登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2014年10〜12月



体験談

2014年10〜12月例会より


目次


1 息子が食べない、飲まない!   永田俊子さん

2 なにも言わないと娘は元気に   Tさん

3 息子が親の会と「嵐」をプレゼントしてくれた   かえちゃん

4 今あるのは、美味しい卵焼き    永田俊子さん

5 親から否定されることは死ぬほど辛い    長谷川登喜子さん

6 子どもの不安につきあわない   淳子さん

7 両親と距離をとり、強くなった   まつぼんさん





(10月例会より)


息子が食べない、飲まない!   永田俊子さん



24歳の息子のことです。
高1で不登校になって3月に退学してそのままずっと家にいて、22歳の時に高卒認定試験を受けて専門学校に進んで、今2年生なんです。

先週の木曜日学校から帰ってきて、夕飯を食べなくって、「なんかおかしいぞ」と思ったら、翌日学校に行きませんでした。それまではインフルエンザ以外では休まなかったんです。今日で3日目です。

今日国家試験があって、それに向けて勉強をしていたんです。突然行かなくなっただけじゃなくて、ご飯を一切食べなくなって、水分も摂らないものですから、こんなときは放っとくもんだと思っていたんですけど、たまらず「どうしたの、いったい何があったの、お母さんは訳がわからないんだけど」と言ったら、「俺も訳が分からない、もう心が折れたのかも」と言うんですね。

私は専門学校に執着しない、資格とかも、もういいんです。でも、ご飯を食べないと、せめて水を飲まないと今日の命がない、命をつないでという感じで、ちょっと口にするお菓子を置いたり、ペットボトルを二階に持って行ったりしているんですけど。

息子は用事があるときは二階から下りてきて、私が持っていったペットボトルを「飲んでいないんだぞ」というように、開けないまま置いていきます。


―――息子さんは、以前引きこもっているときには、リビングにもいたのね。


二階の自分の部屋にいることが多かったですけど、ご飯は一緒に食べていましたし、テレビも一緒に観ていました。


―――動き出して、学校に行くようになってからも同じ様な生活だったの。(そうです) 
それが今度は自分の部屋にずっといるのね。


そうです。用事があるときは下りてきて、それがお菓子を返しにくる、ペットボトルを返しに来る、なんです。私は学校に戻らなくてもいいと思っているんですけど、でも息子の命が心配で、息子の周りをうろうろしている感じなんですね。(笑)

夫に「人間は食べないで何日生きていられるものだろうか、もう今日で3日目、水も飲んでいない、お風呂も毎日入る子だったのにずっと入っていない」と言ったら、「なにも心配いらない。全然大丈夫、どうにかなるさ」というので、私は二階に行って、「お父さんが、“何も心配いらない。全然大丈夫、どうにかなるさ”と言っていたよ」と言ったら、暫くしたら下りてきてお風呂に入っていました。


―――HPを読み返して、自分の思いを伝えたらいいんだと思ったんでしょう。


読み返して自分の思いを一人称で伝えたらいいんだと思って、「お母さんは、あなたが大好き、大好き」と寝ている24歳の息子に、布団の上から抱きしめて言ったら、「うるせえ!」と言われて(大笑)、でもそのとき息子の顔が見え、ニッと笑ったので、ちょっと嬉しかったです。

昨日はお風呂に入ったから水ぐらいは飲むだろうと思ったんですけど、そのまま二階に上がっていくものですから「水ぐらい飲んだら」と持っていったんです。息子は、「俺はなんも食べない。もう、いいんだ」と言って、「睡眠薬を買ってきて。そしたら水を飲むから」と言うんです。私は「そんなこと言わないで生きていて、お母さんはあんたと生きていたい」と言ったんです。

今日も息子は何も食べない、飲んでいないんです。何日こうしておれるのかな、このままでいたら意識朦朧となって救急車を呼んで点滴をするしかないのかな、とそこまで考えているんですけど・・・。原因は何もわかりません。

ただ、ずーっと行っていた息子が、木曜日から行かなくなったとき「私は二度目の体験だから、もう動じないぞ」と思ったんです。夫も「息子自身も二度目だから対処の仕方もわかっている、だから見守ればいい」と言ったんですね。

息子は何も言わないし、聞いても、「俺もわからない」と言うだけで・・・。


―――「俺もわからない」というのが正直な答えでしょう。(そうなんでしょうね)
おつれあいさんの言うとおり、黙って何もしないことですね。心配そうにまわりをウロウロしない、「食べて、飲んで」と言わない。全然大丈夫ですよ。


そうですね。今日も「お母さんは出かけてくるからね」と言った後、見るとベッドでゲームをしていました。ほっぺたを触ったら、「ベタベタ触るな〜」と言いました(大笑)。「食べてないけどゲームはできるな」と自分で言っていました。


―――息子さんは今は食べないことが自分にとって心地よいことなのでしょう。命に別状はありません。親の会で拒食で命を落とした子はいません。


木曜日に行かなくなったときは最初は「何があったんだろうね」と夫と話して、私たちも二度目だったから腹を括れて「何があったにしても、自分で受け入れ、消化していくほかないわけだよね、私たちが身代わりになるわけにいかないからね」と話をしました。


