登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 登校拒否も引きこもりも明るい話


TOPページ→  体験談目次 → 体験談 2015年11月
〜2016年6月



体験談

2015年11月〜2016年6月例会より


目次



1 「それがあってよかった!」っていうこと   ちなちゃん

2 子どもたちはタッタッタと階段を上っていく   たかちゃん

3  母の日プレゼント   たかちゃん

4 新婚旅行以来の二人旅   みーやさん

5 「お母さんも僕を心配する余裕が出てきたんだね」   みーやさん

6 この世で生きている大きくなった息子に毎日会える   俊子さん

7  還暦のお祝い   淳子さん・重則さん

8  いろんな生き方があっていい   登喜子さん






「それがあってよかった!」っていうこと

ちなちゃん(2016年5月例会)



20歳と今度16歳になる息子2人です。
次男は小学校1年生の時に行かなくなりました。当時小5の長男が「行きたくない」という時は、学校の途中までいっしょに行ったり、お腹が痛いと言っても「保健室に行けばいいよ」と当然のように行かせて、「1学期に2、3日は休んでもいいよ」と私が勝手に決めて学校に行かせていたんです。

次男は「行かない」と言って私の言うことは絶対に聞かず、そのうち長男も行かなくなりました。ホームスクーリングの方法があると知ってドリルなどを家でやったりしました。

その頃私は、うちの子どもは学校に行かないで「家でやっています」と周りに言いたかったんです。市の教育相談にも電話したんですけど、あちこち5ヶ所ぐらいたらいまわしにされました(笑)。教育センターで話すと、「各学校の校長の裁量に任されています」と言われました。校長にも、「うちの子は学校に行きたがらないので、親が首に縄をつけて行かせられません」とお話ししました。


―――初めて例会に来た時、ちなちゃんは鼻息荒かったものね。(あらかったですねえ)(笑)


ホームスクーリングも、私のイメージでは、家で小学校程度の読み書き計算はできるようにさせなくては、という感じでした。子どもがしたくないと言う時はケンカになったりしました。

私は「そんなんだったら、将来仕事もできないんだよ、山で裸で生活しないといけなくなるんだよ」(笑)と言って漢字を書かせたりしていました。今では笑い話だけど「そんな山で裸の生活してたら、ママが警察に捕まるよね」と言われています。(大笑)

家での勉強も、この会に初めて来たとき「させなくていい」と言われて、反発してボチボチやっていたんですけど、だんだんここでの話もあってさせなくなりました。

子ども同士の交流もあった方がいいんじゃないかと思って、たまたま新聞で見つけたフリースクールにも行きました。ひとり月、3万5千円、ふたりで7万かあ(笑)と、入る時に兄弟割引を交渉して1割引きしてもらえて、言ってみるもんだなと思いました(笑)。

最初のうちは、張り切って週5日を1年ぐらいは行ったかな。だんだん息子たちは毎日じゃなくていいよと言って、最終的には週1とか、遠いので、そのうち行かなくてもいいやとなりました。


―――あなたの肩の力がどんどん抜けていきましたね。その後は何もしなくなったの。


ほんとに何もしなくなりましたね。(―――気持ちが楽になったでしょう
楽になりました。だから、動物園・水族館・科学館の年間パスポートを作って、みんなが学校行っている平日に行って、サービスが良くて、特に科学館は良かったです。

(―――「どうして平日に来ているの」と言われなかったの)全然言われなかったですよ。映画もあったりして楽しかったですねえ。


―――学校からの連絡はどうでしたか。


特に小学校のほうが熱心で、若い女の先生がクラスの子たちの手紙を持ってきて、「早く元気になってね」と書いてあって、「病気じゃないのにね」と言ったりしていました(笑)。

私も「そんなに家に来なくていいですよ」と担任に言ったんですけど、「いやー」と言うので、「来たかったら来ていいですよ」と言いました。


―――長男さんは通信制卒業後におつれあいのしろりんさんのお仕事を一緒にして、次男さんも通信制高校に行くかなと思っていたら……


次男もそんな感じで行くのかなと思っていたら、入学式のあとしばらくして「行く意味が分からない、意味ないし」と言われて、ガーンとなって(笑)。

今まで、「学校は行かなくていいんだよ」と言っていた自分の気持ちは何だったんだろうと。「今からいろんな人と出会ったりして、人生に無駄なことはないんだよ」と言ったりして(笑)……

今は次男が家にいることに違和感がなくなって、私の不安はなくなってよかったです。

今また普通に家で特に何を求めるわけでもなく、たまに夫の仕事をパソコンでやっています。もうパソコンは私の領域じゃなくて、あれ、今何を話しているのか分からないです。(笑)

毎日の暮らしも本当に肩の力が抜けてきました。
以前だと、たとえば朝のトイレ掃除当番を決めたり、そういうことも大事かなと思っていたこともあったんですけど、それもしなくなりました。やっぱり変だなと気づいて(笑)。

食事の支度も、以前は「何で私だけ、お手伝いみたいだ、私はお手伝いじゃない」と、しろりんによく言っていたんですけど、(―――その頃だったの、よく家出していたのは)そのちょっと前から時々あったんです。調子がいい時は、すごくいろいろ作ったりしていて、なんだ!私は楽しんでいると気がついたんです。今はすごく楽しみです。好きなゴスペルも歌ったりおしゃれも楽しんで、すごく幸せです。 


―――学校に行かない子どもたちに対する不安はもう何もない。


ないです。多分今度こそないと思います。(―――不安が出てくるというのは、絶好のチャンスなんだと思えばいいんだよね)ほんとそうですね。

先日夫と長男は仕事関係で飲みに行ったので、私は次男と二人で夕飯を食べに行ったんです。その時に、何でそんな会話になったのか思い出せないんですけど、私が、「今すごく幸せ」「でも、昔は自分のことが嫌いで嫌いでたまらなった」「それの最終形が自分を殺したかった」という話をしたとき、次男にすごいことを言われたんです。

「じゃあ、それがあってよかったってことだね」「そこがあったから今の幸せがあるんじゃないの、気づけたってことじゃないの」と言われて。

私はびっくりして、「うん、そうかも」(笑)「うれしい!」「あのとき死ななくてよかった」と言いました。


―――すばらしいね。家族から幸せをいっぱいもらっているよね。


そうなんです。お世話しているつもりだったんですけど、「とにかく真逆だったんだよね、あなた達から私は相当教えられているのね」と言いました。






子どもたちはタッタッタと階段を上っていく

たかちゃん(2016年4月例会)



