない状態ですよね。

(母):一番ピークだと思ったのは、平成9年(1997年)でした。
夫が息子に面と向かって「おまえの言いなりにはならないよ」と言って、それから1ヵ月後に私の母が倒れて、私は地方にいる両親の看護をしながらでしたから、子どもどころではなかったです。田舎に行ったりきたりで家も大変だけれど、気持ちは子どもより母の方に向いている時期がありました。内沢さんに「それが幸いしましたね」と言われたことがあって、気持ちが子どもの方に行くんじゃなくて、自分のことをすることはよかったのかなと思いました。

平成9年の1月6日か7日に対峙して、それから半年後の7月、団地の夏祭りの頃にもう一回言い争いがあって、息子は「俺は昔に戻りたい」と泣いて訴えて気持ちがとけ合っていったんですね。その6ヶ月間が一番きつかったですね。 


―――
家の中がめちゃくちゃになった時は?


平気じゃなかったです。(笑) タンスは倒れて、その間に寝たりとか、たんすにも傷が付いたりして、これを片付けるべきなのかどうか、右足を出すべきかどうかその程度でも迷っていました。(笑) 
気持ち的にもにっちもさっちもいかない状態で、自分達がどういう態度をとればいいのか迷っていましたから。


―――
くれぐれも「子どもを変えようと思わないで、自分達が変わっていけば、必ず道は開けて行くよ」ということですね。M子さん、毎月親の会にいらしてね。そしたら必ず道は開けていくから。
Sさんも5年間の休憩を含めていっぱい長い時間をかけて、それがとっても大切な時間だったんですよね。そうやって、ほんとにこんなに親孝行で素敵な息子だったんだと信じ続けていかれたのよね。
だからM子さんも、娘さんはこんなに優しくて、自分のことを大事にする子だったんだなと分かっていく日が来ると思うのね。






最愛の人にわかってほしいから、子どもは止めないんです

内沢 達




子どもはどうして親に反抗するのか? 親を困らせるようなことを繰り返し繰り返しするのか?  Mさんの娘さんであれ誰であれ、ひまで時間をもてあましているときは、家族をまき込んでしまうんです。そういうときは、他の人がしてほしくないことをするものです。

娘さんは、今でこそほこりやちりが気になって掃除機をかけまくっているけど、前は食べ物じゃなかったですか。この食べ物でないと、このサプリでないと自分は食べない!ということにこだわりがありましたよね。今はそれはないでしょう (
そっちの方より今はちりの方が気になるようです)。

だから、時間はたっぷりあるし、お母さんが目の前にいるし、しかも優しいお母さんだと絡みがいもあるんです。お母さんは身体が強くないことは知っていても、自分が絡んだくらいでは倒れないと思っているのね。だから、最愛のお母さんを心配させたり困らせるようなことをするんです。

それは娘さんにかぎりません。一昨年(2008年)9月の例会で愛美さんが話してくれました。そのときのことを僕は膨らませて翌月「とても辛いことだってじつは明るい」とまとめています。我々のまわりには表面だけしか見なかったら、「これはなんて大変なんだ!」というようなことが少なくないんだけど、それはただ「とても辛い」話じゃないのね。じつは「明るい」話でもあるわけです。

愛美さんの場合は、拒食・過食だったけど、やっぱり辛かったんだから、表面しか見ない人は「だったら早く止めればよかったのに」と思うでしょうけど、愛美さんは違って「治りたくなかった」と言ったわけです。
父親の良ちゃんは早くに親の会と出会って「娘はどこもおかしくない」と思えるようになったけど、その良ちゃんだって、もし愛美さんがさっさと拒食・過食を止めていたら、これは最初に考えたように「やっぱり娘の問題だった」としか思えなかったんじゃないかな。

子どもは無意識なんだけど、親に、最愛の人にこそわかってほしいから、止めないんです。わかってほしいのなら、素直にその気持ちを言えばいいのに、絶対に言いませんね。これも法則的です。言わないで、親を困らせ心配させるようなことをするんです。