―――木曜日はそういう話をしたのに、金、土はそうじゃなくなってきた。(笑)


一緒に生きていたいからねとベタベタしたり(笑)、だから今日は皆さんの顔を早く見たくて来ました。(―――親の会があってよかったね) はい。そうじゃなかったら、また心配で心療内科だの、電話をみんなにしまくったりしていたと思います。今は騒がずにじっとしているのがいいんだろうなという知恵は働きました。

夫は「辞めてまた落ち着いたら、俺の畑を手伝ってもらえたら、いつでもウエル・カムだ」と言っています。


―――すばらしいですね。息子さんは今、家で寝ながらゲームをしているのね。(そうです)家が安心できる一番の居場所だという何よりの証拠ですね。息子さんのおかげで、これまであなたはとっても強くなってこられ、息子さんに感謝もしていました。今は、あらためて「心配しないで信頼する」で、いきましょう(そうですね)。



(永田さんの翌11月例会のお話が↓三つ下にありますので、あわせてご覧ください。)




なにも言わないと娘は元気に   Tさん



―――北九州市からご夫婦で参加されました。Tさんの娘さんは、昨年高校入学後、5月から五月雨登校になり、7月中旬以降行かなくなりました。10月から通信に移りましたが、2、3日で行けなくなりました。


(母):私たち夫婦はもっと元気になりたい、パワーをいただきたいと思ってきました。
娘が不登校になって1年3ヶ月過ぎようとしていますが、本当に元気になってきました。中学の部活の時の友達とは今も続いています。3ヶ月しか行っていない高校の時の友達とも夏休み、春休みに1日中遊ぶという感じです。

五月雨登校の頃、お弁当を1週間食べてこなかったり、朝学校に行く前にシャワーを浴びてやっと行っていたなあと、その頃は気がつかなかったんですが、今思い返せばそういうことがありました。

私たちは娘が学校を辞めてから、こちらのHPを読むようになりました。
その前はどうしたらいいのかわからなかったのですが、HPに助けられました。
通信制高校に行けなくなってからは、どこに行きなさいとか、何をしなさいとか、全く言いませんでした。

お風呂に入れなくなった時があったんですが、入らないのも今は入れないんだなと思って、声もかけませんでした。寝る時間も娘の思い通りにしています。この子はこれまでがんばってきたから、きつかったんだろうなとそのままの姿を認めてきたら、最近本当に表情もとてもよくなって、元気になってきたというのを感じています。


―――ご両親が何も言わなかったというのはすごいですね。最初の時はどうでしたか?「学校に行きなさい」とか、「将来どうするの」と言われませんでしたか。


この先どうなるんだろうと心配でいろいろ言いました。無理やり連れていくことはありませんでしたが、「どうするの? 働くの? 学校変わるの?」と言ったこともありました。


―――「どうするの? どうするの?」と言った時には、娘さんは心を閉ざしていったでしょう。


はい、話を聞かなくなり、全然話が通じませんでした。私たちの言うことには聞く耳がなくなったように、気持ちにとげがたくさんあるような感じでした。それまでの私の子育てが悪かったのか、こうしてきたことが悪かったのか、と自分を責めて、いろいろな本を読みまくりました。


―――おせっかいな人はいませんでしたか?


最初に隣の方には娘が学校に行っていないことを言いました。
全く引きこもっているわけではなく友達とは遊びに出かけていたので、なんで昼間にいるのかなと疑問に思われると思って、こういう理由で行けていないんです、と言ったんです。

夫の両親から何か言われることもありませんでしたし、私の母も協力してくれて、鹿児島にも行っておいでと送り出してくれました。「子どもに何も言わないで」と言ったら、その通りにしてくれたので、そういう点では助かりました。


―――それはよかったですね。姉弟の仲はどうですか?


下に中3の息子がいて受験生です。娘は学校に行けなくなった頃はすごくイライラしていましたし、思い返すと中学の時から弟によく当たっていたと思います。弟が私に「お姉ちゃん、どうして行かないの」「ダメやね」といろいろと言ったので、私は「ダメじゃないよ、お姉ちゃんは疲れて休んでいるだけだから、あんたもきつかったら休んでいいよ」と言いました。


―――それはすごいですね。弟さんにもそういう対応ができるなんて。


こちらのHPのおかげです。それと千葉の赤沼先生の登校拒否研究室にメールで相談したこともありました。この2つのHPが似た考えた方だったので、これでいいんだと自分が楽になりました。他のHPを見ていると、子どもにもっと言わないといけないとか、たくさん書いてありました。


―――娘さんは幸せでしたねぇ。


でも、そうは言ってもこれからどうなるんだろうと不安になる日が1ヶ月のうちに5日くらいあります。(笑)

最初はどうしていいかまったくわからなかったし、私自身が外にも出れない、買い物にも行けないという感じで、こういう場に出てこられるような状況ではありませんでした。このままだったら死んだ方がいいと考えるまでになって、それぐらい先が真っ暗という気持ちになりました。

私はパートで働いているんですが、行けなくなった時に2ヶ月休みをもらいました。その時は娘と一緒にどこかに出かけたり、娘が元気になるために何かできるんじゃないかと思ったんですが、そんなことはできないんだなとわかり、仕事に戻りました。いくら誘っても行けない時は行けないし、それで余計に無理をさせてしまうんだと思いました。


