体験談
2014年9月例会より
ちなちゃん「不登校と勇気」はこちら →
内沢 達「そのままでいい」はこちら →
目次
1 10年の仕事に区切りをつける ジュンさん
2 自分と向き合うようになって幸せ かえちゃん
3 「いいお嫁さん」を止める しずりんさん
10年の仕事に区切りをつける ジュンさん
3人の子ども達がいて、3人とも中学で不登校になりました。
長男は最初の子だったので、親も一生懸命学校に行かせようとして、本人も自分の体を傷つけたり、薬を飲んだりして辛かったです。
9年間家にいて、ある日自分で働くと言って働き始めました。そこを辞めて通信制高校の手続きを自分で取ったんですが、勉強は最初のうちだけで、辞めました。バイクの免許も取ると言って自動車学校にも通っていましたが、それも辞めています。
アルバイトもまた自分で見つけてきて、以前も鳥肉屋だったんですけど、今度は家から近いところの鶏肉屋でレジもしているそうです。「あんたもレジするの〜、想像つかない〜」と言うと、「絶対見に来るなよ」と言って(笑)、恥ずかしいみたいですね。
娘も中学から不登校でしたが、私がショックだったのは、娘が小学校の運動会のとき、友だちが「○○ちゃん、しゃべれるんだね」と言ったひとことです。いかに喋ってなかったか、ずーっと友だちはしゃべれない子だと思っていたんですね。
家では漫画ばかり描いている子でした。高校は不登校対策のドリームコースの高校に入って、拒食で入院もしたこともありました。
卒業して自分でホテルの清掃の仕事を見つけて、今も続けているのには本当にビックリです。家族のなかで一番仕事もできないと思っていた子が、最初は上司のキビシイ指導に辞めるだろうと思ったこともあったのに、それにもめげず続けています。
一番下の子は家でごろごろしています。来年3月で卒業ですが、本人はニシムタで働くって言っています。
私も8月いっぱいで夫婦で10年間やっていたコンビニの仕事を辞めて、今は鹿児島で初めての病院内に設立されたコンビニで週5日午後1時から9時までアルバイトをしています。
夫も今までの店長職のプライドもあるだろうけれど、3店舗のコンビニで順番に組み入れてもらって働いていてよかったと思っています。私も全然違う仕事と思っても、やっぱりコンビニが好きなんでしょうね、同じ仕事ですね。けっこうハードですけど気持ちが楽になりましたね。(―――以前は朝の5時から働きづめでしたからね)怒涛の日々だったけれど、今が一番幸せだなと思っています。
―――7月例会で大事なことを言われていました。
「10年経ったら店は立て替えるので、夫は新しい店でまたやりたいと言ったんですけど、夫の体のことを心配するというよりも、夫には悪いけど、自分に降りかかってくるのが怖かったんですね。・・・」
そのくだりを世話人で読み合わせたとき、ジュンさんはずいぶん自分を大切にするようになったね、と感動しました。
今別居している夫から以前は「お前の子育てが悪い」と責められて、何も言い返すことができなくて、常に自分を責めていたあなたが本当に強くなられました。
自分を大切にするようになり、あなたが家族の中心で笑顔でいられるようになった。
その結果、家族も明るくなっていったのね。
達は昨日午前、教員免許状更新講習の担当でした。
板倉さんの「なのに“と言ったらだから”」という発想法を使った例文を作ってもらったところ、一人の女性教員が「お母さん“なのに”自分本位、お母さん“だから”自分本位」と発表したそうです。
たっちゃんといいねえと感心しました。自分本位に、自分を一番大切にしてこそ、お母さんです。
ジュンさんも自分を一番に大切にするようになりました。
子どもは子どもで自分で切り開いていってます。
店を辞めるとき、辞めたスタッフがみんなで寄せ書きをしてくれて、夫は感激して涙がとまりませんでした。私たちはふたりともみなさんから慕われていたんだなあと思って嬉しかったです。
自分と向き合うようになって幸せ かえちゃん
息子はもうすぐ21歳になります。
高1の1学期から行かなくなり3月に退学しました。
言われたように、うちも最初のうちは妹にすごくあたっていました。
(―――自分が不安だからあたるんだよね)そうですね。今は毎日ゆっくりと家で過ごすようになり、それに対して私も違和感はなくなりました。
今は兄妹すごく仲良しです。「お兄ちゃん、いいなあ」と言って、お兄ちゃんも普通に「いいでしょう」と言っています。
息子は中高一貫の私立の学校に行っていましたが、中3の頃から行かなくなりました。違う高校なら行けるかもしれないと思い、私が全ての手続きをして鹿児島市内の私立高校を受験して入学したんですが行かなくなりました。
川内から新幹線通学でしたので、私は行き渋る息子を毎日車に乗せて駅まで送って行きました。息子は鹿児島中央駅のトイレで1日中過ごしたこともあって、とても辛かったと思います。
親の会に参加して、息子に「行かなくていいよ」と言ってからは家で過ごしています。夫も何にも言わなかったです。
でも私の両親から、「大丈夫なの? あなたは可哀想」と心配そうにみられると、「自分は可哀想」と自分が思っちゃうんですよね。
夫の両親も・・・エ〜と、もう今が楽しいので忘れてしまいました(笑)。
不安で辛くてたくさん泣いたし、毎日どんなにしていたかな、ご飯もどうやって作ったかなと思っても記憶がなくて、辛くて、辛くて・・・だったけど、今楽しいことがいっぱい上書きされていくと(笑)、「まっ、いいか、今が幸せだから」という気持ちですね。
―――人間ってとっても辛かったことって忘れるよね。それがまた生きていく力になっていくんだよね。病院に行こうとは考えなかったですか。
まったくそういうことは考えなかったです。親の会に通って、病院は行かなくていいと聞いたし、ここに来る前も行きませんでした。
―――この会に来るようになったのは?
