登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


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「子どもの人権を守る鹿児島県連絡会ニュース」第51号(2000年5月29日発行)より



専門家を頼るのはやめよう

    
─ バスジャック事件の背景を考える ─
                                         内沢 達



 
連休中のバスジャック殺人事件のことで、その後新聞やテレビに精神科医の町沢静夫氏(立教大学教授)が度々登場しています。
 氏は母親が再三助けを求めていたにもかかわらず、病院や警察が耳を貸さなかったと批判しています。


 町沢医師の口添えで少年の保護入院が実現しました。氏のこの対応には問題がなかったのでしょうか。
 少年は入院を強制されたとき、母親に「おぼえていろよ。ただではおかないからな」と言ったといいます。


 少年にとって意にそまない入院は凶行を助長するものであっても、それを押しとどめるものではなかったことは確かではないでしょうか。
 二月末には包丁やナイフを買いそろえたり、犯行声明文らしきものを書いていたということと、実際におこなうことは別です。


 自身、入院の必要などまったく感じなかった少年が、なんの説明もなければ同意もなしに、警察から何人か係員まで動員されて、力ずくで入院させられたのですから、親はもちろんのこと、広く人間や社会一般に対する不信も極限に達して「何でもしてやる!」と思うようになったとしても不思議ではないでしょう。


 もっとも、思うようになったということと実際に人を殺すことは、依然として別ものではあります。
 ところで動機を含めて事件それ自体については、私たちはあまり確かなことを言えません。
 けれども事件の背景のひとつについては言い得ますし、また言わなくてはならないようにも思います。


 それは不登校のことです。
 他の事件でも少年が不登校であったことが度々報じられ、まったく間違った認識なのですが、不登校だと何かをしでかすかのような受けとめ方が少なからずあるからです。



 不登校を肯定できなかったことが背景


 私たち鹿児島の親・市民の会の経験からも明らかなように、子どもの不登校自体にはじつは何も問題はありません(まだの方は、私たちの会の十周年記念誌「登校拒否は明るい時代の前ぶれ」を是非ご覧ください)。


 問題は、不登校を否定的にしか見ることができない大人や社会、これを直そうなどと考える親や教師、また治療の対象にする専門家のほうにあるというのが私たちの考え方です。
 今回の事件も背景の一つは、不登校自体にではなく、それを肯定できなかったことにありました。


 この少年の不登校は高校に進んでからのようですが、いじめがあったので中学時代も気分は間違いなく不登校でしょう。
 けれどもそのことが親から認められた気配がまったくありません。親はいじめのことで再三担任に訴えることがあっても、「いじめが続く学校には行かないで、家でゆっくり休もうよ」とは言っていないでしょう。


 保護入院後、少年が退院を求めたことに対して、「退院させないで欲しい」と提出された両親の意見書には、「中三の夏頃から、いままでの性格が一変したかのように」と少年に対するマイナス評価が列挙されていきます。


 その最初は、「勉強に対する意欲の喪失」です。以前からいじめなどもあって苦しかったろうに、親の目はそこに向かずに、勉強をしなくなったことが一番の重大事だったのです。
 そして「ことばの暴力」「物を投げたりこわしたり、ときに家庭内暴力までに」およんだと続いていきます。


 家庭内暴力については、後ろで「ぎりぎりのところで因縁をつけたり」「脅迫したり」といったことも記されているので、高校入学後不登校になってからのほうが激しかったと推測されますが、この家庭内暴力とてじつは否定的にのみ、見てはいけません。


 家庭内暴力について鹿児島の親の会には、いくつか貴重な経験があります。家庭内暴力は親にとって、ときに地獄のような毎日で、確かにとても辛いことです。


 しかし、誰よりも辛いのは子ども自身です。
 うわべとは違って、子どもは自分を一番責めています。
 しなければいけないと思っていてもすることができない。
 また、今度こそ止めなければと思ってもまた繰り返してしまう。そういった自分を許せない、認めることができない自己否定が根本にあります。


 家庭内暴力は子どもがおかしくなった結果でもなければ、異常心理の現れといったものでもありません。じつにありふれた、無意識的な「僕(私)の辛さ、苦しさをわかってほしい」という訴えです。だから嘆かずに、親が子どもの辛さ、苦しさを受けとめる絶好のチャンスでもあるのです。