―――それはよかった。動かそうと思わないことですよね。今娘さんは家で自由に暮らしておられるの。


まさしく自由で、中学の時に戻ったように元気になっています。茶髪にしてピアスをあけたのは通信に行くとなった時で、「よくぞピアスができたと思う。今だったら痛くて怖い」「その時にリストカットもしようと思ったけれどできなかった」と後になって言いました。

学校を休みたいと言い出したのは、先生にたたかれ研修旅行に行けなかったことが始まりでした。校則で前髪は眉毛よりも上でなければいけないんです。そうでなければ横で結んでいないといけない。娘は努力をしてスプレーをして横で結んでいたんですが、研修旅行に行く前に「ちゃんとしろ、髪の毛も切ってこい」と言われたようです。「私は研修旅行に行けない。たたかれたし、もう学校を辞めたい」と仕事中にメールが来ました。

結局3日間の研修旅行には行けなくて、学校から私たち親にも呼び出しがありました。担任と学年主任から、「お宅はどうするんですか? 義務教育じゃないんですよ」と言われ、娘には「1年生に入ったばっかりのみんなの団体行動なのに、あなたはさぼって行けなかったんだから、みんなの前で謝罪しなさい」と言われました。今考えるとちゃんと反論したらよかったと思うんですが、その時は謝って、娘もみんなの前で謝罪しました。

それでも学校に行っていたんですが、1ヶ月くらい経って私立高校に転校したいと言い出し休みました。その手続きもしようとしたんですが、学年が変わらないとできないらしく、娘がまた学校に行き始めたら、「これから頑張ります、という一言がなかったから無視していました」と担任に言われました。

その時はすごく歯がゆくて、ものすごい怒りがあったんですが、逆に学校にいろいろ言って行っても何にもならないと思って、もういいと思いました。そしたら娘は「通信に行く」と言ったので、私は普通に行けると思っていたんです。でも、通信も2、3日で行けなくなりました。その頃から大人としゃべると緊張する様子がわかりました。


―――かわいそうでしたね。この高校で大変怖い思いをし、人間的な屈辱を味わって、それを言い返すだけのすべもないわけです。絶対的な権力で言われるわけですから。心の傷はとても深い。

でも、娘さんのあるがままをご両親が受け止めたおかげで、娘さんはのびのびと元気になってきた。だからと言って、娘さんがいますぐ学校に行くかと言ったら、それはまだ早いですし、焦っているからバイトの面接も受けようとするんですね。


9月にバイトの面接に行った後も体調が悪くなって、頭が痛い、吐き気がすると言いました。家でテンション下がっているなあとわかります。4月にバイトに行こうとした時も、やっぱり行けないと思っていたと思うんですね。なので私たちは知らん顔をしています。自分でしようと思っていることは、全部させようと思って。自分の中で頭痛も、気分悪いも解消しているから、気がついたら元気になっているんですね。今そういう感じです。


―――自分で受け止め生きて行く力にしていく。でも、そのためにはなんといってもその子の生き方を応援する家族の安心がないとね。わが子を否定したり、あれこれ親の不安を言ったり、といろいろ言う家庭であったとしたら、子どもさんはいつまでも心の傷はいえないでしょう。私を受け入れてくれるお父さん、お母さんがいる、安心して生きていくことができるんだと思うようになってきましたね。

それでも世間的な価値観で焦って動こうとする。いいチャンスですね。たとえ失敗したとしても、その責任は娘さんが必ず自分で取って生きる力にしていきます。親がああしなさい、こうしなさいと言ったら、両親がそう言ったからと親のせいにしますね。

将来は誰にもわかりません。将来の不安に怯えて今を台無しにしてはいけない、今を大切に生きることですね。子どもは必ず動き出しますが、その時期は子ども自身が決めていきますね。

頭の中に娘さんのことはどのくらい占めていますか?



けっこう占めています(笑)。暇があったら不登校の子がどうなったか、といろんなブログを読もうとします。どういうケースがあるのかと次から次に見たくなります。


―――不安だから情報をかき集めるんですね。そうすると情報の方に目が行って、肝心のわが子に目が行かなくなるのね。だからわが子だけを見ていたらいいんです。一番の基準は何と言っても、「わが子の笑顔」です。

わが子を異常視したり、腫れもの扱いしないで、娘さんに何も言わなかったことはとてもよかったですね。迷いや不安も初めのうちはあったでしょうけど、私たちの親の会のHPを見て、内容に納得され不安がなくなって、すると娘さんも笑顔がたくさん出てきた。HPが役にたってとても嬉しいです

ご夫婦が支えあってこられたこともすばらしいですね。



(父):今日はいいお話を聞けました。子どもに対して、理解しているように思っているんですが、ポロッと言ってしまうところがあります。1年前よりも言わなくなったとは思うんですが。

(母):子どもがこうなって、家を楽しくするためにはどうするかと夫婦で話す機会が増えたと思います。それで以前よりも家庭の中は楽しくなっていると思います。


―――よかったですね。娘さんのおかげですね。娘さんに感謝ですね。





(11月例会より)