―――たかちゃんは先月、10年来別居しているおつれあいさんと東京旅行に行かれましたね。例会での次の話、面白かったです。


娘のリクエスト「おそ松さん」のグッズを探しました。おそ松くんの大人版で、25歳で誰も働いていなくて、「働いたら負け」と言う漫画です。私は「働いたら負け」と描いたTシャツを2枚買いました(大笑)。

たかちゃんは3人の子どもさんが不登校だったのね。


今24歳の長男は小6の頃から行き渋りがありました。中学で息子より体の大きい子に無理強いされて剣道部に入ったようなんですが、剣道部を辞めた頃から学校にも行きたくないという感じでした。

その時は最初の子どもだったし行くのが当たり前と思っていたので、夫婦で担任といっしょになって、行かせよう行かせようとしていました。息子がトイレに閉じこもってしまって、夫が「10数えるうちに出てこないとドアを破る」と言って、本当に破ったんですね。それを下の子たちも見ていて、だから相当怖かったと思います。

そのうち息子は自己否定が強くなって、物に当たったり、薬をいっぱい飲んだり、リストカットをするようになりました。16歳の時にアルバイトの面接を受けましたが採用されなくて、またそこで落ち込んだりとなかなかうまく行きませんでした。「2階から飛び降りてけがをしたら障害者年金をもらえるだろうか」とか、親に迷惑をかけないようにと考えていたんでしょうね。

22歳の時に自分で探した食肉加工場で働き出したんですが、初日から夜の10時まで働いて、私はびっくりして、たぶん3日も持たないだろうと思ったら、根性がある子なんですね、頑張ってそこで半年働きました。

その後、通信制高校の手続きもして、バイクの免許も取ると自動車学校にお金を払い手続きもしたんですが、結局行きませんでした。でも自分のお金で払っていたので、私は何も言いませんでした。

今は家の近くのやっぱり鳥肉のお店で働いているんですが、1時間前から出勤し準備をして、最後もみんなが終わるまで手伝って仕事をしているそうです。社長さんが息子を可愛がってくれています。

もともとしゃべらないしすごく心配していたんです。コンビニを経営していた時に、夫に「息子を雇って」と言ったことがあるんですが、「あんな子を雇ったら客が来なくなる。店の信用問題だ」と言って雇ってくれませんでした。でも、今息子はレジもやってお客さんとも接しています。

今22歳の娘は高校のドリームコースに行きましたが、やはり行けなくなり途中で通信制に変わりました。拒食で入院もしましたが、卒業後ホテルの清掃の仕事を見つけてきて3年間働きました。今はそこを辞めて掛け持ちで仕事をしています。彼もいてつきあっています。


―――運動会のとき娘さんが母親のたかちゃんと話しているのを周りにいたクラスメートが聞いて、「○○ちゃんは話をするんだ」と驚かれたことがあったのね。


そうなんです。私もそんなに話しをしない子だったのかとびっくりしました。
学校では言葉が出なかったみたいですね。

もうすぐ20歳になる次男は中学に入ってから行かなくなって、その時私は本当に落ち込みました。きょうだい3番目で成績もよかったし、この子だけは行くだろうと思っていたんですね。

でも中学校は不登校でした。高校は娘と同じドリームコースに行きました。赤点がたくさんあってこのままでは卒業できないと言われた時に、私はそれは息子のことだと思って何も言いませんでした。息子はすごくがんばって答えを全部暗記して試験を受けて、全部合格点を取って卒業することができました。「あのとき、お母さんが何も言わなかったからできたんだよ」と言いました。

次男は今スカイマーケットで働いています。毎月私と夫に5000円ずつおこづかいを渡して、他に水光熱費と言って1万円を渡してくれます。「いらない」と言っても「渡さないといけないような気がする」と言ってくれます。今まで子どもなりに見ていたんだと思います。こんな日が来るなんてと驚いています。


―――「今のままでは卒業できない」と学校から言われたときも、息子さんに何も言わなかったというのが素晴らしいよね。私は感動しました。

息子さんは「お母さんは昔、いろいろ言ったよね。俺が中学校に行かなくなって2階でふさいだときさ。また同じようなことを言われたら俺はやっていなかったかも」と言ったそうですね。

3番目の次男さんが不登校になったとき「あんたもこうなるの。あんただけはと思っていたのに、もうがっくりだよ」と言ったのね。でも、初めは否定していた子どもたちの不登校に、あなたは救われたのよね。

今振り返ってみたら、三人の不登校の子どもたちに助けられて幸せになれた、ということですね。



はい、そうですね。
本当に大変な時期を積みましたが、よかったなあと思っています。


―――そしておつれあいさんとは「来年は北海道に行こう」と話しているんでしょう。本当にうれしいです。初めて参加された方にお伝えすることはありませんか。


私も初めは、フリースクールとかいろいろ連れて行ったんですが、親にその気があっても子どもが行きたがらないんですね。家にいたほうが安心感があるのか、ずっと家でパソコンをして自分の世界を大事にしていたように思います。

食事の時は下りてきて、外は床屋にも行くし本も買いに行っていました。本人はすごく考えているんだと思います。だから何も心配することはないですね。

私は仕事も忙しく、夫の問題もあったし、親の介護もあり、自分のことで精一杯で、子どものことを考えている暇がなかったんですね。

お兄ちゃんが働きだす前は、自分は太っているからまず痩せないと、と毎日DVDを見てダンスを1時間し、ウォーキングもしてやせたんですね。

そして息子たちが家の手伝いをするようになって、「大丈夫なの?この家」と聞かれたことがありました。私がとにかく大変だったので、やっぱり見ていたんでしょうね。私は当時コンビニのほかに訪問介護もして働いていたんですね。


―――いま安心しておられるのね。同居していたお母さんはあなたがこのままいなくなってしまうんではないかとものすごく心配されましたね。


はい。私は仕事から帰ってもすぐ車から降りられなかったんです。どうしたらいいんだろうとずっと考えていました。母からそう言われて、必要とされているんだな、と思いました。