 この暴力は文字通り「家庭内」に限られています。バスジャックの少年だって、両親が意見書に記しているように「家族に対してのみの行動」でした。よそ様に迷惑をかけてはいませんので、世間体は気にしないように。大事なのは「もの」ではなく、もちろん人間で、わが子です。


 身体への直接的な暴力はさせないようにしなければなりませんが、避けられそうにないときは打たれるにまかせてはいけません。それは子ども自身の傷をも大きくします。


 どうしようもないときは夫婦いっしょに家を飛び出してかまいません。
 いや飛び出すべきです。後が心配ですか? たぶん大丈夫です。


 わが子を信じることです
 ものを壊すことなどはたいしたことではありません。
 後からどうにでも修復したりすることもできます。



 わが子を信じ切る


 とは言うものの暴力は誰だって怖いし、やはり不安がないと言えばうそになります。けれども、ここはふんばりどころです。子どもの辛さや苦しさを受けとめることができるのは親をおいて他にいません。息子、娘がかわいい、いとおしいと思えるのも親だけです。


 まず、この気持ちがあればできます。そして、不登校を否定的に見ないことを大前提として、この子はどこもおかしくはないし悪くもないと思えるようになれば、あとは時間の問題です。


 ただしその時間は相手があることですし、以前子どもを苦しめた時間が長ければ長いほど、相当の覚悟が必要です。
 しかし、どんなに時間がかかっても、親がわが子を信じ切って向きあうならば、暴力から逃げても訴えから逃げなければ、必ず気持ちが通じあうようになると言い切ることができます。


 それは、私たち鹿児島の親の会の経験、実績にもとづいた確信のようなものです。わが子を根本的なところで信頼しきった、親にしかできない対応です。


 バスジャックの少年の両親には、そのような対応はもちろんのこと発想さえなかったことでしょう。それというのも、出発点において両親が少年の状態を否定的にしかみることができなかったからです。


 少年の両親に限りませんが、不登校の子どもにとってはごくごくありふれた、何も問題がない「昼夜逆転の生活」もおかしなものとしか目に映りません。
 また、十分に意味のある「引きこもり」についても否定の対象でしかなくなってしまいます。そして、少年の両親の場合、親にしかできない受けとめ方や対応をしないで専門家と言われる人たちを頼っていくことになります。


 意見書には、「精神科、児童相談所、教育センターなどあらゆる施設を手分けして相談にまわり」、やがて「一人の臨床心理の先生」と出会い、両親は月一回のカウンセリングを受けるようになったが、「本人に受けさせる段階までにはもっていける状態にはなりませんでした」とあります。


 その「先生」の助言はどういうものだったのでしょうか。
 たとえば、頻繁になっていた名古屋、大阪方面の日帰りドライブのことはどうでしょう。私たちの考え方では、これはきっぱりと拒絶しなければいけないことです。


 両親においては、当然にも暴力などで脅迫されていたことでしょうし、もちろん簡単なことではなかったでしょうが、私たちの親の会の経験からはそうなります。
 子どもの「要求」を拒絶すれば、いっときは暴力もさらにエスカレートし、じつに大変なのですが、子どもに親の本気や姿勢を伝え、わかってもらう、重要なきっかけになります。


 子どもがつきつける無理難題は、親を困らせようとしているのが主であって、じつはそのこと自体を子どもが本当のところ欲しているわけではありません。無意識的に親を試しています。



 無理難題は拒絶すること
 子どもをさらに苦しめることはしない



 子どもに「荒れ」が目立っているとき、親はどうしたらよいのでしょうか。
考え方や対応の仕方でとくに大切なことは、次の三つです。


 第一は、子どもの言動などを異常視しないことです。
 第二は、子どもの奴隷にならないことです
 第三は、腫れ物にさわるような、あるいはガラス細工を扱うような接し方をしないということです。 