息子が親の会と「嵐」をプレゼントしてくれた   かえちゃん



―――かえちゃんは、娘さんと一緒に「嵐」のコンサートに行かれたのね。エンジェルカフェのあなたのブログを紹介します。


先週土曜日 福岡へ 娘と嵐のコンサートを観に行ってきました。
私が 嵐のファンになって丸5年。
息子が学校に行かなくなって 親の会に初めて参加した時期と同じくらいです。
あの どん底の真っ暗闇の中にいた私に 
不登校になってくれた息子が
親の会と嵐をプレゼントしてくれました。

息子からのギフトだと気付くのに時間がかかりましたが(;^_^A
受け入れるまでの 葛藤の毎日の中で
唯一 何もかも忘れられる時間だったのが
テレビの中で歌って踊っている彼らを見ている時でした。
まさか 自分が アイドルに夢中になるなんて。
学生の時の「たのきんトリオ」以来でした。(ちなみによっちゃん派)
今の私が 自分を大切に思えるようになって 元気なのは
親の会と嵐がそばにいてくれたおかげです。
どっちが欠けても 今の私はないと思っています。

コンサートに気持ちよく送りだしてくれた夫と息子。
5人がステージに出てきた時は、胸が熱くなって号泣していました。
うちわには「いつも幸せをありがとう」のメッセージを書きました。
何度も何度も「ありがとう」と叫んでいました。
色んな人に支えられて たくさんの愛があることに気づいて
今の私がいるんだな と改めて感謝できた一日でした。


かえちゃんの涙のわけがわかって、私も感動しました。
「嵐」と一緒に、親の会と一緒に歩いてきたのね。
今度「ありがとう」と書いたうちわを見せてね。



息子が不登校にならなかったら、親の会と出会えなかったし、「嵐」にもときめいていなかったかもしれません。


―――とにかくいい「お嫁さん」で、まして「嵐」なんてとんでもない、せいぜい「たのきんトリオ」のファンで(大笑)、遠慮して自分の気持ちを後ろにした人生だったでしょうね。

先日、エンジェルカフェで、夫とお舅さんに遠慮して暮らしているという方に、かえちゃんは自分の体験を話したのね。結婚してから毎日、お昼は、お舅、お姑さんといっしょだったとか。



私は夫の病院で受付をしていて、義父から仕事の仕方など、いろいろ言われました。

子どものことも、誰々の子どもさんは○○学校に行ってとか、親戚の子どもは弁当を二つ持って、朝から夜中まで塾に行っているとか。だからあなたも子ども達に頑張らせなさいということだったと思います。

ブルーベリー事件というのがあって、県外の夫の弟のお嫁さんに、義母が中国産の冷凍のブルーベリーをおみやげに持って行ったら、そのお嫁さんが「うちは中国産は食べません」と言ってその場で捨てたらしいです。

義母は怒って、そのまま帰ってきて、お嫁さんから「朝起きたらいないんです」と電話があったんです。義母は、あっちのお嫁さんのことをワーッと私たちに言うので、私は「あー、もらっといて、こっそり捨てないといけないな」と思いました(笑)。

だからいつも私は、「はい、はい、そうですか」と何も言わないで、お昼の時は早く食べて早く帰りたくてたまらなかったです。


―――毎日が気が重かったでしょう。


はい。義母は2、3品じゃすまなくてテーブルに乗り切らないくらいいっぱい作って、「お代わりは?」と言いながら、「痩せなさい」と言うんです(大笑)。

残ったものを持って行きなさいと言って、袋にちゃんと入れてあればいいんですけど、汁がもれているんです(笑)。

あの時は、それが嫌でしょうがなかったです。義母は糖尿病で肥っていたんですけど、今はちっちゃくなっています。


―――親の会で、「一緒に食べるのは止めたらいいよ」と言っても、初めのうちは「そんな事できないです」と言ってましたものね。


なんて言って断ればいいんだろうって、まったく分からなかったです。
5年間ぐらいお昼を一緒に食べていたと思います。

息子が学校に行かなくなったときぐらいから、多分夫には言って、私には言いませんでしたけど、義母に息子のことを聞かれるのが嫌だなというのがあって、でも「食事は一緒にしません」ということを、よく言えましたよね。

その辺はもうよく覚えていないです(笑)。義母は「私だって好きで作っていたんじゃない、食費だってすごくかかっていたんだ、あなたたちのために作っていたんだ」と言いました。


―――「あなたたちのために」という言葉はいろんな場面で傷つくんだってことよね。
リタイヤされたお舅さんは今でも診察室にいらっしゃるのね。



暇だからか来ています。待合室で患者さんといろいろとおしゃべりもしています。


―――でも、お昼ご飯を一緒に食べなくなって、大革命だよね。


そうですねえ。自分がいちばん驚いていることはなんだろうと考えたら、多分「今は、もう一緒に食べていないんです、顔もそんなに合わせなくなった」と5年前の自分に言ったら、すごくビックリすると思います。今では顔を合わせるのも年に何回かですね。


―――5年前までは、それが当たり前に思っていたんでしょう。嫌なことをずっと続けていたら、そういう自分を嫌になって自己嫌悪に陥ってしまうよね。息子さんに感謝ですね、あなたはほんとに強くなったね。(そうですね) 

いろんなことにワクワクしてね。そんなに自分にエネルギーがあるなんて思っても見なかったでしょうね。(そうですね)

息子さんが不登校になった時、あなたは食事も作れなくなってソファに横になって、実家のお母さんが応援にきたのね。あなたのお母さんはご病気でしたが元気になられたの?