だから、Mさんの娘さんだけがそうだったら考えなきゃいけないけれど、違うでしょう。みんなそうなんです。「それにしても私の娘は特別にたいへん、特別にしつこい!」というのであれば、それは、それだけMさんが頼りにされているということです。娘さんがMさんを頼りにならない、自分のことをわかってくれない母親だと思っているのであれば、そんなことはしません。「お母さんだったら私のことをわかってくれる」という思いがとても強いからこそ、M子さんを困らせるんです。


口のききかたにしたってそうです。言葉はとっても大事なものですが、もう一面口先から出た言葉が本当とはかぎりません。口から出た言葉を真に受けてはいけないことが少なくありません。

時々例としてあげていますし、また書いてもいますが、うちの娘が父親の僕に「お父さん、ありがとう」と言ってくれたのはなんと25歳にもなる前月の例会のときが初めてです。じゃあ、それまで言ってもらえなかったのだから、25年間僕は父親として認められていなかったというと、もちろんそうではありません。かつて娘から「くそジジイ!」とか「このデブ死ね!」とか言われていたときも含めて、僕は十分に認められていました。

トモちゃんと夫婦喧嘩は最近ほとんどしませんが、若かったときはよくしました。そのとき僕は勢いで「お前なんか(家から)出て行け!」と言ったものです。その気持ちはまったくのウソではなく、そう言いたいくらい瞬時は憎たらしかったのは間違いありません(笑)。でも、少し時間をおけばどう考えても、それは僕が本当に思っていることではありません。そう思っていないどころか、反対にもっと気持ちを通わせてやっていきたいと思っているんですね。その思いや期待が強く大きければ大きいほど、逆に、ひどい言葉になってしまったという面があります。つまり、そう思っていないからこそ口から出てしまう言葉です。これ、ホントです(笑)。

だから、子どもの場合も同じです。娘さんの言葉を額面通りにとってはダメでしょう。
娘さんが言えば言うほど、じつは違うんだ、本当の気持ちは反対のところにあるんだといった受けとめ方が必要です。人間は大変なときに、大変だからこそ、反対の気持ちの現わし方をすることが少なくありません。

娘さんは自分のことを「私はとっても辛い!」と言うでしょう。それに対して、Mさんが「辛いのはあなただけではない」と諭そうとしたってダメなんです。「お母さんや弟も大変だね」と言わないからと言って、そう思っていないわけじゃないんです。じつは、言わなくたってそう思っています。では、これは、そう思っていたらいいのではなく、反対です。これは、自分は「お母さんや弟」までも大変にしている「ダメな人間だ!」「だから辛い!」とめぐってくるわけですから。もし、娘さんがMさんが期待した言葉を口にまでするようになったら、むしろ自己否定を強めた結果でよいことではないんです。

そうではなく、いま現在のように「お母さんは勝手だ! 私のことをわかってくれない! ダメお母さんだ!」といわれている状態のほうがじつはいいんです。それだけMさんが期待されている、頼られているということです。娘さんの発する言葉にごまかされない。娘さんの言葉を真に受けちゃだめです。娘さんが口にしたこととは逆なんだなあということです。

HPの記事「とても辛いことだってじつは明るい」もあらためてご覧になってください。





私が笑うとみんなが笑い、
私がちょっかいを出すとみんながじゃれあって


Tさん
(母)




18歳の長男はバイクの免許を取りたいと、自分で手続きをして自動車学校に行っていましたが、3日前に止めました。気持ちがあってもなかなか出来ないのだなと思って放っておきました。

2番目の長女は無理して高校に行っている状態で、私は何回も娘に「中学のとき行けなくて辛かったときのことを思い出してさらに辛いから、もう行かなくてもいいんじゃないの」と言ったら、「自分のブログにいろんなことを書くと、そこでいろいろ交流があるの。頑張っているのに、お母さんもどうして頑張って!と応援してくれないの」と言われて、「頑張れとは言えないけど、いつでも辞めていいからね。お金はかかるけどやれるところまでやってみたら」と言いました。