―――よかったですね。(なんとかなるものだなと思います)そうなるまで10年くらいかかりましたね。


子どものほうをあまり見ないほうがいいのかもしれないですね。子どもたちは自分で階段を登り始めたら、タッタッタと登っていってしまうんだなと思います。

この会で、子どもが自分でやったことはちゃんと自分で責任をとっていく。親が先走ってやってしまうことは生きる力を削いでいくというのは、本当にそうだなと思います。

お兄ちゃんにネットで知り合った友達ができたんですよ。その子は名古屋の子で、この間連れて来たんです。とっても優しくていい子だったんです。今日は2日連休だからと言って息子が名古屋に遊びに行っています。友達ができてよかったね、と言っています。

友だちがいないときが長くても心配いらないです。必要とするときは自然とできていきます。






母の日プレゼント

たかちゃん
(2016年5月例会)




―――たかちゃんの体験も「親が『しない』と子どもは『する』ようになる」という大事な教訓がたくさんちりばめられています。3人の子どもたちが不登校してくれたから今の幸せがあるのね。


私は、以前とっても大変でした。自分がやらなきゃと必死で、自分のことは二の次だったんですね。今振り返ってみて、あらためて「自分を大切にしなくては」とつくづく思いました。

子どもたちは本当に親思いの優しい子たちです。
先日の母の日はとても嬉しかったです。3番目の弟がカーネーションの鉢植えと、それだけでもすごいのに、ハーゲンダッツのチョコもプレゼントしてくれました。

一番上のお兄ちゃんは、みんなと同じカーネーションじゃ面白くないからとあじさいの鉢をプレゼントしてくれて、「ふたりともありがとう、ほんとに嬉しい」と言いました。

娘も彼と釣りに行ったと言って、釣った魚とてんぷらにしたものを写メで送ってくれました。とてもうれしくて、幸せがいっぱい伝わってきて、あんなに拒食やリストカットで苦しんだのに、つきあっている彼にもありがたいなあ、これが一番だなと思いました。

つい先日、夫としみじみ話したんです。

「担任との約束を守れず学校に行かなくて、お兄ちゃんは担任に土下座したことがあったよね」「まさかそこまでするとは思わなかったよね、それだけ私たちが追い詰めていたんだよね」「あのとき、お兄ちゃんに味方は誰ひとりいなかった。みんながみんな学校に行かせようとして、行かなくていいよという人は誰ひとりいなかった。本当に辛かっただろうね」

「だから自分が悪い子なんだと思いつめて、行けなくてごめんなさいというあの子の精いっぱいの気持ちで土下座したんだね」「今でこそ、こんなふうに話しできるけど、思い出すと辛いよね」「そのお兄ちゃんが、それからも自己否定して、薬を飲んだり、リスカをして苦しんだり、辛いことがたくさんあったけれど、自分の力でここまで来れたのはすごいよね」と。

私たち親が何も言わなくなって、子どもたちはしっかりと自分で生きてきた、ほんとうにすごいなあと思います。

本当にわが子に感謝です。だから母の日のプレゼントもとてもとてもうれしかったんです。子どもたちは優しいなあとすごく思いますね。

私は、息子が学校に行かなくていいと思うようになるまで、とてもたくさんの時間がかかりました。2番目の娘が不登校対策のドリームコースに行くと言うので、親だから期待してしまうんですよね。朋子さんが「高校は行かなくなりますよ」と言ったことがあったんです。せっかく行くと言っているのに、ウソだと思っていたけど(笑)、やっぱり行かなくなりましたものね。

いっぱい子どもたちに教えられました。私自身が家族に支えられて、幸せをたくさんもらうことができたと心から感謝です。






新婚旅行以来の二人旅

みーやさん
(2015年11月例会)




―――みーやさんは9月の例会では、毎晩10時、12時までの残業でクタクタの毎日の上に、部下の女性職員との関係がうまくいかず、ストレスも重なり心臓がバクバクしてニトログリセリンをもち歩いて、なんとか一日一日を過ごしているというお話しでしたね。夜はまだワタミのお弁当をとっているの?


家族はみんな「飽きた」と言って(笑)、週数回にして、あとは私が帰宅してから鍋の準備をして、10時から11時が夕食時間です。今も遅いのですが、早い時は8時頃帰宅できるようになりました。玄関に弁当の保冷箱が置いてあっても、誰も取り込まないで、じっと私の帰りを待っています。(笑)

洗濯だけは夫がして、掃除は私が土、日にしています。
今は、土日は完全に休みですけど、以前は土日も1日は出勤していました。


―――心臓はどうですか?


9月のシルバーウィークの5連休のときに、子どもたちをどこにも連れて行かないのはかわいそうだなあと思って、霧島の「まほろばの里」へ行ったんですが、歩けないくらい気分が悪くなってしまいました。しかし5日間ゆっくり休めたので、10月からは全然痛みはありません。


―――9月例会の頃は、あなたは部下に言うことも言えず、上司から指摘されても言えずにもんもんとして、ストレスがたまって、そういう自分を否定してしまったのね。


今でもはっきり言えずにストレスはストレスです。私は小さい時から人と争ってまでやるというのが嫌で、今までずっと人とトラブルをおこすことなく20年以上やってきました。

今は管理職なので相手を無視することもやりすごすこともできません。でも自分は変わりようがないので、ダメな上司といわれようがどうしようが自分は自分のやり方でやっていくしか方法がないと思っています。私の上司は「もっと強く言って部下を押さえないとダメでしょう。指導力がない」と言いますが、「できない自分を評価して下さい」というかんじです。


―――9月の例会のときとは考え方を変えて、強くなられました。すごいじゃないですか。


あの時は本当にきつくて泣いてしまいましたものね。

でも、今は自分で自分のいいところを自己評価しています。私の部下で病気になって療養休暇をとった人は誰もいませんでしたから。「私がみんなを助けて来たからだよね。やりなさい、やれないでどうするの、ときつく言っていたら、きっと1人ぐらいは倒れていたよね」と自分をほめています(笑)。

「あなたが上司だったから、僕達は激務に耐えられました」と言ってくれる人もいました。でも少し仕事が落ち着ついてくると、「自分みたいな上司はきっとダメなんだろうな」と思ってしまいます。