たぶん、私もあまり母にはメールしないので、お米を送ってとだけメールして、母が山形屋から送ってくれるんです(笑)。


―――エンジェルカフェで言われてましたが、学校も就職もお母さんの勧めで、仕事も「3年間は我慢しなさい」と言われて、3年後に退職したのね。お見合いしたおつれあいさんはとてもすてきな方で、それはお母さんに感謝しているのね。(今となっては)(笑)


母のレールに乗って、自分がなかったことに気がつき始めたら苦しくて、母のことを拒絶し始めて、でもレールを引いたのは母だけど、自分がそのレールに乗って、最終的に決めたのは自分だ、母の言いなりではなかったんだということに気づいて、やっぱり自分の人生は自分で選んで決めて、夫とも見合いだったけどそのとき良かったから結婚したということだから、それも自分で決めたということだから、と今はそんなふうに思っています


―――大事なことね。最後は自分が決めた、だからちゃんと自分の人生を自分で歩んでいるということなのね。

自分を本当に大切にするようになったから、そう考えられるようになって本当によかったです。そうじゃなければ、お母さんが全部決めたとお母さんのせいにしていたと思いますよ、そして自分を苦しめていたと思います。

「自分の人生の主人公は私」と言うことですね。

あなたは先月のお話でも、

「20%気にしている自分に焦点を当てて考えていたけれど、80%気にならなくなっている自分を考えれば、ああ、私偉いなあ〜と思って(笑)。ないことを見るんじゃなくて、あることに目を向けていくと、私は家族に愛されているし、必要とされているし、幸せだなと思います」

と本当に大事なことを言われています。

気になる部分にこだわらず、楽しいことを中心に考えて生きていくのも自分次第、「解決の道は自分の中にある」ですね。お母さんは「どうして来ないの」とか言ってこないの?


いいえ、もう一切言わないです。お米のときだけ「送って」と言って、「あいよ」と送ってくれます。父は母のことが大好きです。母は嫌がっているかもしれないけれど。(笑)


―――とってもいいなあ。かえちゃんもおつれあいさんのこと大好きでしょう。(・・・)(笑)

先月の親の会の日はおでんで、その前はハンバーグを作って待っててくれるんでしょう。

先日のエンジェルカフェのときに「今日は息子の誕生日だから、みんなでとんかつを食べに行くの」と言っていましたね。幸せね。







今あるのは、美味しい卵焼き   永田俊子さん



息子は今24歳です。高1のときに不登校になって1年の終わりに中退しました。それから家で過ごして、21歳のとき自分から動き出して予備校に1年間行って高卒認定試験を受けて、その後専門学校に行って今2年目です。ほとんど休まずに行っていたんですけど、先月突然「わけがわからないけど、行けなくなった」と言って、それから1週間お風呂に入らなくなりご飯も食べなかったんです。


―――ちょうど親の会のある週の木曜日に食べなくなって、あなたが親の会で「もう3日間食べなくて水も飲まない」とすごく心配されたのね。


息子は1週間食事もとらず、水もほんとに飲まなかったです。そしたら息子はガリガリに痩せました。その間に何も食べていないのに、わざと走りに行くんですよ。その後 風呂には入りしましたけれど。

先月の例会で朋子さんに「とにかくお菓子やペットボトルを持って周りをうろうろしたら駄目よ」と言われたので、その言葉を守って我慢して放っときました。

そしたら1週間目に息子の方から寄ってきて「俺は、もう社会には出られないんだ、ずっとこのままだ、思い描いていた未来も何もない」などといろいろ言ってきたので、「過去も未来もあるもんね、あるのは今だけよ」と言って、ちょうど卵焼きを作っていたので、私の卵焼きは美味しいんです(笑)、「今、卵焼きがあるだけよ」と言ってお皿に乗せて仕事に出て行ったんです。帰ってきたら食べていました。それから食べ始めたんです。


―――自慢の卵焼き、(美味しいです)食べてみたい(笑)。「あるのは今だけよ」って言えて偉かったねえ(笑)。先月と全然違う。「お母さんは、あなたが生きていてくれさえしたら」と、息子さんに「ベタベタ触るな!」と言われても、ほっぺたを触ったりしてね。(大笑)


それから1ヶ月、私の心の中は「ああ、親の会があってよかった」という思いと、せっかく1年半専門学校に通って、なんで再びこんな思いとこんな体験をするんだろうかという思いがあります。多分もう行かないだろう、引きこもるだろうと思って毎日過ごしています。

夫に「私はもう一回、親の会を信じてみようと思う」と言ったら、

「俺は言いなりにもならないし、腫れ物扱いもしない、だけど異常視はするかも」「10代なららまだ世間は受け入れてくれるかもしれないけれど、24歳でこういう風に家にいるようになってどうなるんだ」と言うものだから、