息子が2学期から行かなくなって、インターネットで見たら、一番最初にこの親の会のHPがあって、開けるとその週に例会があると知って、すぐ申し込んで参加しました。
―――今、息子さんは家にいて、それに対して違和感は全くないし、舅姑への気兼ねもなくなって、自分のお母さんの束縛からも解き放されて、毎日楽しく過ごしている。
息子さんに感謝ですね。
「私が一番明るく元気にしていると、家族みんなが明るくなる」と大事なことに気が付いたのね。親の会に行くときも、みんなで「行ってらっしゃい」と言って、お連れあいさんは夕飯を作ってくれるんでしょう。
はい、今日はハンバーグを作ると言っていました(笑)。
去年の11月に夫は心筋梗塞になって、夫婦の絆も強くなりました。
体重も105キロあったのが10キロ落として元気です。
ふたりでお昼ごはんを食べに行ったりします。
「学校に行かなくていいよ」というのがゴールじゃなくて、そこから始まったように思います。
それからが自分との葛藤というか、いやがおうでも自分と向きあわなくてはいけなくなりました。息子には「行かなくていいんだよ。家でゆっくりしていれば」と言いながら、だけど、「私が揺れちゃいけない」とか「揺れたら子どもも揺れちゃう。どうやったら揺れないようになるだろうか」とか最初の頃はすごく思っていました。
自分と向き合うと、自分と親との関係とか、夫との関係とか、向き合わないといけないことが次から次に出てきました。
だけど時間をかけてゆっくりゆっくりやってきて、こんな私でも家族みんなが必要としていて愛してくれているんだなと感じながら元気になってきた感じです。すぐじゃなかったです。
『ツレうつ』の細川てんてんさんじゃないけど(てんてんさんの場合は「夫がうつになって」、私は場合は息子が不登校になって)、今のままのほうが今幸せという感じです。
普通に息子が学校に行き続けていたら、私は毎日不平不満を言って、不機嫌な顔をして・・・、ほんとに息子が不登校になってくれてよかったと思います。
―――『アナと雪の女王』の主題歌「Let It Go 〜ありのままで〜」のように、「ありあのままの姿」「ありのままの自分」「これでいいの」「ありのままでいいの」ってことね。
「いいお嫁さん」を止める しずりんさん
中学のときに不登校になった今24歳の息子が家にいます。
私は息子のことよりも、夫の実家のことが気になっていました。
実家に行くのがとても嫌でした。舅が昨年末具合が悪くなって救急車で運ばれて危なくなり、夫から「おまえも一緒に行くよ」と言われて、夫の実家に行くのが嫌で気分が落ち込んでいたんです。2月に亡くなり通夜と葬儀には行ったけど、そのときの後遺症というかその後しばらく気分が良くなかったです。
―――あなたは27年間も盆と正月はもちろん、毎月夫の実家に帰っていたのね。
うちの娘と夫の妹の娘が同じ年で、夫の実家に孫を見せに帰っていました。
明治生まれの私の伯母から「いい嫁になるんだよ。向こうがあなたの家になるんだから、せっせと帰りなさい」「孫を見せるのが一番の親孝行なんだから」と言われて、何も疑問を持ちませんでした。
舅姑も帰って来るもんだと思っていたから、それでも夫の妹は毎週帰っていたから、私は少ないほうだと言われていたみたいです。
―――そうした考え方に疑問もなかったあなたが、「嫌なことは嫌」「行かない」と心に決めたのはとても大きな勇気でしたね。
親の会で「自分を大切にする」考え方を学んで、おつれあいさんに「私は行かない」と伝え受け入れてもらったとき、友達に「今年はゆっくり家で紅白歌合戦が観られる」とたくさんメールをしたのね。
あの時は私もルンルンで、すっごい嬉しかったです(笑)。
―――息子さんの不登校を上回るほど嬉しかった?
嬉しかった。
夫の実家ではお正月など、私が食事の支度や後片付けをして、ようやく終わって食べようとすると、お鍋が煮詰まって辛くてほとんど食べられないのに誰も気づかない、みんな楽しそうにおしゃべりしている。「私の存在っていったい何なの?」と、もう絶対行きたくないと思いました。
息子が不登校になってくれたおかげで、私も「嫌なことは嫌」「行かない」と決められたんです。不登校になっていなかったら、私はどんなになっていたか分かりません。無理して我慢して行っていたと思います。
―――息子さんの20歳の誕生日のときに手紙で「あなたの不登校のおかげで親の会と出会えて、自分を大切にすることを学んだし、お父さんの実家へも行かなくて済むようになった。ありがとう」と感謝したのね。お舅さんの1周忌も行かなくて良くなったし・・。
私はお通夜や告別式に行って、すごく落ち込んだから「そういう思いは二度としたくないから、行かない」と言ったら、夫もわかってくれて「いいよ」と言ってくれたんです。
今は、あの時落ち込んだのはなんだったの? というくらい元気になりました。(笑)
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