―――あなたのお話しはとっても大事ですね。いじめについてとても問題のある考え方ですが、「いじめられる子は弱いから」と言われることがありますね。被害を受けたほうに問題があるという、とんでもない考え方ですよね。


そうなんです。私の次男がいじめられて不登校になったのは、親の私が弱いからそうなったんじゃないの、と言われているんじゃないかと思ってしまうんです。


―――今回の体験で、次男さんがふたりの同級生からいじめられて不登校になって少しふがいないと思っていたけど、自分は部下との関係がうまくいかず、ニトロをもち歩くようになり、次男の気持ちがよくわかった、また精神薬を飲みつつ働きつづけてきた夫の気持ちもよくわかるようになったと言われたことがとっても大切で、大事ですよね。(はい)

ご自分の今回の体験がとってもいい結果をうんだと思いますよ。そうでないと、「いつも寝てばかりで、何もしてくれない夫」といった評価のままで愛情が薄らいでいったと思いますよ。


はい。実は先月甥の結婚式が広島であったんです。最初、私は家族4人で結婚式に行こうと思ったんですが、18歳の長男は「行きたくない、行っても楽しくない」と言ったんです。中2の不登校の次男は旅行好きで行きたそうだったんですが、でも今回はなぜという理由もないけど、「夫とふたりでいこう」と思ったんです。(―――すばらしい、大革命だね)(笑)

結婚して17年ぶりくらいの2人での旅行でした。子どもたちは「ええ〜!」と言っていましたが、2人でちゃんとご飯も食べてしっかり生活していました。

夫との旅行は楽しいというより、とても楽でしたね。先ほどお話しにあったように何にも気を使わなくて自分のままでいられました。

実はその2週前、出張で上司と宮崎へ行ったのですが、少しも楽しくなくて、本当に気を使ってばかりでとっても疲れました(笑)。ちょっとした観光で延岡城へもお供しましたが全然楽しくなかったです。2週間後に夫と新幹線に乗って出かけた旅は、気を使わないし、好きな物も食べられてよかったです。(笑)


―――あなたはその部下さんに感謝ですね(笑)。夫や次男さんの気持ちがわかったし、自分のことも自己否定しないですみましたしね。


夫は永年勤続25年の特別休暇を3日間とって、昨日からひとり旅へ出かけました。

いつも家族旅行は私がすべて計画を立てて、切符や宿泊の手配からすべて私が段取るのです。しかし今回夫は10月から綿密にスケジュールを立てて、切符の手配など一切自分でしたんです。お金も自分で出したので、私はかわいそうに思って1万円お餞別をしました(笑)。

夫はもともと旅行好きで、日本でまだ行ったことのない県は6つか7つで、今回は岡山と四国に行きました。


―――人生のビックチャンスでしたね。次男さんの気持ちもよくわかり、新婚旅行以来の2人きりの旅行もされて、おつれあいさんとも仲良くなって。前に2月のバレンタインデーのときに「私がもらったゴディバのチョコを夫が全部ひとりで食べてしまって…」と話したこともがありましたけどね。(大笑)


今回、夫が5日間ひとりで旅行に行ったことを私の母に話したら、母は「なんて冷たい人だ。普通は妻子を連れて行くものだ」と言いました(笑)。でも私は今回これっぽっちもそうは思わなかったんです。夫が土曜日の朝出かけた時、わたしは寝ていて、いつ出ていったのかも覚えてなかったんですよ。(大笑)


―――今まであなたのお母さんが夫を批判し、子どもさんたちやあなたもそう思っていたところがありましたものね。


長男は今でも「僕がこうなったのは遺伝子を受け継いでいるからだ」と言います。(笑)


―――家族には安心して自分の弱さもさらけ出せる。心を温めてもらえる家族以上に大切なものはない、と私は思っています。夫婦の関係がよくなってよかったですね。きっといいお土産話も聞けますよ。


じつは次男は先週期末テストだけを受けました。10月末頃から、「あと1ヶ月で期末テストだ」と言ってパラパラ教科書を開き始めたんです。私は「うそでしょう」と思っていたんですが、実際受けたのでびっくりしました。

久しぶりに制服を着たら小さくなっていてびっくりしたんですが、でも「あげ」をしていたから、なんとかそれをおろしてセーフでした(大笑)。組章もなくしていて、靴も小さくなっていて、とりあえずテストの時はぬげばいいからと思って(笑)。

「心の相談室で受けたい」と言ったので、「もしかして、お母さんを喜ばすためにテストを受けるんだったら受けなくていいから」と言うと、「いや、僕はテストが好きなんだ。順番がわかるのがおもしろい」と。「でもね、ビリに近いと思うよ、ショックを受けるかもよ」と言ったら、「当たり前だよ。僕学校へ行ってないんだからビリは当たり前。そこから1人抜き2人抜きしていくのがおもしろいんだよ」と言うんです。

これは本気だと思って、私は3日間、時間給をとって車で送り迎えしました。でも学校って本当に変なところで、「進歩」と思っているんですね(笑)。テストを受けに来たことを、おそらく期待しているんでしょうね。

もうひとり同じクラスには不登校の女子生徒がいるんですが、担任は夏休みの終わり頃私に「○○さんは2学期から学校へ行くと言っていますよ」と言ったんです。その子は来るようになったらしいです。もうひとり学年に不登校のお子さんがいて、その子のお母さんとはメールでときどきやりとりしています。「学校へ行くことを条件にパソコンを買ってやった」と夏休みの頃、言っていました。2学期は少し行って、ちょこちょこは登校しているみたいです。

担任いわく「お母さん、ついに○○君が学年でひとりになりました」と(笑)。なんなんだろうか、その言い方はと思って。その担任は女性のベテラン教師で夫も中学教師です。校長や教頭から、「よくやった、がんばったな」ときっと言われているんだろうと思います。行かないと本人も言っているし、私も行かないだろうと思っているのに、私とは全然相性が合いません。(笑)


―――兄弟仲はどうですか。


それがおかしいんですよ。「俺はテストを受けた。兄ちゃんは受けなかっただろう」と勝ちほこったように言って(笑)。長男は将棋で遊んでいて今ひとりでは外出しません。次男はユーチューブやゲームで、昼食の準備ができていないときお金を置いておくと、ファミマへ行っておにぎりなど買ってきていますけれど、それ以外は外へ出ませんね。