私は必死で「いいや、人はどんな大変な今でも、ありのままを受け入れないことには、元気になりようがないんだよ」「人は今を否定されたら、やっていけないんだよ」と覚えている限りの言葉を言いました。(笑)

そしたら夫は「それは自分自身に言い聞かせているんでしょう。じゃあ、親は今までどおり楽しめばいいのね、俺は楽しむことは得意だからそうしよう」と言いました。(笑)


―――「今を楽しむ」。素晴らしい言葉ですね。あなたのお気持ちも楽になりましたね。

おつれあいさんは、俊子さんの言葉ですぐご自分の不安がなくなって行ったのね。

俊子さんは親の会にいらして何年になるの。
(丸7年経って8年目ですね)

最初とき夫が「全然大丈夫、心配いらないどうにかなるさ」と言ってくれたのね。


当時私は「あなたはそんなのが得意だからいいね、私は得意じゃない。あの子の深い深い孤独を思ったら私は可哀想でたまらない」と言ったんです。

夫は「なにも可哀想じゃない、孤独が辛いと思うんだったら出て行くはずだ、だけど自分が辛くない状況を自分で作ってこうしているんだから」と言ったんです。


―――あなたがパニックになったときは、おつれあいさんがそんな素敵なことを言ってくれて、今度はおつれあいさんが不安になると、あなたがいろいろ言って、お互いに支えあってこられましたね。今度のことをきっかけにまたご夫婦の仲が深まりましたね。


そうですね。考えてみれば、息子が16歳で不登校になった時は、親の会も知らなかったから、私はパニックになって、毎日入れ代わり立ち代り人がいろいろ言って来て、クラスの子ども達からも手紙が来て(―――あなたが担任に頼んだからね)そうですね(笑)。


その時は息子は落ちつく暇もなかっただろうなあ、自分のことを受け入れる暇もなかっただろうなあ、だからあの時息子はだんだん顔面蒼白になって、身体も冷たくなっていったけど、だけど今度は誰からもとがめられず、文句も言われず否定もされず、そうしたらだんだん元気になっていくんだなというのを冷静に見ている自分もいます。

息子は緊張はほぐれたようなゆるゆるとした表情をしています。

笑顔も生まれてくるんだなと思ってみている自分もいますし、
「やっぱり専門学校は辞めることになるだろうな」とかがっくりしている自分もいます。(笑)


―――まだ授業料を払っているし、(そうです、払っています)学校からは何も。


言ってきますよ。担任からも電話が来たので「今の体験は二度目なので、もうちょっと時間を下さい」と言いました。そしたら「お母さんはいろいろ勉強されているでしょうが、でも家に伺おうかなと思っています。週に1回カウンセラーも来るんですが」と言われたので、「ありがたいですけど、ちょっと待ってください。カウンセラーはお断りします」と言いました。

今は、息子は昼ごろ起きてきてゲームしてゆっくりした毎日です。週に一度学校から電話が来て、私が不在のときは本人が出るんです。もう辞めると伝えたみたいです。


―――もう俊子さんのパニックもなくなったのね(もうなくなりましたね)。お二人の気持ちが安心してきたことが、良かったですね。


私の姉にだけ言って、他は誰にも言ってないんです。先日伯父の葬儀があって、お焼香する私の姿を見た姉から「あなたは痩せたんじゃない」と言われたんです。

それで、「何故かというと息子が再び引きこもりになりました」「でも、私達は今息子の生きる力を奪うわけにはいかないの、だから親は何をしたらいいかと言うと、何もしないことなの」と、びっくりしている姉に向かって偉そうに宣言はしたんですけど(笑)、やっぱり揺れ動いてはいます。辛くないといえばウソです。

私もここで学んだように私の心が元気になるようなことをすればいいんだ、息子にたいして「何もしないこと」が、私の課題だなと思って腹をくくっています。 


―――揺れ動くのもいいじゃないですか。揺れ動く自分を否定しないで、そのあるがままを受け入れて行く、そういう自分とつきあって、そういう自分も大切にしていくことですね。息子さんは幸せね。そしてあなた自身が「今を大切に、自分を大切にする」と言うことを改めて確認するというすごく大事なチャンスをいただきましたね。


そうですね。大事なチャンスをもらったと思うと同時に、そんなチャンスはいらなかったと思う自分もいます(笑)。


―――ご自分の気持ちを素直に出せることはとってもいいことですね。
これからもそういう自分を大事にしてくださいね。






(12月例会より)


親から否定されることは死ぬほど辛い

長谷川登喜子さん




―――25年前の5月3日、登喜子さんが呼びかけて、鹿児島の親の会が3家族から出発しました。


当時小3だった息子は今35歳になりました。

12月の誕生日のあくる日から行かなくなりました。その当時「子どもは学校に行かなければいけない」というのが当たり前でしたから、私は何とか行かせようと、子どもとランドセルを玄関の外に出して鍵をかけたり、いろんなことをして子どもを追いつめました。今でも心の傷になっています。

次第に強迫症状が出て、朋子さんに相談したら「休ませたら」と言われて、どうしたら学校に行くことができるかばかりを考えていた私は、えっ、と戸惑って、それでも行かせるように必死でした。悪循環をくりかえしても、本当に自分の胸にストンと落ちるのには100日ばかりかかりました。