 子どもがいま現在攻撃的になっているときは、第二のことが重要です。
 「子どもが求めることは、親が多少無理をし、犠牲になってでも」ということは、絶対にいけません。


 誰かが犠牲になるということは対等の人間関係ではありません。
 また支配、隷属の関係では、信頼関係も決して成り立ちません。
 途方もない欲求をかなえてやったり、無理難題に付きあったりすることは、子どもの辛さを増長することに親が手を貸しているのです。子どもをさらに苦しめるようなことをしてはいけないでしょう。


 少年の両親の意見書のなかには、そうしたことについての反省はもちろん出てきていません。意見書はレポート用紙二枚にびっしりと、少年がいかに問題であったか、いかにおかしかったかというような記述で埋め尽くされています。


 「人間不信が根底にある」とも記しています。それはその通りでしょうが、ではもっとも身近な、自分たち、親に対しての不信がどうだったのかについては何もふれていません。


 親からみて好ましい思える状態については、「去年の夏頃より、私たちのかかわりのなかで少しづつ穏やかになって」などとありますが、よい状態とは思えないことについては自分たちのありよう、かかわり方との関係は棚上げにされています。勝手なものです。


 自分たち、親のことを記すときは、いかに一所懸命であったか、また「ぎりぎり」であったり、「限界をこえた状態」であったりして、「大きなショック」を隠しきれないほどで、いかに大変であったか同情を得ようとするほどなのに、わが子の辛さ、苦しさ、大変さにはまったくふれるところがありません。


 そして、具体性がなく無内容な、他人事のような心情の吐露が「長男の心の中の闇、荒れを思わずにはおれない」とか、「闇を心の中に封じ込めて破壊現象が起こっている」などとあります。


 「心の中の闇」とか「破壊現象」といった用語からして、こうした見方は、専門家に教えられたものなのでしょうか。
 それにしても、この少年の両親は最後の最後まで、まったくわかっていないように思います。


 両親が分かっていないということは、両親が頼った、中央、地方の専門家がいっそうわかっていないということです。
 息子から「おぼえていろよ」と決定的な不信の言葉をあびせられても、両親は保護入院を疑っていません。「私たち親ではどうしても動かせなかった医療、カウンセリングを受けさせる段階にやっとたどりついた」「早く楽にしてあげたいのです」と。



 専門家の話しを鵜呑みにしない


 ほんとうでしょうか?
 ほんとうにそう思ったのであれば、この両親は、どうしようもなく救いがたい人間だと思います。だが、事実は違うのではないでしょうか。


 意見書は専門家が述べ、勧めた線を建前的に記しまとめたことが少なくないのではないでしょうか。事実は、息子のことで不安がつのり親がパニック状態になって、とにもかくにも病院に押し込んだ。そういったあたりが真相ではないでしょうか。


 「カウンセリングを受けさせると子どもは楽になる。」
 このような考え方、対処法は正しく、適切なことでしょうか。
 カウンセリングの是非についてはいろいろな議論があるでしょうが、少なくとも強制的なものであってはならないということについては、おおかたの一致があります。


 よって「受けさせる」ということも良いこととはいえないのですが、なぜか、この世の中では、子ども自身は多くが受けたがらないものですから、「受けさせる」という言い方が当然のごとくなされ、広くゆきわたっています。


 ある考え方や対処法が正しいかそうでないかは、議論によっては決まりません。
真理かどうかは、実験によって決まります。実験は社会のなかでもおこなわれています。


 登校拒否といえば、まずカウンセリングというようなことが、二〇年も、三〇年も前から言われ、実際に多くの子どもたちが受けてきていますが、結果が芳しくないことはたしかです。


 うまくいっているのであれば、私たちの耳にも入ってきて良さそうなものですが、この五月で十一年が経過した親・市民の会にも、ほとんど、いやまったくと言ってもよいほどに伝わってきません。


 ということは、「カウンセリングを受けさせると子どもは楽になる」という考え方は、その正しさが確認されたものではなく、専門家や関係者が言っていたり、勧めているに過ぎない話しだということになります。


 専門家を頼り、専門家が言うところを鵜呑みにしてはなりません。
 今回のバスジャック事件は、そのことを強く警告しています。



 (両親の意見書の内容は、TBSのサンデーモーニングで2000年5月14日に放映されたものです。)




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最終更新 : 2012.4.8
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