―――部下のこともなるようになる。私は私流でいくと思えるようになって、少しストレスがなくなってよかったですね。


日曜日の夜になると不登校の子どもと一緒で、「明日またあの人と会わないといけない」と思うと憂鬱です。10月は部下のほうが体調が悪いとしょちゅう休んでいましたけど、私との関係ではなく、本人は胃が不調のようでした。


―――みーやさんのやさしさは必ず伝わって職場も円滑にまわっていくし、家庭の中もうまくいくようになりますよ。今日はほめてほしいと言っていましたね。


ほめてほしいのは、夫婦ふたりで旅行に行ったことです。退職したら、2人で旅行なんて絶対ないだろうなと思っていましたけど、もしかしてできるのかな、と思っています。


―――以前は、「ダメなんです。もうこのままなんです」とあきらめていたけど、時間は必ず解決してくれるのね。なんと言っても好きあって結婚したんですから。自分が幸せなんだと気づかれてよかったです。


長男は「20歳でもうダメだ」「幸せに生きたいけどそれができないから、もうどうしようもない」とよく言うんです。

親戚に両親の亡くなった後も働かないでとじこもっていた53歳の女性がいるんです。県外に住む姉も遠くて、あまり世話できず、お金も底をついて一切連絡がとれなくなったんです。民生委員さんが訪ねていくと電気も水道も止められる手前だったので、生活保護の申請をしようとなったんです。しかし市もやすやすと保護は認めません。市はその家に積立式の火災保険がかけられていたのを調べてきて解約させて、しばらく食いつないでそれがなくなったら保護を考えるとなったんです。

その話を長男にしたら「俺もそうなる。でもおれは絶対保護はもらわない。その時は潔く死ぬ」と言うんです(笑)。でも親の資産を食いつぶすには、まだまだ何十年先ですものね(笑)。息子はすごく落ち込んで何日か元気がありませんでした。言わなければよかったと思いました。


―――みーやさんは50歳、おつれあいさんは?(51歳です)まだまだお若い(笑)、自分をちゃんと肯定して家族の愛を感じて、堂々と生きて行ったら何も心配ありませんよ。必ずうまくいきます。鹿児島の親の会の多くの経験が教えてくれています。






「お母さんも僕を心配する余裕が出てきたんだね」

みーやさん
(2016年6月例会)



先月、次男はフレンドシップに行ってもお弁当を食べていなかったということがわかって、「フレンドシップに行くのは無理しているんじゃない。行かなくてもいいんじゃない」と言ったんですが、でも次男は毎日行っています。

今日は長男の話で、今18歳です。実は先月20日に、私は5年前と同じような最悪の体験をしたんです。今は私も割と早く仕事から帰れるので、入院している母のところに毎日寄ってから家に帰るんです。その日はちょっと遅くて7時くらいに家に帰ったんですね。

息子は今歯医者に行くようになって、その日は3時から歯医者だったんです。歯医者に行くときは必ず着替えていくんですが、洗濯物が洗面所にあったので、ああ歯医者に行ったんだなと思っていました。でもまだ帰ってきていないのは帰りに図書館にでも寄っているのかなと思ったんです。4月以降息子は自分で出歩くようになっていました。

しかし8時になっても帰ってこず、図書館は9時までだしと自分に言い聞かせて待っていたんですが帰ってこなくて、9時10分くらいから私は車で近所をぐるぐる探したんです。9時半になっても帰ってこなくて、私はこれはやばいとすごく心配になりましたが、県立図書館に行ったのかもしれないと思ったり、でも9時40分になった時点で、夫が「捜索願いを出すか」と言い、警察に電話をしました。

で、電話でいろいろいろ聞かれて、「財布はありますか」と聞かれ、財布はあったんです。「遺書かメモはありますか」と聞かれて、その時になって初めて長男の部屋に入っていろいろ見てみたら、いつも息子はメモをする子で手帳が置いてあったんですね。

その日のところに歯医者と書いてあって、その後○○○とメモしてあったんですが、その○○○という3つの漢字がどうしても読めないんです。最後の文字がどうしても「死」という文字にしか見えなくて、私は「首吊死」と読んだんですね。私はもう不安になって、もっとめくっていくと、前日のメモに「夕食後に虚脱感、むなしい、やっていけない、死にたい」と書いてあったんです。

私はもうだめだと思って、震えもきて、夫といっしょに中央警察署に出かけました。
着いたのが10時10分くらいです。手帳と財布と写真を持ってきてくださいと言われたので、とりあえずそれを持っていきました。そこでいろいろ聞かれて正直に話したわけです。

じつは中学の時から不登校で、小さい時から「死にたい、死にたい」と言っていて……と。すると向こうもだんだん真剣になってきました。決定打は前日のメモの「死にたい」ですよね。

最近は「死にたい」なんて言っていなかったし、4月からは出歩くようになっていい方向に向かっているんだと勝手に思い込んでいたんですね。だから、逆に今回は本気なのかと思いました。何も言わずに決心して身を消した……

息子は小さい時から手を焼く子で小3、4の時もいなくなって、車で探し回ったりということがありました。あの時と比べると大人になっている、ほんとうに何も言わないでするかもしれない……。

怖くなって震えながら、いよいよ夫が捜索願いを書こうとした、最初の行を書いたかどうかのときに弟から「兄ちゃん、帰ってきたよ」と電話がありました。

後ろで元気な兄の声が聞こえるんですね。「どこに行っていたの!」と聞くと、弟が「○○くんちだって」と言いました。不登校になった当初からいっしょに遊ぼうと言ってくれる子がずっといて、その子の家に行っていたんですね。私が「死」と読み間違えた字は「○○宅」と書いてあった「宅」だったんですね。(大笑)

家に帰ってから息子に中央警察署に行っていたとは言わずに、「県立図書館に行ったと思って、歩くのが疲れて途中で座り込んでいるんじゃないかと思って、お父さんと探していたんだよ」と言いました。

「何でこんな時間まで。今までこんなことはなかったじゃない」と聞くと、息子は「今までもあったんだよ。お母さんはいつも帰りが遅かったから知らないだけだったんだよ。お父さんはいつも寝ていたじゃない」と言われてしまいました(大笑)。