3番目の中1の次男は、以前は姉に引っ張られて学校に行っていましたが、その後行かなくなりました。しかし、中学にスクールカウンセラーのおばあちゃん先生が火、木に来ていて、長女から「私がお世話になったから、あんたもその先生のところに行きなさい」と言われて、そのカウンセラーは折り紙や、昔の話や、昔の遊びをするらしく、「教室に入らなくて、これだったら遊びだから僕も行ける」と息子は行っているんです。でも誰にも会わないようにパーッと行ってパーッと帰って来ます。本当はそんなことのために息子はわざわざ制服を着て行きたくないんだと思うんです。


―――
無理して行っているお姉ちゃんだから弟に言うのね。


はい。娘からすると、弟が家の中でダラッとゲームしている姿を見ると、カチンとくるらしくて、私は娘に「だからあなたも行かなくてもいいじゃないの」と言ってるんですが、「いや私は行く」と言うんです。


―――
あなたのお気持ちが以前とずいぶん変わって不安がなくなってきましたね。


私は今年はどん底を味わいました。長男が行かなくなったのはとてもショックでしたが、2番目の娘と3番目の息子は行ってくれるだろうと思っていたんです。私の母が娘は気が弱いから行かなくなるかもと言っても、まさか、と思っていましたが、案の定行かなくなって。

3番目は家ではとっても明るい子なんです。でも、外に出るとそんな明るさは全く見えず、無口になって顔が引きつるというか、そのとき私はアレッと思って、だから学校に行けないのかなと思ったんです。3番目が行かなくなって私はすごくショックでした。
でももう行きたくないと訴えてきたし、このまま行かせると明るいすごくいい性格がゆがんでしまうかも、ただ学校に行けないだけで他は何も問題はないと思うようになりました。


―――
そんなふうに考えられるようになってえらいね。


一時期死にたいと思うぐらいでしたが、だいぶ時間が経ってきたら分かるようになってきました。別居中の夫から「夫婦間がうまくいってないのに、子ども達だけうまくいくはずがないし、よその夫婦に預けたらうまく育ったのに」と責められて。(―――
その夫婦のかたわれはあなたでしょう、とね)はい、私だけが悪者になってしまって・・・。


―――
今考えたらおかしいなと思って(はい) 、今は夫婦関係はどうですか。


離れて暮らしているので、私の気持ちがすごく楽になりました。


―――
問題のお金の面ではどうなの。


お金は一切出さないことにしているのですが、たまに行き付けのパチンコ屋をのぞくと夫がいて、そのお金はレジから持ち出しているんです。パチンコは夫の病気みたいなものですから、そのことで店のお金が不足して、何か言ってきたら、そのときは店を閉めようと覚悟しています。

母は私たちのためにお金を出そうとしたのですが、「それはダメだよ。大事なお金だからね」と言って断りました。このまま続けていたらいつかそういうときが来ると思います。


―――
そのときはもうあなたは店を閉め、離婚する覚悟なんですね。


そうですね。母は何度も私たちのために立て替えてくれたのですが、そういうことが一番悪いケースで、もうなおらないし、また出してくれると思っていつまでも繰り返していく、とTVでも報道していました。


―――
でも、それに気がついて腹をくくってやっていくと、人間は強くなるんだよね。


以前は自分を否定していましたが、後ろばっかり見ていたらきりがないし、今はこれから先のことを考えないといけないと思うようになりました。
最近下の子が「お祖母ちゃんやお父さんが死んで、お母さんが死んだら、お葬式はどうやってしたらいいの」(笑)「僕たちは分からないからね」と変な事を言うんですよね。

私が「そこらに置いたら死臭がするからだめだよ」(大笑)、「あなたたちがおじさんになってるから大丈夫だよ、今からそんなこと言わなくてもいいよ」と言って(笑)。子どもは子どもなりにいろんなことを考えているんですね。