悩みました。泣きました。孤独になって世の中から取り残されたような気持ちになりました。その後、私みたいにひとりぼっちの人がいるんじゃないかと思って、親の会をいっしょにしようと呼びかけ、支えあってきました。

息子はその後、小、中学校は一日も行かずに卒業して、通信制高校に行ったんです。そこで友だちもたくさんできて、優しい子に育って、この子はもう大丈夫だと、不登校になったことがわが子も私たち親にとっても大きな財産になっていると思いました。

私の親には最初に一回言ったきりでしたが、その親から「学校に行ってるのか?」と言われたくなくて、たまにかかってくる電話で「おまえ、生きてるのか?」と言われるほど、だんだん親のところに行くのも避けるようになりました。

世間の人から言われてもまだ耐えられるけれど、「お前はどういう子育てをしてるんだ」と親から自分を否定されることが一番辛いことだったから、親を避けることでしか自分を守れなかったんですね。

父は6年前に90歳で亡くなったんです。4人兄妹の中で私のことを一番目をかけてくれた父が亡くなったら、避けてばかりいて親孝行もしなかった私はどんなに後悔するかと思っていました。そしたら不思議、すべてのものから解放されてとても楽になったんです。

父が生前、15周年記念誌に書いてある私の文章を偶然読んで「お前は難儀したんだね」と言ったんです。私は「親の会でひとりぼっちにならずに励ましあってきたから、ちっとも難儀してないよ、楽しかったし、幸せだったんだよ」と父に言えたということがとても嬉しかった。

昔はとてもきびしい父だったから、その父に言われると自分がボロボロになるので言われたくない、と黙っていたので、だから解放されたと思えたのかなと思いました。「あ〜、時が解決してくれるんだな、急がなくていいんだな」と思いました。

不登校になった子が、自分の一番の味方になってほしい親から、自分の状態を否定されることは死ぬほど辛いことです。同じように、不登校の子どもを持った親がその自分の親から否定されることは同じように辛いということなんですね。

今親との関係をいろいろ抱えている人たちがいますよね。でも時間をかけていけば必ず解放されていきますから、焦らないでほしいと思います。大丈夫です。私もこの会で学びながらきました。

今私はとても幸せです。

白内障の手術のまえは信号機が打ち上げ花火のようにきれいだったので、それも楽しみ、今はくっきりと見えることも楽しいです。(笑)



15周年記念誌の長谷川さんの記事は

「親はなにもしない、子どもの生きる力を信じて」

↑をクリックしてご覧ください。






子どもの不安につきあわない   淳子さん



(遠方の孫が不登校になって数か月、不安のかたまりのようになっている娘(母親)から日に何度もメールや電話がきて、トイレに行くにも携帯を離せないとう初参加のお祖母ちゃんの話の後)


―――淳子さんの息子さんは、中学で不登校になって、24歳で動き出し働くようになって、今31歳です。不登校になって家にいたとき、お母さんに毎晩のように自分の不安を話していたことがありましたね。


息子は不安になると、私にいろんなことを言ってきました。
それで私は息子が不安だから、息子の話を聞いてやるのが親の務めだと思っていたんです。

話し始めると、毎晩2〜3時間同じことを言うんです。「このままじゃ駄目だ」とか「前にこんなことがあった」とか、私がもう寝たいと言っても、「お母さんが寝たら、俺は明日生きていないよ」と言って脅かしました。

それで寝られなくていつも聞いていたら、この親の会で「それはかえって、子どもを苦しめることになる」「聞かないで寝なさい」と言われました。

私は子どものためを思って我慢していました。
それが何で子どもを苦しめることになるのかわからなかったんですけど、私も毎日夜中に同じことを聞かされて苦しかったので、ある時「お母さんは、もう寝るよ」と言いました。

そしたら、やっぱり息子が「明日は生きていないからね」と言ったんですけど、振り切って親の会で言われるとおりに寝たんです。でも、なかなか眠れなくて、朝まで起きていようと思ったんですけど、そのうち寝ちゃいました。(笑)

次の日は何事もなく、先に話を打ち切って寝たことも責めることもなく、普通に生活が始まって、これでよかったんだと思いました。

それで済んでいるわけではなく何ヶ月かすると、こんどは昼間に何時間も話をしてきて、でも、なるべく早く切り上げるようにしました。

今、娘が仕事から夜10時半ごろ帰ってきて、お店であった嫌なことをワーッと話すんです。最初はそれを聞いていたんですけど、それが苦になって「お母さんは、あなたが帰って来る時間は寝る時間に入って省エネモードになっているから(笑)、あなたの愚痴は聞けないよ」と言ったら、怒って、2日間口をきかなかったです(笑)。

夫にも口をきかなくて、夫は「何で俺に怒っているんだ」と言いましたけど、2、3日して娘は分かったらしく「お店で嫌なことがいっぱいあるんだよねえ、お母さんには悪いんだけど、つい言っちゃうんだよね」と言っていました。