そして最後に言われたのが「お母さんも僕を心配する余裕が出てきたんだね」だったんです。(大笑)

でもその話とは別で、手帳に「押しつぶされそうだ、やっていけない、将来が見えない、不安だ」といろいろ書いてあるのを見てしまったので、この1ヶ月は私は落ち込んでだめなんですね。

やっぱりこの5年間本人はずっと変わっていないんだと思ったら、先月は例会で「死にたいと言っているけど、そうではなく生きたいと思っているんだ」と偉そうに言ったんですが、やっぱり辛いんだな、かわいそうだなと思って、もやもやして過ごしました。

息子は5月○○日が誕生日で、誕生日前というのも私の思い込みを増長させてしまいました。息子は20歳で死にたいとずっと言っていたものですから、それを1年早めて実行しようとしたんだなと考えてしまったわけなんです。もう私は生きた心地がしませんでした。


―――(内沢達):僕の意見ですが、中央警察署まで行って相談したこと、捜索願いを書こうとしたこと、そこまで心配したんだということを隠さず息子さんに話したほうがいい、と思います。そうしないとみーやさんの今回の話は終わらないのではないでしょうか。

息子さんは、虚脱感やむなしさもあって、いま現在まったく辛くないわけではないでしょうが、今回、不安でいっぱいになったのは、勘違いしてのこととはいえ、間違いなくみーやさんやおつれあいさんのほうで、息子さんではありません。

僕らは誰でも大変になったとき、自分だけではどうしようもないということがあります。そうしたとき他に助けを求めていいわけです。警察に正直に話したんですから、息子さんにも、いや息子さんにこそ、正直に話したらどうでしょうか。そうしたら、自分の課題に取り組んだことになります。

普通、親が子どものことに一生懸命になるのはいいことだと思われています。僕の考えはまったくちがって、それはほとんどよくないことだと思っています。

子どものことは子ども自身が一生懸命になればいい。親が子どものことに一生懸命になるのは、子どもの応援にならないどころか、ほとんどの場合子どもの辛さを助長し、自立の妨げです。親は子どものことではなく、自分のことに一生懸命になったらいいんです。

文章(プリント)になったのは昨年2月からですが、僕は例会時に度々みなさんに、「自分のために、自分の課題に取り組む」ことを提案してきました。それが本当のところ、副題にあるように「親がわが子のためにできること」です。

普通、子どもが不安になるのは仕方なくても、親はしっかりしていなくてはいけないように思われています。でも、同じ人間で、親だってもちろん不安になることがあります。かまいません。

そのとき大事なことは、自分のことを背後に追いやらないで、僕の別の文章のタイトルの一つにもありますが、「一人称で、いつも自分自身について話す」ことだと思います。「お父さんやお母さんは、中央警察署に足を運ぶほど、こんなにも心配したんだよ」と話されたらいいと思います。

自分の不安や弱さを、相手がわが子だからこそ、さらけだしてみませんか。息子さんは「お母さんは何をばかなことを心配していたの!? 僕がいろいろ出かけるのは知ってるでしょ! 可笑しいな」と笑い飛ばすかもしれません。

そしたら、また率直に「でも、あなたの手帳にはお母さんが不安になることがいっぱい書かれていたし、あなたは小さい時から“死にたい。死にたい”と言ってきたでしょ」と答えればいいんです。

息子さんは、どんな反応をするでしょうか。きっと、親の状況をとらえた、的確なことをいろいろ言ってくれるのではないかと僕は予想します。つい数ヶ月前も息子さんはみーやさんの働きすぎを「あぶないよ」と冷静に見て、心配してくれていたのですから。

親はどうしてわが子に自分自身の弱さ、至らなさをさらけ出したり、率直になれないのでしょうか。一つは親はしっかりしていなくてはいけないという固定観念にしばられているからでしょうし、もう一つはほとんど無意識ですが、「子どもの問題」「子どものため」と考えていて、後ろめたさも手伝って自分を出すことを躊躇してしまうように思います。

息子さんは中学時代から不登校であってもゲーム大会参加その他で市内を歩き回っていました。今回も友だちの家に遊びに行っていただけです。「心配しないで信頼する」。ますますわが子を信頼していいことが明らかになりました。ここで終わってはもったいないです。

「子どものため」にいいのかどうなのかと考えるから、わからなくなってしまいます。「自分のため」と考えれば、子どもに変な気遣いをしないで、自分の課題に取り組めるはずです。取り組みの結果はどのようなものでも自分の成長の糧になります。

この間のみーやさんの気持ちのゆれうごきを正直に率直に、息子さんに話してみませんか。


手帳は私たちが持っていったことに気付いていて、息子が「見たんだね」と言いました。「こんなふうに思っているんだね」と言ったら、「昨日だけのことじゃない、いつも思っている」と言いました。私はこの子が死ぬんじゃないかという不安をいつも持っているというのを息子に知られたくなかったので、警察に行ったということを黙っていたんです。


―――とってもいい体験を息子さんからもらいましたね。今の話もそうですが、親ってどうしても、人生の先達者として何かしないといけないと思っているんですね。だけど子どもは、自分でいろいろぶつかりながら生きていく、生きる力を身につけていく、親はその伴走者として一緒に生きていけばいいんです。






この世で生きている大きくなった息子に毎日会える


俊子さん(2016年2月)




息子は25歳です。高校1年の時に、部活のいろんな辛いことが原因になって行けなくなって高校を辞めて、それから5年間家にいたんですけど、やっぱり高認を受けたいと言って、その時動き出したのは突然だったような気がします。

1年間予備校に行って高認をとり、専門学校に行って1年半は行きましたけど、また突然行けなくなって辞めて家にいるようになって、また1年経ちました。 

今はこういう時期なんだろうと思って暮らしているんですけど、先日、ちょっとした知り合いが、「子どもさんを叱るという訳じゃないけど、たまには活を入れたりするのも必要なんじゃない」と言われたので、以前だったら「まあ、なんてこと言うの、こんな人とは付き合いたくない」と思ったんですけど、自分にもゆとりができたんでしょうね。

「別にこの人も悪気があって言っている訳じゃないし」と思って、「そうだよね、でも、最初の一歩はどんなに辛くても自分で動きださないとね。だから私は何もしないの」と言うと、その人も何も言わなくなりました。自分にもちょっとゆとりが出たのかなと思いました。