―――
あなたは以前みたいに2つの仕事を掛け持ちして、3つめの仕事も探す、そんなふうに思わなくなったの。(そうですね。今はだいぶ楽になりました)もう、子ども達に感謝ですね(はい)。 先月は長男さんが「お母さん、茶碗を僕が洗ってあげる」とやってくれたのね。


茶碗洗いはあの時だけだったけど、気持ちが嬉しかったですね。
今は長男のほうから「おはよう」と言ってくれて、些細なことなんですが何もかも少しずつ良い方向に向かっているんじゃないかと思えて、ちょっとのことが嬉しかったりします。


―――
自分の気持ちが安心していくと子ども達の優しさも発見できていきますね。娘さんのこともあなたが安心して行けば大丈夫ですよ。


はい。娘は体は大きいのに今でも「ぎゅっとして」と言うので、抱きしめてやると落ち着くようです。3番目の男の子も中1で私より大きいのに、私と一緒にお風呂に入っているんです(笑)。 不思議です。まだかわいいです。


―――
あなたは初めて参加された時からどのくらい経ちますか。最初ちょっと参加して、昨年1月からまた参加されるようになって。そのときは夫がパチンコでものすごく借金を作って、子ども達は学校に行かなくて、長男さんが薬を飲んだり、あなたのお気持ちは不安でいっぱいでしたね。

親の会に参加していくと、あなたの気持ちが穏やかになってきました。
「しあわせは自分の心がきめる」。相田みつをさんです。いい言葉ですね。自分が子ども達の不登校は大丈夫なんだと安心していけば、自分にも自信がついてきて、子どもたちも信頼できるようになる。すると、いっそう自分を大切にできるようになるのですね。

自分にとって大切なものが見えてきて、すごく幸せなんだと気がついてこられましたね。



落ち込んでいたときは泣いてばかりいて、家の中は冷え切っていました。今は私が笑うとみんなが笑い、私がちょっかいを出すとみんながじゃれあってくるから、こういうのが幸せなのかなと思います。親の会に出会わなかったらいつまでも寒かったかもしれません。(笑)






無条件に愛し、全肯定する愛犬・・・    永田さん(母)



現在19歳の息子が高1の10月からぼちぼち行かなくなって、11月からまったく行かなくなって高1が終わる3月に退学しました。私はその頃は親の会の存在も知らずに半年間はどうやったら学校に行くようになるか、ということばかりを暗く暗く考えていました。
その後5月にこの会を知り、それから3年が経ちます。

―――
先日可愛がっていたワンちゃんが亡くなってね。

とてもとてもかわいそうでした。庭で飼っている雑種でもうすぐ12歳でした。亡くなる前は家の中で飼い(―――
ああ、座敷犬になって) はい。
おしっこのときは合図をするので、夜息子が犬のそばでずっと寝ていました。
最後まで息子が面倒を看てくれて、みんな悲しかったんですが、息子の落胆振りは大きかったです。

亡くなる前は毎日病院へ連れて行って検査や点滴を10日間続けて、何万もかかり、「お母さんはお金が続かないかも」と言ったら、「俺の金を出す」と息子が言ってくれ、なけなしの6万円をパッと持ってきて、私は「全部貰うわけにはいかなから2万円貰っておくね」と(大笑)。 息子がよく世話してくれたので、私は「あなたが家にいてよかった」と言いました。私たち夫婦だけではこれだけのことはとても出来ないですから。

その亡骸は鹿大の農学部の動物病院にお願いしました。ダンボールに入れて、息子が自分のジャンバーをかけてやり、夫が子ども達の記念樹の花を取ってきて入れ、決められた場所に置きました。係りの人から「ゆっくりお別れしていいですよ」と言われたらまたダンボールを開けて、犬の頭をなでて、小さな声で息子が「ありがとう、頑張るからな」と言ったのを私は聞き逃さなかったです(大笑)。