だから、我慢して聞いてあげることはプラスにはなっていないんだなと経験してわかりました。


―――とにかく、愚痴や不安を言えば言うほど、どんどん不安が大きくなる、聞けば聞くほど、不安が大きくなっていくということですね。だから、切り上げる。

息子さんに「明日は生きていないからね」と言われると、淳子さんはその時は不安の真っさいちゅうでしたね、それでも話を打ち切ったんです。

だから、可哀想だと思って無理をして聞くことのほうが本当に可哀想なんですね。







両親と距離をとり、強くなった  まつぼんさん



今小5の息子が小2の10月から不登校です。
私の両親は学校に行かせなさいと私を責め立てました。「私の家のことだからそっとしておいてほしい」と言ったら、夜に両親が怒鳴りこんできて、夫はまだ帰っていなくて、息子が家の中にいたので、どうにか玄関で止めましたけれど。家でゆっくり休むこともできず、電話も怖くて、その時はおかしくなりそうでボロボロの状態でした。


―――今は両親からどうして言われなくなったの?


両親との距離を取りました。電話は取らずに、取っても用事があるからとさっさと切り上げました。話をし出したら最後まで聞かないといけないので、「ごめん、今日はこれから約束があるから」とはっきりと断るようにしました。「お寿司を食べに行こう」と誘われても、息子も私も嫌なので断り、しばらく実家へはお正月も行きませんでした。

私の両親、特に母がすごかったんです。息子が不登校になって、電話と訪問攻撃が何ヶ月もあって、私は体調を悪くしました。

「自分を大切にしないといけない」とこの会で教えてもらって、どこかで区切りをつけないとだめだと思ったので、思い切って母に「来ないで」とはっきり言いました。

最初は怒ったけど、最初にバンと言ったおかげで距離が取れるようになりました。
自分を守るために相手に悪いと思わないで、きちんと止めることが大切なので意思表示は大事です。でないと自分がつぶれてしまいますから。今も話したくないときは電話も取りません。ナンバーデスプレイで相手がわかりますから。


―――ご両親との関係が大変だったのね。


はい、そうです。19歳の時に大学病院に1ヶ月半入院したことがあるんですけど、「やった〜、もう家に帰りたくない」と思いました。何を言っても言いくるめられるし、一方通行で、家にいても居場所がないんです。家にいたくなくて22歳の時に職場結婚しました。

夫と結婚できて幸せだと思っています。息子と3人で家にいられるのが一番幸せで楽しいです。

息子も祖父母が苦手みたいです。私が仕事に行っている時に母が来たようで、「ばあちゃんが来た〜、疲れた〜」と言っていました。多分「朝は早く起きて、夜は早く寝なさいよ。ご飯はちゃんと食べてゲームはほどほどにしなさい」などと口うるさく言ったんだと思います。面と向かって言われるので息子も辛いと思います。

息子は昼夜逆転して夜中にパソコンでYouTubeを見たり、ゲームをしています。私と朝ごはんを一緒に食べて、それから寝ます。ゲームが得意でいろんなバージョンをやっています。私も妖怪ウォッチをやっているんですが、私の師匠で教えてもらっています。隣の中学生のお兄ちゃんのゲームも頼まれてやってあげているみたいです。(笑)


―――すご〜いっ! ゲームをやっていることに不安はないのね。


ないですね。ネットやYouTubeで私でも調べられないことを全部調べてやっていますから。いろんなことを覚えていてある意味すごいと思います。


―――学校からは何か言ってきませんか?


電話がかかってきますが、仕事に出かけていたりで取れません。話す時は「元気にしていますよ〜」と言う感じで、「学校に出てこられませんか」と言われても、「私も忙しくて暇がないんです」と断っています。

最初の頃はやっぱり学校からいろいろ言われるのが嫌でした。今では受け流しています。親の会に参加して3年経ちました。最初の頃に比べると私も強くなりました。


―――本当に強くなりましたね。喘息があって入退院も繰り返しましたね。


はい、今年は2月から5月まで、昨年は2ヶ月に1回の割合で入院していました。
先月は狭心症の疑いで救急車で運ばれました。


―――両親からの暴力もあり、小さい時から支配され続けてきて、とても辛い時期もあったのよね。(はい)


何も考えられなかったし、すべてどうしたらいいの?と聞いていたんですね。
最近やっと「こうしたい、ああしたい」と考えて言えるようになりました。やっと自我が出てきて、それまでは風見鶏状態でした。

この会に来て、今は自分を大切にできるし、楽しいし、不幸じゃない、やりたいこともできるし、と思っています。

息子からいつも「大丈夫だ〜、大丈夫だ〜」と言われています。
その言葉が私に安心感を与えてくれます。

私はいつも息子と一緒にいたいのに、息子からは「うるさい」と言われています。(笑)


―――息子さんの不登校のおかげで、あなたはご自分を大切にできるようになって、家族の幸せを大事にしてきましたね。本当に息子さんに感謝ですね。






このページの一番上に戻る ↑


体験談(親の会ニュース・月例会)目次はこちら →


2014年7月例会はこちら →   TOPページへ →    2014年9月例会はこちら →


ちなちゃん「不登校と勇気」はこちら →


内沢 達「そのままでいい」はこちら →




初出 2015.1.21 最終更新: 2015.1.21
Copyright (C) 2002-2015 登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)