―――俊子さんがすごく堂々と見えたんだろうねえ。以前はちょっとした顔見知りの人にも会いたくないからと言って、買い物も近くのスーパーではなくわざわざ遠くまで行ったり……


そうです。今でもあまり近づきたくないんですけど、そう言われても「日々いっしょに暮らして、これでいいと夫婦で決めているの」と言えるようになってきているし、でも不安な部分ももちろんあります。

息子はずっと家にいて、もちろん昼夜逆転していますけど、時々時間がずれて朝同じ時間になったりします。先日雪が降った時、隣近所がみんな雪かきしているんです。うちは夫が風邪をひいていたので、夕方私がしたんです。「お母さんが始めたぞ」と夫が息子に言ったんですって。

息子も出てきて二人でしていたら、前の人が「スコップは先が尖っているのじゃなくて、まっすぐなのがいいんだよ」と息子に貸してくれて、後は息子がしてくれて、「あっ、たまには役に立ったじゃん」と思ったりしました。

でも毎日役に立つわけじゃなく(笑)、1月の親の会から1ヶ月の間に、1回だけ役に立ったと言うのがあったというくらいで(笑)、後は、スマホかゲームをしています。それを、あまり気にしないようにして、私は自分の生活を日々送っているというそんな感じですね。



―――最初に親の会にいらした時には、息子さんが高校中退を自分で決めた後で、あなたは当時とても辛かったのね。


そうですね。高校に行けなくなった時にも、もうこの子の人生は終わりだというくらいの気持ちで、そしてここに来た時も「どうやったら、元の位置に戻せるのか」と、そういう感じで来たんですけど、それから8年、日々安心を積み重ねていって、今日があるという感じです。


―――波も少しばかりたつけど、心穏やかな毎日を過ごせているのね。


そうですね。体が病気だという訳じゃないし。この間スーパーで、息子と同級生のお母さんとばったり会って、その方は中学2年の時に息子さんを白血病で亡くされた方なんです。

私が「高校やめてしばらく家にいて、それから専門学校に行ったけど、また家にいるのよ」と言ったら、「いいじゃない。この世で生きている我が子に毎日会えるんだから」と言ってくれて、また自分自身を納得させることができました。

たしかに「この世で生きている大きくなった息子に毎日会える」という思いで暮らしています。

でも、しずりんさんのお話のように、やっぱり、突然動き出す日はいつなんだ、という思いはずっとあるし、そんな日が来るんだろうかという思いもあります。けど、私が息子の代わりに息子の人生を歩くわけにはいかないので……


―――いつ動くの、いつ動くのという気持ちが、そのオーラが出ているうちは、子どもは絶対動かないでしょうねえ。それは、何度も親の会で教訓としてきました。

でも、ご夫婦のいい会話がこれまでたくさんありましたね。

息子さんが不登校になった当初、あなたがとても不安になった時、おつれあいさんは「親子3人仲良く一生暮らしました」でいいんじゃないと言ってくれましたね。

そして「一番学校にしがみついているのは、お前だよ。この子は絶対行かないよ。辞めるのを希望しているんだから、辞めさせて、地に足を着けてそこからスタートするしかないじゃないか」「そんなに心配せんでもいい。たとえ一生このままでも、食わせるぐらいはできる」と言われたのね。


その後高認を取って、専門学校にも通うようになり、でもまた行けなくなって引きこもったとき、「世間は許さないだろうなあ」と言うおつれあいさんに、今度はあなたが言ったのね。

「そんな許さない世間ってどこにあるの? 探してみたってどこにもないよ」「あるのは自分たちの頭のなかだけ」「だから親の会では『他人の評価の影におびえちゃだめだ』というんだよ」。

でも、あなたがまたちょっと否定的になって「あの子はかわいそうだ」と言うと、おつれあいさんは「何もかわいそうじゃない。あいつはフリーマンだ。一番の自由人じゃないか」「おれたちが生きている間は大丈夫だ。あとはおぼろだ」と言ってくれたのね。

どの話もいい話ですね。

お姉ちゃんの話もすばらしいですね。

初めの頃ですが、息子さんは不登校になった自分を認められず、物にあたって夜にバットで自分の部屋の壁や時計や置き物をめちゃくちゃにしたことがありました。翌朝、息子さんはガラスの破片だらけの部屋のベットに寝ていて、机の上には赤い字で「殺して」と書いてある紙が置いてあったそうです。

見つけた二つ上の娘さんは、その下に「みんなあなたのことが大好きなので殺せません」と返事を書いたのね。


その後県外の大学に進学した娘さんが夏休みで帰省したとき、俊子さんが「家の中が明るくなったでしょう」というと、娘さんは「去年はお母さんが一番暗かった。お母さんだけが心配だったけど、お母さんが一番明るくなった」と言ってもらえたのね。

お姉ちゃんは、弟にも率直で「学校を辞めるって、どんな気持だった?」「あんたが一番気楽でいいね」などと、親だと言いにくいことをストレートに聞いたり、気を使わずに言ってくれたのね。



そうですね。もし誰かひとりでも息子を責め立てたら、我が家はまちがいなく修羅場になっていたと思います。そうならなかったのは、今穏やかに普通に暮らしているのは、今の状態をおたがい認めようという感じで暮らしてきたおかげかなと思っていますね。






還暦のお祝い

淳子さん・重則さん
(2016年6月例会)




淳子さん:5月の親の会が終わった後、私の還暦のお祝いを城山観光ホテルで子どもたちがしてくれました。子どもたちふたりが和室の個室をとってくれて。

このネックレスは息子がプレゼントしてくれたんですよ。

息子がまだほんの小さい時に「お母さん、ダイヤモンドがほしい?」「僕が大きくなったら買ってあげるからね」と言ったんです。(まあ、素敵ねえ!)でも、小学生の時に「お母さん、ダイヤモンドって、とっても高いんだってね。だから買えないかもしれない」とも言ったんです(笑)。

それでその日、「これくらいでいい? 約束だったからね」と言って、小さいダイアモンドと還暦だからとルビーがついているネックレスをプレゼントしてくれたんです。びっくりしました。