でもその後は今までと変わりなく過ごしています。亡骸を預けたその日は夫は仕事で、息子とふたりでした。帰りに息子を誘って昔ぺロと行った八重山公園に行き、ああだったね、こうだったね、と昔を思い出しました。

息子が「お別れをしたらとても悲しくなると思ったら、なんか傍にいるような気がするし、ペロのことを思い出すときはちっとも嫌なことがない」と言いました。金曜日に火葬した灰を慰霊碑に撒くと聞いたので、その日にまた夫と3人で行ってお花を手向けてきたら、ちょっと落ち着きました。


―――
あなたの掲示板の書き込みはとても感動しました。


三日前に我が家の愛犬ぺロが亡くなりました(涙)
12歳の誕生日目前だったのですが・・・
直美さんの娘さんの「あたりまえだと思う幸せな日々の奇跡」という言葉をあらためてかみしめています。

ずっと外犬だったのですが、亡くなる前二十日間ほどは座敷犬になり、家族みんなで祈り続けてきました。息子が献身的に看てくれました。

犬は私たちに「がんばって」も「元気をだして」も「そんなんじゃだめだ」も、もちろん言いません。
ただ静かにそっと寄り添ってくれます。
無条件に愛されることの安心感、全肯定してもらえることの心地よさ・・ぺロは黙って教えてくれました。
ぺロに贈る言葉は、ただただ「ありがとう」です。

(HP掲示板よりNo.1113 - 2009/12/09)



私たちにとってはとても大事な愛犬でした。今離れている娘が欲しいと言って飼い始めた犬だったので、娘にこうだったと報告したら、息子に「最後まで傍にいてくれてありがとう。姉ちゃんには出来なかったことです」とメールが来て、息子も嬉しかったんじゃないかと思います。


―――
息子さんが家にいることはもう安心しているんですね。


そうですね。そんなに胸がざわつかなくなって、当たり前という感じです。
家で何をしてるというわけではないんですが、頭の中は息子のことで百パーセントということはなくなりました。





今までも、今もずっと幸せです    重則さん 淳子さん



(いま離島に単身赴任中のKさんがこの春に帰ってくるという話を受けて・・・)

重則さん:息子は今26歳です。中1から不登校になりましたので、親の会に参加して14年になります。私も徳之島に単身赴任している時は当事者ではなかったんです。見て見ぬふりをしていました。

それが鹿屋に転勤の時に妻から「これからはあなたにお願いね」と言われたんです(笑) 。実際、鹿屋から指宿には毎週帰るので、正直逃げられません。当事者になったわけです。いろいろありましたけど、いろいろあったからこそ、今があるんだと思います。


―――
絶望的になったこともありましたね。


鹿屋からの帰り、このまままっすぐ走ると海の中だなと思いながら車を運転することが何度もありましたし、鹿屋からの帰りによく内沢さんのお宅を訪ねていました。


―――
親の会で重則さんは、「僕は淳子の港になる」とおっしゃったことがありましたね。いい言葉でした。あの時淳子さんはとても不安になっていましたものね。そういう時は自分の不安にかまっている暇はなかったでしょう。


5年ぐらい前のことですね。あの時は自分がしっかりしないといけないと思っていましたね。そういうこともありましたが、でも大丈夫ですよ、なんとかなって行くものです。
Kさんがやってみたいと言われるのは、ずっと親の会に来られているからだと思うんです。奥さんもこの第3日曜日に時間を作って参加して、それを積み重ねて来ると、気持ちが変わってくると思うんです。


―――
そうですね。きっと親の会に来るとたくさん発見すると思うんです。誰だって、辛いことややりたくないことを強いられると、どんなに辛抱強い人だってイライラしたり、元気をなくしていきますね。それが当り前です。淳子さんも不安は今はなくなって?