娘も楽しいプレゼントを用意してくれて、その日の会計は子どもたちが出し合ってくれたんです。重則さんからは花かごとケーキをもらいました。サービスの赤い帽子とちゃんちゃんこも着て(笑)、写真も撮ってくれて、本当に幸せだなあと感動しました。

息子のダイアモンドもそうだけれど、娘も引きこもっていた時によく「お母さん、いつか一緒に旅行しようね。私が連れて行ってあげる」と楽しそうに言ってたんです。でも、ずっと家にいて、着るものも同じものを着ておしゃれもしないし、私はそういう日が来るんだろうか、と思っていたんですが、今は旅行もチケットもスケジュールも全部調べてくれます。


重則さん:4年前の私の還暦のときよりずっと盛大でした(大笑)。正直、不登校やひきこもりがあったから今があるんだけれど、幸せだなと思いました。以前はこんな日々がくるなんて思えなかったですよね。

淳子さん:4年前は娘はまだ働いていなかったので、息子が全部ホテルと交渉して決めていました。あのときは、お部屋の前に「森田様 還暦のお祝い」と書いてあって、「イヤだ」と言ったよね(大笑)。この間も、還暦のお祝いと書いてありました(笑)。(―――若いよねえ


―――今まで、誕生日のお祝いはどうしてましたか?


息子が中1から不登校になって引きこもっていた時、誕生日祝いはしないでくれと言われて、我が家は昔からそういうイベントは大事にしていたので、私にとっては辛かったです。息子が動き出したあとももうしていないです。でもプレゼントだけはしています。娘はずっとしています。


―――娘さんと淳子さんの妹さんと3人で旅行にも行かれたのね。


横浜と鎌倉に行きました。
ちょうど鎌倉はあじさいも咲いていてとてもきれいでした。横浜もおしゃれな街と昔の歴史にも触れて、昔チャップリンも乗ったという有名な氷川丸も見学しました。また行きたいと思いました。


重則さん:私は留守番でした。でも今着ているシャツはお土産で、それに父の日と誕生日にも子どもたちからプレゼントをもらいました。(笑)


―――家で長い期間ひきこもっていると「社会性が問題」と言う人がいますが、あれほんとにうそですよね。


淳子さん:そうですよね。妹は横浜でアクセサリーを買ったんです。翌日娘はそこのお店の人に偶然出会って、「あれ! 昨日お店に来てくれた方ですよね。笑顔が素敵だな〜と思って印象に残っていたんですよ」と言われました。娘はすごくうれしかったと言います。

今勤めている生協でもそうです。誰とでも自然に話してます。
10年以上も引きこもっていたかどうかなんて関係ないですよね。

動き出したとき、初めての仕事がお店のレジで、私は最初よくできるなと感心しました。息子も10年以上家にいたけれど、すぐ接客の仕事でした。当の子どもたちにまったく不安はなかったようです。

不登校だから、ひきこもりだからと「訓練」しようとすると、あなたは特別なんだからとレッテルを貼るようなもので、逆におかしいですよね。当人が動き出したいと思ったら、自然に社会でやっていけるんだなと思います。






いろんな生き方があっていい

登喜子さん
(2016年2月例会)




私の下の息子は小3から中3まで不登校でした。

中学を卒業するとき、「お母さん試験を受けなくても入れる高校ある?」「通信制高校があるよ」「じゃあそこに行こうかな」と言って、通信制高校に行きました。

今、大阪で働いています。

いろんな人がいていい、いろんな生き方があっていいと思うんです。
いろんな家族の形があっていい。一番大事なことは自分が家族のなかで幸せだなと感じることができることだと思います。

私たちも息子が小3から中3まで行かなかったので、すごい親だねとレッテルはられていました。学校とは、中学に入ってすぐ担任が教科書をもってきたときだけで、あと中学卒業するまで何も接触はなかったんです。なので、その間が一番心が幸せでした。

先生が来たら心が揺らいでいらいらしてケンカになっていたと思う。
学校というのは絶対的なものじゃない。先生だってそうです。
先生は心配しなくていいし、子どもの不登校について責任持たなくていいんです。

親子というのは今の時間が幸せであったらいい。
親子に幸せな営みがあったら、それを土台にして、子どもの自己否定もなくなっていって、やがては社会に出て行くもんです。

家にいるときは自分の好きなことをやっていたらいいんですね。
兄から「お前は何も考えていない」と言われても、「僕はいろいろ考えているよ」と言い返していました。葛藤しながらも、自分の気持ちに正直に素直になっていくと幸せが広がって行きます。

息子は大阪に行って10年以上たち、最近ようやく大阪の住民票を取ったんです。
それまで自分は今旅行中という気持ちだったんでしょう。いろんな経験を積みかさねて、自分が納得いったときに住民票をとる。その時期が今だったんでしょう。

「ボク、大阪の住民になりました」と
住民票を手ににっこり笑った写真をメールで送ってくれました。

今の会社の社長さんも、それまで住民票も持たない息子をよく信頼して雇ってくれていたと思うんですよね。大阪にいるのだったら大阪の住民票をもたなくてはならない、じゃなくて、私はそういう考えでいいと思うんですよ。

自分が納得したときに手続きもする、その自由な発想がいいなあと思うんです。こうでなくてはいけないということはそんなにない。とらわれない考えかたは大事だなあと思うんです。

政治にしても社会にしてもテレビではこうでなくてはいけないという考え方が多いけど、そもそも人間はもっと自由でいいんじゃないかな。

世間の物差しで見ないで、わが家が幸せだなと自分たちが感じることができる生き方が一番大切なことじゃないかな。もっとわが子の自由な発想を大事にしたいなと思っているの。

中3で不登校の子に教師は少しでもできることがあったらと思うんでしょうけど、おせっかいじゃないかな。不登校はその子と家族の課題です。「進路指導が必要!」といった考え方は、教師のおごった考え方じゃないかな。







このページの一番上に戻る ↑


体験談「2015年1〜4月」はこちら →


体験談「2014年10〜12月」はこちら →


体験談(親の会ニュース・月例会)目次はこちら →


  TOPページへ →


ちなちゃん「不登校と勇気」はこちら →


俊子さん「親の会は私の心の支え」はこちら →


重則さん「家族が私を救ってくれた」はこちら →




初出 2016.8.25 最終更新: 2016.8.25

登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島)ホームページ