淳子さん:今もけっこういろんな不安はあります(笑)。でもあの頃は息子が死ぬ死ぬと言って、いろんなことが不安でしたね。我が家は特別なんだと思っていましたから(笑)。
後になって私は「息子が言っていることと思っていることは違うんだ」と気がついてきました。ここで何度同じことを言われてもそのことが分からなくて、やっぱり自分で発見しないと自分のものにならないんだなと思いました。

この前も息子から「家を出て行くとか、言っている時はなにもしないよ。本当にするときは黙ってするから心配しないで」と言われたんです(笑)。でも考えてみたら、自動車学校に行った時も仕事に行くときも全部事後報告だったので、自分で決めていくんだなと思うようになりました。


―――
淳子さんが大変だった時は、親の会に来ても家に帰って寝込むほど疲れてしまっていたのね。


はい。いくらみんな一緒だよと言われても、自分の家は違うんだと思って。だって自分しか本当の子どものことを知らないんだから、内沢さんがいくら一緒と言ったって、うちは違うんだ、私が一番わかっていると思っていました。

そして、帰ってから私は買ってきたものを這うようにして冷蔵庫にしまっているのに、夫は私を気遣うより長崎のお姉さんに電話をしていたんです。それが嫌でたまりませんでした(笑)。


―――
息子さんが死ぬと言うことが本当なんじゃないかととても不安になって、親の会に来ても寝込むほどになっていたのね。じつはその時に息子さんから「お母さんは親の会から帰ってきても寝込むほどにへとへとなんだ」と電話があったんです。

M子さんの娘さんと同じなんですね。お母さんに対して困らせる気持ちはないんですね。だけどもああ言えばこう言うと、どんどん言って来る。口ではわーっと言っているけれど、私に電話をしてくる息子さんは本当はすごくお母さんのことを心配している。ほんとうにお母さんのことが大好きなんだなと思いましたね。

M子さんの娘さんもお母さんのことが大好きなんですね。





まずは自分が楽になることなんだな!  Hさん
(母)



―――
先月は親の会の後、学校からの呼び出しがあると言われていましたね。


中1の娘が不登校で今回3回目の参加です。初めて参加した時は自分が思っているのとはちょっと違うというのがあって、2回目の時は葛藤しながら参加したんです。でもお話を聞いて、ああ来てよかったなと思いながら帰りました。

これまでHPをちゃんとは見ていなくて、さらっと読んでいたんですが、翌日娘が寝ている横でHPを隅々まで読んだんです。それで、ああそうか、まずは自分が楽になることなんだと思いました。

前回参加した時に、学校の呼び出しにも自分が行きたいんだったら行っていいけれど、断ってもいいんだよ、と聞いていたので、担任に「今日は遠慮させて下さい。今の私の精神状態で先生方に囲まれて話をする気力がありません」と言ったら、担任から「えっ、それはどうしてですか」と言われて、「自分の娘が学校に行けなくなって、いろいろ心配もしましたし・・」と応えると、「ああ、そうなんですか」と言われて。

結局学校というのは保健室登校とか、違う部屋にとか学校の都合で提案するだけで、こっちの気持ちなんて何も考えてくれていないんだなと思いました。

先月頂いた「求めない」「心配しないで信頼する」という資料も心に響いていたのでよかったです。

私も先程のお母さんのように子どもを自分の枠の中に入れようと育ててきたんです。それでうまくいかなかったら自分が怒ったり、泣いたりしていました。でも今回学校に行けなくなっていろいろ考えたことで、多分前みたいに閉じ込めようとしていたら、それはきっと体にもよくないことで、それを気づかせてくれたんだ、よかったと思いました。

ここ1ヶ月そんな風に思えるようになって、すごく楽になって泣かなくなりました。私は娘が9月に行かなくなって、10月にはここに来ていたので、早くに親の会に出会えてラッキーだったんだと思いました。


―――
あなたの気持ちが楽になってよかったですね。HPを読んでいろいろなことに気づいて下さったのね。



このページの一番上に戻る ↑


体験談(親の会ニュース)目次へ→


2009年11月発行ニュースはこちら→
    TOPページへ→    2009年12月発行ニュースはこちら→



Last updated: 2010.2.26
Copyright (C) 2002-2010 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)